哲学の科学

science of philosophy

いのちの美しさについて(13)

2021-05-15 | yy77いのちの美しさについて


これら命あるものが生きていることの証拠は、まさにいま私がこうして自然を身の回りに感じている、自分は生きていると感じるところにあります。特に自分の死を意識する老人などは自然の美しさに感じ入ることが多そうです。
ちなみに死の気配は現在の地球全体にある、という認識も昨今言われはじめています。地球生物は六回目の大絶滅に向かいつつある。その原因はもちろん人類の活動です。
いのちが美しいのは、いま私がそれを感じているからです。そうであれば、私が死んでしまえばそれを感じるものがいないから、それはなくなってしまう。世界は、私がいなくなってもなくなるはずはないから、そのままあり続けるでしょう。しかしそこに命の美しさはない。
いや、私がいなくなっても、だれかが、いのちの美しさを感じるだろうから、それはこの世界とともに残るはずだ、ともいえます。しかしどうもこのような話になるとはっきりしないところがある。
「この世界ははっきりとここにあって、同時に、私ははっきりとここにいる(拙稿19章「私はここにいる」)」とはっきり言ってしまって良いのか?
いのちは、確かに美しい。けれどもそれは同時にはっきりしないこの私の世界の中にあるようです。■



(yy77 いのちの美しさについて end)














自然科学ランキング
コメント (1)

いのちの美しさについて(12)

2021-05-08 | yy77いのちの美しさについて


生物体を高分子情報の制御系であるとみれば、自然環境における核酸タンパク質系自己複製構造へのダーウィン理論の超長期にわたる作用結果が驚異的な複雑性多様性を実現しうることは納得できます。

一方、ミクロな高分子機構の作動結果を、電子顕微鏡を使わない一般人のマクロな視覚聴覚で感知しようとすれば、生物個体全体を見て分かる特徴的な運動や形態変化をとらえて、非生物とは異質の、目的志向の存在感を感知するしかないでしょう。
この直感的な認知の対象を、いのち、ライフという語で表現し、いのちは美しいあるいは怖いという感情で反応することは人類普遍の生得的感性です。
生物現象を高分子の結合エネルギー分布から分析する二一世紀の現代生物学とはむしろ無縁の、この素朴な直感生物観は時代錯誤の非科学として否定されるべきものでしょうか?しかし科学者といえども感性としては無視できないこの素朴な世界観は、逆に見れば、人間存在のコアではないか、ともいえます。

目的をもって存在しているように見えるものを、生きている、というならば、自然は生きているといえるでしょう。草も木も虫も生きている。
鳥も獣も、ペットや人間も、もちろん生きている。そうであれば目の前に満ち溢れているいのちは美しい。生きているだけで美しい、といえます。自分もまた、命を持つものであり、美しいものにつらなっている、と思えます。
この感性から人は、たぶん、人生とその終焉、死も認知していくのでしょう。トロツキーも西行も近づく死の気配を感じながら、いのちの美しさを語っています。














自然科学ランキング
コメント

いのちの美しさについて(11)

2021-05-01 | yy77いのちの美しさについて


生物は機械である、という科学的理論からすれば、命を愛でる感性は感情的な錯誤です。それは擬人化である。雷を疑人化して雷神とみることも同じ。生物はすべて人のように命を持っている。命あるものは心も持っているらしい、とも思える、となります。
これは幼稚な、非科学的ダメ理論でしょうか?幼稚園児や小学生はだいたいこう思っているでしょう。ふつうの大人でも、実は多数の人は、こういうものの見方をしている。
つまり生物は人間を代表として鳥獣、魚類、虫けら、植物と、意識が弱くなりだんだん下等ないのちになってくる、と思っています。この見方によれば、当然、意識をはっきり持ち、目的をしっかり持っている人間やそれに似ている哺乳類や鳥類が生物の完成形ということになります。
このような感性は現代生物学の常識からすれば錯誤ですね。哺乳類鳥類など大型の見栄えのいい生物はDNA分子進化の枝葉末節であるという理論が現代生物学の常識です。人間やサル、犬、雉などよりも大腸菌のほうが生物の代表である、となっています。つまり見方が逆ですね。科学者でない一般の人は、逆方向から生物現象を見ているので根本的に間違っている、ということになります。
しかし現代科学からは取り残された十九世紀的なこの目的論的生物観は科学者以外の一般人にとっては疑ってもいない常識です。
自然の美しさと自然の多様性からくる神秘感は、一九世紀まで高尚な学問とされた博物学の立脚点でした。これがまた一九世紀中ごろのラマルクやダーウィンが進化論を研究する動機にもなっていました。つまり進化論から始まる現代生物学の最初の出発点もまた目的論的な神秘感であったといえます(一九七七年 山根 銀五郎「生命の概念  鹿児島大学理学部紀要」)。
DNA分子構造の解明(一九五三年 ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック「デオキシリボ核酸の分子構造」)から始まり今世紀に入って大発展している分子生物学は一九世紀生物学の出発点であった神秘の生命観をほとんど消しかかっています。













自然科学ランキング
コメント

いのちの美しさについて(10)

2021-04-24 | yy77いのちの美しさについて


生物は、何か目的意識、意志、意図をもって生きているように見えます。その目的意識、意志、意図あるいは欲望、のようなものの存在を感じてそれが生きている、いのちがある、と感じる。
敵から逃げようとする意図。エサを食べようとする欲望。葉を開いて日光を受けようとする植物。はっきりとした目的が感じられます。
しかし私たちは、生物がなぜ生存目的を持っているのか、分らない。それが神秘感をもたらす。生物現象は不思議。生物にあふれている地球世界は神秘である、と感じます。

さて、この自然は美しい、いのちは美しい、という私たち現代人の直感は結局、人間の本性なのでしょうか?昔の人も同じような感覚を持っていたのでしょうか?
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 西行(一一八六年)
生き延びた自分が三九年前に越えた峠を再び越えられるとは思わなかった。いのちがあることは美しい、とこの歌人は言っているようです。
生きて何かをしている、それだけで人生は美しい、ライフ・イズ・ビューティフル、でしょう。西行、死の四年前です。
今、目の前にこの景色が広がっている。つまり自分は今、小夜の中山を超えて東国に行こうとしている。身の回りの自然は生き続けている。自分もまたまだ生きているらしい。目的を持って生きている。生きているということは素晴らしい。命は美しい、と思ったのでしょう。
生き続けようという目的をもって存在しているもの。あるいはそのように見える姿勢を保っているもの。そのようなシステムは命を持っている、ように見えます。それを美しいと思う感性を人は持っているのではないでしょうか?












自然科学ランキング
コメント

いのちの美しさについて(9)

2021-04-17 | yy77いのちの美しさについて


選択の基準は、もちろん、生存繁殖の効率性です。数十億年にわたるコンペティションの繰り返しで選ばれた作品のすばらしさは驚異的かつ神秘的でしょう。
ダーウィンの著作(一八五九年 チャールズ・ダーウィン「生存競争における適者保存あるいは自然淘汰の作用による種の起源について」 On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life,1859)は家畜の品種改良からガラパゴスの歴史を俯瞰してマクロの観点で進化システムを描写しています。現代の分子生物学の発展は同じダーウィン理論を超ミクロの高分子構造の体内変化過程に適用して幹細胞や神経系、免疫系の分化、あるいは病原体やガン細胞の変異や薬剤耐性のメカニズムを解明しています。
ダーウィン以来百数十年の科学の発展で分かってきたことは、結局、生命に神秘はないということです。地球の自然過程で有機高分子は生命現象を現出させうるし、それは超長期にわたり変化し続けていかにも多様な生命風景を実現できる。それは、いかに複雑多様であっても、自然現象であって、超自然な神秘が働いていると言う必要はありません。
たしかに現在まで、この現象は地球でしか観察されていません。地球環境の特異性と言えます。しかしこのことをもって、地球だけが神秘の天体だ、ということも自己中心性(egocentrism)の誤謬でしょう。
現在までの天体観測では地球とそっくりの天体環境は見つかっていません。しかし近年の高精度天体観測と宇宙探査技術の発展をみると水や有機分子がありそうな多数の環境を発見できる技術が獲得されつつあることは間違いないでしょう。
まもなく生命のような現象が宇宙に満ち溢れている、という予想が証明される、という話の方が本当らしい。そうであれば、生命は神秘というよりもこの宇宙に存在する必然的な本質である、ということができます。

さて、生物現象に神秘はないとすると、私たちが生物を見てそれが非生物とは全然違うものだ、と思う直感はどこから来るのか?











自然科学ランキング
コメント

いのちの美しさについて(8)

2021-04-10 | yy77いのちの美しさについて


まあ、たしかに、ガン細胞は恐ろしい勢いで増えていくけれども、その結果人体を破壊し、自分も死んでいく。個体は死んでも集団が健全に繁殖存続していくならばシステムは安定に維持されていく。それをもって、いのちの美しさ、というならば、ガンや病気、飢餓も含めて、美しい、といってよいのでしょう。
このように生物現象は超ミクロのレベルから超マクロのレベルまで、命をつなぎ生き残り繁殖したいという目的、意図をもって展開されているかのように見えます。その目的意識は強烈に見えます。生きる本能などと呼びたくなります。
生き残り子孫を増やしたいという欲望の存在感が明白に見えます。しかもその生存戦略はまことに巧妙かつしたたかです。命に神秘を感じる私たちの感覚はこの辺を見ることで作られているらしい。
それが神秘感となる理由はダーウィンの理論が直感に反するところからきているのでしょう。生物が機械に還元されるとは信じがたい。これほど複雑かつ多様であるすべての生物が同一構造のシステムであるはずがない、という直感です。
人間の直感は一次関数つまり直線の上に載っていて指数関数は感知できない。瞬間的な判断は得意だが超長期の推測はできません。複利計算は苦手です。むしろ対数関数がよく分かる。その方が短期の勝負で自然界を生き抜いてきた人類の生活では実用的だったからでしょう。
一年間の変化はよく分かるが、十年はひと昔です。百年前となると実はよく分らない。一万年も十万年も同じようなものと思えます。一億年となると言葉だけは分かるが、まったく意味が想像もできません。そういう事情であるのに、生物の進化は十億年くらいで意味が出てくるものが多い。
試行錯誤という言葉はありますが、生命現象の試行錯誤はとんでもなく規模が大きい。数億回の試作品の中から一番できが良い作品を選んで、それを数億個くらいコピーして、さらに数億回くらいこの試行を繰り返す。










自然科学ランキング
コメント

いのちの美しさについて(7)

2021-04-03 | yy77いのちの美しさについて


絵画や彫刻のテーマになる美しい裸体。人体はなぜ美しいのか?それは聖書に書いてある通りなのでしょう。神は自分に似せて人を作り、全生物を支配させた。そうであれば神の姿と同じである人体が美しいことは自明です。
そうであれば、人は神のように世界を支配し、真理を知り尽くし、調和を維持する、という目的をもって存在しているはずです。それを実行する形になっている人体は美しく、それが行動する過程である人生は美しいに決まっている、とキリスト教の聖書は語っているのでしょう。

逆に美しくないもの、醜いものの代表は、骸骨、腐敗した死体、幽霊、これらは目的を失った生物の残骸ですね。ゾンビなど目的なく動き回るから実に醜悪、気持ち悪い。
美しくないものは世の中にいろいろありますが、なぜか、生物で目的を逸脱したもの、行き過ぎたものが特に醜く見えますね。腐敗菌、カビとか雑草、害虫、病原菌、ガン細胞など美しく見える時がありますか?
生物の目的であるはずの成長繁殖の成果が過剰に見えるもの、生命力が横溢している現象はどうか?しばしば美しくない。醜い。風呂場のカビとか、庭の雑草、台所のゴキブリなど主婦は懸命に除去する。命は美しい、というなら慈しんだらいかがでしょうか?
これらの生命現象、つまり自己のDNA情報を複製し伝達していくシステムは、過剰に効率的になると、美しくなくなります。その場合しばしば、人間にとって害である、あるいは害であるかのように見えています。
つまり私たちは、自分に都合がよいかどうかで、命は美しい、と言ったり、すぐ駆除したい、と言ったりしているらしい。
ガン細胞など、最近の研究によれば、自己体内の細胞がまさに体内でダーウィン理論の通り変異進化し繁殖していく。細胞分裂のたびにDNAの損傷が蓄積し自動修理できない変異DNAが繁殖し転移能力を獲得してしまうと、身体全体は老化するのにガン細胞だけはますます若返る。人間は長生きするのでDNA損傷は特に蓄積しやすい。七四歳になる筆者などはなぜガンで死なないのか、偶然の幸運でしょう。(二〇一四年 Bruce Alberts, Alexander Johnson, Julian Lewis, David Morgan, Martin Raff, Keith Roberts, Peter Walter 「Molecular Biology of the Cell 6th ed.」)
こういう細胞は美しいとはいえませんね。









自然科学ランキング
コメント

いのちの美しさについて(6)

2021-03-28 | yy77いのちの美しさについて


いのちは、なぜいのちがあるように見えるのか?
生物はなぜ生きようという目的をもっているかのごとく見えるのでしょうか?大哲学者がいうように、生物は巧妙な機械仕掛けである(ルネ・デカルト 一五九六年 ― 一六五〇年 動物機械論Bête machine)、とするならば、なぜここまで巧妙に作られているのでしょうか?
DNA情報が、ダーウィンの理論にしたがって、百万年、千万年の単位で競争にさらされ絶え間なく磨き上げられてきたから、といえばその通りなのでしょう。百年足らずの人生経験しかない私たちの直感では、生命の神秘、驚異としか見えない、ということでしょう。

人の命は何のためにあるのか?人は人に何かをするために生きているのではないか?カントは、人は人を目的として存在すべきである(一七八八年 イマニュエル・カント「実践理性批判」)と言っています。
いずれにせよ、人は何か目的をもって毎日を生きている。少なくとも本人はそう思っているでしょう。そう思えないときは、心身の不具合になったりします。
目的があると思えるとき、ものごとはあるべきようにある、と思える。そうでないときは不快、不調和、不具合、醜悪、を感じる。つまり美しく思えません。逆に言えばこれが、いのちの美しさ、のことではないのでしょうか?











自然科学ランキング
コメント

いのちの美しさについて(5)

2021-03-20 | yy77いのちの美しさについて


目的を持っているものの美しさ。あるいは目的をもっているかの如く見えるものの美しさ。それが、たぶん、いのちの美しさなのでしょう。
花は動物を魅了するために美しく咲く。竹は天に近づくために伸びる。馬は逃げるために走る。オオカミはそれを食べるために走る。鳥は地上から離れるために飛ぶ。オスはメスを魅了するために美しく装う。親は子を大人にするために育てる。生物はすべて目的をもって動いているように見えます。
そういうものが、いのちの美しさを見せている、といえるのではないでしょうか?
逆はどうか?人間が作る機械類、たとえばロボットは、目的をもって行動しているように見えるか?つまり、いのちの美しさを持っているか?
いや、現状の技術ではとても無理そうです。コンピュータもロボットも目的をもっていそうには見えません。設計者の意図、設計目的に沿って作動しているとしか見えません。そうであれば、いのちを持つものは、実質上、生物しかいない、ということになる。
昔の人は、目的を果たそうとするいのちは美しいそして悲しい、と書き残しています。「交尾の後の動物というものは悲しいtriste est omne animal post coitum(Aelius Galenus 一二九年―二一〇年)」「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな 藤原義孝(九五四年―九七四年)」











自然科学ランキング
コメント

いのちの美しさについて(4)

2021-03-13 | yy77いのちの美しさについて


さて、命の美しさ、というとき、それはどこにあるのでしょうか?命がないものにはない美しさが、命があるものにはある、ということでしょうか?
毎日の生活で、私たちはしばしば美しさを感じることがあります。それは美術であったり美人であったり美味であったり多岐にわたるでしょう。その中で、命は美しい、と感じることがある。それは命でないものの美しさとどう違うのでしょうか?
富士山は美しい。華厳の滝は美しい。法隆寺は美しい。スターバックスのロゴは美しい。ベントレーは美しい。ダイヤモンドは美しい。けれどもこれらに命はない。
ある美人が美しい、という場合、抽象的な命の美しさと、たぶん深い関係がある。
命があるということが生物であることの美しさであるというならば、つまりは、DNA情報を複製し伝達していくシステムが美しい、ということなのでしょうか?
つまり、命の美しさは、効率よくDNA情報を複製する美しさ、換言すれば、生物進化の美しさなのでしょうか?
それはダーウィンの理論からくる美しさだといえるのでしょうか?生き残り子孫を残すという目的をもって動くもの、そのように見えるものの美しさなのか?
私たちは、目的をもって動くように見えるものを感知すると、なにか、感情が動きます。目的意識、意志、意図を感じます。
それはそれが無生物であってもそう感じる場合がある。地震は神の怒りではないのか?雷は親父くらい怖い。人を威嚇しようとする意図を感じます。
逆に考えれば、そういうものが、命を持つものといえるのではないのだろうか?そしてそういうものが、いのち、の正体なのではないでしょうか?









自然科学ランキング
コメント

文献