哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ明日を語るのか(5)

2012-02-26 | xx8私はなぜ明日を語るのか

最近、インターネットのショッピング、つまり通信販売が便利になっているのでよく利用します。アマゾンで本を買います。パソコン画面で購入決定ボタンを押せば数日後に宅配便で届く。しかし本屋さんで買うのとは違って、今すぐ手に取ることはできません。明日、あるいは数日後に手に取れることを予想してパソコン画面の購入ボタンを押す。その本を手にとってパラパラとページをめくりたい。けれどもそれができるのは明日、あるいは数日後です。電子本ならばすぐにダウンロードできるでしょうが、紙の本が欲しい、という人の話です。

明日でいいから届けてもらう。明日の便の予約をする。明日来るものを申し込む。

人間以外の動物はこういうことはしません。赤ちゃんもしません。小学生も高学年にならないと自分のお小遣いで通信販売の予約購入はしないでしょう。

これをする人間は、まずアマゾンの購入ボタンを押せば決まった日数後には確実にその本が入手できることをよく知っています。これは同じような行動を今までに何度かして、経験で知っているということです。あるいは経験した人の話を聞いて、その人を信用した場合です

それに私たちインターネットのユーザーも、理論的に、このシステムが信頼できることを知っています。有名販売店やインターネットショップは消費者に損害を与えて評判を落とすようなことはしないはずだ、という理論です。

経験と理論と、さらに重要なことは家族や友人、つまり仲間たちがこの予約購入の方法をもっともだと認めているということです。だれもが、それでいいだろう、と思っているということ。このことによって、明日に向けた私たちの現在の行動は実行されます。

この現在の行動を決めるために、私たちは明日について語る。仲間と明日の状況判断を共有します。仲間がいない場合も、実は全く同じです。自分という仲間にそれを語り、そのときの判断を参考にして私たちは現在の行動を決めます。自分で考える、ということはそういうことです。

私たちは(拙稿の見解では)だれもが自分の内部に信頼できる仲間を持っていて、その仲間の行動に共鳴することで自分の行動を実行する。あるいは逆にいえば、そういう自分の内部に共鳴行動を起こすものとして仲間というものがある、といえます。

私たちにとって、明日というものは、それを仲間と語り合えるからある、といえます。明日が来る、こういう明日が来る、と皆がそう思って互いにそう語り合うからそういう明日が来る。そうであれば私たちの身体は、仲間が皆そう思っている明日の状況に反応して、現在の気持ちを準備する。それは行動につながる。そうして私たちの身体が明日に備えて現在の行動を起こすから、明日が来る。そうしてそういう明日が来る、といえます。

時には仲間の皆が思っている明日と私が思っている明日とがだいぶ違うということがあります。皆は明日も株高が続くと思っているのに、私は下がると思っていれば今日売り抜けてしまえばよい、ということです。このとき売り注文を出している私はどんな明日が来ると思っているのでしょうか?

明日は私だけが成功者になっているはずです。そういうハッピーな私の気持ちが想像できます。だれが見ても、明日の私の状況を理解できる限り、明日私がハッピーであることは分かるはずです。現在、皆さんはそれが分かっていないけれども明日になれば分かる。だから私はそういう明日が来ると確信できる。そして明日はそうであろうとして今日の売り注文を出すのです。

こういう場合、私は現実の仲間と明日を語ることをしません。自分の内部にいる秘密の仲間とひそかに明日を語る。自分の内部にいる仲間は私と同じ明日がくるだろうという気持ちになっている。ほぼ確実に、そういう明日が来るはずだ、と私は感じます。

さて、その明日が来てその株価は私の期待を裏切って、うなぎ上りに上がっていったとします。ああ、こんなはずはない。私の大事な株はひどい安値で売られてしまった。こんな現実は認められない、と私は地団太を踏むでしょう。もう目をつぶってしまいたい。昨日はあんなに確実だと思った予測は何だったのだ、と思います。しかしこれが現実なのでしょう。私はうつ状態になって頭を抱えてしゃがみこんでしまいます。

こういう間違った予測を明日と言っていいのか?しかしこれは昨日の時点では間違いとは思えなかった。結果的に間違ったのであって、昨日の時点では間違いではなかった、と言いたい。昨日の時点で明日というものは予測されるとおりであってそれが昨日の私たちの行動を決めていた。その意味で明日というものは、今日思う予測としての明日と明日になって分かる実際の明日との二種類があるのではないか。

明日になって分かる明日は、その時はもう明日ではないのだから明日といっても、正確にいえば「昨日の時点で明日と思った日」ということです。明日という言葉を「いま明日と思っている明日」というせまい意味で使うことにすれば、明日というのは、今日の次の日であって、今日が終わるまでは予測でしかないものです。しかしその明日の予測に基づいて、私が今日の今、このように行動しているのであるからこの行動を起こさせている明日、というものははっきりとしています。

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私はなぜ明日を語るのか(4)

2012-02-18 | xx8私はなぜ明日を語るのか

過去の記憶は、結局は、いま何をするか、現在の行動に反映するために使われるものです。いま何をするかに関係が深い最近の記憶は鮮明です。逆に遠い過去の記憶は、いま役に立たないから薄れていきます。

過去は風化する、というか古い写真のようにセピア色になって時間劣化し、不鮮明になり、最後は分からなくなります。コンピュータのデジタル記憶データが時間劣化しないことと対照的ですね。アナログデータは時間劣化するがデジタルデータは時間劣化しない、ということから類推すれば、人間の記憶はアナログ式でしょうか?

人間に限らず多くの動物はそういう時間劣化する記憶システムを持っています。人間や動物にとって昔のことは重要でなくなるが、最近のことは重要である。つまりそういう記憶装置を備えていることが生活に便利だからでしょう。

まあ年寄りは近年のことよりも自分が若いころのことをよく覚えている。それはたぶん、それが原始時代の老人の生き方であったからでしょう、文字や書物やインターネットがない時代、若い人々に知識を伝承するという老人の役割がそういう記憶を必要としていたと思われます。

このような自伝的記憶 、つまり自分を主人公とする絵巻物が私たちの時間感覚の土台になっています。この絵巻物の左の端(西洋人なら右の端か)から、私たちは明日を語ります。私たちは、明日に関してそういう概念を持っています。

正月から使い始めた手帳の今日の欄。時間ごとに予定が書いてありますが、終わった予定はもう見ない。たまに見返す機会もないことはありませんが、警察にアリバイとして見せるとかいった特殊な場合を除けば、ふつう過去の細かい記録はあまり必要ではありません。

いちおう去年の手帳も取っておきますが、まあもう二度と見ないでしょう。若いころは、晩年に自伝を書くときのための記録として手帳を取っておくことが必要だろう、などと思ったものですが、いまこの年になってみると、社会的な自尊心や自己顕示欲というものがすっかり薄くなっていて、過ぎた人生は夢のようです。かすかに残っているセンティメントが古い手帳を捨てさせないのでしょうが、そのうち引き出しを整理する時にそれも忘れて案外あっさりと全部捨ててしまうような気がします。

閑話休題、過去に自分がしたことを記憶しておいて現在の行動に役立てる、ということは人間以外の各種の動物でも広く行われています。金魚は水槽の中で、どの石の下を通り抜ければどこに出るかを記憶しているようです。ある種の鳥(アオカケス など)は満腹の時に見つけた木の実や毛虫を穴に隠しておいて後で空腹のとき取り出して食べます。いつどこに何を隠したか覚えています。哺乳類では多くの種が自分が歩き回った経路を覚えています。このように動物は過去の自分の行動を記憶して現在の行動に反映します。

しかし動物の場合、機械的な反射運動の組み合わせなのに将来への対応行動のように見える動作をしている場合が多そうですが、人間のように考えている場合との区別はむずかしい。直感では、動物が何を考えているのか、なんとなく分かりますが、それが人間のように考えているのかどうかの証拠はふつう見つけられません。厳しくいえば、人間の場合でも、無意識の反射的動作なのか、将来のことを考えてしているのか、本人も分かっていないことが多そうです。

そうはいっても私たち人間は明らかに明日のために今日すべきことをしています。私たちは、カレンダーや日記やブログに明日はこれをする予定、などとよく書き込んでいます。人に語ったり言葉や記号で明日のことを書き記したりなど、はっきりと明日のためになすべきことを考えてしているのは、人間だけです。予定を言葉にするということは、その言葉の主語としての自分というものを思い浮かべて話すということです。それは明日の自分でしょう。

明日の自分に乗りうつって今の自分にその準備をさせる。こういう行動様式は人類特有といってよいでしょう。

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私はなぜ明日を語るのか(3)

2012-02-12 | xx8私はなぜ明日を語るのか

私たちが経験するさまざまな現象に対して、人々の間で、いろいろな理論が作られ、現実として実際にうまく使えた理論が取捨選択されていきます。実際に行動を起こすために現実を見極める必要を感じている人間は、結局、予測力が高くて単純で分かりやすい理論を現実として受け入れるようになっているようです(一九七四年 赤池弘次『統計的モデルの決定のための新しい方法について )。

私たちは単純で直感でとらえやすい理論を信じてしまう傾向を持っていますが、それは実際、人間のふつうの活動範囲では、そのような理論の予測力が高いという経験を私たちが持っているからです。

こうして私は明日の予測が上手になっていきます。これは現実を意識して行動する、ということです。明日になれば自分はどんな現実の中に置かれているだろうか?明日の現実を想像して今日すべきことをする。これは当たり前の行動ですね。しかしこういうことができる動物は人間だけです。明日以降の自分の有様を予想して語り合い、あるいは自分自身に語り、そこから現在の行動が決まってくる。つまり意識を持って長期の未来をはっきりと予測し、それにもとづいて行動する動物は人間だけといえます(二〇一〇年 佐藤暢哉『ヒト以外の動物のエピソード的(episodic-like)記憶 』)。

人間以外の動物は言語能力を持ちませんから、仲間に明日のことを語ることができません。仲間に語ることができないということは、自分自身に語ることもできないということです。そうであれば明日を予測することはない。そういう生活を送っているはずです。明日を予測することもなく、明日に備えることもありません。人間ではない動物にとって明日はない、というべきでしょう。現在の状況に直接反応するだけです。たとえば空腹のときおいしいものがあれば食べてしまう。成人病になるといけないから摂食しようなどとは思いません。

私たち人間は、いつも明日の(あるいはもっと先の)自分の姿を予測し、そのときの自分の周りの状況を予測し、未来のその状況での自分の気持ちを想像していて、そこから現在の行動が出てきます。

現在の時点では明日は未来ですが、私たちにとって、現在の行動がそこから出てくるという意味ではその明日は現在の一部である、というべきでしょう。現在というものは今の瞬間だけではなくて現在の行動を決めている未来の時間をも含むと考えることができます。つまり私たちは、今日から明日へ至る現在というモデルを持って意識的に行動している、といえます。

私たちがする明日の予測は自分が予測するというよりも仲間のだれの目で見てもその通りになるだろうと思える明日の状況を予測して、そのときの自分の気持ちを想像することです。その予測をすると同時に、いま何をしたらよいのかが直感で分かります。逆にいえば、今日の現実は明日の予測、つまり、いま何をしたらよいかということが明日の予測だ、ということができます。そして、今自分がすることは明日の自分にとってどうなのか、現在していることと明日の自分の状況とはどういう関係なのか、私たちはいつも分かって行動しています。

時には、分かっていないと自覚しながら行動する場合もありますが、そういう場合でも、不安だけれどもこうしてみようと思ってしているわけですから明日の自分の状況は心配だという予測をしているといえます。

私たちが何かするときはこのように自分が何をしているか分かっていて、したことは記憶しています。もちろん時間がたつと忘れていきますが、ふつう過去にした大事なことはきちんと記憶できます。

自分がしようとしてしたことを意識的行動といいますが、これにはしっかりした記憶が伴っています(エピソード記憶という)。こういう記憶は自分が過去にした行為を時間列で並べた歴史絵巻のようにつながった記憶になっています(自伝的記憶 という)。この絵巻物の最後の端に今の自分がいる、と私たちは思っています。ここから、私たちは自分がどこから来て、何であって、どこへ行くか、を知ることになります。

私たちは自分が昨日から今日の今という時点へ来て、この人生絵巻の主人公であって、明日の未来へ行く、ということを知っています。

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私はなぜ明日を語るのか(2)

2012-02-04 | xx8私はなぜ明日を語るのか

動物が身の周りの状況を感知して数秒後数分後の予測を行う場合は、身体が機械的、反射的に動いていくことで予測が行われます。捕食者が襲ってくると反射的に逃げ出します。逃げるという行動がそのまま危険状況の表現になっています。人間も、雨が降りだすとかけ足になるなど、動物と同じ仕方で無意識に数分後の予測をしている場合が多いですが、ときには計算したり、他人の心を読んだり、学習した知識を適用したりして、意識的に数分後の予測を行うこともあります。人間が数日先あるいは数カ月先のことを予測する場合は、もう動物のような身体反射を使うのではなく、計算や他人の言動や学習した知識などだけによって、意識的に、予測しています。意識的である証拠に人間はその場合の自分の予測内容をよく記憶しています。

一般に予測のシステムを設計する場合、長期予測は短期予測とは違う方法で行う必要があるでしょう。短期予測は現在の状態から簡単な計算で導くのがふつうです。一方、長期予測は現在とは違った状況になったときの予測ですから、現在では起こっていないけれども長い時間ののちには周りの条件が変わってきてその結果どうなるかを予測する必要があります。

長期予測は、時間の経過による大きな変化をいくつかの仮定のもとに想定して、その架空の状況に当てはまる過去の経験の記憶あるいは理論からの推測に頼って状況を判断し、その状況がここでまた繰り返されるだろうという直感を持たなければできません。

こういう仮定条件が起これば、こうなる。そうでなくて違う仮定条件が起こればああなる、という複数の場面を次々に想像してどれが実現しそうかを比較検討することになります。

予測は計画に結びついています。こうすればこうなる。こうしなければこうなる。私がこう動くとことで相手はこう動く。周りはこう変化する。予測はシミュレーションでもあります。その場に私の身体があってそれが動いていくシミュレーションが必要です。状況の場面に応じて、その人の経験からその人が信頼している理論があります。その理論に基づいたシミュレーションが使われます。

そのような理論を使ったシミュレーションにより予測し計画して動いた結果うまくいった。あるいはうまくいかなかった。うまくいかなかったのはこういう理由だった。その理由は言葉で語られます。言葉で仲間に語ることができる。そういう経験を記憶します(エピソード記憶 という)。そういうデータと理論が記憶されて次の機会に使われます。

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