哲学の科学

science of philosophy

私にはなぜ私の人生があるのか(15)

2010-07-04 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

このように考えてくると、現代人が自分や家族の人生がどうだとか、どうなるかとかを、いつも真剣に考えていることは当然である、と思えます。明日の自分や家族の人生に関心を持たないような身体を持つ人々は、手間のかかる大きな頭脳を持った子の育児を遂行することができないため子孫を残せず消えていった、という推論が得られるからです。

ですから私たちが他の動物と違って、「幸せな結婚をしたい」とか「出世したい」とか「金持ちになりたい」とか「子供を幸せにしたい」とか「収入が減ったら困る」とか「歳を取るのは嫌だ」とか「死ぬのは怖い」とか、何年も先の人生の問題を悩むことは、まさに、私たちが、これほど頭脳が大きい身体を子孫に引き継いでいく動物である以上、逃れようがないことなのです。

以上の拙稿の仮説が正しいとすれば、人生保持機構は、家族や仲間の視点から

見てとれる将来の自分たちの姿を(存在感を伴う現実として客観的に)想像して、その想像に対して自分の身体がどう反応するかを感じとることで、現在の自分の行為を形成する機能としてできあがっているはずです。

たとえば生まれた子供と暮らす自分の姿を想像することで身体が暖かくなって心地よいと感じとった場合、子供を作る行為はポジティブに評価されて、促進される。その想像が心地悪く、背中がひんやりする感じがする場合は、ネガティブな反応が起こって、忌避される、という具合でしょう。これが人生保持機構の働きです。

人生保持機構は過去に対しても働きます。家族や仲間の視点から

見てとる過去の自分の姿を(存在感を伴う現実として客観的に)回想したときに引き起こされる自分の身体の反応を感じとって、現在の行為に反映する。たとえば親孝行せねばな、とか、兄弟や仲間を助けてやろう、とかいう(考えや)行為が起こる。

大事なことは、未来や過去のこれらの想像や記憶が存在感を伴う現実世界で起こることであり、また起こったことだ、と感じられるところです。それが現実であると感じるということは、拙稿の見解では、身体がそれに反応して動く、ということと同じことです。逆にいえば、自分の身体がそれに反応することを感じとるとき、私たちはそれを現実という。つまり、人間の身体は、過去の自分や未来の自分を思い描くことで、動物の身体が目の前の現実に対して反射運動を起こすのと同じように、反射的に動く。人間以外の動物は人生保持機構を持たないので、

過去の自分や未来の自分を思い描くことができない。つまり人間以外の動物は、目の前でいま起きている物事以外に反応することができない。

たとえば、自分が産んだ子が腕の中にいれば、サルはこれを抱きしめる。人間も同じです。けれども、サルは、過去に出産の経験があるとしても、まだ次の子を産んでいないときにこれから産むであろう子が腕の中にいると想像してこれを抱き締めることを想像することはしません。ところが、育児の経験を持つ人間は、そういう想像をすると、腕の筋肉がわずかに動いて想像上の赤ちゃんを抱こうとするように運動神経系が活動する。内分泌線も産婦のような活動をする。このとき、その人はかわいい赤ちゃんを抱くことを考えている。こういう働きが、人間の身体にはある。

私たちの身体は(拙稿の見解では)、客観的現実がこれからどう変化するか予測して、その予測結果に反応して運動の準備が起こり、自律神経系が活性化され、内分泌腺が活動する。つまり人間は、現在の状況にしか反応しない他の動物と違って、将来の予測に反応して現在の身体活動が起こるようになっている。何日も先の、何年も先の、将来に起こるであろうと予測される物事に対して、まるで今起こっていることのように身体が反応する。こういう場合(拙稿の見解では)私たちは、自分は考えている、と思う。予測の精度は事後の経験と照合して評価学習される。こうして予測の精度は学習によって向上していく。子供より大人が、若い人より老人が、現実的なのはこのためでしょう。

考えることを重ねていくと、過去を教訓として未来をよく予測することができる。現在のその時その場だけの状況に具体的に対応するばかりではなく、遠い目標を定めて広い時間空間の中で自分がおかれた状況を予測し、それに身体を応答させることができる(二〇〇八年 ニラ・リーバーマン、ヤーコフ・トロープ『此処と今を超越することの心理学』)。つまり人間は、想像した状況に対応して自分の身体を反応させることで、物事を的確に予測できる。この働きによる行動のコントロールが、私たちが理性といっているものにあたる、といえます。

一方、サルが目の前の子を抱く、というようなその時その場だけで作動する反射運動の連鎖による行動の発現を、私たちは本能という。とすれば、本能といわれるものの働きが現在感覚器が感知する目の前の現実だけに反応するのに対して、理性といわれるものの働きは過去から未来へかけての広い時空の中での、客観的に予測される仮想の現実に対応する、といえる。ここで客観的な仮想の現実というのは、自分の感覚感知だけでなく、むしろ仲間の視点に憑依して見た世界の予測から感じとれる現実、ということです。

いずれにせよ、動物はふつう身体がおかれている環境の中で、現在の身体が受けている感覚にだけ対応する。未来を予測して対応する場合もないことはないが、それはこれから数秒、あるいは数分、あるいは長くても数時間後に起こる変化です。動物にとってその数秒あるいは数時間は、現在の瞬間をそのまま拡張したものといえます。イヌなどは投げられたフリスビーがどこに行くか予測して走っていきます。現在の身体が受けている感覚から数秒後の状況変化を予測して、それに素早く対応するような能力を持っている、といえるでしょう。

人間の場合、この予測は、現在の身体状態から予測される直近の状況変化ばかりでなく、むしろ現在の身体状態から座標を変換して、仲間の視座に憑依

することで得られる客観的な時空間における遠い未来あるいは過去の自分の姿を対象として行われる。その場合、現在の行動は、その遠い未来あるいは過去の予測ないし想起に対応して形成される長期にわたる目標を持った計画行動の一環としてなされる。

現生人類は、この能力によって緻密な社会を形成して、脳の大きい子供を確実に育成するシステムを完成した。その結果、きわめて柔軟かつ効率的に地球上の多様な環境に対応して拡散し増殖した、と考えられます。

つまり(拙稿の見解では)私たち人類は、脳の中で仲間に憑依し、

仲間の視座から見た客観的な時空間における将来の自分たちの姿がおかれる状況を見てとって、その将来状況が現実としていま目の前にあるかのように身体が反射的反応を起こすことで思考し、行動している。

その仲間の視座から見た自分の姿を感じながら、過去を想起し未来を予測する。私たちはそれを自分の人生だと思っている。人類が脳の中に作りだしたこの仕組みが人生保持機構です。その結果、人類は緻密な社会を作り上げ、環境適応の能力がいちじるしく向上して地球上で大繁栄した。その子孫である私たちは、この人生保持機構を祖先から受け継いでいる。これがいま、私たちがそれぞれの人生を持ち、懸命にそれを生きていることの理由といえるでしょう。

人生。日本語でも中国語でも人生という字を使いますが、英語ではライフという。ドイツ語ではレーベン。フランス語ではヴィー。イタリア語ではヴィタといいます。英語では生命と人生、両方とも同じライフです。英語に限らず西洋語では生命と人生は同じ言葉です。日本語でも生き様というように同じ語感ですね。生あるものが生を生きる様は人生と同じ、という考え方をする。つまり、私たち人間は、人間以外のものであっても、命あるものは人生保持機構を持っている、と直感する。むしろ人生保持機構を持っているように見える存在を「命がある」と思う。

科学者でないふつうの人々は、虫でも鳥でも動物はみな、人生保持機構を持っている、と素朴に考えています。幼稚園児が「虫さんは、はやく大きくなりたくて、いっしょうけんめい、葉っぱを食べているの」というとき、大人もその通りだと感じる(拙稿7章「命はなぜあるのか)。記憶能力も予測能力もない生物が計画的行動をするということは、論理的には明らかに間違いですが、ふつう人々はそんなことは気にしない。生物観、動物観は、科学者とそうでない人とはかなり違っています。そういうふつうの人の直感に根ざしている人生という観念は、人類の世界認知の仕組みをよく表現しているといえます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。

ギリシア神話によると、神様に作られた最初の女性パンドラは、開けてはいけないと言われた箱を開けてしまう。たちまち、あらゆる災難と苦痛がその中から飛び出てきて、世界中に広がってしまった。最後に「希望」だけが残った。人類に贈られた人生という箱の話なのでしょう。

(22 私にはなぜ私の人生があるのか? end)

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私にはなぜ私の人生があるのか(14)

2010-06-26 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

こうして人生保持機構が家族あるいは一族郎党の共同生活を支えることで、子供の養育に必要な長期にわたる緊密な協力体制が維持される。このことから推測すれば、人類の人生保持機構は、脳の大きな子を数少なく産み、(他の動物に比べてきわめて)長期間にわたって保護し教育しながら育てあげることとの組み合わせになって共進化したと推測できます。

このように人生保持機構を備えた人々は、まず人生の先を見通す力を持つ。女の妊娠を見て取ることで、子が生まれた後のことを現実として感じ取れる。またその子供の将来が予測できるようになる。食料の獲得に失敗して赤ちゃんが死んでしまうことを想像すると、ぞっとする。人類の場合、その予測を仲間で共有できる。そういう事態を招くと予測される自分たちの行為を身体が拒否する。人類では、仲間の共有する感情として身体がそう動くのです。

脳が大きく手間のかかる子を産み育て、それに必要な高い栄養価の食料を確保するために緊密に協力する集団を作る。家族あるいは共同生活をする小規模社会集団の中でのしっかりした役割分担ができる。人生保持機構が表現する家族内の役割、あるいは小集団内の役割に従って身体が動いていく。そういう身体を持っている人々だけが(拙稿の見解では)協力して縄張りを守り、栄養価の高い希少な食料を調達し備蓄し、妊婦を扶養し、生まれた子の養育をすることができます。

互いの人生経験を共有する一族郎党の人々が緊密に協力して集団生活し役割分担することができなければ、手間のかかる人間の子は育たない。そのような原始時代を過ごした人類には人生保持機構が必要だった、といえるでしょう。

さて、いったん人生保持機構ができてしまうと、この機構は出産育児ばかりでなく、いろいろな面での生活の効率化に役立ってきます。

明日や明後日の食糧の必要性が予測できるようになるから、食糧を倹約して残し、土器などを使って貯蔵するようになる。狩猟採集や備蓄のために、道具を作って大事に使うようになります。

また集団で生活する仲間との間に、長い人生にわたる協力関係を築くことができる。これは人間社会の基盤となっていきます。

原始時代の一族郎党はいつも一緒にいて食糧の獲得と配分を繰り返す関係ですから、終身雇用で同じ会社にいる日本のサラリーマン仲間のようなものです。生まれてから死ぬまで人生を共有すれば、まちがいなく強く団結した集団が作れる。集団が強くなれば、大きくなる。大きくなれば隣接した集団どうしで資源を奪い合う競争が起こります。そうなると、ますます集団は大きいほど有利になるから、競争相手を殲滅、あるいは吸収合併して、ついには大きな部族ができる。その過程で、習慣、文化、言い伝え、宗教、言語が発展します。

ちなみに、人類の社会的発展と言語の発生との関係については、人類学でも科学的な研究方法の模索がはじまったばかりの段階で定説といえるものはありません(二〇〇一年 デイヴィッド・ギアリ、マーク・フリン『ヒトの育児行動とヒト家族』既出)。しかし密接に関係していることは間違いないでしょう。拙稿が採用する仮説としては、人生保持機構が家族生活と言語の発展を結び付けている、と考えます。

人生保持機構は(拙稿の見解では)憑依機構を土台として、出産育児を支える家族・共同生活形態と共進化した。また同時に言語とも共進化した、と思われます。人類の家族生活と出産育児を支える家族・共同生活形態と言語は、ともに仲間の視点から世界と自分を客観的に感じとる客観的現実感の獲得を基礎としています。他の動物と違うこれら人類特有の能力は(拙稿の見解では)、憑依機構にもとづいている(拙稿8章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。この憑依機構は群棲霊長類(サルやチンパンジーなど)共通の群行動機構から発展したと思われますが、人類において、たぶん大脳の機能拡大によって、飛躍的な性能向上を達成したのでしょう。

さて、人類社会がうまく発展して規模を大きくして来るにしたがって、生産性が上がって、食べるだけよりは余裕ができてくる。そうなると、将来使う物財を蓄えるようになる。それらはいくらでも多く蓄えたほうがよい。物欲も人生保持機構の重要な構成要素です。人生保持機構が働いて自分の将来をはっきりと予測することができると、物欲が強くなってきます。

使う価値が高い物財が欲しくなります。私たちは周りの人々とうまく付き合って、物やサービスの交換をして、価値の高い物財を手に入れるようになる。人々は収入を求めて生産性の高い仕事に専門化していき、交換のネットワークができる。はじめは暗黙のうちに、後には制度化されて、分業社会がなりたつ。人が多く集まるほど、その社会集団はスケールメリットを持ち、生産性が高くなって武装もするので安全が高まる。安定した人生を求めて人々はますます大きな社会に参加してくる。人口はますます集中してきて、ついには都市化する。貨幣経済が始まって、最後には、現代のような社会になっていきます。

これらの人類に特有な発展過程は、すべて人生保持機構がなければ発生しなかったでしょう。人々がそれぞれ人生保持機構を働かせて自分の人生を予測し、仲間と協力して役割分担し、よりよい明日の人生を求めて行動していくから、手間のかかる脳の大きな子を養育する家族が安定的に維持できる。逆に言えば、人類がこのような発展過程を経てきたとするならば、私たちが人生保持機構を備えていることは必然であったことになります。

人類の進化においては、人生保持機構を備えるかなり大きな脳を持った子を数少なく産んで手間をかけて育て上げるか、あるいは人生保持機構を備えない小さな脳のままにとどめて、手間のかからない子をどんどん産み落としていくか、いずれかの選択しかなくて、中途半端な折衷型の人類は滅びていったはずです(一九九五年 スーザン・グリーンホーグ『人類学は生殖を理論化する:習慣、政治、経済、およびフェミニスト観点の統合既出)。

もちろん、進化は漸進的でしょうから、中間点では脳が大きくなった割には人生保持機構が完全ではない状態があったでしょう。その時期の人類は、幸運であってたまたま食糧が豊富な環境にいたのかもしれません。幼児を抱えた母親が、協力者がなくても、一人で簡単に多くの食料を獲得できる環境が存在したのかもしれない。たとえばアフリカに住む現在のチンパンジーなどはこういう生態です。その後、環境が悪化したとき偶然人生保持機構を獲得した一族だけが生き残って大繁殖したのかもしれない。そこは謎です。生物進化にはよくある過渡現象の謎です。中途半端な翼をもった始祖鳥は空を飛べずにどうして繁栄できたのか、とか、暗すぎて見えないランプしか持たない初期のホタルはそれをどう役立てたのか、とか、生物進化にかかわる謎はいくらでもあります。

いずれにせよ、現生人類の私たちの特徴として、古い時代の人類に比べて大きな脳を持ち子供の養育にエネルギーと時間と手間がかかることは事実であるし、原始人類に比べるとずっと精緻な人生保持機構を持っていることも確かです。このことから、この二つの特徴が相互に依存しながら共進化したという(拙稿の)仮説は否定しにくいでしょう。

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私にはなぜ私の人生があるのか(13)

2010-06-20 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

なぜ、人類の人生保持機構は、うまく生存繁殖に適応しているのか? たとえばなぜ、人生保持機構を備えた人々の集団である社会は、子孫を維持するために適当な数の出生数を保つ機能を持つのだろうか? これを考えるために思考実験として、人生保持機構を備えていない人ばかりで構成された社会が仮にあったという仮定を想像してみましょう。

その人たちは人生保持機構を備えていないので、自分の行為についても他人の行為についても、過去や未来を考えることが嫌いです。昨日までに自分がした行為をよく覚えていない。というか、過去には興味がない、初めから覚えようという気がない。さらに、これから何をしようかとか、何が起こるのかとか、を考えることもない。認知症の老人みたいですが、人間の過去の行為を記憶したり未来の行為を予測したりしないだけで、身体は健康だし、物事の知識はふつうにある。身だしなみはしっかりしているし、言葉をはっきり話すので、知能が低いという感じはしないでしょう。お金の計算などしっかりできる。自動車も運転できるし、外国語もしゃべれる。A君はすぐ怒るからいやだ、とか他人の性格も知っている。

ただ、人生というものを知らない。人生について考えることがないからです。過去も未来も興味がないのですから人生などないのです。過去の悔恨もないかわりに、将来の夢もない。今がつらくなくて楽しければいい。そういう人たちがいるとしましょう。その人たちの生活感覚はどんなものなのでしょうか?

ふつうの常識では、あまり感心な生き方ではない。刹那的とか、享楽的とか、悪い人生態度としていわれる。アルコール・薬物依存症、ギャンブル依存症などのイメージです。あるいは「アリとキリギリス」のキリギリスですね。絵本ではバイオリンを弾いています。アーティストは刹那的と見られているのでしょうか? まあ、実世界ではそうではないようですが、優雅に美しく生きている人々は、なんとなく将来を心配しているようには見えません。そこで私たちはこの思考実験の社会を、人生保持機構などあまり働かせずに、今日一日を優雅に暮らしているキリギリス的な人々、というイメージで考えることにしましょう。

さて、拙稿で今、仮に存在しているとしている人生保持機構を持たないキリギリス的な人々の集団。この人たちは老人ではなく、若々しいし、セックスは嫌いではないので、するでしょう。男女が仲良くなる場合もあれば、そうならない場合もある。仲良くなる理由は、私たちの場合と変わらない。姿かたちが気に入ったというばかりでなく、フィーリングが合うとか、動作が好き、話し方が好き、考え方が好き、とかいう場合もあるでしょう。いずれにせよ、ある程度以上仲良くなると、ベッドをともにする可能性がある。

そして女は妊娠する。ここで問題は、男はどうするか、です。男は人生保持機構を持たない。自分に人生がある、ということが理解できない。この男は、キリギリスらしくバイオリンを弾くことは上手ですが、他人の人生も理解できません。妊娠させた女にも彼女の人生があるということが理解できない。もちろん、生まれてくる子の人生を想像することなどまったくできない。仲間が、彼の人生や彼女の人生をどう思うかも、まったく理解できません。そもそもこの社会では、仲間も彼女も人生というものを理解しない。女が妊娠しても、人生上のその意味など、だれも理解できないわけです。

生まれてくる子の父親に自分がなるなどという考えがまったくない男は、バイオリンを弾くために遠くに出掛けてしまいます。出かけた先で残してきた女のことなどすっかり忘れてしまう。そこで気に入った女と出会うと、一緒にバイオリンを弾いたりして仲良くなってしまうこともある。そのまま帰って来なくなったりする。

残された女は、母親や姉妹の助けを借りて出産し、子を育てるしかない。しかしこの社会では妊婦の母親や姉妹はあまり役に立たない。なぜならば、妊婦の母親もバイオリンには興味があるが過去のことには興味がない。娘を自分が産み育てたという過去の記憶がいくらか残っているとしても、それらは現実感がない。自分が祖母だから孫の将来のために子育てに協力するという考えはなくて、ただ一緒に住む若い女の出産育児を手伝うというくらいの考えしかない。男はいなくなってしまうし、母親や姉妹も同居人として親切にしてくれる程度しか頼りにならないとすれば、子を産んだ女は子供を守りながら十分な栄養を与えることはむずかしいでしょう。

ここで仮に何らかの理由で男が女のもとに残ったとしても、この社会の男はほとんど役に立ちません。なぜならば、バイオリンには強い興味があるが過去にも未来にも興味がない男は、懸命に働いて家族を食べさせていくとか、子供の成長を楽しみにして子育てするとか、節約して資産を形成するとかいうような行為をする動機がないからです。このことは女たちについても同様で、この人たちはバイオリンには興味があるが、倹約しながら懸命に働く動機は持ちません。

今日の今、楽しいほうがよい。身体が楽なほうがよい。目の前にある物資はためらいなく浪費してしまう一方、将来必要なものを手に入れるためにこつこつと努力することがない。つまり将来のために働いて貯蓄するということをしません。そうする理由がないからです。将来の自分と家族のイメージを持たないからです。

貯蓄も投資も融資もないから銀行が成り立ちません。宵越しの金は持たないから、ためらいなく使います。けれども、お金が欲しくて働くということはしない。だれもがそうです。つまりこの社会ではお金を出しても、だれも動いてくれない。お金の価値がないから、物やサービスが手に入りません。マーケットが成り立たない。取引が成り立たない。産業も成り立ちそうにありませんね。猫に小判。人間以外の動物を見れば、まさにその通りでしょう。

キリギリス的なこの社会の人々は、資源を節約したり予備に蓄積したりする気持ちがないから、災害があったり環境が変わったりすると飢え死にしてしまう可能性が大きい。寒い地方に住んでいれば冬も越せないでしょう。また助け合って子供を養育しないので、十分に発育した子孫を多く残せない。環境が悪くならないとしても、結局、人口は増えず、災害があれば人口は激減して、最後は滅亡すると思われます。

一方、人生保持機構を持つ人々は、将来の自分の運命を予測することができる。予測して、そうなりたいとか、ああはなりたくないとかいうイメージを作れる。それによって今日の行動の動機にする。つまり、こういう人々は(拙稿の見解では)、将来に備えて倹約しながら懸命に働いて家族を支える動機を持っています。将来の予測ができるので、環境の変化にも耐えられる。こういう人々は、そうでない人々に比べて、より確実に存続して、少しずつ人口を増やしていくでしょう。

ここで気をつけるべきことは、この話が人類に限って成り立つということです。人間以外の動物は、むしろ交尾した後、オスは消えてしまうことがふつうです。つまり他のメスと交尾する機会を求めて遠くに行ってしまい、戻ってこない。それでも残されたメスは容易に数匹の子を出産して育て上げる。というか生まれた子供は短い期間で簡単に一人前になる。人間はそれができない。人間の子は脳が大きいため生育がきわめて遅く、しかも脳の成長のために栄養価の高い食物を多く必要とする。そのため生後数年以上にわたって、母親ばかりでなく、父親やその他の家族による手厚い養育を必要とする身体になっているからです。

実際、生後一年もの間、走ることもできず、生後数年たっても自分でまったく餌を採れないような動物は人類以外ありません。長期にわたる母親の手厚い世話を受ける必要があります。栄養価の高い果実や肉などの食料を採集しながらの育児は母親一人ではできない。栄養価の高いおいしい食べ物はだれもが欲しい物です。競争相手に奪われてはならず、むしろ奪い取らなければならない。天候不全などで環境が悪化したときでも人間の子供は高い栄養価を必要とする。

食糧がつねに多く確保できるように縄張りを守り、さらに隣接する集団との戦いに勝って拡大しなければならない。子供とその母親を守り食料を獲得してくる強い男が必要です。それは孤立した男ではなく、団結して縄張りを守れる実用的な強さを持つ男たちの集団でしょう。兄弟や一族の仲間と緊密に協力し一緒に集団で行動する男が、脳が大きな子供が成長するためには必要なのです。つまり人類は、緊密に協力する社会集団を作って縄張りを守り恒常的に高栄養価の食料を獲得し続けなければ、脳が大きくて発育が遅い子供を産み育てられない動物となっています。

子供の父親をはじめ、連携する男たちを含む一族郎党のメンバーが、人生保持機構を働かせて互いの過去の経験を共有し、自分の人生の将来を予測する。仲間の各人がそれぞれ自分にとって大事な人生を持っていることを確認しあう。だれもが自分の人生を懸命に生きている。自分も同じように自分の人生を生きている。さらに生まれてくる子供や家族あるいは一族郎党、自分たち全体の人生を支えるためにいま何をしなければならないかが分かっている。人生保持機構は、生まれてくる子供、母親、男、女、青年、老人、各世代それぞれの人生上の役割を明らかにすることで、役割分担のある協力体制を作り上げる。これによって、家族あるいは一族郎党の共同生活は、生産性の高い、安全で高効率の生活機能を持つシステムになります。

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私にはなぜ私の人生があるのか(12)

2010-06-12 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

たとえば、私はなぜ子供を産むことにしたのか? 私には私なりの理由ないし目的がある。それを皆さんにきちんと語ることもできる。しかしそれは私がそう思っているだけで、私の身体が子供を産むのは、私たち人類の身体がそう作り込まれているから、ということではないだろうか? たとえば私たちは結婚すると子供を産む。それには産婦自身あるいは夫婦あるいはその他の人々との間でのいろいろな計画や思惑や話し合いがあってのことと思われている。それは確かにそう見ることもできる。しかし世界中の人々が数千年あるいは数万年にわたって、いろいろなことを言いながらも、結局は、結婚して子供を産む。それだけが事実ではないか?

私たちは、結婚、出産という、こんな簡単な自分たちの行動さえ、正直に言えば、その本当の仕組みを知らない。人類学の研究テーマではある。しかし現状の人類学は(拙稿の見解では)、この問題を実は解明できていません。現在、ようやく、科学としてこの問題がよく分かっていないということが分かるようになってきた。つまりやっと課題を科学的に記述できるようになった段階です(二〇〇八年 ヴァージニア・ヴィッツム『女性生殖機能の進化モデル』、二〇〇一年 デイヴィッド・ギアリ、マーク・フリン『ヒトの育児行動とヒト家族』)。これは人類学者が怠けているからではなく、この問題解決の基礎になる生物科学や認知科学が、まだ解明の方法論を提供できるほど発達していないからです。そういう現状ですから、たとえ対症療法が見つかって人口問題や少子化問題がいちおうは解決できたとしても、私たちがその本当の機構を理解していないことは変わりません。

たとえば、人類学の調査によると、世界的に伝統的宗教・文化が強い地域では多産であり、伝統宗教・文化が薄れている地域では少子化の傾向があるとされている(一九九五年 スーザン・グリーンホーグ『人類学は生殖を理論化する:習慣、政治、経済、およびフェミニスト観点の統合)。それはなぜかという仮説なども種々提唱されているが、どれも科学的な根拠がない。調査データによると、単に避妊に否定的か肯定的かということではない。産業構造の現代化の影響ということでもない。教育の浸透という効果もあまりない。説得力のある科学的理論はできていません。

いずれにせよ出生決定の問題が宗教や文化に影響される理由は、この意思決定が、人それぞれが自分の人生をどう認知するかに深く関係しているから、と思われます。妊娠出産育児に関して、女性は家族や同性の仲間と認識を共有して行動する傾向があるとされる。その過程で宗教と文化が個人の行動に影響を与えるとされています。子供の出生につながるこれらの行動の意思決定は実際、だれによって、いかになされているのか?

マスコミなどで行われる素朴な議論では、子を産む女性当人の自由意思で決定されている、ということになっている。しかしこれは無理がある議論でしょう。人間が子を産むということは受精があり十カ月に及ぶ妊娠中の生活コストの問題があり、分娩とその後の養生があり、どれをとっても母親一人でできることではない。 さらに決定的な問題は、出産後十数年以上にも及ぶ育児教育の手間とコストはだれが負担するのか? 

そして、成人した男女が社会に出て活躍することによって社会の活力が上がり受益するものは、その母親や家族だけでなく、社会全体に及ぶ。そういう背景を持つ一人の人間の出生という行為については、いつの時代もどの社会でも、それを強制したり誘導したり援助したり促進したりする種々の集団的社会的な力が働くことで維持されているはずです。それらの社会、家族、親兄弟、配偶者などが加える多くの力が働いて新しい出生が起こると見なさなければならないでしょう。

人の出生に関する問題は、出会い、結婚、性交渉、妊娠、避妊、中絶、分娩、授乳、育児、次子妊娠、家族計画、住居問題、相続問題など、それぞれ個別の科学、医学、社会問題、経済問題、実務問題としては現在も活発な議論がなされている。しかし全体として、人はなぜ子を産むのか? あるいは産まないのか? 簡単な質問の答えが簡単ではないところに、私たちの理解の限界が表れている。

子供を産むということは、夫婦、親子の小さな関係だけではなく、家族、仲間集団との関係、社会の慣習や文化、あるいは時代背景、などの影響がかなり大きいと推測できます。さらにこの問題は、別の観点からは、男女の生理、内分泌活動、保健衛生環境などの組み合わせによって影響される、ともいえる。しかし、このように社会現象と人体生理が深くかかわりあった現象を解明する方法論を、今のところ、私たちの(社会学、人類学、心理学、医学を含めて)科学は持っていない。

もしかしたら現代のヨーロッパや日本で進行している少子化問題は、単に経済が沈滞するという問題ばかりでなく、ずっと深いところで人類の人生保持機構が変質してきているという問題なのかもしれません。あるいは、できあいの人生保持機構にもともと内在していた瑕疵が、現代社会の変化を受けて、顕在化したのかもしれない。しかし、その先はもう分からない。現代文明の影響であるとしてもそのメカニズムは分かりません。そもそも現代文明の問題以前に、人間が自分と家族、仲間集団あるいは社会との対人関係や集団的社会的関係を、無意識のうちに認知して身体(中枢神経系や、自律神経系、内分泌系、免疫系)が応答する仕組みについて、私たちはよく分かっていないからでしょう。

この仕組みは、精緻な社会構造を維持できる人類においては、高度に進化発展しているはずです。しかし残念ながら現状の科学では、これは解明できていない。人生保持機構の働きは、このよく分かっていない私たちの身体内部の仕組みに基づいてできあがっているようです。

まあしかし拙稿としては、ここでしり込みせずに、かなり手ごわそうなことが分かってきたこの人生保持機構のメカニズムについて、別の切り口から、もうすこし大胆に切り込む方法を考えてましょう。

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私にはなぜ私の人生があるのか(11)

2010-06-05 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

人類の前頭葉が大きいのは事実ですが、その働きが他の動物とどう違うのか、あまりよく分かっていない。まず人間の身体が、他の動物の身体とそれほど違うという根拠がない。身体の見かけは確かに違って見えますが、その造りは他の動物、特に哺乳類の共通の造りからあまり違わない。

自動車にたとえれば、バスとスポーツカーは見かけはだいぶ違うけれども、同じような機械部品を同じように組み合わせて作られていて、同じ仕組みで動く。人間も他の哺乳類に比べて、二本脚で歩くとか、脚が長いとか、体毛が少ないとか、顎が小さいとか、見かけはだいぶ違うといえば違うが、つまりは身体部品のプロポーションが違うくらいのものです。

だからおおざっぱにいえば、人間以外の動物も人間も(拙稿の見解では)ほとんど同じ仕組みで動くようになっているはずです。動物共通の動き方のその詳細な(神経活動の)仕組みは、現代科学でも、まだよく分からない。分からないけれども、人間だけ違うという理由はないわけです。

拙稿の見解では、むしろ「動物はくしゃみやあくびやよだれのような反射運動の組み合わせで行動する。人間も同じように、くしゃみやあくびやよだれのような反射運動の組み合わせで(思考し、また)行動する」とするほうが科学的でしょう。そこから、なぜ理性的行動に見える動きができてくるのか、それは、正直に言って、まだ科学ではよく分かっていません。

これに関して拙稿の見解を述べれば、人間は、仲間の視座から見て客観的に予測できる世界を現実として感じ取って、その中に自分の行為を予測して客観的に見る機構を持っているところが他の動物との違いを生んでいる(拙稿19章「私はここにいる―私と世界とのいかがわしい関係」)。

人間の思考と行動も他の動物とまったく同じように(拙稿の見解では)、くしゃみやあくびのような生まれつきの反射や食事を知らせるベルを聞いて唾液を分泌する犬のように学習した条件反射の組み合わせでできている。ただ人間は、客観的世界を作る機構を持っていて、それを使うことで世界と他人と自分の動きを予測してそれを客観的現実として脳内に作り上げ、作り上げたその現実の変化から予測される存在感に対して生得反射や条件反射など反射運動を起こしている。

子供のころから予測と結果を照合して学習を続けると、予測精度が上がってくるので、成長した人間は理性的に考えて行動するように見える。実際、予測の経験から帰納的に理論ができてくる。人はその理論を言葉にして述べたりしながら行動するので、理性をもつ人間が理論にしたがって行動しているように見える。

拙稿の見解はともかくとして、現代科学では、このような問題を実証的に研究する方法を持っていません。けれども、これからも科学の発展は加速される。いずれは科学(と、たぶん、拙稿がいうところの哲学の科学と)によって、この問題も完全に解明されるはずです。たぶんそれは、次の次の時代でしょう。しかし確実にその時は来る、と言っておきましょう。

さて(拙稿の見解では)、人間は、憑依機構が働くことで、仲間の(他者の)視線の中に自分の姿を、存在感を伴う現実として客観的に、感じとる。それが自分というものの正体です。私たちの内部で自動的に起こるその自分の存在感の記憶と予測が、私たちが思うところの、自分の人生です。この働きを支えている憑依機構は(拙稿の見解では)群棲動物の運動共鳴から進化した仕組みでしょう。

私たちは、憑依機構を使って、仲間の身体に乗り移って、仲間集団が自分に対して抱く感情を自分の感情機構を使って(存在感を伴う現実として客観的に)感じ取る。眼前の人体の動きを仲間集団と共鳴して(存在感を伴う現実として客観的に)感じ取る。自分自身の動きをも仲間集団と共鳴して(存在感を伴う現実として客観的に)感じ取る。ここが人間以外の動物と違う点です。二歳児はすでにこの憑依機構を持っている。この機構が(拙稿の見解では)人生保持機構の土台をなしています。

仲間の視座で自分の行為を見る。集団的社会的感情を伴って、その行為を感じ取る。そのとき、仲間が私の行為に対して抱く感情は、私が仲間の一人の行為に対して抱く感情と同じようなものとなります。仲間の視座から見ると、私の今おかれたこの状況ではこういう行為をしてほしい。それが自分の行為に求められる仲間の要求である、となる。

これが特定の仲間の視座からというよりも人類普遍の立場から求められる、と考えると、広い意味で、モラルといわれるようなものになるでしょう(一七九七年 イマニュエル・カント『人倫の形而上学』)。他人の人生についてこうあるべきだ、と思うところが自分の人生のあるべき形になる。そうであれば、だれの人生においても、なすべきことは同じようにあるべきだ、という考えに収束していくのは当然の帰結でしょう。

私たちの仲間のA君の人生はどうあるべきか、考えてみましょう。A君は三十歳にもなればそろそろ結婚して一人か二人の子供を作るべきだ。子供の数は、まあ、二人も作ればよいだろう。五人も作る必要はない。十人も作ってしまってはよくない。皆に迷惑をかけることになる。親兄弟や周りの諸先輩の人生を見れば、それがふつうだろうと見当がつく。そう私が考えるとすれば、それはA君の人生のことであるが、同時に、私の人生のことでもあることになる。つまり、私がA君の人生としてよろしいと思うことは、自分の人生としてもよろしいことになる。

こうして、私は三十歳で結婚し、二人の子を作って育て上げるという人生を生きることになる。それが私の人生だと納得できるからです。これを、生物学的観点から見れば、私はこうして二人の子を産出し育成するという生殖行為をしたことになる。こうすることが人間の生殖行動である、ということになります。

しかしそもそも、私はなぜA君の人生に関して「A君は三十歳にもなればそろそろ結婚して一人か二人の子供を作るべきだ」と思ったのだろうか? 一人前になった大人は当然結婚して子を持つべきだから、と思ったのでしょう。だれもがそうするから、という理由かもしれない。皆と同じようにして、なぜそうしないかと聞かれないようにしたいからかもしれない。あるいは、老後、子がいないとさびしい、と思ったのかもしれない。あるいは、生きがいとして、あるいは生きたあかしを残すには子供が一番だ、と思ったのかもしれない。

このように、人間ならばだれでもが結局は同じようにすることが、人によってその目的として述べる答えがまちまちである場合、拙稿の見解では、それは本人たちがその目的だと思っていることがその行動を引き起こしているのではない。むしろ、人間の身体が、数十万年にわたる進化の結果、生得的に(あるいは人類の生態環境においては必然的に)その行動を起こすような仕組みに作り込まれているからというべきです(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。

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私にはなぜ私の人生があるのか(10)

2010-05-29 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

そういう人生を、私たちは自分の人生だとして生きている。それが自分自身だと思えば、泣いたり笑ったりしながらも懸命にその役割を果たしていきます。たまに振り返れば、そこに人生の記憶ができている。同じような人生を送る人はたくさんいるだろう、と思いながらも、自分の人生はこの身体に刻み込まれている。これは自分にとってかけがいのない大事なものだ、と思えます。

人々がこうして、社会に合わせて、それぞれの人生を過ごしていくことで、社会は保持されていく。逆に、この仕組みがうまく働くような社会だけが存続していける。そうでない社会はつぶれてしまって、結局は、うまく仕掛けが働いている社会に置き換えられてしまいます。それで、今ある社会は、このようにうまく働いている、と納得できます。

私の身体に備わっているこの人生保持機構は、こうして私を支えると同時に、もっと大事なこととして、私が属している社会を支え、しいて言えばさらに人類の存続を支えている、といえます。

それにしても、人生保持機構(筆者の拙い造語ですみません。改良案あれば教えてください)はよくできた仕組みです。進化の妙とはいえ、数千試合の自然淘汰トーナメントに勝ち続けることによって洗練されたとはいえ、人類の人生保持機構の性能は精緻を極める、と筆者は思います。どういう仕組みで人生保持機構は動いているのでしょうか? 興味深い謎ですが、今の科学の限界を超える問題です。この問題の解明に立ち向かうことができる次世代の科学者がうらやましい。むずかしいけれどもかなり楽しい仕事に違いありません。

たとえば生殖機能ひとつをとっても、人類の場合、その仕組みはどうなっているのか? 子供を産む、という意思決定問題を、自分の人生の問題として、私たちはどう解決しているのか? 人口問題あるいは少子化問題と昨今騒がれている社会問題よりずっと深い次元で、人類の生存の謎である、といえる。

動物の場合、オスとメスが出会い、栄養状態が良く性ホルモンが分泌されている周期において嗅覚などがうまく働くと、反射的に交尾姿勢を取るように神経系が稼働する(二〇〇五年 ドナルド・ファフ『枢神経系におけるホルモン駆動機構は哺乳動物行動の解析を促進する)。

哺乳類の場合、メスの背筋が緊張して腰が突き出る。その結果、自動的に交尾プロセスが進み、受精、着床ののち、一定時間経過すると子宮内で胎児が発育し、内分泌系が回転して自動的に出産が起こる。

人間の場合はそうではない。いい匂いがする異性が近づいてきても反射的に交尾姿勢を取る人はまずいないでしょう(一九九七年 ヘレン・フィッシャー『哺乳類の生殖における性欲、魅力、および執着』)。男も女も、自分の人生の問題として熟慮した上で結婚して子を産んだり、あるいはもっと深く熟慮した上で結婚しないで子を産んだり、する。

子供ができることをしていながら子供ができることを想像もしない、という人はあまりいないでしょう。人間がそういうことをする場合、そこでは、人生保持機構が必ず働いている、といってよい。

子供ができるかもしれないことをすれば、来年は赤ちゃんと共に暮らすことになるだろう、と想像する。結婚していない場合それはまずいかもしれない。その後、数年後には小学生の親になる。数十年後には次世代の家族ができているだろう、と想像できます。親兄弟など周りにいる人生の諸先輩を見れば、そういうことは容易に分かります。

それを望まなければそれを避ける行為をする。ということは、人類は、当人たちが長い人生を展望して親になるという人生進路を選んだ場合だけ生殖機能が稼働するような仕掛けになっている動物である、ということです。やはりこれは動物の生殖機構として、ちょっと、変わった複雑な仕掛けですね。

なぜこんな複雑な仕掛けを持った人類が、地球において、繁殖にこれほど成功したのでしょうか? 人間は、人生保持機構が働くために、何年も先の人生を想像して決断しなければ子を産めない、判断によっては生殖行為を避けたりする。そんな余計なことをしている動物は、単純にさっさと交尾して出産していく他の動物に生存競争で負けてしまうはずです。

人類がかように繁栄しているという事実からみれば、人生保持機構が働くことで、少なくとも、そういう機構がない(何とか原人など)他の原始人類に負けないような仕掛けになっていたはずです。ということは、人生保持機構が、動物としての人類の生存繁殖を促進するように進化発展してきたから、と考えるべきでしょう。

つまり、私たちが自分の人生の問題として結婚や職業や社会的地位を求めて悩んだり努力したりすることは、動物としての生殖行動の一種として行われている。ところが、動物の生殖機構はすべて、それぞれの生存環境に適応するように進化した反射運動の組み合わせで構成されている。人間も動物の一種にすぎないとする考えをとれば、私たちが悩んだり努力したりしている思考や行動は、動物として適応進化した反射運動の組み合わせで構成されている、ということになります。

哲学を科学から考える立場をとっている拙稿としては、この考え方を進めてみたい。すなわち「人生保持機構の働きは、動物の反射運動と同じ仕組みの神経系活動の組み合わせで構成されている」と言ってみたい。

このような考え方は世間常識とはだいぶ違っています。科学者の間では、ある程度の賛成が得られるとは思いますが、まだまだ確立された理論ではない。しかしここでは議論を分かりやすくするために、仮に、言い切った形で書いてみましょう。

つまり、私たちが自分の人生を考えて、何年も先のことである結婚や就職や出世や資産形成のために、毎日学校に行ったり友達と付き合いを切らさないようにしたり勉強したり身体を鍛えたりダイエットしたりアルバイトしたり貯金したりするのは、実は、熟慮した結論としてそれが正しい行動だと分かったからそうしているということではない。むしろ私たちのこれらの行動は、理論とはあまり関係なく、動物がくしゃみをしたり、あくびをしたり、よだれをたらしたりするのと同じような自動的な反射の組み合わせで身体が動いてしまうことから起こっている。私たちは、私たちの身体がいつの間にかそう動いてしまうのを見て、私たちは自分の人生を考えた結果このようなことをしているのだ、と思い込んでいる。

右のような言い方をすると「なんだ。それではまるで、本能だけで動いている動物のようじゃないか。人間は動物と違って理性があるから、考えて動いているのだ」という反論が来そうです。だが、それって、本当にそうなのですか? と拙稿としては聞き返してみたい。

「動物は本能で行動する。人間は前頭葉が発達しているから理性で行動する」という理論が昔から当然のように言われています。筆者はこの理論を疑っています。そもそも本能とは何か、理性とは何か、だれもが何となく分かっているように思っていますが、実は(拙稿の見解では)科学としては、さっぱり分かっていない(二〇〇五年 マーク・ブランバーグ『基礎的本能:動の創生[邦訳:本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源]』)。そもそも、本能というものは存在するのか? 理性というものは存在するのか? そこからして怪しい。

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私にはなぜ私の人生があるのか(9)

2010-05-22 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

人それぞれの人生が絡み合って、世の中というものを作っている。こういう社会の構造を私たちは概念として持っている。このような社会観、人生観が人類の特徴です。

このような社会と自分の人生との関係において湧き起る感情に動かされて人間は行動する。その結果、家族は増え社会の力は強まる。そうすることで現生人類のゲノム(DNAコード)は、他の人類との競争に勝ち続けて地球全体に拡散していった。逆に言えば、家族を増やし社会の連携を強化する方向に役立つような社会観と人生観、およびそれを作り出すような人生保持機構、が進化適応によって人類の脳神経系の中に定着した、といえます。

それぞれの個人についてみれば、生まれてから乳児、幼児、幼稚園児、小学生、中学生、高校生、大学生、未婚青年、既婚青年、子育て世代、壮年期、中年、老年、と人生の階段を上っていく(滑り落ちていくという見方もあるが)。一方、現時点での社会を構成している人々を見渡せば、一人ひとりは、それぞれ乳児、幼児、幼稚園児、小学生、中学生、高校生、大学生、未婚青年、既婚青年、、子育て世代、壮年期、中年、老年の姿をしている。各世代の人々がそれぞれの人生を生きています。

世の中には、いろいろな年齢層の人々がいる。たがいに深く関係しながら生きています。世代のたて糸の模様をずらしながら織り上げる織物のようです。人は年上の人々の生きざまを見ることで、人生空間の中での自分の位置を知り、次の段階の自分の人生モデルを目の前に見ることができる。未婚独身青年は既婚者を見て、また子育て世代を見て、自分の将来を予想する。実際、私たちは、現時点の社会で見ることができる先輩たちの具体的な人生モデルを見ることで抽象的な自分の将来像を描いている。

私たちはいつも自分の年齢を意識して人生を考える。それは、各世代のあるべき姿とというものを映し出す人生のモデル(キャラクターというべきかもしれない)が私たちの社会的行動を決めているように思えるからでしょう。実際、人の行動に対する集団的社会的感情は、人生のモデルについて、年齢、性別、社会的位置などによって区分けられた個々のカテゴリーに対応して現れるように見えます。

たとえば、現代の都会に住む二十五歳前後の未婚女性の人生というモデル概念があって、そのキャラクターのふるまいはいかにあるべきかが、もう決められている。それを外すことは、かなり面倒です。社会の空気圧を感じることになる。ふつう私たちは、空気圧にはあまり逆らわないから、社会に決められた人生を、いちおうは受け入れることになります。

こうして私たちは、社会、家族あるいは仲間集団が作り出している空気に合わせて人生のモデル・キャラクター役割を演じることになる。意識して演じるのではなくていつのまにか演じている。これがうまくいけば、自然に人生を過ごしていけます。時々は、いろいろな事情が生じて、しかたなくそのモデルからはみ出る。それでもそこにはまた別の人生モデルが用意されていたりします。

人は一人で生きているわけではない。家族や仲間と作る集団の中で生きる。むしろ集団の中の一人として動いていくことで、人生が作られている。集団の運動の中に私たちの人生がある、といえる。集団の中で動くことは、そこで割り振られたモデルを演じることになる。人間の身体は(拙稿の見解では)無意識のうちにそうなるように作られている(協調性)。そうしてそれらモデルに合わせて毎日を生きることで人生は展開していく(モデルにしがみつきながら人生を滑り落ちていく、という表現もあるが)。家族や仲間の間で、社会の中で、そう動いていく自分の行動を見て、私たちはそれを自分の人生だと思っています。

実際、割り振られたモデルに合わせずに人生を過ごすことはできません。なぜならば私たちは社会が自分を何と思うかを自分が感じ取ることによってしか、自分というものを見つけることはできないからです。社会には皆が認める人生モデルがいくつか用意されていて、それのどれかを人々に割り振っていくことしかできません。逆に、社会によって割り振られるモデルに合わせて生きることを、私たちは人生だと思っている。それは文化と歴史によって違う。けれども大雑把に言えば、どの国でもどの時代でも人間社会が備える人生モデルは同じようなものです。

どこの言語にも、お父さん、お母さん、男、女、子供、老人といった言葉があるように、それは決まっている。お父さんでも、父上、パパ、親父、おじさん、おっさん、というように少しずつニュアンスが違うモデルがあるが、いずれにせよ、社会にそれらモデルが用意されているから、私たちがそれを自分だと思うことができる。国によって時代によって、モデルの表現は違う。職業もモデルを表す。日本などには、名刺が人生モデルを表す文化があるといえる。昔は髪型や服装がモデルを識別する文化もあった。世界には、話し言葉がモデルごとに違っていたり、姿勢まで違っている文化もあった。人生のあり方がそれで決まっていた。

ちなみに現代社会で、人生モデルの数はいくつあるか? 人間の数だけある、ともいえるし、数種類しかないともいえる。アンケート記入欄のチェック項目によくあるように、性別男、年齢層三十代、職業会社員、妻子あり、という程度の区別でも百種類くらいに分かれる。実際に私たちが思っている人生のモデルはもう少し細かい区別をしているようです。しかし、社会が認める人生モデルの数は皆がすぐ分かる程度の数にならざるをえないから数万種類という多数にはなりえません。また現代は、よくもあしくもモデルが流動的になってきている。互いに確信しているモデルが食い違っていて話が通じないことがよくあります。そういう事情を考えると、人生モデルの数は数百から数千種類くらいあるとすればよいでしょう。一億人の人口でも、数千種類に分類すれば、一種類当りは平均数万人くらいです。つまり日本だけとっても、私と似たような人生を歩んでいる人は一万人はいるだろうということになります。

さて、私たちは社会から割り振られた人生モデルを、ふつうあまり疑問を感じずに受け入れて暮らしています。そういう生き方はつまらないと思いますか? それでは、ためしに、思い切って人生を乗り換えてみましょう。まあ、一番簡単な方法は、三億円の宝くじを買うことですね。

しかし、若い人にこう言ってはなんですが、自分で仕掛けた乗り換えはまず成功しないものです。その上、その乗り換えに成功したとしても、やはりいつの間にか、もう一つの割り振られた人生になっていることに気づく。自分で乗り換えたと思っても、その乗り換えた後の人生を自分の人生だと思うことによって、それは、やはり社会に割り振られたものになってしまうからです。

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私にはなぜ私の人生があるのか(8)

2010-05-15 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

だれもが互いの人生経験を理解できるはずだ、という理論は、しかしながら、虚構ですね。実際には現実の人間は、自分の人生経験さえ実はよく理解できない。まず記憶がしっかりしていないから経験を経験として保持していません、現に筆者など歳をとったからか、万力屋でネギラーメンを食べたのは昨日だったのか一昨日だったのか記憶が定かでない。刑事にアリバイを聞かれたら「記憶にありません」と答えるしかありません。

そういうことだから、夕食のネギラーメンという経験は実際に存在していたのかどうか、事実はあいまいで不確かなところがある。しかし、「記憶にありません」と答えるとき、人はうつむいたり、頭を掻いたりする。何らかのやましさを感じる。あるいは感じなければならない、ことになっている。これはなぜなのか?

それは私たちの社会が、各人の過去の行為というもののはっきりとした存在を土台として成り立っているからでしょう。それは虚構である。けれども、この虚構の上に、人間の社会は成り立っている。このような社会の成り立ち方は(拙稿の見解では、)私たちの身体の構造によって現われてくる。人類特有の身体‐社会関係の相互作用であるといえます。

私たちの感覚では、私たち一人ひとりが自分自身の人生を持っているのはあたり前です。人間はだれもが、自分自身そのものであると思える人生を持っている。しかしそう思うのは、それが私たちの身体に埋め込まれた神経系構造の表現であるからでしょう。進化によってこのような身体構造を備えるようになったから、現生人類はこのように緻密な社会を作り出して繁栄することができた。だから私たちは一人ひとりが自分の人生を持っている。

人生という虚構は(拙稿の見解では)、人類が仲間と作る社会構造を支える身体的機構として脳神経系に発生した。拙稿では人生を人間の行動の基準として保持する仕組みを人生保持機構と呼ぶ。この機構の発生プロセスについて、拙稿のこれまでの議論を整理すると、次のようになるでしょう。

1.  人間仲間との運動共鳴によって、私たちは、客観的世界の現実感を感じ取る拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)。

2.  客観的世界の中での他人の身体運動を感じ取り、そこに意識的行為とその目的と意図を感じ取ることで他人の存在感を作り出す(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」10章「欲望はなぜあるのか?」)。

3.  仲間の集団的視座に憑依して、そこから見た自分の身体がなす行為を客観的に感じ取り、その感覚を記憶する(拙稿19章「私はここにいる―私と世界とのいかがわしい関係」)。

4. 仲間の集団的社会的視座からの客観的な(集団的社会的評価の)感情を伴った自分の行為の記憶を自分の人生として蓄積する。

拙稿の見解では、私たちが思っている自分の人生というものは、このような四層構造をなしている。それぞれの層の活動は、無意識のうちに自動的に実行されるので、私たちはこれらが自分の身体の中で起こっている現象であることに気がつかない。ただ折に触れて自分の人生を感じ取ることがある、というだけです。

第一層から第三層までは、人間が世の中や自分というものをどう見ているか、の仕組みです。最後の第四層が人生というものをどう感じ取っているか、の仕組みになります。ここでいう、「仲間の感情を伴う行為の記憶」、が(拙稿の見解では)人生という概念の特徴といえるでしょう。

ここで、「仲間の集団的社会的視座」というのは、実際に自分の行動を観察している人がそばにいる場合のその視線のことを言っているのではなく、むしろ自分が想像で感じる他人の視線です。自分の人生にとって重要な行動をするとき、実際はだれも見ていない場合が多い。それでも、そういうときこそ自分自身を見つめている仲間の視線を想像で感じている。あるいは、少なくとも記憶のなかでは、後ろの高いところから客観的に見つめられている自分の姿がある。

そして「集団的社会的視座からの感情」が重要です。仲間が自分に対して持つ感情、あるいはそれについて自分が抱く感情、というものです。私たちは、自分の仲間が自分の行為を見てどういう気持ちを抱くか、について敏感です。そうしないと仲間から浮いてしまう、仲間の空気に溶け込めなくなってしまう、という恐れがあるからです。その恐れはふつう無意識的なものです。

いつの間にか、私たちは自分の行動を仲間の空気に合わせている。自分が空気を読めていない、浮いている、と感じるとヤバイと感じる。こういう感覚は、これは考えてそうなるというよりも、身体がいつの間にかそう動いていくことで感じ取れる。自然にそうするしかないようになっている、あるいは私たちは、そうなっていることにも気付かないで生きている、ということでしょう。

人間は生まれつき(拙稿の見解では)、仲間の空気に合わせて行動するような身体になっている。モラルやマナーやルールやファッションに従うという気持ちもここから来る。文化や政治信条やイデオロギーや宗教信仰などもこの延長にあるのでしょう。これは人類の脳神経系が、仲間との緊密な協力関係を維持できるように進化した結果と思われます。

私たちは、生まれながらにして、仲間が恐れるものを恐れる、仲間が欲しがるものを欲しがる、というような身体になっている。そうであれば、逆に、自分の感情が動くことを感じ取ることによって、仲間の集団的社会的感情というものを感じ取ることができる。

実際、私たちが他人の、あるいは仲間の感情を感じ取るしかたは、言葉ばかりではなく、身体がそれに応答して同調し共鳴することで感じる。マスコミや友達が言う言葉で間接的には理解できるものの、それだけでは弱い。結局は自分の感情が、他人の、あるいは仲間たちの感情に同調するところを感じ取ることで仲間の気持ちを直感的に理解しています。逆に言えば、そういう集団的社会的感情というものが存在するかのように私たちがふるまうということは、社会の存在感をそのように感じ取る仕組みが人間の身体にあることを示しているのでしょう。

そうして感じ取れる仲間の集団感情というものに照らしてみたところの、過去から未来にわたる自分の行為の評価が(拙稿の見解では)、人生というものを構成している。

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私にはなぜ私の人生があるのか(7)

2010-05-08 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

人間は、仲間の人間が過去にした行為を覚えていて、それに対して後で何かをする。何日も前、あるいは何年も前の行為に対応して応答行為をする。借りを返したり、仕返ししたり、お礼したり、報酬を与えたり、罰を与えたり、好感を持って仲間に加えたり、憎しみを持って排除したりする。

人間以外の動物も、仲間との相互干渉の経験の結果、相手を警戒したり、恐怖を感じたり、安心を感じたりするらしい。犬や猫を見ると、そんなようです。しかしそれは相手の個々の行為を記憶しているのではなく、繰り返しの刺激に対応して条件反射が作られているだけといえる。

つまり人間以外の動物は、相手が何をしたから後で何をする、というような過去のエピソード経験に対応する応答関係は作らない。鶴の恩返し、というような事例はお伽噺であって実話ではありえない。

動物を擬人化すれば、それらのキャラクターは、とうぜん、人間としての動きをします。猿蟹合戦の猿のように、蟹の食料を奪った猿はそれを記憶している蟹に復讐される。この復讐行為が行われるためには、まず、蟹は猿がしたことをしっかり記憶しなければならない。蟹と猿が擬人化されているこの寓話の中では、当然、彼らは人間のように他人と自分の行為をしっかり記憶している。

このように、他人の行為を記憶するにはどんな方法があるか?

たとえば「猿が私の握り飯を奪った」という文を作って手帳にメモしておくことがよいだろう。あるいは、ブログやツイッターに書き込むとよい。あるいは、口で言いふらしておく。言いふらすことで仲間の集団的記憶として保持することができる。こうすれば、猿の不当行為の記録は保存される。

言葉を使わないとだめなのか?そんなことはないでしょう。絵を描いて残すことができる。あるいは、現場で証拠写真を取る。さらにビデオで録画録音をしておけば、もっと信憑性があがる。握り飯を握り締めている蟹の手から力づくで握り飯を引き剥がそうとしている猿の手と身体の動きをしっかり映像に撮る。これは証拠になる。記録になります。「奪う」という行為概念が表現されている。

猿が力づくではなく、言葉で言いくるめて柿の種と交換した場合、その映像だけでは不当行為になるかどうかむずかしい。この辺が、事件後の裁判で蟹が検事に追及された部分でしょう。

まあ猿蟹の話はともかく、人間の身体は、過去の時点で他人と自分が行った行為を記憶している。それは言語表現あるいは断片的なビデオ映像のような形で思いだすことができる(エピソード記憶という)。あるいは、匂いや触感や痛みなど身体感覚を伴う想起が起こる。あるいは、物体の画像として思いだす。屈辱感や幸福感などの感情を伴う体感で思いだす。あるいは、言葉で思いだす。「死ぬかと思った」という独り言のような言葉ですね。自分が言ったその言葉を覚えておける。一方、人物の印象、物事の意味合い、言葉の意味、といった繰り返した経験の蓄積によるイメージはまた違った種類の記憶(意味記憶という)を作っています(二〇〇九年 スタンレー・クライン、レダ・コズミデス、シンシア・ガンギ、ベツイ・ジャクソン、ジョン・トゥービー『進化とエピソード記憶:エピソード想起の社会的機能の分析と提示』)。

意味記憶のほうは身体で覚えているという言い方ができる。繰り返し経験したことに身体が反応する記憶を再生することで身体の筋肉や自律神経系が無意識に動いていく。恥ずかしい言葉を思いだすと顔が赤くなる、というような反応です。仲間と同じ経験を繰り返すことで仲間と意味記憶を共有することができる。意味記憶の共有が言語の語彙を作っています。言葉の意味というものは辞書で決まっているのではない。拙稿の見解では、その言葉を聞いた時の身体の反応がその言語を使う仲間と共有できていることで、その言葉の意味が決まる。

さて、拙稿本章で問題にしている人生の記憶に関しては、エピソードの記憶が重要です。いつ、どこで、だれと、何をどうしたか、という記憶の集合が人生だといえるからです。ここで重要なことは、自分の人生の記憶は、自分の行為に関するエピソードであっても主観的な感覚経験そのままではなくて、他人の視座から見た自分の行為から成り立っていることです。

認知科学の知見によれば、エピソード記憶と呼ばれる記憶を持つことが明らかな動物は人間だけです。この記憶機構が他人の視座から自分の行動を見るという客観性を必要とするとすれば、当然、自己中心世界しか持たない人間以外の動物は、エピソード記憶を持つことはできないことが納得できます。また、このことから人間以外の動物は人生(動物生?)という概念を持たないことが明らかであると思われます。

だから、(人間以外の)動物の世界には芥川賞はない。芥川龍之介もいない。テレビも学校も、やっていけない。人生を問題にしなければ、そういう商売も成り立たないでしょう。

人間だけがここまで明瞭な人生保持機構を持つことは、人間の社会生活が互いの人生の認知を基盤として成り立っているからです。つまり、人類は進化によって優秀な人生保持機構を脳内に備えるようになり、その結果、緻密な社会を形成できるようになって大繁栄した。そして社会の生産性が上がり、緻密さを増すに従って、ますます高度な人生保持機構が適応進化した。その結果、現代人の私たちは、それぞれの人生を生きることを目的として生きる、という存在になったわけです。

逆に言えば、人間の社会というものは、それぞれの人が互いにいつ何をしたかをしっかり記憶してそれを集団として共有している。その集団共有された記憶にもとづいてその後の行動を起こしていくことで保持される構造になっている。それぞれの個人について見れば、過去の行動の記憶全体が人生を作っている。また現在の時点で社会全体を見渡せば、それぞれの人生を生きようとして行動する各人の行動が相互作用することで社会の現状を作っている、といえます。

大事なことは、社会を構成しているすべての人が記憶を共有しているということです。実際には、ひとりひとりが直接経験する記憶は個々まちまちで断片的ですが、互いに情報を交換することで、記憶を共有することができる。それができるはずだと、皆が思っている、ということが重要です。

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私にはなぜ私の人生があるのか(6)

2010-05-01 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

ちなみに、最近の認知心理学では、人間には自分の客観的評価をしっかり記憶しておく特別の記憶機構がある、という仮説が提唱されています(二〇〇二年 スタンレイ・クライン、ケイス・ローゼンダール、レダ・コズミデス『社会認知神経科学 自我の分析)。

人生保持機構は(拙稿の見解では)、他人の人生も自分の人生も、基本的には同じように認知し記憶する仕組みになっている。それは客観的な視点から、特に社会との関係でのその人生の位置づけを決めている。つまり私たちが持つ人生保持機構には、社会という記憶空間の内部でのその人生の軌跡のようなものを認める機能があるようです。

自分の人生というものは、自分という個人に付属している個人的なものである、と私たちは思っている。しかし拙稿の見解では、自分の人生は自分のものというよりも、むしろ、はじめから他人のものである。正確に言えば、それを一個の人間の人生であると他人が認めてくれて、はじめてそれは人生として成り立つ。

芥川龍之介『或阿呆の一生一九二七年 )』にしても、それを読む読者がいるから小説として成り立つ。龍之介がそれを書いて、そのままゴミ箱に捨ててしまえば、その小説は存在しない。完璧主義だったらしいこの作家ならやりかねない、と思えます。そうなってしまえば、フィクションの主人公である「或阿呆」氏も存在しないことになる。小説家が書いたものは、その後私たちが読者になって、それを他人の目で小説として読まなければ小説にはならない。

人生も、だれかが、他人の視点から、それ全体を見通さなくては人生とはいえない。この場合、自分自身が他人の目になって自分の人生を見通すこともできる。しかしいずれにしても客観的な普遍的な他者の視点で見通すことが必要です。

この人生は、生きた甲斐のあるうらやましい人生だな、とか、無意味な哀れな人生だったな、とかいう冷静な評価が必要です。それは他人による、あるいは少なくとも他人になり代わった自分による、客観的な評価でなくてはならない。そういう客観的なものとなって、はじめてそれは人生といえるわけです。

ドラマの主人公に感情移入する場合について、近代哲学の創始者の一人である大哲学者はこう書いている。かわいそうな幼い王子様のドラマが成り立つためには、王子はかわいそうでなければいけないが、その囚われの王子がかわいそうなのは、自分が囚われていることに気づいていない幼児の視点ではなく、その子供の将来が過酷な運命にあることを知っている観客の視点ではじめて感じられることである(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論』既出)。王子の人生の意味を知っているのは王子自身ではなくて、客観的な観察者としての観客だということです。

ここは、拙稿の見解からしても重要なところです。自分の人生というものは、それが自分の人生だと思うから意味がある、というものではない。だれの人生であろうとも、まずそれを遠くから眺める観察者の視座から見たときに意味がはっきりするものだ、ということです。むしろ、自分でない他人の人生に、はっきりした意味があるから自分の人生にも同じように意味がある、といえる。

芥川龍之介は、『猿蟹合戦』という題で短編を書いている。小説家は、猿に復讐を遂げた後、死刑になった蟹とその一族の顛末を書いた。

著作権はもちろん時効になっているから書き出し部分を抜粋しましょう。

蟹の握り飯を奪った猿はとうとう蟹に仇を取られた。蟹は臼、蜂、卵と共に、怨敵の猿を殺したのである。――その話はいまさらしないでも好い。ただ猿を仕止めた後、蟹を始め同志のものはどう云う運命に逢着したか、それを話すことは必要である。なぜと云えばお伽噺は全然このことは話していない。
 いや、話していないどころか、あたかも蟹は穴の中に、臼は台所の土間の隅に、蜂は軒先の蜂の巣に、卵は籾殻の箱の中に、太平無事な生涯でも送ったかのように装っている。
 しかしそれは偽りである。彼等は仇を取った後、警官の捕縛するところとなり、ことごとく監獄に投ぜられた。しかも裁判を重ねた結果、主犯蟹は死刑になり、臼、蜂、卵等の共犯は無期徒刑の宣告を受けたのである。お伽噺のみしか知らない読者はこう云う彼等の運命に、怪がの念を持つかも知れない。が、これは事実である。寸毫も疑いのない事実である。(一九二三年 芥川龍之介『猿蟹合戦』

この短編を読んだ人は、蟹の人生について何がしかの感傷を持つことができる。蟹は猿がしたことを恨んだから復讐した。蟹たちは、自分たちの復讐行為は正義だと信じていたでしょう。しかし裁判所は蟹がしたことを悪事と見なしたから死刑にした。意外と現実はこんなものだ、リアルだなあ、とも思える。人生の不条理を感じる人もいるでしょう。

いずれにせよ、ある者がある事をした行為について、それを他の者が記憶していて、それに対応して何事かをしかける。特に私たちの関心を引き付けるのは、ある者がした行為に対して仲間の皆が集団的にある態度を取って反応する場面です。社会のモラルというか、空気のようなものです。その人の行為を、皆が記憶していて集団的社会的にそれに対応した行為を返す。

この形をとって裁判所は蟹を死刑にした。人間が語る物語はこういう形をとって語られる。拙稿としては、この形に、人生の秘密がある、と言いたい。私の人生とは、私のものというよりも、他人のものであり、むしろ社会のものである、という仕組みでできているのではないか?

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