哲学の科学

science of philosophy

物事と人生の関係について(6)

2021-09-25 | yy79物事と人生の関係について


足元から来るようなささいな痛みはふつう無視しています。しかし地下鉄に降りる階段が長くてひざが痛くなります。乗り遅れないように急ぐとよけい痛む。左ひざが痛むようになってもう二年くらい。老化でしょうが、なぜ右はなんともないのに、左だけ痛むのか?
動物の身体は左右対称でしょう?いつも左足から踏み出しているのか?全然覚えがありません。
脊椎動物の左右非対称性は前世紀には謎でした。心臓はなぜ左にあるのか?肝臓はなぜ右にあるのか?
胎児発生時に体軸の中央に作られるあるたんぱく質(KIF3)が微小モーターとして右回りに回転するから、左右識別信号ができるという発生機構が世紀の変わり目に発見されました(二〇〇〇年 廣川信隆Hirokawa N.「Stirring up development with the heterotrimeric kinesin KIF3」)。
この分子生物学者(元東京大学医学部長)は筆者と同期で今も先端研究で成果を出し続けています。発生生物学ではこの左右軸問題は歴史的大成果ですが、筆者の人生に関しては左が右でも構わない。自動車が左ハンドルか右ハンドルかの違いくらいです。
ドライブスルーでコーヒーをもらうとき、左ハンドルでは右手が届かず店員さんが窓枠の上に乗り出してくれてやっと受け取れます。これでドライブスルーが嫌いになる、という問題があるでしょう。ひざの慢性的痛みに比べて、あまり深刻な問題とは言えませんね。








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物事と人生の関係について(5)

2021-09-18 | yy79物事と人生の関係について


子供は身体の使いこなし方、つまり自分の使い方を実証し成功体験を蓄積することが人生の目的です。むしろ、子供にとって人生はない(拙稿74章「子供にはなぜ人生がないのか」)。代わりに、怖さがあり楽しさがあります。子供時代の毎日の強烈な印象は大人には思い出すことができません。

大人は、ふつう、目の前のありふれた物事には興味がない。明日からの自分の人生に影響することにだけ反応します。たとえば社会的な損得とか、確定申告書に記載できるイベントとか。その推移変遷を見通します。その推移への関与のしかたで目の前の物事の意味が定まってくる。今日中にこの申請書を送付しておけば安心だ、とかが重要ですね。
人生はたしかに、漱石の言うように、物事の推移で定まってくるには違いない。ひとつひとつの物事はたしかにそれぞれある感情を引き起こします。過去から未来にわたって物事の集積が連鎖するネットワークのように人生を囲みあげる。それが人生に与える影響は感情では測れません。
このことは人生を持たず、感情しか持たない子供には分かりません。冷静な大人には分かる。それが分かることは、感情に身を任すことよりもしばしば面白い。たとえば小説家はこの事情を上手に描写していくことができます。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。(一九〇六年夏目漱石「草枕」)

遠くで戦争が起こっているが、今ここではこの絵を完成させることを考えている。しかし結局は、戦争のために人生は決定されてしまう。かなり遠くから来る物事も、また同時にすぐ足元から来る物事も、思いがけず自分の人生に決定的に影響してくるものです。
感情では判断できない。そこが面白い、といえば人生は面白いし、それは嫌だ、と思えば人生からは逃げて隠れていたい、となります。










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物事と人生の関係について(4)

2021-09-11 | yy79物事と人生の関係について


そうであるから、つまり私の人生にとってはあまり意味がある事故ではないということになります。私の人生に関係が深い物事以外にはあまり関心がない私としては、この事故には立ち止まってじっくり観察するほどの必要はありません。私にとってこの出来事の存在感は薄い。結局ほとんど無関心に通り過ぎる、ということになるでしょう。

昼食後、孫と植物園に行きます。ゲート受付で免許証を見せると「無料です。どうぞ」といわれます。どう見ても高齢者だろう、と自慢していると孫には「小学生ですか?」と聞いて「はい」と答えると「無料です」と言ってくれました。
数百メートル四方の園内は稠密な原始林が保存されていて日が差し込まず涼しい。この森が正しいのか?外部の高層ビル群が正しいのか?小学生に分かるだろうか、と思います。
ここが大都会でなければこの小さな森の存在はほとんどないでしょう。関東のありふれた自然です。しかしここでは高価なビル群を排除してでも保存する価値があります。これをビル用地として売り払って都民税を減税しろという都民はあまりいませんね。
園内案内に見ごろと書いてあるナンバンギセルを見に行く。池を渡ると看板が出ているが花らしいものが見つかりません。あきらめて帰路に就く。帰りがけの橋のわきに紫の花があったのでそばで草刈りをしている作業服の人に「あれがナンバンギセルですか?」と聞くと「違います。ナンバンギセルはむこうにあります」「看板は見たのですがそれらしい花はありませんでした」というと「ご案内しましょう」と先に立って今きた道を歩いていく。さっきの看板に戻ると地面を指さして「これです。小さくて目立たないでしょう。ススキの根に寄生しているんです」
ナンバンギセルという植物の存在を初めて知りました。見ごろも何も、その存在を知りませんでした。
小学生にとっては、ゲートで手に入れた園内マップの道をたどってその植物の生育場所を見つけたことが重要で、地図を使いこなすという達成が目的の行動であった、といえるでしょう









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物事と人生の関係について(3)

2021-09-04 | yy79物事と人生の関係について



さて外に出て家の前の歩道を歩き始めると、前方にパトカーが止まっていてお巡りさんが数人立っています。よく見ると、そのわきにライトバンが歩道に乗り上げて街路灯を押し倒して止まっています。歩道のフェンス支柱も数本倒されています。事故車のドライバーらしい人が警官と話し込んでいます。
街路灯やフェンスの損傷具合から見て相当のスピードで乗り上げたようです。こんな道でなぜそんな事故を起こすのか?歩行者が巻き込まれたら重大事故になるでしょう。事故車のボンネットは割れてひしゃげています。つい先刻の事故のようです。
歩行者としては歩道をふさがれて通れません。20メートルほど戻って横断歩道で向こう側の歩道へ渡る。それで私としては実害はない、ということになります。
街路灯とフェンスはいずれ復旧工事がなされるでしょう。その費用はたぶん保険で賄われます。しかし毎日のようにこの歩道を通行しているものにとってこの事故はなかったことと同じということにはなりません。いつかまた起こるかもしれない、といえます。
しかしだからといって、ここで今何かできることはない。ここを通り過ぎればたぶんほとんど忘れてしまう。忘れてかまわない、という程度の出来事です。
家に帰って家族に話すとき、多少面白い話題にはなるでしょう。いずれにせよ、いつかこのような事故が起こって私が損害を受ける確率はたぶん無視すべき数値だ、と思えます(1ppmくらい、つまり百万回に一回)。








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