このように考えてくると、現代人が自分や家族の人生がどうだとか、どうなるかとかを、いつも真剣に考えていることは当然である、と思えます。明日の自分や家族の人生に関心を持たないような身体を持つ人々は、手間のかかる大きな頭脳を持った子の育児を遂行することができないため子孫を残せず消えていった、という推論が得られるからです。
ですから私たちが他の動物と違って、「幸せな結婚をしたい」とか「出世したい」とか「金持ちになりたい」とか「子供を幸せにしたい」とか「収入が減ったら困る」とか「歳を取るのは嫌だ」とか「死ぬのは怖い」とか、何年も先の人生の問題を悩むことは、まさに、私たちが、これほど頭脳が大きい身体を子孫に引き継いでいく動物である以上、逃れようがないことなのです。
以上の拙稿の仮説が正しいとすれば、人生保持機構は、家族や仲間の視点から 見てとれる将来の自分たちの姿を(存在感を伴う現実として客観的に)想像して、その想像に対して自分の身体がどう反応するかを感じとることで、現在の自分の行為を形成する機能としてできあがっているはずです。
たとえば生まれた子供と暮らす自分の姿を想像することで身体が暖かくなって心地よいと感じとった場合、子供を作る行為はポジティブに評価されて、促進される。その想像が心地悪く、背中がひんやりする感じがする場合は、ネガティブな反応が起こって、忌避される、という具合でしょう。これが人生保持機構の働きです。
人生保持機構は過去に対しても働きます。家族や仲間の視点から 見てとる過去の自分の姿を(存在感を伴う現実として客観的に)回想したときに引き起こされる自分の身体の反応を感じとって、現在の行為に反映する。たとえば親孝行せねばな、とか、兄弟や仲間を助けてやろう、とかいう(考えや)行為が起こる。
大事なことは、未来や過去のこれらの想像や記憶が存在感を伴う現実世界で起こることであり、また起こったことだ、と感じられるところです。それが現実であると感じるということは、拙稿の見解では、身体がそれに反応して動く、ということと同じことです。逆にいえば、自分の身体がそれに反応することを感じとるとき、私たちはそれを現実という。つまり、人間の身体は、過去の自分や未来の自分を思い描くことで、動物の身体が目の前の現実に対して反射運動を起こすのと同じように、反射的に動く。人間以外の動物は人生保持機構を持たないので、 過去の自分や未来の自分を思い描くことができない。つまり人間以外の動物は、目の前でいま起きている物事以外に反応することができない。
たとえば、自分が産んだ子が腕の中にいれば、サルはこれを抱きしめる。人間も同じです。けれども、サルは、過去に出産の経験があるとしても、まだ次の子を産んでいないときにこれから産むであろう子が腕の中にいると想像してこれを抱き締めることを想像することはしません。ところが、育児の経験を持つ人間は、そういう想像をすると、腕の筋肉がわずかに動いて想像上の赤ちゃんを抱こうとするように運動神経系が活動する。内分泌線も産婦のような活動をする。このとき、その人はかわいい赤ちゃんを抱くことを考えている。こういう働きが、人間の身体にはある。
私たちの身体は(拙稿の見解では)、客観的現実がこれからどう変化するか予測して、その予測結果に反応して運動の準備が起こり、自律神経系が活性化され、内分泌腺が活動する。つまり人間は、現在の状況にしか反応しない他の動物と違って、将来の予測に反応して現在の身体活動が起こるようになっている。何日も先の、何年も先の、将来に起こるであろうと予測される物事に対して、まるで今起こっていることのように身体が反応する。こういう場合(拙稿の見解では)私たちは、自分は考えている、と思う。予測の精度は事後の経験と照合して評価学習される。こうして予測の精度は学習によって向上していく。子供より大人が、若い人より老人が、現実的なのはこのためでしょう。
考えることを重ねていくと、過去を教訓として未来をよく予測することができる。現在のその時その場だけの状況に具体的に対応するばかりではなく、遠い目標を定めて広い時間空間の中で自分がおかれた状況を予測し、それに身体を応答させることができる(二〇〇八年 ニラ・リーバーマン、ヤーコフ・トロープ『此処と今を超越することの心理学』)。つまり人間は、想像した状況に対応して自分の身体を反応させることで、物事を的確に予測できる。この働きによる行動のコントロールが、私たちが理性といっているものにあたる、といえます。
一方、サルが目の前の子を抱く、というようなその時その場だけで作動する反射運動の連鎖による行動の発現を、私たちは本能という。とすれば、本能といわれるものの働きが現在感覚器が感知する目の前の現実だけに反応するのに対して、理性といわれるものの働きは過去から未来へかけての広い時空の中での、客観的に予測される仮想の現実に対応する、といえる。ここで客観的な仮想の現実というのは、自分の感覚感知だけでなく、むしろ仲間の視点に憑依して見た世界の予測から感じとれる現実、ということです。
いずれにせよ、動物はふつう身体がおかれている環境の中で、現在の身体が受けている感覚にだけ対応する。未来を予測して対応する場合もないことはないが、それはこれから数秒、あるいは数分、あるいは長くても数時間後に起こる変化です。動物にとってその数秒あるいは数時間は、現在の瞬間をそのまま拡張したものといえます。イヌなどは投げられたフリスビーがどこに行くか予測して走っていきます。現在の身体が受けている感覚から数秒後の状況変化を予測して、それに素早く対応するような能力を持っている、といえるでしょう。
人間の場合、この予測は、現在の身体状態から予測される直近の状況変化ばかりでなく、むしろ現在の身体状態から座標を変換して、仲間の視座に憑依 することで得られる客観的な時空間における遠い未来あるいは過去の自分の姿を対象として行われる。その場合、現在の行動は、その遠い未来あるいは過去の予測ないし想起に対応して形成される長期にわたる目標を持った計画行動の一環としてなされる。
現生人類は、この能力によって緻密な社会を形成して、脳の大きい子供を確実に育成するシステムを完成した。その結果、きわめて柔軟かつ効率的に地球上の多様な環境に対応して拡散し増殖した、と考えられます。
つまり(拙稿の見解では)私たち人類は、脳の中で仲間に憑依し、 仲間の視座から見た客観的な時空間における将来の自分たちの姿がおかれる状況を見てとって、その将来状況が現実としていま目の前にあるかのように身体が反射的反応を起こすことで思考し、行動している。
その仲間の視座から見た自分の姿を感じながら、過去を想起し未来を予測する。私たちはそれを自分の人生だと思っている。人類が脳の中に作りだしたこの仕組みが人生保持機構です。その結果、人類は緻密な社会を作り上げ、環境適応の能力がいちじるしく向上して地球上で大繁栄した。その子孫である私たちは、この人生保持機構を祖先から受け継いでいる。これがいま、私たちがそれぞれの人生を持ち、懸命にそれを生きていることの理由といえるでしょう。
人生。日本語でも中国語でも人生という字を使いますが、英語ではライフという。ドイツ語ではレーベン。フランス語ではヴィー。イタリア語ではヴィタといいます。英語では生命と人生、両方とも同じライフです。英語に限らず西洋語では生命と人生は同じ言葉です。日本語でも生き様というように同じ語感ですね。生あるものが生を生きる様は人生と同じ、という考え方をする。つまり、私たち人間は、人間以外のものであっても、命あるものは人生保持機構を持っている、と直感する。むしろ人生保持機構を持っているように見える存在を「命がある」と思う。
科学者でないふつうの人々は、虫でも鳥でも動物はみな、人生保持機構を持っている、と素朴に考えています。幼稚園児が「虫さんは、はやく大きくなりたくて、いっしょうけんめい、葉っぱを食べているの」というとき、大人もその通りだと感じる(拙稿7章「命はなぜあるのか」)。記憶能力も予測能力もない生物が計画的行動をするということは、論理的には明らかに間違いですが、ふつう人々はそんなことは気にしない。生物観、動物観は、科学者とそうでない人とはかなり違っています。そういうふつうの人の直感に根ざしている人生という観念は、人類の世界認知の仕組みをよく表現しているといえます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。
ギリシア神話によると、神様に作られた最初の女性パンドラは、開けてはいけないと言われた箱を開けてしまう。たちまち、あらゆる災難と苦痛がその中から飛び出てきて、世界中に広がってしまった。最後に「希望」だけが残った。人類に贈られた人生という箱の話なのでしょう。
(22 私にはなぜ私の人生があるのか? end)