このようにその時その場ですぐ行動を起こさなくてはならない事態に追い込まれた場合、周りの仲間の行動、言動、助言、勧告、命令といった働きかけによって、人の行動は大きく影響されます。「逃げろ」という命令、「逃げたほうがいいよ」という勧告、「逃げたらどうですか」という助言、「私は逃げる」という個人判断の提示、あるいは黙って逃げる姿勢を見せる人の姿などは、人に逃げる行動を起こさせる決定的なきっかけとなることが多いでしょう。逆に、その場面ですぐ動こうとせずグズグズしている人たちを見た場合、逃げようとする気持ちがなくなってしまうかもしれません。
今回の大津波の場合、家族やいつもの仲間に「逃げよう」と言われた人のうちで逃げなかった人の割合にくらべて、周りに人が居ずにテレビや防災無線あるいは広報スピーカーからの放送で避難勧告を聞いただけの人のうちで逃げなかった人の割合は、はるかに大きかったはずです。しかしこれも死んだ人の体験を聞くことはできないので、推測でしかありません。
周りが、逃げようという雰囲気に満ちていた場合、ふつう人は逃げる。そうでない場合、逃げない、と思われます。
大津波から逃げようとする場面で、若い人が集まっている場で判断が行われたのか、老人だけ、あるいは老人一人だけの場で、逃げるか逃げないかの判断が行われたのか、そこで運命が別れたということも言えそうです。男ばかりだったか、女ばかりだったか、男女ともにいたか、という状況の違いも大きく関係したかもしれないと推測できます。
いずれにしろ、人は一人の判断で動くというよりも周りの人と共に動く。突然の災害のような場合は特にそうなるでしょう。
興味深いことですが、ソクラテスの場合、周りに影響されたかどうかという点で、極端な逆の例のような逸話になっています。周りの人々が皆、逃げてくださいと懇願しているのに、それを頑固に拒否している意固地な老人のようです。歴史に残る天邪鬼とも言えます。たしかに、些細なことで意固地になる老人は多々いるようですが、死ぬかもしれない危険を前に天邪鬼に徹する人はあまりいないでしょう。
ソクラテスはだれが何と言っても逃げる気はなかったように見えます。牢獄に入れられる前から決心していたのでしょう。いつから彼はそう思ったのか?
アテネの裁判でソクラテスは、死刑になることをまったく避けようとしていない態度をとっています(紀元前339年 プラトン「ソクラテスの弁明 」)。検察に告訴された時点でもう覚悟していたように読めます。最初から逃げない人だったということでしょう。では、告訴される前はどうだったのでしょうか?
当時のアテネの政権が、政府の管理下に入らずに青年を堕落させるような間違った思想を流布する教育者を排除する姿勢をとっていたことはよく知られていました。つまりソクラテスは、沈黙するか、政府の方針に従うか、早々とアテネから逃げ出すか、いずれかを選ぶ必要があった。本人がその状況を一番よく知っていた、といえます。アテネから逃げれば簡単に逃げられた。それなのに逃げませんでした。
アテネへの愛国心があった、良心に忠実だった、あるいは教育者としてのプライドがあった、などといった精神的なものを大事にする人ではあったようです。しかし、それだけに殉じたとは読めません。処刑直前にぐっすり朝寝をしていた。当時七十歳で年をとりすぎているという自覚を持っていた、ということですから、まったく逃げる気がないという態度は見せかけではないでしょう。
ソクラテスは、伝聞によれば、さすがに哲学的あるいは思想的にいろいろむずかしい理論を述べていますが、それとは別に、面倒だから逃げるまでもない、という単純な気持ちが根底にあったのではないでしょうか?
国の支配権力に真っ向から逆らう言論を展開したところで成功するはずがない。死んでから顕彰されるのが良いところでしょう。洋の東西を問わず知識人の立場というものは、いつの時代でもそうです。西洋哲学の創始者である賢人が社会のそういう現実を知らないはずはありません。
ソクラテスも自分の言論が政府を覆すなどと夢想してはいなかったでしょう。そうであれば、いつかは死刑になるかもしれないという覚悟を持って持論を語っていた。実際、そうなりましたが、それは想定済みです。逃げる気ははじめからなかった。その哲学の内容とは別に、彼は逃げる気がなかった、といえます。
逃げない人々について、あえて大津波の被害者と古代ギリシアの哲学者という極端に背景が違う例を比較してみましたが、他にいくらでも例を挙げることができるでしょう。たとえば襲い来る敵から逃げなかった勇者など。しかし話をまとめるためには、これ以上あちこちに飛ばずにここで抽象的な一般論に入ることにします。
さて、なるべく簡単に結論をまとめられるように、拙稿本章としては、逃げない人々を次のように限定させていただきます。
ある人々は、今の状況ではだれもがふつうは逃げていくということが想定できるにもかかわらず、自分としては動きたくない、動こうという気がしない、と感じる。
その理由が分かっている場合もあればそうでない場合もあります。理由が分かっている場合、その理由は人によって違い、場面によって違い、千差万別です。身体に力が入らないから動こうとしても無駄だ、とか、人を煩わせたくないから頼みごとをしない、であるとか、何も考える気がしないからしない、とか、いろいろあるでしょう。