最近、インターネットのショッピング、つまり通信販売が便利になっているのでよく利用します。アマゾンで本を買います。パソコン画面で購入決定ボタンを押せば数日後に宅配便で届く。しかし本屋さんで買うのとは違って、今すぐ手に取ることはできません。明日、あるいは数日後に手に取れることを予想してパソコン画面の購入ボタンを押す。その本を手にとってパラパラとページをめくりたい。けれどもそれができるのは明日、あるいは数日後です。電子本ならばすぐにダウンロードできるでしょうが、紙の本が欲しい、という人の話です。
明日でいいから届けてもらう。明日の便の予約をする。明日来るものを申し込む。
人間以外の動物はこういうことはしません。赤ちゃんもしません。小学生も高学年にならないと自分のお小遣いで通信販売の予約購入はしないでしょう。
これをする人間は、まずアマゾンの購入ボタンを押せば決まった日数後には確実にその本が入手できることをよく知っています。これは同じような行動を今までに何度かして、経験で知っているということです。あるいは経験した人の話を聞いて、その人を信用した場合です
それに私たちインターネットのユーザーも、理論的に、このシステムが信頼できることを知っています。有名販売店やインターネットショップは消費者に損害を与えて評判を落とすようなことはしないはずだ、という理論です。
経験と理論と、さらに重要なことは家族や友人、つまり仲間たちがこの予約購入の方法をもっともだと認めているということです。だれもが、それでいいだろう、と思っているということ。このことによって、明日に向けた私たちの現在の行動は実行されます。
この現在の行動を決めるために、私たちは明日について語る。仲間と明日の状況判断を共有します。仲間がいない場合も、実は全く同じです。自分という仲間にそれを語り、そのときの判断を参考にして私たちは現在の行動を決めます。自分で考える、ということはそういうことです。
私たちは(拙稿の見解では)だれもが自分の内部に信頼できる仲間を持っていて、その仲間の行動に共鳴することで自分の行動を実行する。あるいは逆にいえば、そういう自分の内部に共鳴行動を起こすものとして仲間というものがある、といえます。
私たちにとって、明日というものは、それを仲間と語り合えるからある、といえます。明日が来る、こういう明日が来る、と皆がそう思って互いにそう語り合うからそういう明日が来る。そうであれば私たちの身体は、仲間が皆そう思っている明日の状況に反応して、現在の気持ちを準備する。それは行動につながる。そうして私たちの身体が明日に備えて現在の行動を起こすから、明日が来る。そうしてそういう明日が来る、といえます。
時には仲間の皆が思っている明日と私が思っている明日とがだいぶ違うということがあります。皆は明日も株高が続くと思っているのに、私は下がると思っていれば今日売り抜けてしまえばよい、ということです。このとき売り注文を出している私はどんな明日が来ると思っているのでしょうか?
明日は私だけが成功者になっているはずです。そういうハッピーな私の気持ちが想像できます。だれが見ても、明日の私の状況を理解できる限り、明日私がハッピーであることは分かるはずです。現在、皆さんはそれが分かっていないけれども明日になれば分かる。だから私はそういう明日が来ると確信できる。そして明日はそうであろうとして今日の売り注文を出すのです。
こういう場合、私は現実の仲間と明日を語ることをしません。自分の内部にいる秘密の仲間とひそかに明日を語る。自分の内部にいる仲間は私と同じ明日がくるだろうという気持ちになっている。ほぼ確実に、そういう明日が来るはずだ、と私は感じます。
さて、その明日が来てその株価は私の期待を裏切って、うなぎ上りに上がっていったとします。ああ、こんなはずはない。私の大事な株はひどい安値で売られてしまった。こんな現実は認められない、と私は地団太を踏むでしょう。もう目をつぶってしまいたい。昨日はあんなに確実だと思った予測は何だったのだ、と思います。しかしこれが現実なのでしょう。私はうつ状態になって頭を抱えてしゃがみこんでしまいます。
こういう間違った予測を明日と言っていいのか?しかしこれは昨日の時点では間違いとは思えなかった。結果的に間違ったのであって、昨日の時点では間違いではなかった、と言いたい。昨日の時点で明日というものは予測されるとおりであってそれが昨日の私たちの行動を決めていた。その意味で明日というものは、今日思う予測としての明日と明日になって分かる実際の明日との二種類があるのではないか。
明日になって分かる明日は、その時はもう明日ではないのだから明日といっても、正確にいえば「昨日の時点で明日と思った日」ということです。明日という言葉を「いま明日と思っている明日」というせまい意味で使うことにすれば、明日というのは、今日の次の日であって、今日が終わるまでは予測でしかないものです。しかしその明日の予測に基づいて、私が今日の今、このように行動しているのであるからこの行動を起こさせている明日、というものははっきりとしています。