哲学の科学

science of philosophy

侵略する人々(15)

2016-07-23 | yy51侵略する人々


言語まで置換する深い侵略では、しばしば虐殺を伴う被侵略者の人口激減が起こっています。ヨーロッパ人による新大陸の侵略には天然痘、梅毒などの伝染病が免疫のない現地人に蔓延したため人口が激減し、それにともなって現地人が維持していた栄養補給システムが遺棄され、侵略者のそれに置換されていったため、言語、文化とともに遺伝子も置換されてしまいました。
侵略に関する歴史を観察するうえで、王朝など支配階級の交代などは文書に残り従来の歴史書の中心テーマとなっていましたが、より重要な歴史的変化は現地の言語、文化、遺伝子の交代であると考えれば、侵略の深さに注目すべきでしょう。その観点からは、武器、軍隊など表面に表れる武力ばかりでなく、科学技術力、栄養補給システムの効率、集団的免疫力などの総合的な格差が、侵略の深さを決定し、その後の歴史を変えていくといえます。

侵略は人々の身体を物理的に威嚇する悪の行為です。しかし、武力、科学技術力、栄養補給システムの効率、集団的免疫力などに明確な格差がある場合、効率に優れた栄養補給システムが拡散する過程として、侵略は、歴史を見る限り、必然的に起こり得る現象である、といえます。■






(51 侵略する人々 end)











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侵略する人々(14)

2016-07-15 | yy51侵略する人々

近世ヨーロッパ文明による新大陸(およびオセアニア)の植民地化は、このローマ帝国式侵略の最大規模でしょう。
十九世紀以降、イギリス、フランスなど近代のヨーロッパ列強は旧大陸でも植民地化を進めましたが、新大陸と違い、現地人の文化との格差が小さかったので、現地の宗教、言語まで駆逐することはできませんでした。
例えばインド、パキスタン、ミャンマー、マレーシアなどを征服したイギリスは現地エリート層の共通語として英語をかなり普及させることができたものの現地語に置換することはできませんでした。インドネシアを征服したオランダは現地にオランダ語を普及させることには全く成功していません。インドシナを征服したフランスも同様の結果になっています。

結局、歴史の経験から見ると、武力による侵略の影響力は、最低限には、支配民族を置き換えることだけです。そこから先、その国の経済構造、社会構造が根本から変わるのか、あるいは文化、言語が支配民族のそれに置換されるのか、さらには(交配により)遺伝子まで置き換えられるのか、それらいわば支配の深さ、は他の条件で決まる。これらは、侵略する側の文化と侵略される側の文化との力関係、つまり格差に依存する、といえそうです。
異民族支配の深さを決定するこの文化の格差とは、主として生産力、科学技術力など栄養補給システムの効率に寄与する格差であって、文化のその他の側面、たとえば美的洗練、宗教、ヒューマニズム、寛容性、文学性などの格差は副次的である場合がほとんどです。
侵略後の異民族支配が特に深く、言語(母語)まで置換した歴史上の例としては、古代ではローマによるガリア侵略、中世ではアングロサクソンによるイギリス侵略、近世近代ではロシアによるシベリア侵略、スペイン、ポルトガルによる中南米侵略、イギリスによる北米、オセアニア侵略などがあげられます。現代に近くなると深い侵略は少なくなってきますが、十九世紀のアメリカによるハワイ侵略などの例では現地言語が滅亡しています。








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侵略する人々(13)

2016-07-11 | yy51侵略する人々

要約すれば、古代末期から中世初期にかけてのヨーロッパ民族大移動に現われる侵略遠征は、栄養補給シテムとして放牧・素朴農業から(地方分散型の)高度農耕牧畜システムに移行する過程で頻繁に起こり得る現象である、といえます。ヨーロッパにおける古代から中世への歴史区分は、帝国の崩壊と封建制の成立と定義されていますが、このこともそのインフラストラクチュアである栄養補給システムの変遷過程(放牧・素朴農業から【地方分散型の】高度農耕牧畜への変遷)がもたらした現象とみることができます。
ローマ帝国は(中央拡散型の)高度農耕牧畜システムをインフラストラクチュアとする拡大侵略システムとして大成功し中央から辺境まで広大な領域を支配できたがゆえに時間経過によって崩壊の時期を迎えました。崩壊する帝国の文明が周辺遊牧民族に略奪侵略で利得を得る機会を与えたがゆえに、フン族やゲルマン諸族の大遠征を引き起こしました。
ローマ帝国の文明を表現するラテン語は、部族連合を作れない(フランス・スペインの)ガリア人のケルト語に置き換わることはできても、高度な部族連合として組織化されていた(ドイツ・オランダ・イギリス・北欧の)ゲルマン人のゲルマン語に置き換わることはできず、また堅牢に組織化されていた東ローマ帝国でも文明の高いギリシア語に置き換わることはできませんでした。
フン族やゲルマン諸族の大侵略は、騎馬軍団の高い機動性と敵の身体を暴力的に侵害する威嚇力に依存していたので、武力に優れた少数の軍団で多数の異民族を一時的に撃破できましたが、その物質的な効果は、歴史に名を遺した割には小さい、というパラドックスになっています。
侵略者たちは、征服した土地に自分たちの文化を植え付けることはできず、その言語は死語となり、遺伝子を残すこともできませんでした。少数の侵略者は武力で多数の異民族を威嚇し王族貴族として君臨し歴史に名を残しましたが、そのインフラストラクチュアである栄養補給システムは多数派の被征服者が以前から構築していた高度農耕牧畜システムに上乗りしただけでした。
この現象は、侵略者の武力による威嚇力が格段に優れていて、かつ少数であるという条件で成立します。
フン族、ゲルマン諸族、フランク族、イベリアアラブ、ノルマンバイキング、などの中世の侵略はこれに当たります。侵略後の支配の持続性は、被征服者の旧来の栄養補給システムにうまく乗り込めるかどうかによります。たとえば、被征服者の農耕牧畜システムの維持に協力する、彼らの言語、宗教に乗り換える、あるいは共存する、などです。
一方、初期のローマ帝国の拡大のように、自分たちが開発した栄養補給システムに被征服者を取り込み、宗教も言語も自分たちのものを埋め込むような侵略が成功するためには、よほど文明の格差が大きくないと無理です。世界最高の高度文明であるローマ文明、イスラム文明あるいは中華文明による蛮族の文明化、あるいは植民地化がこれにあたります。








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侵略する人々(12)

2016-07-03 | yy51侵略する人々

アラブも高度な文明を持つ頼もしい勢力ではありますが、当時のフランク王国も、ローマ帝国の遺産を受け継ぎカトリックキリスト教の中核である文明国でしたので、強大に見えたのでしょう。フランス現地に足場を持てないアラブ軍団は、地中海を経由する北アフリカからの援軍とスペインの本拠地からの遠距離兵站に依存するしかない、という限界があったはずです。
フランスでフランクに負けたアラブ勢力はスペインに戻り、そこを八百年近く(七一一年~一四九二年)支配します。フランスを支配できなかったのに、なぜスペインは支配できたのか?
当時のフランスとスペインの原住民はガリア人あるいはイベリア人でローマ文化に感化されたガロ・ラテン文化を持っていました。しかし八世紀以降、フランスの住民はフランク人に支配され、スペインの住民はアラブ人に支配され続けました。フランスのフランク人もスペインのアラブ人も少数の支配階級でした。多数派の農民、商工民は両国ともラテン系のキリスト教徒でした。フランク支配下のフランスとアラブ支配下のスペインとの境界線は、多少の変動はあるものの、だいたい、現在の国境線に近いところに落ち着いていました。つまり、たがいに大きく侵略することはなかった、ということです。
この形態を観察すると、フランク支配とアラブ支配は同じように侵略的ではなかった。守りが得意で攻めは不得意だった、と読み取れます。この時代、ローマ帝国とイスラム帝国で発展した高度な農業(農耕牧畜)技術が地中海沿岸全体に普及した結果、農地をインフラストラクチュアとする高度な栄養補給システムが定着しました。
フランクフランスもアラブスペインも支配権力の基礎は、農地(荘園)からの年貢、農民からの税でなりたつ封建領地ごとの武装勢力、つまり貴族軍人、騎士団、僧兵団、城郭守備兵、国王(キング、カリフ)近衛兵団など、となっていました。フランク支配階級は、フランク王の下に封建貴族、騎士階級の連合体を形成することで支配権を維持し、アラブ支配階級は地元のキリスト教徒の貴族軍人、騎士団など武装勢力を金銭により懐柔し、支配権を保っていました。
このような封建制武力システムは守りが得意で攻めは不得意です。自然に、各封建勢力の境界は安定します。

キリスト教徒とイスラム教徒の対峙という図式で見れば、当時のフランクフランス・アラブスペイン国境線は不可思議なエキゾチックな境界とみえますが、栄養補給システムとしては似たような構造を持つ二つのシステムが隣接共存していた、といえます。
西ヨーロッパの中世は暗黒時代といわれていましたが、国境線の変動は緩やかで、大規模な武力侵略は多くなく、農業生産は安定し、都市経済は発展しました。武力を握っていたのは封建領主に従う騎士軍団で領地を守ることに優れて遠方を侵略する機能はあまりありませんでした。
エルサレムへの巡礼保護を名目とする十字軍は、地中海東岸域への遠征を繰り返しましたが、散発的な略奪に終わり、(ビザンチン帝国の支配権簒奪以外は)大規模侵略システムとしては成功していません。封建システムは侵略の基盤としてはあまり機能しなかったといえるでしょう。西洋中世は、それなりに安定した時代だった、といってよいでしょう。

中世期での有名な侵略システムはバイキングです。北ヨーロッパから南東、南西の方向に頻繁に侵略を繰り返し、九世紀にはロシアに進出してノヴゴロド公国を樹立(八六二年)しました。バイキングはロングシップと呼ばれる当時の先端兵器である小型艦船を持っていました。海や川の騎兵隊のような機動力に富んだ強襲上陸部隊は百戦百勝の武力でした。当時の封建諸侯の軍隊は地方に分散していたので海軍や水軍を持たず、海や川からの奇襲には弱かったのでしょう。
セーヌ川河口域を侵略したバイキングは、フランスにノルマンディ公国を樹立(九一二年)しました。侵略された地方は、当時フランス王の武力が及ばず、無防備な土地が多かったようです。結局、バイキング船による略奪襲撃のリーダーであったバイキングの貴族が、ノルマンディ地方の都市を乗っ取って領主を名乗るようになり、ノルマンディ公と称して名目上、フランス国王の部下になりました。このノルマンバイキングの王侯貴族は、フランスの文化に取り込まれ、数世代もするとフランス語の方言(ノルマン語と呼ばれる)を話すようになりました。
ノルマンバイキング軍団は、続いてイギリスに上陸(一〇六六年)し、分裂割拠していたアングロサクソン人の支配地をつぎつぎに侵略征服し、現代に続くイギリス王家になっています。この人々は征服後、自分たちの言語であるラテン系のフランス語方言ノルマン語の使用を臣下に強制しましたが、上層階級以下には普及できず、口語としては衰退していきました。
官僚、僧侶、教師など知識階級だけが公式の場の演説、説教、講義などにノルマン語を使用していましたが、徐々に会話には使われなくなり文書を書くときに使う文語に限定されていきました。
その文語としてのノルマン語でさえも、時代が下るとすたれていきます。中世のイギリスで僧侶、教師などインテリは、文語としてはラテン語を読み書きするほうが、ノルマン語というフランス語方言で文を作るよりも国際的に通用し、外国人からも尊敬されることに気づいて、第二第三外国語としてラテン語と(フランス本国の)標準フランス語だけを習得するようになったためです。
結局、ラテン語系のノルマン語は死語となり、現地民が使うゲルマン語系(アングロサクソン系)の中世英語が生き残り、公式の場でも使われ文語にもなっていきました。










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侵略する人々(11)

2016-06-18 | yy51侵略する人々

イスラム教国のヨーロッパ侵略現象は、この(アラブ・ベルベルによる)イベリア半島の場合も、さらに時代が下った(オスマントルコによる)バルカン半島の場合も、ヨーロッパの歴史家の観点での記述が多く、イスラム教がキリスト教に勝つことの不思議さに集中しています。しかし、そこにみられるヨーロッパ中華思想を取り除いてみれば(拙稿の見解では)武力侵略システムの成功条件がいかに満たされるかの観点から分析することができます。

五世紀から六世紀にかけて、ローマ帝国崩壊の過程で分裂割拠していたライン川下流域のゲルマンの武装勢力は、ローマ帝国のガリア地方傭兵部隊として帝国軍の武装と戦法を引き継いでいたサリアン・フランク族を中心に統合勢力となって周辺部族を侵略して拡大しつつありました。
まずゲルマン式に略奪によって進軍し、その後ローマ式に占領都市に商業市場と教会と司法組織を置いて支配するというゲルマン・ローマのハイブリッド的侵略体制がうまく機能して、この勢力は当時のヨーロッパで最強の軍事システムとなっていました。フランク王国と名乗り、七世紀頃にはローマ帝国の後継者を自認していたようです。
八世紀になってイベリア半島からヨーロッパを侵略したアラブ勢力は、中東やアフリカ北岸の崩壊したローマ帝国の残骸である分裂した武装勢力と戦って各個撃破してきた成功体験から、ヨーロッパ大陸でも、どんどん行けると思っていたのでしょう。
たしかにスペインを支配していた西ゴート王国は三方海に囲まれたイベリア半島で侵略する新しい領域がなく武力発展が飽和状態に達して衰退の過程にありました。アラブはこの弱い西ゴート族を粉砕し敗走する残党を追ってフランスへ入りました。しかしフランス北部のフランク王国は拡大中の侵略勢力でした。正面から衝突してどうなったか?
トゥール・ポアティエ(フランス中央部)の会戦(七三二年)で、アラブの重装騎兵の突撃力は上り坂の林の中に布陣したフランクの密集重装歩兵部隊を突破できなかった、と戦史にあります。しかし、そういう細かい戦術的な問題以前に、異教徒であるアラブの大部隊が侵略進軍する場合、通行路上のヨーロッパ部族、この場合、ガリア人あるいはローマカトリック教徒たちを味方に引き入れることはむずかしかったのではないか、と推測できます。
イスラム帝国の拡大は、ローマ帝国の崩壊した後の中東、エジプト、北アフリカ領土(ローマ帝国の属領)など政治的空白地帯で順調に進みましたが、ビザンチン帝国(当時ギリシア、トルコ、バルカン、地中海諸島を支配)など大勢力が健在な地帯では停滞しています。当時のフランク王国も中央ヨーロッパ随一の大勢力であったので、アラブの略奪侵略システムで制覇するには相手が強すぎたということでしょう。フランク王国の覇権に影響されている南フランスでは、(フランクの武力が怖いので)アラブの進軍に協力する現地勢力は少なかった、と推測できます。









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侵略する人々(10)

2016-06-11 | yy51侵略する人々

実は、八世紀初頭のスペインで何が起こったのか、古文書などによる記録はほとんどありません。七一一年にアフリカからジブラルタル海峡を渡ってきた、大軍というほど大きくない規模(数千騎から一万騎くらい)のアラブ騎兵軍団(イスラム帝国のモロッコ地方ベルベル人部隊)が、当時スペインを支配していた西ゴート王国の軍と会戦して西ゴート王が戦死した、という記事が記録されているくらいです。
後世のヨーロッパの歴史家は、なぜキリスト教徒のヨーロッパ人(西ゴート族)がイスラム教徒のアラブ人(ベルベル族)に簡単に負けてしまったのだろうか、という観点で諸説を展開しています。西ゴート王国は実は内紛が絶えなかった、とか、西ゴート王ロデリックは王位継承問題で怪しいといわれていたので人心を掌握できず部下に裏切られた、とか、ジブラルタル海峡警備の西ゴート族貴族はロデリックに娘さんをレープされた恨みでアラブに船を貸し上陸を先導した、とか。
しかしそういう細かいことよりも、当時のイスラム帝国はマホメットの建国以来、急速膨張している過程にあって、ピンポイントのメッカから始まったビッグバンの爆風のような侵略は百年足らずで地中海から大西洋、インド洋まで広がった、とみるほうが分かりやすいでしょう。
侵略のエネルギーは連鎖的に自己増殖して侵略軍団は東西南北に行けるところまで進軍する、というシステムが成り立っていた、ということです。
この侵略システムは、フン族の場合と似たところがあります。アラブもフンも、ローマ帝国という広大な中央集権国家が崩壊する過程での無政府状態ないし分裂割拠の軍事環境において遊牧民からなる大規模な統率された騎馬軍団を組織できた点が重要でしょう。相手は軍事的に組織化されていない小規模勢力ばかりですぐ逃げる。各個撃破で連戦連勝できる。うまく侵略に参加すれば、略奪、恐喝、拉致、身代金獲得、奴隷売買、土地獲得など大いにメリットがあります。このような侵略システムは、一度大成功すれば、周辺を巻き込んで永続的に拡大増殖します。
アラブイスラム帝国はこうして、アラビア半島から東西南北に拡大しました。アフリカ大陸北岸を西へ進んだ勢力は、モロッコで大西洋に突き当たると、惰性でイベリア半島に侵入するのが自然でしょう。
このアラブの侵略拡散システムは、地形的に、当然スペインからフランスに向かうことになりますが、ここで初めて大規模に組織化された軍事勢力に遭遇しました。フランク王国です。









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侵略する人々(9)

2016-06-04 | yy51侵略する人々

大遠征によって歴史に名を遺した東西ゴート族もヴァンダル族も、その言語は遠征後数世紀を経ずに死語となって消えていきました。文書を残さない文化であったので文化の実態も消えてなくなりました。武力で支配者となっても少数であったので多数の被支配民と混血して子孫を残すこともできなかったようです。武力に優れ侵略に長けたこの人々は、征服地に遺伝子も残さず文化も言語も残すことができずに消えていきました。
勇猛果敢、あるいは残虐非道な謎の民族、と被害者のローマ文化人に形容されたフン族あるいはゲルマン部族ですが、遊牧生活技術が最高に発展した結果、最も効率の良い栄養補給システムが弱体化したローマ文明圏への侵略略奪という形態をとることになっただけでしょう。武力を活用するこのビジネスを効率よく実行するには勇猛果敢かつ残虐非道という風評を流布することが必要だったということです。
ローマ帝国の農耕地に侵略し征服したゲルマン人でしたが、その後、征服した土地で成功している農耕技術を取り入れ、故郷のドイツや東ヨーロッパの農業を改良し農業国に変貌していきます。同時にローマ文化に感化され、ローマ字で自分たちの言語を記述し、多神教からキリスト教に転向していく過程でもあります。
この時代、ゲルマン人によるローマ人の征服という現象は、逆に見れば、ゲルマン人が技術的、文化的にローマ化されていく過程とみることもできます。どちらがどちらを征服したのか、アイロニカルですが、文化的影響という面からは、結果は逆転といえるでしょう。

キリスト教が深く浸透した八世紀の南西ヨーロッパを侵略したアラブ軍団は、二十年という驚異的な短期間のうちにスペインからフランス中部にまで進軍した異教徒軍団です。五世紀に東からヨーロッパを侵略したフン族に比較できますが、リーダーの死によって瓦解したフンの支配体制とは対照的に、アラブは八百年間イベリア半島を支配しました。
イベリア半島の支配体制で、アラブ人はフン人と同じように人口の数パーセントくらいしかいない軍事エリートでした。その下の兵士や官僚、商人など現場の支配システムは、北アフリカで隷属させたベルベル人やユダヤ人を使っていました。多数派の都市市民や農民は現地のイベリア・ガリア人です。中世のスペインでは、このように全然違う民族がピラミッド階層をなして栄養補給システムが出来上がっていました。
少数者が異民族の上に八百年間居座って支配し続けるシステムも珍しいですが、本章冒頭に記したように十六、十七世紀には世界中を侵略したスペイン人が中世にはごく少数のアラブ人に八百年間頭が上がらなかったという歴史的事実は興味を引きます。
それでは、最初の(八世紀初頭の)素早い侵略からして、なぜそれが起こったのか? そしてなぜ(十五世紀末まで)長続きしたのか、知りたくなります。










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侵略する人々(8)

2016-05-28 | yy51侵略する人々

アッティラ軍団の進軍路上にあって、対決して侵略されるか、服従してともに隣地を侵略するか、どちらかしかないとなれば、侵略するほうに就く。その結果、連戦連勝の側に加われれば士気は上がります。侵略軍団は大きくなり戦意は高い。逆に敵は委縮する。ますます楽勝です。どこまでも侵略軍への参加者は増えます。桃太郎と同じです。
一方、この時代、先述したようにローマ帝国の栄養補給システムは破綻しつつあります。弱体化したローマ軍は長大な国境線を守り切ることができません。防衛のために雇ったはずの傭兵軍団が反乱し、不法移民が定着し、各地は無政府状態になっていました。騎馬を活用し機動性の高いフン軍団が、その防衛線を突破して主要都市を陥落させ、首都コンスタンティノープルあるいはローマに迫ることはそれほど困難ではなかった、と推測できます。
フン族の大侵略は、アッティラ大王という軍事の天才カリスマのもとに成立していたシステムであったので、大王の死によって求心力を失い、離散してしまいました。しかしローマ帝国の弱体化という時代環境では、フン族に限らず、軍事的連合が成り立つ限り、大きな遊牧騎馬軍団にとっては略奪しながらの止まらない進軍が有利で、占有が済んだ地域の守りは不利です。
ある遊牧騎馬集団が別の遊牧騎馬軍団に防衛線を破られ攻め込まれた場合、抵抗反撃して所有地域を守り撃退するメリットは少ない。むしろ弱い敵がいる方向に転戦するほうが容易で消耗が少なく戦いの戦利品も多い。群雄割拠の状態からは短時間で大きな連合体が形成されますから、いったん出来上がった大連合体は短期間に勢力圏を拡大しながら、略奪の効果が高い側面へあふれ出ていきます。
フン族に侵略されたゴート族は踏みとどまって戦い、防衛線を死守して故郷を守るよりも、反対方面に家畜を連れて大移動し隣地のローマ帝国領を侵略するほうが容易で利得が大きかったからそうしたのでしょう。はじめは難民として逃げて移動しているうちに前面のローマ帝国領への侵略がうまくいって戦利品、財宝が獲得できれば、そのメリットを求めて近隣の部族が侵略に参加してくるので結局、大兵力になってきます。
武力が強大化してますますその方向への侵略がうまくいく、という拡大再生産システムができあがります。こうしてローマ帝国領を侵略しながら東から西へヨーロッパを横断する東西ゴート族、ヴァンダル族などの長征が成立したと考えることができます。









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侵略する人々(7)

2016-05-21 | yy51侵略する人々

フン族は中央アジア起源の遊牧民です。匈奴と同一民族という説もあるように、紀元前から周辺の農耕民の領土を侵略し略奪する好戦的な軍団であったようです。侵略が得意であった理由は、まず武力が優れていたことです。
射出力の強い小型の複合材弓を使い走行騎射の技術に巧みな騎兵軍団でした。遊牧生活の延長として家畜を同伴して進軍、転戦、撤退を行うので兵站が容易で移動速度が速い。この集団走行騎射の攻撃に慣れていない重装歩兵隊は苦戦します。敵が組織力のない個別小軍団であれば、フン族は連戦連勝したでしょう。
軍の武力が強くなるためには個々の兵の戦闘力が強いだけではだめで、その数が多く、よく統率されていることが必要です。
フン族は紀元四世紀ころのある時期から急に軍団の規模を拡大し、統率された軍事力になってきます。その理由ははっきり分かっていません。マクロ的に推測するに、武器の技術が革新されたか、人口が急増したか、民族意識が高まったか、などいくつかの理論が考えられますが、どれもあまり説得力がありません。
むしろこの時期、食糧植物の品種改良や鉄器の普及、灌漑の技術など、農業の生産性が上がったことがフン族興隆を引き起こした遠因であった可能性があります。中央アジア周辺の農耕民の生産性が上がり経済が豊かになり食糧や財物の蓄積が大きくなると、必然的に武力による略奪が起こります。武力に優れた遊牧民にとって、農耕民の領域へ侵略し生産物や財物を略奪するメリットは大きくなるからです。
この時代、農耕民も部族連合を作っていてかなり大規模の防衛隊を組織しています。その防備を打ち破って侵略を成功させるためには規模の大きな攻撃部隊を動かせる組織力が必要です。中央アジアで、ある遊牧部族が戦闘力に優れていて他部族と連携する能力に長けていた場合、その部族を中心に連合集団が形成され、戦力のスケールメリットを求めて規模は成長し続けるでしょう。そうして、フン族を中心に侵略戦争のための軍事連合ができてきました。
紀元四世紀、中央アジアで形成されたフン族連合体は周辺部族の大統合に成功しました。ある程度の規模に成長すると、連戦連勝となりますから、その侵略戦線は東西南北の部族に圧力をかけます。その時代、ヴォルガ川から西方へ、ドン川、ドニエプル川の流域に広がる農耕地、牧草地の住民から略奪する食糧、財物の品質が高かったので、そちらを侵略するメリットが大きい。西へ向かう慣性がついて移動速度を増しながらますます強大な軍団が形成されていきました。
五世紀になると、このフン軍団は周辺の遊牧民を糾合して、ドニエプル川からドナウ川にかけて侵略を繰り返す大軍事勢力になります。ここで侵略の対象として、ドナウ川の対岸に広がる最高の文明領域、東西ローマ帝国にひきつけられていくのは当然の成り行きでしょう。獲物が大きければ大きいほど仲間を呼び集めやすい。その原理に気づいた軍政の天才がアッティラ大王だった、といえます。
東西ローマ帝国に襲いかかったアッティラの軍団は、中央アジアから黒海周辺、東北ヨーロッパにかけてフン族に連携追従してきたアラン系、イラン系、トルコ系、スラブ系、ゲルマン系等の諸部族から成り立っていました。つまりアッティラの進軍行路上に居住していたすべての部族が進軍に参加しています。これらの諸部族はスケールメリットを求めて大軍団に参加したのでしょう。









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侵略する人々(6)

2016-05-14 | yy51侵略する人々

フランク人のフランス侵略の場合、フランス地方の農村化が進んでいたためもあって、殺されたり逃げたりした人の割合は人口のわずかだったようです。現在のフランス・ドイツ国境を越えてゲルマンの血はフランス側にあまり入ってきていません。これはフランスの地でゲルマン人による婚姻、畜妾、姦通、強姦などによる性交流は少なかった、という事実です。なぜ分かるかというと、今世紀になってからのDNA考古学の進歩は目覚ましく、地域ごとの詳しいDNA型系統分布が調べられているからです(フランス・ドイツ国境がヨーロッパの二大DNA/YハプログループR1bとR1a/I1の境界にほぼ重なっていることが判明したことは興味深い)。
たぶん侵略したフランク人の数は多くなく、支配層を形成した後も、原住民を大量に殺したり、追放したり、ハーレムに囲ったりして、自分たちの子孫で人口を置き換えることはしなかった、できなかった、と推定できます。そうであれば、フランク語が古フランス語を駆逐することはむずかしかったでしょう。そのうえ、古フランス語を話す家臣団の教養やキリスト教信仰を取り込む必要があった場合、むしろ自分たちのフランク語を徐々に忘れていくのもしかたなかったと思われます。

フランク人のフランス侵略の一世代ほど前、五世紀中頃のフン人のフランス侵略の場合、侵略者たちは風のように来て風のように去っています。文化にも言語にもほとんど影響を残していません。 
フン族の来襲は、ヨーロッパ人にとって不可解な悪夢でした。なぜこんな理不尽な大参事が起こったのか理解できませんでした。
ギリシア・ローマ文明が完璧な古文書を残す有史文明であったのに対し、北方の森林、東方の草原に住む遊牧民族は文字を持たず、未開の無政府的、呪術的先史文化であったことが、偏見のもとだったのでしょう。フン人はモンゴロイドの相貌を呈していたらしく「顔が大きく、目が小さく、背が低いのに肩は大きく、浅黒い」と当時の歴史家は描写しています。顔に入れ墨など異様な扮装をしたこの人々の騎馬軍団が突然現れ、流鏑馬のように走行騎射する強弓の威力がヨーロッパ人に恐怖を引き起こしたことは想像にかたくありません。
五世紀のローマ帝国はキリスト教が浸透した宗教大国でもあったので、異教徒に侵略されたことはエリート・知識人にとって信仰上のショックでもありました。当時の文筆家は、フンの侵略を神の鞭(Flagellum Dei)、と表現しています。この恐怖の記憶がヨーロッパでは後世の歴史家に引き継がれて「ローマ帝国滅亡の始まりはフンの侵略にある」との通説が作られたと推測できます。
ヨーロッパ人の認識では現在も、フンの侵略は不可解な現象である、となっています。西洋文明の象徴であるローマ帝国がアジアから来た未開人軍団に破壊されたというショックでしょう。しかしこの見解の根底にあるヨーロッパ中華思想を取り除いてみた場合はどうなるでしょうか?

時代とともに技術は発展し経済社会は変化します。ローマ帝国の経済社会システムも持続可能な時期を越えれば破綻する時に至るのが当然でしょう。そうであれば、フンの侵略がきっかけにならなくても、早晩、崩壊するタイミングにあったということです。
ローマ帝国の栄養補給システムは、農耕牧畜による食糧生産と都市商工市民の維持、徴税による軍隊と貴族・官僚層の維持に依存していました。技術発展により農耕牧畜の生産性があがり地方が豊かになり、商業交易が発達すれば、地方が中央に従属するメリットは小さくなります。軍隊・官僚は上層部からの管理が緩くなれば自然とアウトソーシング、下請け孫請け体制になり、傭兵や外人部隊が大半を占めるようになります。各地で外人部隊がクーデターを起こし地方政権を樹立するのは時間の問題でしょう。帝国に隣接する野蛮人部族は国境を越えて不法移民し、豊かな経済の恩恵にあずかるための大移動が起こることも当然でしょう。こうしてローマ帝国は、大成功し巨大化して大繁栄したが故に、崩壊したとみることができます。








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