アッティラ軍団の進軍路上にあって、対決して侵略されるか、服従してともに隣地を侵略するか、どちらかしかないとなれば、侵略するほうに就く。その結果、連戦連勝の側に加われれば士気は上がります。侵略軍団は大きくなり戦意は高い。逆に敵は委縮する。ますます楽勝です。どこまでも侵略軍への参加者は増えます。桃太郎と同じです。
一方、この時代、先述したようにローマ帝国の栄養補給システムは破綻しつつあります。弱体化したローマ軍は長大な国境線を守り切ることができません。防衛のために雇ったはずの傭兵軍団が反乱し、不法移民が定着し、各地は無政府状態になっていました。騎馬を活用し機動性の高いフン軍団が、その防衛線を突破して主要都市を陥落させ、首都コンスタンティノープルあるいはローマに迫ることはそれほど困難ではなかった、と推測できます。
フン族の大侵略は、アッティラ大王という軍事の天才カリスマのもとに成立していたシステムであったので、大王の死によって求心力を失い、離散してしまいました。しかしローマ帝国の弱体化という時代環境では、フン族に限らず、軍事的連合が成り立つ限り、大きな遊牧騎馬軍団にとっては略奪しながらの止まらない進軍が有利で、占有が済んだ地域の守りは不利です。
ある遊牧騎馬集団が別の遊牧騎馬軍団に防衛線を破られ攻め込まれた場合、抵抗反撃して所有地域を守り撃退するメリットは少ない。むしろ弱い敵がいる方向に転戦するほうが容易で消耗が少なく戦いの戦利品も多い。群雄割拠の状態からは短時間で大きな連合体が形成されますから、いったん出来上がった大連合体は短期間に勢力圏を拡大しながら、略奪の効果が高い側面へあふれ出ていきます。
フン族に侵略されたゴート族は踏みとどまって戦い、防衛線を死守して故郷を守るよりも、反対方面に家畜を連れて大移動し隣地のローマ帝国領を侵略するほうが容易で利得が大きかったからそうしたのでしょう。はじめは難民として逃げて移動しているうちに前面のローマ帝国領への侵略がうまくいって戦利品、財宝が獲得できれば、そのメリットを求めて近隣の部族が侵略に参加してくるので結局、大兵力になってきます。
武力が強大化してますますその方向への侵略がうまくいく、という拡大再生産システムができあがります。こうしてローマ帝国領を侵略しながら東から西へヨーロッパを横断する東西ゴート族、ヴァンダル族などの長征が成立したと考えることができます。
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フン族は中央アジア起源の遊牧民です。匈奴と同一民族という説もあるように、紀元前から周辺の農耕民の領土を侵略し略奪する好戦的な軍団であったようです。侵略が得意であった理由は、まず武力が優れていたことです。
射出力の強い小型の複合材弓を使い走行騎射の技術に巧みな騎兵軍団でした。遊牧生活の延長として家畜を同伴して進軍、転戦、撤退を行うので兵站が容易で移動速度が速い。この集団走行騎射の攻撃に慣れていない重装歩兵隊は苦戦します。敵が組織力のない個別小軍団であれば、フン族は連戦連勝したでしょう。
軍の武力が強くなるためには個々の兵の戦闘力が強いだけではだめで、その数が多く、よく統率されていることが必要です。
フン族は紀元四世紀ころのある時期から急に軍団の規模を拡大し、統率された軍事力になってきます。その理由ははっきり分かっていません。マクロ的に推測するに、武器の技術が革新されたか、人口が急増したか、民族意識が高まったか、などいくつかの理論が考えられますが、どれもあまり説得力がありません。
むしろこの時期、食糧植物の品種改良や鉄器の普及、灌漑の技術など、農業の生産性が上がったことがフン族興隆を引き起こした遠因であった可能性があります。中央アジア周辺の農耕民の生産性が上がり経済が豊かになり食糧や財物の蓄積が大きくなると、必然的に武力による略奪が起こります。武力に優れた遊牧民にとって、農耕民の領域へ侵略し生産物や財物を略奪するメリットは大きくなるからです。
この時代、農耕民も部族連合を作っていてかなり大規模の防衛隊を組織しています。その防備を打ち破って侵略を成功させるためには規模の大きな攻撃部隊を動かせる組織力が必要です。中央アジアで、ある遊牧部族が戦闘力に優れていて他部族と連携する能力に長けていた場合、その部族を中心に連合集団が形成され、戦力のスケールメリットを求めて規模は成長し続けるでしょう。そうして、フン族を中心に侵略戦争のための軍事連合ができてきました。
紀元四世紀、中央アジアで形成されたフン族連合体は周辺部族の大統合に成功しました。ある程度の規模に成長すると、連戦連勝となりますから、その侵略戦線は東西南北の部族に圧力をかけます。その時代、ヴォルガ川から西方へ、ドン川、ドニエプル川の流域に広がる農耕地、牧草地の住民から略奪する食糧、財物の品質が高かったので、そちらを侵略するメリットが大きい。西へ向かう慣性がついて移動速度を増しながらますます強大な軍団が形成されていきました。
五世紀になると、このフン軍団は周辺の遊牧民を糾合して、ドニエプル川からドナウ川にかけて侵略を繰り返す大軍事勢力になります。ここで侵略の対象として、ドナウ川の対岸に広がる最高の文明領域、東西ローマ帝国にひきつけられていくのは当然の成り行きでしょう。獲物が大きければ大きいほど仲間を呼び集めやすい。その原理に気づいた軍政の天才がアッティラ大王だった、といえます。
東西ローマ帝国に襲いかかったアッティラの軍団は、中央アジアから黒海周辺、東北ヨーロッパにかけてフン族に連携追従してきたアラン系、イラン系、トルコ系、スラブ系、ゲルマン系等の諸部族から成り立っていました。つまりアッティラの進軍行路上に居住していたすべての部族が進軍に参加しています。これらの諸部族はスケールメリットを求めて大軍団に参加したのでしょう。
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フランク人のフランス侵略の場合、フランス地方の農村化が進んでいたためもあって、殺されたり逃げたりした人の割合は人口のわずかだったようです。現在のフランス・ドイツ国境を越えてゲルマンの血はフランス側にあまり入ってきていません。これはフランスの地でゲルマン人による婚姻、畜妾、姦通、強姦などによる性交流は少なかった、という事実です。なぜ分かるかというと、今世紀になってからのDNA考古学の進歩は目覚ましく、地域ごとの詳しいDNA型系統分布が調べられているからです(フランス・ドイツ国境がヨーロッパの二大DNA/YハプログループR1bとR1a/I1の境界にほぼ重なっていることが判明したことは興味深い)。
たぶん侵略したフランク人の数は多くなく、支配層を形成した後も、原住民を大量に殺したり、追放したり、ハーレムに囲ったりして、自分たちの子孫で人口を置き換えることはしなかった、できなかった、と推定できます。そうであれば、フランク語が古フランス語を駆逐することはむずかしかったでしょう。そのうえ、古フランス語を話す家臣団の教養やキリスト教信仰を取り込む必要があった場合、むしろ自分たちのフランク語を徐々に忘れていくのもしかたなかったと思われます。
フランク人のフランス侵略の一世代ほど前、五世紀中頃のフン人のフランス侵略の場合、侵略者たちは風のように来て風のように去っています。文化にも言語にもほとんど影響を残していません。
フン族の来襲は、ヨーロッパ人にとって不可解な悪夢でした。なぜこんな理不尽な大参事が起こったのか理解できませんでした。
ギリシア・ローマ文明が完璧な古文書を残す有史文明であったのに対し、北方の森林、東方の草原に住む遊牧民族は文字を持たず、未開の無政府的、呪術的先史文化であったことが、偏見のもとだったのでしょう。フン人はモンゴロイドの相貌を呈していたらしく「顔が大きく、目が小さく、背が低いのに肩は大きく、浅黒い」と当時の歴史家は描写しています。顔に入れ墨など異様な扮装をしたこの人々の騎馬軍団が突然現れ、流鏑馬のように走行騎射する強弓の威力がヨーロッパ人に恐怖を引き起こしたことは想像にかたくありません。
五世紀のローマ帝国はキリスト教が浸透した宗教大国でもあったので、異教徒に侵略されたことはエリート・知識人にとって信仰上のショックでもありました。当時の文筆家は、フンの侵略を神の鞭(Flagellum Dei)、と表現しています。この恐怖の記憶がヨーロッパでは後世の歴史家に引き継がれて「ローマ帝国滅亡の始まりはフンの侵略にある」との通説が作られたと推測できます。
ヨーロッパ人の認識では現在も、フンの侵略は不可解な現象である、となっています。西洋文明の象徴であるローマ帝国がアジアから来た未開人軍団に破壊されたというショックでしょう。しかしこの見解の根底にあるヨーロッパ中華思想を取り除いてみた場合はどうなるでしょうか?
時代とともに技術は発展し経済社会は変化します。ローマ帝国の経済社会システムも持続可能な時期を越えれば破綻する時に至るのが当然でしょう。そうであれば、フンの侵略がきっかけにならなくても、早晩、崩壊するタイミングにあったということです。
ローマ帝国の栄養補給システムは、農耕牧畜による食糧生産と都市商工市民の維持、徴税による軍隊と貴族・官僚層の維持に依存していました。技術発展により農耕牧畜の生産性があがり地方が豊かになり、商業交易が発達すれば、地方が中央に従属するメリットは小さくなります。軍隊・官僚は上層部からの管理が緩くなれば自然とアウトソーシング、下請け孫請け体制になり、傭兵や外人部隊が大半を占めるようになります。各地で外人部隊がクーデターを起こし地方政権を樹立するのは時間の問題でしょう。帝国に隣接する野蛮人部族は国境を越えて不法移民し、豊かな経済の恩恵にあずかるための大移動が起こることも当然でしょう。こうしてローマ帝国は、大成功し巨大化して大繁栄したが故に、崩壊したとみることができます。
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六世紀初頭からフランスを支配したフランク族は現在のオランダ語と同系列のゲルマン語であるフランク語(英語でFrankishという。ちなみにフランス語はFrench)を話していましたが、古フランス語を話す文化教養の高い多数の家来に取り巻かれラテン化しカトリック化して母語を失っていきました。
フランク族の支配層は、自分たちのゲルマン文化よりもずっと洗練された古フランス語を話す現地人のラテン文化に同化し、生活も経済も宗教も政治外交もラテン化していきました。フランク語は家で使うくらいにして、外では、語彙が豊富で上品で地元のフランス人(元ガリア人)ともイタリア人貴族や諸国から来る商人とも話が通じる便利な古フランス語を使って、会話するようになっていったのでしょう。
武力で支配しながらもその言語を押し付けることに失敗した例は意外と多く、たとえば十一世紀のイギリスにおけるノルマンの侵略では、征服されたアングロサクソン人の言語(古英語)に征服者たちの言語(古フランス語)が取り込まれ消えていきました。この時代、イギリスはすでに完全にキリスト教化していてアングロサクソン人エリート層の宗教、文化、教養、政治能力は武力侵略に成功したノルマン人よりも上であることを自他ともに認めた結果でしょう。
フランク人やノルマン人は武力で侵略に成功し、征服された人々は殺されたり、暴行されたり虐待されたりするのが怖くて服従し、あるいは難民になって遠くに逃げたりしたのでしょう。生き残りが皆逃げてしまっては食糧調達にも困ってしまいます。侵略後すぐの仕事は、現地人を捕まえて服従させ奴隷にするか、懐柔し、報酬や社会的地位、利権などを与えて部下にすることでマンパワーを確保することです。
一般に侵略者は、被侵略者をリクルートして自分たちの栄養補給システムに組み込む必要があります。その方法は、武力による威嚇を背景として使役する、従順に命令に従い支配者に利益をもたらすものは懐柔し抜擢し報酬や利権を与えたりして栄養補給システムに組み入れて共存する、などがあります。
栄養補給システムが狩猟採集システムか遊牧か牧畜か、あるいは農耕か、によって支配のシステムも違います。
古代ローマは農耕システムが完備していたのに対してガリア人やゲルマン人など周辺の野蛮人軍団は牧畜(+素朴農耕)システムでしたので集団移動が得意で、集団侵略も安易にでき、また集団逃亡も楽だったでしょう。民族移動も、遊牧・牧畜で慣れている集団移動を大きめに組織化することで可能だったはずです。逆にいえば、ゲルマン民族大移動はローマの崩壊であると同時に、ヨーロッパ全体のローマ化であり、同時に放牧・牧畜から高度農耕牧畜システム構築への過渡期現象だったのであって、その後のヨーロッパ中世は栄養補給システムとしての農耕システムが洗練されていく過程です。牧畜民と違って高生産性の農耕地を所有する農民は簡単に逃げられません。
侵略者たちが、農村の栄養補給システムの上にかぶせる支配システム作りを工夫した結果、土地を媒介にした身分制度が作られていきました。国王は貴族に封土を分け与えるのと引き換えに国防への参加と忠誠を求め、貴族は農民に警察司法サービスを提供する代わりに税と使役を課するという中世の封建システムです。このシステムも根本は武力による構造を支えにしています。
武力による反抗の抑止と国防システムへの参加による騎士、兵士と農民の社会的経済的メリットが栄養補給システムの構造を支え、システムの恒常的回転を担保していた、といえます。
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