実社会での人生ゲームに疲れた現代人が、実人生とは違う別世界での人生、たとえばスポーツやテレビゲームや趣味の生活に惹かれるのも、古人の感覚が思い出されているという面がある。昔は照明がなかったから、日が暮れると闇の世界で生きる。闇の中では目が見えないから、がんばって働くことはできません。闇の中でもできる子作りなどで、がんばっていたのかもしれませんね。冬は作物が育たないから、遠くまで出かけて狩をする。現代のスポーツの源流かもしれない。夏の畑仕事とは全然違う仕事をするしかない。祭りでは、歌や踊りに熱中する。一日の時間、一年の季節で、違った人々と違ったルールで生活を送ったわけです。
複数の人生を同時に生きていた。現代人が休暇にカジュアルな服装に着替えて、趣味の仲間と過ごす様子に似ている。けれども、昔の人たちは、趣味などしている余裕はなかった。農耕も、狩も、祭りも、生活に必要不可欠と思っていた。いつでも、懸命にそれらをしていたわけです。一方、現代人は職業欄に書き込む本業というたった一つの競争ゲームを人生のすべてとして生きている。それが出世であろうと、あるいは蓄財、あるいは子育てであっても、それに全身全霊を打ち込んで戦わないと勝てない、と思っています。
まあ、どんなゲームでも、プロとして生きていくためには、アマチュアのようにやっていてはすぐ落伍するわけです。現代では、何事もグローバルな競争になる。世界で一番強い人が出てきて、互いに争う。プロのエリートでなくても、どの職業でも、数多くの競争相手がいる以上、残業も過労もしないで一人前に認められるのはむずかしい。グローバリゼーションの現代、エリートとしては、二十四時間、世界中の市場をインターネットか何かで監視して情報を収集していないと負ける。休む暇など、あるはずがありません。
そういうことで、現代では、プロとして脱落しないようにがんばる本業と、アマチュアとして気晴らしにする趣味とは、峻別されることになる。社会に組み込まれている本業のほうのコミュニティで認められないと、テレビゲームでいくら勝っても、趣味のサークルで仲間にほめられても、空しい。趣味は趣味でしかないからです。
確かに、実人生のゲームで勝たなければしかたがない。私たちの身体は、気楽な趣味だけの生活に生きるようには進化していません。現実世界での実人生の成功を求めて、競争に全力を尽くすような身体に作られている。そういう身体を持った人類が生き残って私たちの祖先になった。
実人生での勝負にある程度の割り切りを持たなければ、私たちは、趣味の世界を楽しむことはできない。強制的に休暇を取らされてしまう場合などに、意外と趣味を楽しめたりする。しかし現代人は、なかなか休暇を取る気になりません。
狩猟採集の時代には、肉眼で見渡せる範囲の小さな世界の中で、人間は全力を尽くして競争していた。農耕が発展して歴史時代になると、身分制度ができた。身分制度では、自由がない分、活動力が余って趣味をする余裕が生まれます。しかし、趣味を楽しむには適しているかもしれないが、実人生での競争に全力を尽くしにくい身分制度のシステムは、人々に嫌われて、結局は壊れていった。現代は、グローバリゼーションの世となり、再び、競争に全力を尽くしやすいシステムが実現してきている。しかし、私たち現代人はなかなか幸福になれない。
狩猟採集時代の競争と違って、現代の、世界全体が透明に見渡せるグローバル競争の中で、トップの勝者になるのは容易ではありません。実際、ふつう、なれるわけはない。どの辺にたどり着いたとしても中途半端な感じになる。自分はちゃんとゲームに勝っているのか。趣味の世界ではなく、実人生における競争で、いちおう自分は成功しているのか。私たちはいつも気にしている。しかし、現代社会の中で、自分はいったい勝っているほうなのか、成功しているほうなのか、それはどうやって見極めるのか、どうしても分からない感じがある。
よく分からないけれども、まあまあだと思えばいいのかな、という気にもなる。しかし、まだまだ、という感じもする。そう思うと、安穏とこうしていてはいけない、ということになります。ところが、実際こういう努力をすれば大丈夫ということが、はっきりしているわけではない。昔は、それぞれ、こういう立場の人はこういう努力をすればよい、ということは割合はっきりしていた。同時に、ある程度以上努力しても幸福になれない、という限界もよく見えていた。現代は、そうではありません。いつでも、もっと幸福になれるような気がする。けれども、そのために何をすればよいのかが分からない。そこに、私たち現代人が、いつまでたっても幸福になれない理由がある。
ビジネスマンA氏が、取引先の代表と会食しています。会話はなごやかに進んでいく。この調子で契約がうまくいくと、とてもラッキーです。ここまでくれば、たぶん大丈夫でしょう。そうなれば、ビジネスとして、今期最大の成果があげられる。うまくすれば、ひとつ出世できるし、年収もかなり増える。間違いなくラッキーです。それでA氏は幸福を感じている。
相手は同年輩の感じのいい紳士です。教養深く、趣味の話をしても思わず引き込まれる。会話が楽しい。そのことでもA氏は幸福を感じている。
料理は和食ですが、さすが一流の料理人の仕事はすばらしい。口に運ぶごとに最高の味わいがある。ここでもA氏は幸福感を味わう。
奥歯をかみ締めると昨日歯医者で治療した歯の具合はよいようです。このことでもA氏は幸福を感じている。
いろいろなレベルでA氏は幸福を感じている。どれが本当の幸福なのか?
人生の成功が大事だと思えば、出世と収入がありがたい。仕事の勝負に生きている、と思えば、ビジネスの成果が一番うれしい。しかし、そのときそのときの快不快に身をゆだねる、という生き方もある。それでいくと、おいしい食事が一番重要です。一方、人間身体が一番大事、という考えも正しそうです。そうなると、奥歯が治ったことが一番ラッキー、ということですね。
歯の具合とか、今食べている料理の味とかの問題は、ビジネスの成功に対して小さな問題です。下位の問題だといえる。どうでもいいこと、関係ない問題、といえる。ビジネスの成功という大きな上位の問題がうまくいってこそ、大きな幸福が手に入る。個人にとって一番上位の問題が自分の人生だとすれば、その成功が一番大きな幸福となる。
小さな問題で成功することよりも大きな一番上位の問題で成功するように行動せよ、というようなことを、昔の処世訓も現代のハウツー成功指南書も教えていますね。教えられるまでもなく、私たちは、そのことが分かっている。上位の問題を、それが上位であると思えば、それの成功を目指して行動する。私たちの身体は、そうできているわけです。
たしかに、自分が料理をおいしく味わえるかどうか、ということよりも、取引相手がご機嫌になって、スムーズに契約の話が進むことのほうがずっと大事でしょう。だから、自分がおいしいと感じるかよりも、相手がおいしいと思っているかどうかに神経を使わないといけません。そういう考えで仕事をしないと、成功も出世もおぼつかない。
そもそも、ビジネスの相手と商談するということが、今ここに自分がいる目的だと分かっているならば、自分が今感じている料理の味だけで幸せを感じるのはおかしいわけです。上位の目的をもって行動しているときは、下位の問題に関する幸福は軽視される。しかし上位の目的、たとえば、食事の相手との付き合いを深めるとか、などがないときは、今食べている料理の味がこの世で最大の幸福を与える場合もある。同じ人が同じ料理を食べていても、その人が何を目的にしているかで、幸福感は全然違う。料理についてだけ注目して、その味を経験することが幸福かどうかを論じても、あまり意味はない。
同様に、私たちの世間話ではよくあることですが、ある行為をして獲得できた金額の多寡、あるいは社会的地位の上下についてだけ論じても、幸福の程度は分からない。お金や出世による幸福がありがたい、ということは万人が認めるところですが、どのくらいありがたいか、その程度については、人それぞれ、そのとき、その場合による。その人が、そのとき、何を大事だと思って生きているか? だれもが自分と同じ考えだと思えば簡単な問題ですが、そうはいかないでしょう。
私たちは、上位の、長期的な、大きな目的を持っているときは、下位の小さな幸福にはこだわらない。それだけを見ればそれがかなりな不幸でも、耐えられる。「人生辛抱だ」とか、「がんばらなくちゃ」とかいうことは、そういうことでしょう。私たちは、先の大きな幸福を夢見ているからです。そういう脳を人間は持っている。そういうふうに人類の神経系が進化したからです。長期の大きな目的のために小さな幸福の欲求を抑える神経系の能力が、人類の生存繁殖に有利だったに違いありません。
冬ひもじくても、春にまく種は食べない。逆に、どれほどたくさんの穀倉を所有していたとしても、さらにそれを倍増させようとして、死に物狂いに働く。私たちは、その状況におかれれば、だれもが、そういうことをします。そういう行動をするような脳を持った人類が生き残った。その子孫である私たちは、こうして、いつでも、いつまでも、明日の人生の幸福を懸命に追い続ける生き方をするようになりました。
人生の幸運ということを、あらためて考えてみれば、そもそも、人生について考えることができる、ということそのことが非常な幸運である、というべきでしょう。まず、生きている人間であるということ。地球生態系の最高位に位置する動物として生きていること。そのことそのものが、どの人間にとっても、その人生でつかみ得る最大の幸運でしょう。自然の最高傑作であるこのすばらしい肉体を持って、みごとに洗練された知的システムである仲間の人間と、それがだれであろうと、なにごとかを交信できるということに勝る楽しさはない。そしてうまくすれば、歴史に蓄積された文化と文明の中に身をおき、そこに作られたゲームを楽しませてもらえる。それ以上の幸福が人生にあると思うのは、幻想ではないでしょうか?
筆者ですか? 実人生ではともかく、趣味の世界では成功が多い。毎晩、だいたいはその日一日に満足して床に就きます。次の朝は爽快に起きる。コーヒーを沸かしトーストを焼く。一口飲んで香りをかぐと、人生の幸福とは何か、はっきり分かる。すっきりした幸せな気分で家を出ます。
ただ、人と同じくらいの早足で歩いて行くのに、たいていバスに乗り遅れて、いつも自分ばかりが置いていかれているような気がする。すぐそこに見えているのにバスが行ってしまうと、さりげなく視線をそらし、平然とした顔をして歩行速度をわざとゆっくりと落としながら、口の中では運命の女神を罵る言葉をつぶやいています。
私はなぜ幸福になれないのか? それは、私が生きている人間だからでしょう、たぶん。
ようするに、私たちは、生きているから幸福になれない。幸福になれないから生きていられる。
(16 私はなぜ幸福になれないのか? end)