哲学の科学

science of philosophy

物語はなぜあるのか(2)

2015-02-28 | yy44物語はなぜあるのか

たとえば、インフルエンザが流行っているという物語は、マスクをするために必要であるから語られるのかもしれない。あるいはマスクを売るためにそれが語られるのかもしれないが、それでもそれを聞く人は、マスクを売るためにインフルエンザが語られている、と思って聞くのではないでしょう。

たとえば東京の場合、東京都感染症情報センターが都民の健康を守る目的でインフルエンザの患者数を調査し発表する。新聞記者がその情報について書き、デスクが見出しの大きさを決める。新聞を斜め読みする購読者は、見出しの大きさを見て、どれほど深刻にインフルエンザが蔓延しているのかを知り、知り合いに語る。そのとき、人ごみに近づかないようにしようとかマスクをしようとか、注意しあう。こうしてインフルエンザが流行っているという物語は、流行っていきます。


このようにして物語は人々の間で語り継がれて行く。竹取物語は、では、どのようにして伝承されたのでしょうか?

学説によると、奈良時代初期に貴族階級の文人が漢文で書いたものが、後の時代に仮名文として書き直されて伝わった、とされているようです。最初に漢文で書いた人は、たぶん、仲間に読ませて楽しませるという動機で書き下したのでしょう。後の時代に仮名文に直した人は、この面白い物語を多くに人に楽しめるようにやさしい仮名文字で書いた、と思われます。

拙稿本章の興味としては、この物語の原典考証ではなくて、なぜ私たちがこの物語の内容を好きになるのか、という問題です。

竹の中から天女が出てくる、という荒唐無稽さがこの物語の魅力ですが、荒唐無稽なら何でもよいのか、というと違うでしょう。もしかしたら本当にあった話かもしれない、と思えると興味が出ます。さらに竹採集者のような庶民が、まったく偶然、天女を娘に持つことによって、貴族や天皇と対抗できる、というプロットもおもしろい。美女の魅了とはそれほどのものなのか、実人生の参考になります。

月の女神といえば、ギリシア神話では恋した人間の美少年に毎夜寄り添うために永遠の眠りを与えて不老不死にした、となっています。この物語も、神様なら人体を生きたまま冷凍して永久保存とかできるのかな、という人々の興味が下敷きになって作られ伝承されたのでしょう。不老不死でも意識がないのじゃつまらないかな、などと現代の植物人間問題を先取りしているかのようです。





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物語はなぜあるのか(1)

2015-02-21 | yy44物語はなぜあるのか

(44 物語はなぜあるのか? begin)



44 物語はなぜあるのか?

今は昔竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹をとりつゝ、萬の事につかひけり。名をば讃岐造麿となんいひける。その竹の中に、本光る竹ひとすぢありけり。怪しがりて寄りて見るに、筒の中ひかりたり。それを見れば、三寸ばかりなる人いと美しうて居たり。(竹取物語)

物語は世界のどこの国にも、 いつの時代にもあった、といえるようです。つまり人間は、物語を語り、聞く動物である。それは生活に必要だから、なのでしょうか? いや、単に、私たちが話を語り聞くのが好きだから、という気もします。
どうなのでしょうか?なぜそうなのでしょうか?拙稿本章では、この疑問を考えてみましょう。

私たちは物語を聞くのが好きですが、まずそれ以上に、物語を語るのが好きなのではないでしょうか?

物語はなぜ語られるのか?私たちはなぜ物語るのか?その語られた物語をなぜ私たちは好んで聞くのか? 

ドラマはなぜあるのか?小説はなぜあるのか?マンガはなぜあるのか?テレビはなぜあるのか?週刊誌はなぜあるのか?インターネットはなぜあるのか?
それらの存在は、生活に必要なのでしょうか?私たちが生きていくために必要なのでしょうか?

物語が生活に必要だ、という意見は余り聞きません。小説家やマンガ家は生活のために書いているかもしれない。しかしそれを読む人はそれを読むことが生活のためなのか?
物語が語られるとき、人はなぜそれを聞くのか?物語はなぜ人に聞かれるのか?人はそれを聞く必要があるとき、それを聞く。あるいは、人はその物語を語る必要があるからそれを語る。
多くの人がその物語を聞く必要があり、同時に何人かの人がその物語を語る必要がある場合に、物語は語られる、ということでしょう。







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ひまを守る(7)

2015-02-14 | yy43ひまを守る


修道士や僧は神仏に仕えて祈祷礼拝や瞑想を重要な活動としていました。彼らの生活は質素でエンターテインメントなどあまりありません。宗教心が薄い現代人から見ると、退屈な毎日のように思えます。ひまな生活のようだといいたくなります。ひまであるが、楽ではない。つらい。つらいが耐える。
つらいひまに耐える生活とも言えそうです。暖房はだめとか、肉食はだめとか、暖衣飽食の現代人や昔でも富貴な貴族から見ればつらい隠棲生活ではあっても、忙しくはない、たしかに、ひまといえばひまでしょう。
昔のインテリは隠棲を理想とするようなところがあって随想録などにも書かれているし、また近代、現代の読者もそのような人生を尊敬して読むようです。たとえば「魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。閑居の氣味もまたかくの如し。住まずしてたれかさとらむ。(一二一二年 鴨長明「方丈記」)」とある。つまり分からない人は分からないだろうが、世俗を捨てられる人には、ひまな生活が理想的なのであると。
修道士や修行僧や鴨長明は退屈しなかったのでしょうか?退屈したとか、ひまで困ったなどという記述は残っていません。おそらく彼らは、その生活が理想的だと信じていたので、ひまだとか、退屈だとか、とは感じなかったのでしょう。

今の生活に不満であるとか、もっと楽しい生活があるに違いないと思っている人には、ひまは退屈でつらい。今が一番よい、あるいは、今のこの生活以外の生き方はどれも魅力がない、と思っている人には、ひまはつらくない。むしろ守るべきものとなります。
また、明日の生活が不安であるとか、もっとがんばらなければ落ちこぼれて不幸になるに違いないと思っている人には、がんばりどころがなくてひまだけがあると不安になるでしょう。明日の不安というものがない、あるいは、明日を心配しない人々がいるとすれば、その人たちにとっては、ひまであってもつらくはない。ひまが気持ちよいでしょう。しかし現実には、明日を思わない人間はまず存在できません(拙稿28章「私はなぜ明日を語るのか?」)。
そういうことで、昔のインテリの理想の人間像、つまり今の生活に完全に満足して明日のことを思い煩う気がしないような人物にとっては、ひまを守ることがつらくないはずです。しかし残念ながら、実際にはそういう理想の人間はこの世に存在できない、と思われます。
ひとはだれでも多かれ少なかれ、明日を思う、明日のために今、目の前のなすべきことを遂行しています。
つまり、私たち凡人は、一日といえども、ひまを守るだけで過ごすことは無理。たまに機会を得て、ひまを守れたときは貴重な経験を持てた、と思うべきでしょう。たまたま、ひまを守れてしまって退屈を感じているとき、そのとき人は至福の人生を生きています。■









(43 ひまを守る end)





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ひまを守る(6)

2015-02-07 | yy43ひまを守る


まず、一日はすぐ終わる。あっというまに日が暮れて夜になってしまいます。
暗くなる前に洗濯物を取り込んだり、戸を閉めたり、カーテンを閉めたりしなければなりません。一日の終わりにすることをするためには、午後の早くから積んであるものを片付けておかなければならない。それをしながら、明日の仕込みを済ませておく必要がある。いつでもそのような事情であるから、ひとつの仕事を片付けるとすぐ、次の仕事に着手しなければなりません。
ひとつの仕事を片付けるとすぐ次にかかる。それが終わればすぐまた次にかかる。きりがありません。
そういう生活をしていると、たまに手が空いても、次は何かな? 何かないのかな? という気持になります。ひまができるはずがない。

昔の人は、毎日やるべきことが決まっていたから、それが終わるとひまだったようです。なべを磨いたり、刀を磨いたり、トイレを磨いたりしていた。そういうとき、「ひまだなあ」と思っていたようでもありません。それをすることが当然だったからでしょう。
実は、ひまであるのに、本人がひまだとは思っていない。退屈だと思っていない。そういう場合、真正のひまとは言えません。
本人がひまだと思っている。退屈している。それでも、何かをする気にはなれない。本気で眠る気にもなれない。それで何もしない。ごろごろしている。ぶらぶらしている。仕事をしているふりをしている。無職でもよいが、農業、手工業、勤め人、主婦その他、職業生活はしていてもいつも退屈している。そういう状態が正しい意味で、ひまを守る,という状態です。
こういう状態は、聞いている限り、楽そうです。たいていの人は毎日忙しくてうんざりしていますから、ひまにあこがれる。楽そうだな、良いなあ、と思います。しかし実際自分がそれになってみると、楽ではない。むしろつらい。つらいけれどもその状態を守る。まるで修行僧のようです。
実際、中世の修道士とか僧侶とかは、懸命に瞑想したり座禅したりしてひまを守ることを修行としていたそうです。







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