クールに見える現代人も、実はそこに、胸の中に旗を持っているらしい。あまり自覚はなさそうですけれども。
代り映えのしないルーティンな毎日の仕事は退屈であるけれども、それが社会の骨組みを支えていることは働く人間の誇りです。
生まれていつの間にかそこにいてそこで働いている毎日。親の世代からなのかあるいはさらにずっと遠い昔からなのか、綿々と現代にまで続いてきたらしい世の中の仕組み。その中で働く。働かせてもらう。あるいは働いてあげる。そこでいつのまにかこうして毎日働いていることには、退屈もあるけれども納得しているところがある。
毎日は変わらないけれどもわずかに、すこしずつ未来がやってくる。歴史が進むのは政権交代や革命や戦争ばかりではない。それらがなくとも進む。歴史は終わらない。
人々が働いている限り経済も医学も科学も芸術も、スマホもエンターテインメントも、グローバリゼーションも、間断なく進んでいるようです。それはエッセンシャルワーカーやサラリーマンの毎日の仕事が作りだす社会の骨格構造に支えられているからでしょう。
毎日のストレスと退屈の交代、仕事とレジャーの往来の間に人々がいつの間にか蓄えるものが永久に増え続けるからです。部分の構造が増え続ければ全体はいつか姿を変える。まったく新しい時代がきます。その未来をひそかに夢見て、それを支える自分の仕事の誇りを胸の底に保ちながら毎日の退屈に耐える。小さな平和を楽しむ。そうであれば、現代人の毎日はそれほどむなしいものではない、といえます。■
(yy75現代を生きる人々 end)
自然科学ランキング
革命・戦争といっても旗はどうする?椎名林檎は日章旗を振っていますが、これはどうか?国旗を振っても大丈夫そうなのはオリンピックやスポーツの世界大会くらいでしょうか。
一九九一年のスーパーボール(アメリカンフットボール全米大会)でホィットニー・ヒューストンが歌った米国国歌(Star Spangled Banner 星条旗)は伝説となっていますが、湾岸戦争の高揚に沸いていた時代でした。それから三〇年、アメリカも変わりましたね。
ローカルな暴力や武力行使は絶えない。しかしもはや世界戦争はない。デモやクーデターはよく起こるけれども全国民の蜂起はない。欧米、日本などいわゆる先進国は、どの国も覇気を失っています。リーダーはいない。エリートは旗を持っていない。国旗を高くひるがえす機会などない。
豊かになった国では全力で国旗を振る必要がありません。しかし国旗のほかにどの旗をひるがえせばよいのでしょうか?
前世紀にはマルキシズムの赤旗が美しくひるがえった時代もありました。いまやたしかに、ひるがえしたければ国旗しかない。懸命にそれを振りたい気になることはあまりないが、ほかの旗を振りたい気にはなりません。
会社の旗も組合の旗も振る気にならない。国連旗あるいは(ヨーロッパ人であっても)欧州連合旗ではナショナルアイデンティティが共鳴しない。なぜかプライドが鬱屈するようです。
エッセンシャルワーカーもエリートもふつうのサラリーマンも、休暇を楽しむ快楽主義者としてだけで一生を終わりたくない、自分の仕事に誇りを持ちたい。その仕事が支えている自分の国にプライドを持ちたい、未来に伸びる国の発展を夢みたい、とひそかに思っています。
自然科学ランキング
鎖国で閉鎖された江戸期の日本で興隆した趣味芸術は世界最高の域に達した、といわれます。
歌舞伎、人形浄瑠璃、三味線、俳諧、浮世絵、庭園、盆栽、書道、どれも奥が深い。明治を経て現代に続くこれらの趣味人口は多い。これらもまた、いかにも現代的といえるようになったわけです。
スマホの時代になってまた次々と新たな趣味人たち、つまり多種多様なオタクのカテゴリーが立ち上がってきました。古くからある小説や漫画のフアンは想像力の拡張を求めてアニメとゲームの多様なジャンルに細分化されていく(二〇一九年パトリック・ガルブレイス「オタクと想像力の追求Otaku and the Struggle for Imagination in Japan」)。各ジャンルはSNSのコミュニティとして数百、数千の極小細胞に分かれていきます。
趣味も極めればプロの域に達する。
現代日本語でプロとは、趣味をつきつめて職業にまで達した人のことです。
スポーツや芸能界のスターのように憧憬と尊敬を集めてカリスマのように君臨することに優越願望を求めるべきなのか?
イチローやマイケルジャクソンは神である。半分ジョークであると同時に半分は真実でしょう。
スポーツや音楽にはカタルシスがあります。ゲーム・パフォーマンスにすべてを注ぎ込むことができます。
「今日までのハレとケの往来に/蓄えた財産をさあ使うとき(二〇一四年 椎名林檎『NIPPON サッカーW杯NHK放送テーマソング』)」好不況に一喜一憂する毎日の退屈が戦争によって吹き払われるように、国際イベントは盛り上がります。
現代の戦争は悲惨な結果を招く大失政となりますからそれはやめて、オリンピックなどスポーツの大国際ゲームを次々に開催するのはどうでしょうか?退屈を克服できるでしょうか?それとも戦争のような大事件が起こらないと日常からの脱却は無理なのか?格差を解決するためには革命が必要なのでしょうか?
自然科学ランキング
分相応に悟って生きる。ある意味、宗教的、あるいは逆に宗教の敵といわれる快楽主義。これもエピクロスがいうように崇高なものを求めずひたすら現在の心の平安を求める。
出家はしないまま脱俗、という感じでしょうか。現代人としても、それは分かるような気がします。
その身分のままで人に認められればよし。自分で楽しく暮らせればよし、となってきます。
十八世紀の京都で煎茶を飲ませる喫茶店を開いた売茶翁と呼ばれた老人がいました。還俗禅僧でした。「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい。 ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかはまけ申さず」と看板を掲げたそうです。
抑圧的権威主義の江戸文化における知的自由人の象徴のような人物だったようです。伊藤若冲(一七一六年―一八〇〇年)など画人文人がこの禅風に惹かれて当時発明されたばかりの煎茶を楽しみに来店していました。(二〇〇八年 ノーマン・ワデル「売茶翁の生涯 The Old Tea Seller: Life and Zen Poetry in 18th Century Kyoto」)
煎茶の発明者と友達だったそうですから、一緒に特許を取って会社を作れば大富豪になれたでしょうに欲がない。人々と仲良く談笑して茶を飲みかわしたいだけ、と言っていたようです。まあ、究極の禅僧ですね。
趣味を突き詰める生き方はどうか?例えば素人離れのレベルにまで趣味を徹底する。糊口の本業はあってもそれはそれ。マニア、オタクというか、アマチュアアーティストというか。それでわずかでも副収入になればすばらしい。自分自身、ちょっとしたものだ、と思える。同好の仲間と認めあえます。
それが現代人の優越願望(megalothymia)かもしれません。microthymiaと呼ぶべきかもしれませんが。
自然科学ランキング