哲学の科学

science of philosophy

終わりの存在論(3)

2023-03-11 | yy88終わりの存在論


であるからして、人は終わりと次の連続の中に生きている。人生の綿々と続く連続の中に終わりの終わりはあり得ません。
次がない終わり、とか、人生の終わり、とか世界の終わり(二〇一六年グザヴィエ・ドラン監督「Juste la fin du mondeたかが世界の終わり」)とかと言われると不思議な感じがしてしまいます。不気味な不安を感じてしまう。次がないということはないはずだからです。
途中でふっと真っ暗になる。放送事故?変なブツ切りのようなイベント。なんだ、これは。あっては困る。それはそれが世界のシンギュラーポイントのようだからです。
次がない終わり、というアイデアは形容矛盾であり使用禁止語です。小説家は、あえてこの語を使って興味を引く。ちょっと不思議感を演出できます。音楽にもあります。セルジュ・ゲンスブール(1928年―1991年)の曲はアウトロがなく唐突に終わるものがあってそこが新鮮でした。終わりの存在論を論じている拙稿も、そこを狙ってふっと終わってみることとします。■





    
(88 終わりの存在論 end)









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終わりの存在論(2)

2023-03-05 | yy88終わりの存在論


踏切で貨物列車の通過を待つ。長い。これ終わりがない列車じゃないのか、と心配になります。
疾走する貨物列車はいつまでも続く。轟音を立てて目の前の踏切を通過していきます。しかし終わる。
最後の車両が通り過ぎるとしばらくして遮断機が上がる。人と自転車が横断し始める。自動車が行き交います。
そうして貨物列車の通過というイベントは終わる。それはもうここにはありません。遠いかすかな振動もすでに聞こえません。列車は跡形もなく消えてしまいました。過去という記憶の中にあるだけ。
その姿も音も振動も強烈に覚えている。しかし目の前には跡形もない。踏切は空いていて前と同じようにそろそろと人や自転車や自動車が横断していきます。
貨物列車は終わった。
終わり。電車が好きな幼児はまだ待っている。次の列車を待っています。
さっきの貨物列車は今遠くの線路を走っている、はずです。それは存在している。しかし、この踏切では終わってしまいました。ここにはその終わりが存在している、といえます。

エンドロールはまだ続いている。長い。照明はまだ暗い。しかし映画はもう終わっています。あとは席を立って帰るしかありません。
がんばって座り続けていてもスクリーンは真っ暗になり、劇場は明るくなり、客はだれもいなくなります。終わりは終わらない。
実は画面中央にエンドマークが出る前から、あ、終わるな、ということが観客は分かります。分かるように編集されています。エンドマーク、エンドロール、エンディングテーマが流れる。終わりは徐々にそしてはっきりと存在し始めます。終わりが始まると終わりは終わりません。
終わりが存在し始めるとそれはずっと続く。永久に続く、といえます。
人々は終わってしまったものには関心がない。覚えてはいるがだんだん忘れてきます。もう他のことで忙しい。アイスクリームを食べに行かなければなりません。
家で見てビデオにとっておいてもメモリーにしまったまま、もう再生しません。終わったものを覚えている暇もなくなってきます。
逆に言えば、次のことに取り掛かるために、終わったことは終わってくれないと困る。次を始めるために終わりが存在する、ともいえます。次の何かを始める人が終わりを終わりと思うから終わりがある、といえます。
であるから、終わりを終わりと思う人は、かならず次の何かを始めます。では次、と進む。つまり終わりの中にはすでに次、が存在する。もちろん、次の中には次の終わりが存在し、そのなかには次の次もある。入れ子構造のようです。







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終わりの存在論(1)

2023-02-24 | yy88終わりの存在論


(88  終わりの存在論  begin)




88  終わりの存在論 


老人は終活をする。締括かな?一本締めというから皆で手を叩いて解散することでしょう。
終わりという言葉にぴったりくる行為は手を叩いたり礼をしたりして解散、という形がよくあります。
ラグビーでいうノーサイド。終わった。終わってしまった。ほっとした。めでたしめでたし。という気分もあります。
この世で、すべては終わりがある。終わりがないのは宇宙と神様だけ。
宇宙に終わりがないとすればすべては繰り返すしかないだろう(一八八五年フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう語った」)。終わりがないと必ず次が来る。どんなものも終わりが来たと思うより先に次が来てしまう。昔の人はこれを無常と言ったようです。
百年河清を俟つ。百年もの間、何も変わらなければあきらめると同時に安心もするが、いつか変わってしまうとなるとまた不安です。
終わりは来てほしいのか、来てほしくないのか?
いずれにせよ、終わりとは何か?終わりというものは、どう存在するのか?
連載漫画。あるいはテレビのドラマシリーズ。毎週連続。うっかり次週予告を見て視聴者になってしまうと、何か月か後でシリーズが終わるとき、がっかり。喪失感があります。
贔屓のスター引退公演で泣いているファンもいます。しかし長すぎるものは飽きられる。熱心だったファンはいつの間にか、いなくなります。
すべては終わりがある。いや、終わりがあると思うから終わりがあるのか?終わりと思う人が多いから終わりなのか?だれもが終わりと思うから終わりなのか?終わりの存在論はいつ終わるのか?






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