では仮に、次のように言い切ってみましょう。
物質は、私たちがそれをどうにかしようとするとき以外、はっきりと存在するとはいえない。
もっといえば、物質は、私たちがそれをどうにかしようとするとき、あるいは、それについてだれかに語りたい時、そういう瞬間にだけ、はっきりと存在し、そうでないときは存在していない。
宇宙科学者どうしの会話で、銀河系の中核ブラックホールが語られる瞬間にだけそれは存在し、宇宙科学者が分かれて帰宅後、テレビでサッカーを見だすともう銀河の中心のブラックホールは存在しない。消えてしまう。
二歳児が「あ!にゃんにゃん!にゃんにゃん!」と叫んだ瞬間にだけ塀の上にその猫は存在し、数十秒後、子供がほかのことに気を取られてしまい、他のだれもその猫のことを気にしなくなったときには存在していない。
こういう考え方はいかがでしょうか?まあ何を言いたいのか分かるような気もしますが、とても、おかしな理論ですね。
このおかしな理論は、どこがおかしいのでしょうか?
たとえば部屋の中に猫を閉じ込めてドアを閉める。私たちは一時間外出する。もう猫は存在しない。一時間後にドアを開ける。猫が死んでいます。毒薬のガラス瓶が割れています。何分も前から、生きた猫は存在していなかった、といえます。
ふつうの言い方では当然、そう言えますが、さきの言葉遣い、つまり「物質は、私たちがそれをどうにかしようとするとき、あるいは、それについてだれかに語りたい時、そういうとき以外、はっきりと存在するとはいえない。」を使う場合、ちょっと違ってくる。
猫は、ドアを閉めた瞬間にもう存在しなくなる。一時間後にドアを開けた瞬間に死んだ猫が存在しはじめた。割れた毒薬のビンも存在しはじめた、ということになります。
しかし、そういう言い方をすると、ドアを閉めた瞬間に部屋の中は何もなくなってしまうことになって一時間後にドアを開けた瞬間に、部屋の中のすべては整然と現れる、ということになります。猫は死んでいるけれども、ちゃんと死体はあるし、毒薬のビンが割れているからなぜ死んだのかも分かる。部屋の中は、あたかもその一時間ちゃんと存在していたのと全く同じように突然、整然と現れる、ということなのか?
なにか、とても無理に言っているような言い方としか思えませんね。
ドアを閉めて外出するとき、私たちは当然、一時間後に帰ってきてドアを開ければ、部屋は前と同じようになっているだろうし、猫はたぶん生きているし、あるいは運悪く毒薬のビンが割れば死体になっているだろう、と想像して出かけるわけです。
ふつう、ドアを閉めた瞬間に部屋の中は何もなくなってしまうことになって一時間後にドアを開けた瞬間に、部屋の中のすべては整然と現れるとは想像しません。ドアを閉めている一時間、部屋の中は見えないけれども、見えているのと同じようになっているはずだ、と私たちは思い込んでいます。
私たちはなぜ、そう思い込むのか?それは、実際、ドアが閉まっている間、部屋の中は見えないけれども見えているのと同じようになっているはずだからだ、と思えますね。室内には猫がいて、その猫はたぶん生きているし、あるいは運悪く毒薬のビンが割れて死体になって転がっているだろう、ということです。室内は今見えないけれどもそうなっているに違いないのです。では、見えない部屋の中は、なぜそうなっているのか?
それは物質の法則からそうなるのでしょう。人間が見ていようといまいと、部屋の中の家具やビンや猫は物質の法則にしたがって変化するからそうなる。そう私たちは思います。ドアを閉める前から、一時間後にどうなるかは決まっていたのです。そして一時間後にドアを開ければ、当然、そうなっている物事が見える、ということでしょう。ドアを開けた瞬間に、何もなかった部屋の中に、物事がそういう形に並んで現れた、ということではないと思われます。
逆に言えば、この物質世界は、私たちがよく知っている物質の法則に従って変化するから、私たちは一定の時間のあとの物事のあり方を予測し、想像できる。一時間見ていなくても、一時間後の有様を予測できるから外出もできるし、帰宅したあとの計画も立てられるわけです。
まあ、猫がいる部屋にシアン化水素のビンが置いてあって、上からハンマーが落ちそうになっていれば、猫が死ぬことも予測できます。そういうことも含めて予測できていれば、帰宅してからすべきことも計画できます。シアン化水素を吸い込まないようにガスマスクをつけてから部屋に入るべきでしょうね。
このように、私たちが物質の有様を予測できるということから、物質は存在するように思える、といえる。逆に、その物質の存在、という言葉が意味を持つためには、私たちがその物質の有様がどうなっていくかを予測できる必要があります。
たとえば、その猫が存在している、と言えるためには、私たちはその猫を目の前に見ているか、見ていなくとも私たちが見えないところでその猫が今どういう有様になっているのかを予測できなければなりません。
猫が目の前にいなくて、しかもどこにいるのか分からなくて、どこでどうなっているのかもさっぱり分からないという状況であれば、その猫は存在していると言い切ることはできなくて、言うとすれば、「その猫は存在しているのかいないのか分からない」と言うしかないでしょう。
そういうことから、物が存在しているということはそれがこれからどうなるかを予測できることだ、といえます。
今この瞬間にその物が目に見えていてもこの後それがどうなっていくのかさっぱり分からない、という場合はそのものは存在しているとはいえない。
たとえば今そのドアの隙間から室内を覗いたら猫のしっぽが見えたようだけれども錯覚かもしれない、自信がない、という場合は、猫がはっきりと存在しているとは言えません。しっぽが見えて、さらによく見ても間違いなく猫のしっぽだと分かって、しかも周りの仲間に「部屋の中に猫がいる」と叫ぶと皆が部屋を覗いてくれて「ほんと、猫がいる!」と言ってくれた場合、その場合は完全に猫が存在している、といえます。
しっぽが今見えなくても、一分後に室内を覗き込んで見てそこに猫が隠れていたならば、一分前にも室内にその猫はいた、と結論してよいでしょう。なぜならばこの一分間にドアから出入りしたものはなかったからです。一分前に存在しなかった猫が密室の中に突然現れるはずがないからです。
当たり前のことをくどくど書いています。愚問愚答のようですね。しかし私たちはなぜ、一分前に存在しなかった猫が密室の中に突然現れるはずがないと思うのでしょうか?
それは科学で猫の身体という物質の変化について分析的に説明しても証明できますが、それ以前に、私たちの直感でそう思うわけです。まずそれは毎日の経験でいつもそういうことになっているからと思われます。しかし、このことはもっと私たちの奥深くにある生得的に近い身体構造からくるようです(二〇〇七年 ガネア、シュッツ、スペルク、ドローシュ『見えないものを考える:幼児、言語使用による心的表現の更新 』既出)。
これは、この物質世界の環境で進化した動物である私たちの身体がこの物質世界の存在という構造を感じ取る機構を備えているからだ、ともいえます。一方、逆に言えば、このように私たちの身体が感じ取るから物質が存在する、ともいえる。物質の存在とはそういうことである、ということができます。
もしそうであるとするならば、物質というものは私たち人間と関係なく存在しているのではなくて私たち人間の身体が作り出している、とすることができる。ここでは仮にそうすることとして話をすすめてみよう、というのが拙稿本章の考え方です。
人類に限らずにずっと広い動物種、哺乳類全体あるいは鳥類(さらには恐竜やたぶん軟体動物のタコなど頭足類)、までを含めて、このような(物質の存在を感じ取るような)身体機構は発達しているようです。これらの動物は、身の回りの物質が次の瞬間にどう変化するか、変化しないか、どう動くか、動かないか、を予測することができると思われます。物質がどう変化するかが分かるということはその物質が存在するあり方を認知しているということだ、といえるでしょう。
このような動物の身体機構が(拙稿の見解では)、物質が存在していることの生物学的意味を表している、といえます。さらに言えば、この少なくとも哺乳類に共有されている身体機構が物質の存在の基礎をなしている、ということができます。