国際序列の追求、これは分かりやすい。世界第五位。列強。非白人国のトップ。若者に誇りと夢を与える。これが徳川封建システムを代替する新しい長期目標になったといえるでしょう。
さて、明治維新から百数十年後、今日の日本は、再び、というか何度目かのアンシャン・レジーム、システム老化、つまり幕末のような、閉塞状況に陥っている、といわれます。
長期目標は見えていません。少子高齢化で若者の希望は見つかりません。若者は、受験競争、就活、婚活、会社格差、資産格差の壁を這い登らなければなりません。個人のサバイバルと幸福の追求で忙しい。
共同の長期目標はどこにあるのでしょうか?経済成長。地球温暖化対策。百年人生。
現在、政府が唱えている政策では画期的な目標は出ていません。マスコミのアンケートで新しい目標は出てくるのか?
経済成長一直線はもう古い。しかし家康のような、あるいは明治維新のような、あたらしい世を作るゲームチェンジャーはどこにも見えません。
ここで突然飛躍して、荒唐無稽なアイデアを羅列してみましょう。
時代を極限にまでさかのぼって、縄文時代のシステムに戻す。大家族集団で自給自足経済を基本とする。ただし便利な現代の科学技術と医学は保持する。マンガにありそうです。
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そもそも、社会システムの永久化という概念が実行不可能なのでしょうか?
家康の後、百年くらいは徳川システムの長期目標は着々と達成され完成に近づいていると思われていました。しかしその後、十八世紀になると、歴史上、天下泰平と呼ばれる時代になる。家康の目指した長期目標が忘れられてきます。保守安定志向が強化されるばかりとなりました。
長期目標とそれを支える倫理に飽きが来ます。徳川システムつまり公儀の権威に対する恐怖心が弱まる。役人も怠惰になってきます。
古臭くなった徳川システムの長期目標は見えなくなり、結局は、新しい目標が望まれるようになります。
それが対外国意識、国力、国際序列意識、ナショナリズムへ発展していきました。
幕末最先端の攘夷論者吉田松陰は以下の持論を語っていました。
国は発展しなければ衰退する。幕府の鎖国主義は誤りである。成長なければ縮小あるのみである。蝦夷からカムチャッカに侵攻し朝鮮と満州を取り、台湾、フィリピンに進んで内外に進取の勢いを示し、ともに栄え、その住民をいつくしみ社会人を育成してこそ善く国を保つことができる。(一八五四年 吉田松陰「幽囚録」)
伊藤博文ほか、松陰門下生が構築した明治政府はこの帝国主義を推し進めて、五十年後、日本を世界列強(一九一九年ベルサイユ条約五列強:英仏伊米日)に押し上げました。
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西洋の海からの侵略を防ぐ。これには清国の例に倣って鎖国政策を採用しました。
システムの初期設定はうまくいきました。結果、二百六十年にわたって徳川システムは維持されました。過去の武士政権よりずっと長期に安定しました。当時の諸外国と比較しても、世界史的な大成功というべきでしょう。
国内的には安定的に稼働していたこの徳川システムでしたが、最後に欧米から出現した帝国主義のグローバルな外圧に揺らいでしまいました。
アヘン戦争で崩壊した清の威信。非西洋全域の植民地化の危機。日本の独立を維持できる革新的な新国家システムの必要性をだれもが痛感するようになりました。
明治維新後の国家スローガンが富国強兵、殖産興業であったことから推測すると、これらの目標が江戸期の徳川システムには欠けていたという強い反省があったのでしょう。
世界先端の兵器、兵制の導入。新技術、新産業の展開。税制、教育、エリートの育成。言論、議会。明治になって急速に整えてきました。
逆にいえば、徳川政権は、これら西洋の技術、組織システムの導入を否定し続けてきました。典型的な反西洋化の政策であった蛮社の獄(一八三九年)の推進者であったといわれる鳥居耀蔵は、四民平等など西洋思想の流入が日本のシステムを侵食し文化的破局から社会経済も破滅にいたる、との信念で言論人の弾圧を強化した、とされています。
徳川家康の長期目標は、封建システムの永久存続を狙っていたのか?それとも、結局は徳川家の繁栄の永久化だったのか、家康没後二百数十年で、どちらも同時に崩壊してしまいました。
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農業技術、工業技術は不断に進歩し、生産力は成長し、これが長期に渡れば、富裕層が増大して政治力が変動します。短期的には好ましい進歩であっても、長期的にはシステムの揺らぎになります。
逆に技術進歩が抑えられて経済成長がなければ、勝者の取り分だけ敗者の取り分は減ります。敗者の鬱屈はまた階層間の不安定要素になります。
これら様々なダイナミクスに耐えて徳川システムは恒常的状態を維持できるでしょうか?
徳川家康は長期に安定すべき政治システムの将来に現れるであろう予測不能な揺らぎを予期していたのでしょうか?
徳川システムの長期安定のためには、持続可能に脅威となることが予測できる外乱は事前に抑えておくべきでしょう。
家康は、過去の鎌倉幕府と室町幕府の興廃を歴史から学び、身を持って体験した織田政権と豊臣政権の成功と失敗の原因を痛感していました。
朝廷を抑える禁中並公家諸法度(一六一五年)を制定し、在御所駐留軍として京都所司代を置く。朝廷を京都市内に隔離し、外から天皇と直結して勢力を強化しようとする武力を遮断する。
地方に起こる宗教一揆や百姓一揆をていねいにつぶしていく。
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