哲学の科学

science of philosophy

付き合いの存在論(10)

2022-04-16 | yy82付き合いの存在論


たしかにその存在感が分からない人もいる。しかしほとんどの人は分かる。分かりたくない人もいるでしょう。それでも実はほとんどの人は分かる。男女が一緒にいたい気持ちは分かります。それが対幻想、対の理論、付き合いの存在論です。
この理論を言語で説明することは不可能です。少なくとも現代までの生物学、人類学、心理学など諸科学、さらには哲学のどの言葉を使っても無理です。
将来の科学ではたぶん解明できるでしょう。それはかなり先です。メタ科学というか、言語の裏を解明すること。その方法は現状の科学ではまったく予想できません。それでも間違いなく付き合いそのものは存在する。そこで拙稿では中身が分からないまま名前だけ付けました。付き合いの存在論、遠い将来、いつの日にか、科学にとって自明のものとなるでしょう。■



    
(82 付き合いの存在論 end)









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付き合いの存在論(9)

2022-04-09 | yy82付き合いの存在論



男女の対という観念は、つまり、男や女という観念よりもずっと根源的に存在するのかもしれません。
そこで拙稿では男女一組という存在感をここで仮に「対の理論 theory of pairing」ということにします。つまりこれは理論である。物質として存在するものではありません。心の理論と同じ類です。 
あると思うからある。実体などない。しかし実体がないのに昔からだれもがその存在を疑わないものは、人間にとって相当強い存在感を持っているものである、と言えます。
たとえば、神様、たとえば、いのち(拙稿77章「いのちの美しさについて」)、たとえば、こころ(拙稿8章「心はなぜあるのか」)、たとえば、自分の気持ち(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか」)など。日常会話で毎日使う言葉ですが、改めて考えれば実体はない。男女一組という観念も同じ。男女がなぜ一組になっていたいのか?実体はありません。
つまり理論です。実体はなく存在感だけがある。それはようするに、付き合いの存在感である。だれか特定の異性と付き合いたいと思う気持ちは、あると思うからある。あると思えてしまうからある。ここから恋愛も結婚も同棲も家族も人類の繁殖も、デートもセックスも、派生するといえます。

理論であるがそれは学校や教科書で学ぶものではない、幼児期からの自然の学習と直感で習得する存在感である、といえます。そして人々はそれが理論であることを知らない。
そうであれば、(心の理論の欠如のために)他人の心が分からない人がまれにいるように、対の理論が分からない人もいておかしくない。なぜ結婚しなければならないのか分からない、とか、なぜ異性と付き合わなければならないのか分からない、(言い訳レトリックではなく)本気で分からない、体感で感じられない、という人も(隠れてあるいは無自覚で)いるはずです。それが自然でしょう。
付き合いの存在論、に関する自分の感受性について少数の人はひそかに悩んでいるのでしょう。しかし心配しなくてよろしい。異性との付き合いの必要性は感じ取らなくてもよし。その存在は実体がない。このような存在論の科学的根拠は現在の科学者にも哲学者にも、もちろん文学者にも、だれにも分かっていません。
















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付き合いの存在論(8)

2022-04-02 | yy82付き合いの存在論



経済的にも社会的にもパートナーに期待しなくてよいのならば、結婚などせず同棲もせず、ただ付き合っている状態を維持すればよいではないかと思われます。付き合いを解消したくなれば、ラインも読まず電話にも出ずあるいはアカウントを消去してしまえば簡単に別れられます。
なぜ、別れないの?と聞いても意味がない場合があります。その答えが、付き合いの存在論、でしょう。
付き合う理由を個々人に聞いてもあまり意味はない。人は様々の理由を述べる。しかし結局だれもがだれかと付き合いたい。そのだれかと二人だけの関係になりたい、と思っている。そしてそれはふつうある程度長く続く。それはなぜか、というところが拙稿の興味です。
男女のペアという観念は人間性の根底にある、現代人はそのことがよく分かっていない、といえるような気がします。しかし本当にそうでしょうか?

ひな人形の最上段には男女の人形が置かれています。西洋将棋で真ん中に置かれる駒はキングとクイーンのペアです。家系図では夫婦が横線で結ばれ下に引いた縦線で子孫があらわされます。男と女は対になるべきものである、という直観が先験的にあるのではないでしょうか?
旧約聖書のアダムとイブは人類の祖先となっています。あるいは古事記のイザナギとイザナミ、万物を生み出す男女神とされています。歴史時代以前から男女対という観念はある。もしかしたら人類ユニバーサルな感情に近いかもしれません。















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付き合いの存在論(7)

2022-03-26 | yy82付き合いの存在論



昔から政略結婚とか、家と家の結婚とかいわれて恋愛と家族(と氏族)との葛藤は文学の大テーマでした(一〇〇八年 紫式部「源氏物語」など)。近代西洋文学でも経済格差と女性の自立をテーマにする恋愛小説が発展してきました(一八一三年 ジェーン・オースティン「Pride and Prejudice 高慢と偏見」)。娘が金持ちと結婚しないと家産の維持が危ない。現代もそれはありますが三百年前には家族の死活問題でした。ジェーン・オースティンは、美貌と知性が資産階級の高慢と偏見に打ち勝つ、という近代恋愛小説の原型を作り出しています。
恋愛と経済格差との葛藤は一九世紀文学の普遍的テーマでした(一八九七年 尾崎紅葉「金色夜叉」)。「現代では、金権主義に対抗する恋愛の原理が涸渇しているからであり、『金色夜叉』において、金に明瞭に対比させられている恋愛の主題には、実はそれ以上のものが秘められていたのである。それ以上のものとは、恋愛に関するストイシズム、そのストイシズムと儒教道徳の節倹主義との癒着の残存、金をいやしむ武士道徳の名残、純潔な理想主義、・・・・いや、そもそも青春そのものの非功利主義的性格が、時代の出世主義の裏側にはっきり生き動いていたのであり、それは又、読者の心の中にも活きていた。(一九七〇年 三島由紀夫『作家論』)」 
しかし日本でも世紀が改まると、草食系の元祖のような三四郎が、三四郎池で、新時代の蠱惑的なヒロイン里見美禰子を見初めるが、付き合うのか付き合わないのか、自分に覚醒できずに立ち往生している間に彼女は安定した資産階級の生活を選んで消えていきます。付き合いの終末期になってようやく告白するが、話をそらされて間もなく小説は終わります。―三四郎は堪えられなくなった。急に、「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。(一九〇八年夏目漱石「三四郎」)
女性の自立が可能となったとされる現代においても、この小説のプロットは、あまり変える必要がなさそうです。逆に、漱石が作ったこのプロットの方向に、百年かけて、人々の行動が進んでいったのかもしれません。エリートサラリーマンを戯画化した現代のテレビドラマでは「女なんて、どうせ金を持っている男が好きなんだろう。(二〇二〇年 松本佳奈「東京男子図鑑」)」 とナレーションは語りかけます。 

女性に資産があり経済的自立が十分な場合、恋愛は自由になるのか?環境から自由になった場合、男も女もペアになるためだけに引きつけ合うのか?
叔父から莫大な遺産を相続したイザベラは英国貴族の求婚を退け、若いアメリカ人大富豪の求婚をも退け、結局、財産目立ての流れ者オズモンドに騙されて結婚しローマに住む生活を選ぶ(一八八一年 ヘンリー・ジェイムス「The Portrait of a Lady ある婦人の肖像」)。あんな気障な自己中男のどこがいいのか、とイザベラをひいきする読者は思います。自由に選択したつもりが騙されてクズをつかんだ、という話は婚活ばかりでなく通販などでもよくありそうです。
結婚詐欺に家産をだまし取られた資産階級の女性がその後一生ウェディングドレスを着たまま屋敷に引きこもるという怪談(一八六一年 チャールズ・ディケンズ「Great Expectations 大いなる遺産」)は、一九世紀イギリスで大好評だったようです。この女性に養子にされた少女は男性敵視を叩き込まれて育ち、主人公である少年の求愛を翻弄する、という筋になっています。














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付き合いの存在論(6)

2022-03-19 | yy82付き合いの存在論



現代人はますます恋愛が分からなくなっています。物理的に存在するセックスのほうがまだ分かりやすい。分かりやすいほうのそっちを(ヘドニズムとして)人生の目的にしたい、と思う人が多くなっている。セックスフレンドはいるが恋人はいない、となってきます。
ちなみに秘密のセックスフレンドがいても付き合っていることにはならないでしょう。人に見えないところでいくら一緒にいても社会とかみ合わないからです。社会とかみ合わなければ人生ともかみ合わない(一九七九年 中上健次「赫髪」)。ほかの誰にも知られずに二人だけでいくら熱心にセックスをしてもそれだけでは「僕たちは付き合っています」とはいえません。
付き合っている、という関係になりたければ社会へ公然と出ていくしかありません。秘密のセックスフレンドとして隠れるのではなく二人のペアとして公然と社会へ出ていかなければなりません。それは隠れなければならない裸の行為であることとは矛盾であり、それを社会は受け入れません(二〇〇八年 平野啓一郎「顔のない裸体たち」)。
公然と付き合っている同性愛カップルは陰でデートする異性愛カップルより強靭だったりします。女嫌いを公言する男子高校生が女子とキスをしているところを男嫌いの同性愛女子カップルに目撃されてかえって見せつけてみますが、おおらかに疑似家族を演じる女子カップルの仲は全然崩れません(二〇二〇年 松浦理映子「最愛の子ども」)。
付き合いは公共の場でしなければ付き合いにはなりません。人に見られているところで手をつなぐことが大事。本命の場合は友人や家族に知られて付き合うのが原則です。当然、家の話が出てくる。そうなると結婚がちらついてきて話は面倒になります。













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付き合いの存在論(5)

2022-03-13 | yy82付き合いの存在論



動物(人間以外)は交尾行動をするが自分がいま交尾行動をしているとは思っていません。行為に疎外されず身体が自然に動きいつの間にか交尾している。その後何も悩まずに、いつの間にか子を産んでいます。 
動物(人間以外)は簡単に性行為ができる。しかし人間だけは自覚のない性行為はできない。自分たちが性行為をしていると二人ともが思っていないと性行為はできません。自分たち二人は付き合っている、と二人ともが思わないと付き合っていることにはなりません。
人間は最初に付き合って、その後(あるいは同時に)性的関係になる。その後、場合によっては結婚する。あるいは別れる。あるいは子を産む。自分たちが何をしているのか、その行為をしっかり意識しています。人生におけるその行為の目的を自覚しています。逆に自覚していなければそれは人生とはいえない。 
付き合っている二人にとっては、付き合いの目的は自己利益ではないはずです。その目的は、単純に言ってみれば、好きな相手とペアになっていたい、ということでしょう。つまり吉本のいう対幻想です。
人間には行動の最終目的がいくつかあって(吉本によれば)、自分自身も最終目的であるが、それとは別に、一対の男女で作られるひとつのペア構造に自我を埋め込むこともまた人間の行動の最終目的である、という見方です。(ちなみに吉本の対幻想は、男女の恋愛ばかりでなく親子、兄弟姉妹に広がって家族の観念につながる、とされています。)

バレンタインデーにチョコレートを贈る女子も、それ以外の日の男子とまったく同じ形をした対幻想に埋め込まれて行動している、といえます。しかし最近これも少し怪しくなり始めている。今の人は、義理チョコは分かるが本命チョコは分からん、と思う人が多い。義理チョコをもらっても対幻想に埋め込まれることにはならない。つまり付き合いは始まりません。
男女の仲は他人には分からぬ、と昔の人はいっていました。ところが現代人となると、他人には分からぬ二人だけの仲が存在するということの意味が分かりません。自分の身体だけを目的とする近代功利主義の価値観からは、はみ出しているからです。












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付き合いの存在論(4)

2022-03-05 | yy82付き合いの存在論



男と女が一緒になりたいと思うことは昔から当たり前であると思われていました。しかし現代に至ってこの感覚がすこし分かりにくくなった。少子化もこの現象に関係するかもしれない、となるといささか心配です。
現代人は自分のこの身体が自分だと思っています。この身体が自分の意志で動いて自分の利益のために必要な目的を実行していく、と思っています(拙稿36章「目的の起源」)。 たしかにその通りですが、昔の人はこれほど自分中心ではなかった。神仏に導かれているとか運命に従うとか思っていたようです。つまり自分の利益ばかりが自分の行動の目的ではありませんでした。
自分より家族のほうが大事であるとか、御家が大事とか、お国のために働くとか、神に仕える、とか多様な価値観がありました。もちろん昔の人はきれいごとが好きであったし嘘も偽善も横行していました。しかし純粋な本心も本物だったと思われます。芸術家は芸術に殉じた。ロミオとジュリエットは愛のために死んでいきました。
現代人の功利主義的価値観はこれらを理解できません。損得は分かるが恋愛は分からない、となる。時代は進んだが人間の価値観は単純を好む方向へ退化したといえます。産業革命で人々は豊かになったがその分マネーゲームが楽しすぎて功利主義的になった。感情も感覚も自己利益に集中するだけになりました。権力と金銭以外は価値がない、という方向に進みました(一九一一年 夏目漱石「道楽と職業」)。
ちなみに、人生の価値観を幻想という語でまとめた昭和の大思想家は、共同体に殉ずる共同幻想、あるいは恋愛に殉ずる対幻想という語を使っていました(一九六八年 吉本隆明「共同幻想論」)。
自分のために生きる自分というものはいわば幻想です(拙稿12章「私はなぜあるのか」、拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか」)。もちろん、家族のために生きる自分も幻想であるし、国のために生きる自分も幻想にすぎません。
しかしそれらの幻想に生きる人間たちを組み上げて現実の社会が構成されているのも事実。一対の男女として生きる自分たちという幻想(二〇一一年 石川晃司「対幻想の含意」)もまたこうして現実の社会における構成要素になっています。実際、現実の社会を認める限りこうした幻想の存在を認めないことはできないでしょう。

一対の男女の関係、つまり対幻想というものは性行為を媒介するものです。しかしその逆ではない。人間は行為の幻想を持つことによって現実の行為から疎外されているという理論があります(共同幻想論)。
人間以外の動物はもちろん盛んに性活動はするが、対幻想は持ちません。身体の行動から疎外されていない。猫の恋であるとか、動物の交尾行動をロマンチックに恋と呼ぶのは古く素朴な比喩から始まっていますが、その概念をマスコミもユーモアとして便利に使っているうちに本気にしている感があります。
言語を持たない動物は自我を持たないし幻想を持たない。したがって人生(動物生?)を持たない(拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか」)。したがって対幻想も共同幻想も持っていません。恋愛もしないが戦争もしません。人間だけが言葉で愛を語り、付き合いという幻想を求める。











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付き合いの存在論(3)

2022-02-26 | yy82付き合いの存在論


(拙稿の見解では)たぶん人が群れることから来る。群棲動物として仲間と近接を保持する、という習性が付き合いという行動の古い起源であるように見えます。
男同士でももちろん一緒にいたい。しかし男同士は角突き合う関係でもある。相互に警戒感、緊張感を持っている。無意識にジェラシーがある。群れていてもどこか索漠たるところがある。したがって男はときに寂しい。
こういう状況で、彼女がいれば寂しくない。いなければ寂しい。付き合っていれば対の形になれる。世間を見れば皆彼女がいる。対になったカップルの形が安定していると感じられます。うまくいっている男女のペアがたくさんいるように見えます。そうであれば、自分もそうなりたい。と想像するでしょう。
そうして世の中を二人で歩いてみたい、と思うでしょう。あたりまえの男の役割と女の役割を受け持ちながら(二〇一七年 沼崎誠「異性愛と社会的認知および社会的行動の性差」)。
居心地が良ければずっと彼女といたい。ペアになっていたい。対の形になりたい。対の安定のためには、むしろほかの女は邪魔です。
テストステロンはオキシトシンの発現を抑制する。(行動の分子メカニズムは解明されていませんが)角突き合いはくっ付き合いを抑制するらしい。オキシトシンが発現する女はそばにいるものにやさしいから安心です。そうであれば男にとって脳内のテストステロンが少ない女と一緒にいれば癒されることになります。
男も女も(拙稿の見解では)女の身体に性的魅力を感じる(拙稿54章「性的魅力の存在論」)。そうであれば男は、付き合いたい相手を求めて女の身体に近づいていく。女は(たぶんオキシトシンの影響で)相手が男でも女でも徐々に近づくものには敵対しない。もし拙稿の理論通りであるとするならば男子が女子との付き合いを求めていくことは必然となります。










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付き合いの存在論(2)

2022-02-12 | yy82付き合いの存在論


付き合いは深いほうがよし、という言い方は昔から世間常識になっていて、付き合いが悪い、と言うとふつう悪口になります。裸の付き合いという語は理想的な人間関係を美化するときに使います。 
筆者の若いころ、西洋的なホモセクシャルへの嫌悪感があまり敷衍されていなかったからか、学生寮は相部屋でまさに文字通り素裸の付き合いでした。たぶん現代もこの国では、同性の集団では、それぞれ丸裸といえる付き合いが理想とされているようです。
酒を飲み合い本音を語り合う。男同士の猥談、女同士では女子トークが好まれます。異性のペアは密集集団からかくれて密室で密接な裸の付き合いをする。仲間がいないところで手をつないでデート。あるいはひそかに、昔は濃厚なラブレター、現代では頻繁なラブライン、をすることになっています。
現代的といわれるこれらの風俗は、実は、人類が野生の先祖から受け継いだ古い行動様式とあまり違いません。つまり私たち自身、なぜ身体がこう動いていくのか、よく分かっていません。それが分っていない事実でさえも知らない学者や作家などが直観と民間伝承をたよりにいろいろ男女心理の理論や指南書を書いていますが、ほとんど間違いでしょう。
男子はなぜ女子と付き合いたいのか?いまだに人類の謎です。









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付き合いの存在論(1)

2022-02-12 | yy82付き合いの存在論


(82  付き合いの存在論  begin)




82  付き合いの存在論

好きです!付き合ってください。これを英語では I like you! I want to go out with you.と言うようです。筆者の世代は、この英語なら分かるが元の日本語の語感がつかめません。インターネットの教えあいコーナーでは、筆者の年代の人が「これは恋人になってください」という意味ですか?と質問を書き込み、若い人が「それよりちょっと軽いですけど」などと回答を書いています。
恋人、彼女、ガールフレンド。時代により意味は変わる。
筆者が結婚したのは二十代前半でしたから五十年くらい前のことですが、申し込みに行くに際して肩書のある大人に同行してもらう必要があると思いました。課長の席に行って「あの、課長。ガールフレンドのことでご相談してよろしいでしょうか?」と聞いた途端、「ええ?ガールフレンドのことだあ?」と大声を出されて閉口した覚えがあります。その当時、その語は、だれでもが恥ずかしくて口にできない言葉でした。
その数年前、人気のアメリカ映画「逢う時はいつも他人 Strangers When We Meet(Richard Quine監督一九六〇年)」を日比谷の映画館で見ました。カーク・ダグラス演ずる中年の建築家が「あなたが欲しいものは何?」と聞かれてI want to make love to you.と答えるところからキム・ノヴァク演ずる隣人との不倫が始まる。それを見て「あ、単純にこう言えばいいのか?」と英語に目覚めた、と思ったような記憶があります。
今の人はもっと洗練されてきているから、社会的に決まりきった意味をすり抜けて柔軟にずらせる人間関係を表すために多義的に聞こえる語を使うのでしょう。
あの二人、付き合っているの?という女子トークの定番ですが、その付き合いなるものはいかに存在するのか、実は存在しないのか、どちらなのか?悉無律に従うのでしょうか?
そしてだれと誰がペアをなしているのか?その関係性は夫婦のようであり、重婚が禁止されている単婚制に従っているらしい。しかし結婚と違って法制上の意味はなく離婚制度も財産分与もないところが重要。別れはもちろん、疎遠になることも連絡をなくすことも自由。その後だれと付き合おうともだれと結婚しようとも自由。というところが重要なようです。言葉は違うがそういうものなら昔からありました。野生動物のつがいも同じようなものでしょう。
筆者の世代で、付き合う、という語は職場の上司や同僚と居酒屋で会食する場面で使っていました。会社視察の帰り、駅前の居酒屋で先輩が「あの会社には驚いたよ。接待まったくなしなのかね」「急 に変わりましたね。マスコミを逆に利用した経費節減ですかね」などと話しながら酒をおごってくれました。付き合いが好きなその先輩はその後出世から外れて消えていきました。









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