哲学の科学

science of philosophy

世界の構造と起源(22)

2011-03-12 | xx4世界の構造と起源

補足として、最後に、拙稿本章で述べたこのような(世界の構造と起源の)考察が実生活にどう応用できるのかを、ちょっと考えてみましょう。

まず世界の二面構造のうち、どちらが正しいのか? 目的論的な側面と因果論的な側面と両面があることは分かった。しかし実際私たちは毎日の場面場面でどちらかを選んでいるわけです。その場合、どちらが正しいと思えばよいのか? つまり、どちらを採用すればよいのか?

うまく栄養供給システムにつながることができるような現実を正しいと感じるように私たちの身体が作られているという拙稿の見解によれば、その人がその場面でおかれた環境によって正しい現実は違ってくるでしょう。太古の人類にとっては、目的論的な世界が明らかに正しかった。現代の私たちにとっては、残念ながらそう簡単にはいかないでしょう。

人間関係にますます依存する現代人は、無意識のうちに目的論的認知機構を高度に発達させています。一方、現代人はまた深く科学に依存して生きています。

人と忙しく会話する場面では目的論的に身体は反応していくものの、それだけが現実とは思えない。自然を観察しまた自分自身の身体を観察すれば、因果論的な物質世界が結局は正しい現実としか思えないと感じる。そこで現代人は二重生活をすることになる。クリスマスに聖歌を歌って正月に初もうでとか、上着にネクタイを締めているが下着はフンドシとか、私たちはそのおかしさをあまり自覚しないが改めて考えてみるとおかしいですね。

社会がますます緊密化してくるため、現代人はますます人間関係に依存し、言語に依存し、社会的自我の防衛に忙しくなる。この面で(自他の目的や意図を見分けて人間関係を操作するために)目的論的感覚をますます磨く必要がある。一方、科学が発達し医学が発達し、現代人は自分の身体をはじめとする地球上の物質を冷静にコントロールする必要も高まってきます。この面では(科学医学技術を使いこなす)因果論的センスを磨きあげる必要がある。

しかし個人の能力にはすぐ限界があります。それで周りの人々と助け合う能力がますます必要になってきています。科学を勉強する暇がなくても、よい医者と友達になるとか、組織を作って科学者を雇うとか。つまり場面場面に合わせてじょうずにふるまっていく。目的論も分かる、因果論も分かる、という顔をすればよい。実際、かしこい人はそうしています。家の中ではフンドシひとつでいるほうが楽でよい。しかし外に出たら何食わぬ顔をしてネクタイを締めてきちんと装っていく。そういう生き方が現代人にはますます必要になっているのではないでしょうか?

以上の拙稿の見解は、もちろんひとつの理論にすぎません。世界のチキン―エッグ問題、つまり世界が先か私が先かの問題、あるいは世界の構造と起源の問題に対応する理論は他にもいくつも考えられるでしょう。たとえば、すべては神様がなさっていることだから私たち人間は理解できるわけがないのであってそれでよいのだ、という理論もある。いずれ科学がすべてを解明するまで待つしかない、という理論もある。人生などすぐ終わってしまうのだから、めんどうなことは考えずに、元気いっぱい直感で動いているほうがうまくいくのだ、とか、いろいろな理論があります。

しかし私たち現代人の実際の人生に応用しようと思うと、どの理論も少しずつあやしいところがありそうです。どこかで破けてしまうような気がする。拙稿としては、あやしい理論ばかりの中では比較的シンプルなわりに破けにくそうな理論として、ここに述べたものをお勧めします。

(24 世界の構造と起源  end

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世界の構造と起源(21)

2011-03-05 | xx4世界の構造と起源

さきに述べたように、私たち人間は生まれつき、目的論による世界の見方と因果論による世界の見方と二つ(あるいはそれ以上)の認知機構を備えているようです。それらは互いに矛盾する認知システムを採用していて、それらにもとづいて作られる私たちの実用的理論は、互いに矛盾している。私たちはその矛盾に気がつかない。

現在の人類が使っているこの二つ(ないし複数)の認知機構は、どのように進化してきたのでしょうか? 人類発達史の観点から推測してみましょう。

人類は(拙稿の見解では)、言語の獲得より以前から主に目的論・意図的行動による世界の認識(反自然主義)を使って協力行動を行っていたと考えられます。この目的論を使う世界認識は十数万年前ぐらいからの言語の発展によって客観的現実世界を作り出していきます。一方、この言語発展のすぐ後を追うように狩猟採集あるいは農業手工業の技術が高度に発展する過程で因果論による世界の描写(自然主義)もまた洗練されていき、こちら側からも客観的現実世界の存在感を作り出していった、と推測できます。

時代とともに因果論は洗練されてきて、生産技術となり物質をコントロールする科学の基礎となり、客観的にはこれが正しい世界観であるとみなされるようになってきました。こうして客観的現実世界は目的論による側面と因果論による側面との二面性を持つようになります。

また言語の獲得と同じくらい古く目的論からアニミズムが発生しましたが、そこからさらに発展した宗教は部分的に因果論を取り入れながら論理化されてきました。(キリスト教に代表される)一神教では、創造主が作った被造物の内部に神秘はない(被造物は創造主が作った因果論に支配されている)というような因果論的な教義を普及させます。このように(少なくともキリスト教においては)パラドックスともいえますが、宗教が発展することで科学の基礎が作られてきました。

歴史の事実として科学は大発展し、科学知識を身に付けた現代人の多くは、ついに、世界全体は目的も意図もなく因果論により過去から未来へと物質の法則に従って自然に流れていく構造を持つ、と思うようになりました。現代人の常識では、目的論・意図的行動を見るのは自分や他人など人間の意図的あるいは意識的行動に限定して適用されるだけになってきています。

さて本章ではここまで、私たちがここに見ている客観的現実世界はなぜ存在するのか、そしてその現実世界はなぜ目的論的に、また同時に因果論的に現れているのか、なぜこのように矛盾する二面的な構造を持っているのか、などについて(かなり長々と)述べてきました。いろいろ脇道にそれすぎて話が分かりにくくなっている恐れがありそうです。そろそろ、このへんで要約して本章の話を終わりにしようかと思います。

本章の趣旨を要約すれば、他の動物と違って私たち人類は客観的現実世界の存在という認識を仲間と共有することによって仲間との緊密な協力を維持できるような脳神経系の仕組みを進化させた、ということです。私たちが今このように感じとっている現実世界は、実際、これをこう感じとることによって私たちが仲間と緊密にうまく協力して効率よく栄養供給システムにつながることができるようになっている。この事実から得られる結論として、この現実世界は人類進化の結果できあがった人類の身体相互間に作られる集団的認知機構(拙稿の用語では運動共鳴という)によって存在している、といえる。それが、私たちがここに感じとっている現実世界の起源といえます。

こうして人類は、仲間と協力して生活に必要な物事の動きを予測するための認知機構として、人間ならだれにとっても客観的なこの現実世界が存在するという理論を作り出した(存在の理論)。

人類のこの認知機構は、まず仲間の人間や動物の運動を予測し、目的と意図を持ってそれら意図主体が動いている、という目的論的な図式を作り出す。この図式により世界を描写し仲間と協力するために、[]というものがこの世界に存在するようになった([]の理論)。またこの図式を土台として言語が獲得された。

目的論のこのような発展に並行して、人類は狩猟採集・農業・工業の技術を高度に発展させる過程で、(目的論的な図式とは独立に)因果論による現実世界の描写(自然主義)を大いに使いこなして、自然の動きを正確に予測する方法を身に付けた。それが現代の科学的世界観に発展している。人類が共有する現実世界は、このように目的論的な側面と因果論的な側面との、互いに独立した(無関係な)二つの起源から発展した(互いに矛盾した)二面的な構造を持っている。

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世界の構造と起源(20)

2011-02-26 | xx4世界の構造と起源

言葉を話す人間だけが「この私がこの身体を動かしている」と思っています。それは(言葉を話す)人間だけが[]の理論を身につけているからです。人間以外の動物や機械は、私というものを持っていないからといえます。人間以外の動物と人間の能力の違いは、この違いからきている、といえるでしょう。

[]の理論は、人間の自意識を作り出し、過去の行動の記憶を作り出すことができます。まず、この身体を動かしているはずの私という意図主体の存在感を作り出しそれを身体の内部に貼り付けることができます(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。自分の身体の内部に貼り付けられた私という意図主体が現実世界の内部を動いていった履歴を記憶しておくことで、自分の人生と周囲の社会の遷移という仮想的時空間を作ることができます(拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか?」)。過去の行動を反省し評価し学習することができます。言語を使いこなして仲間と記憶を共有することで、行動評価の能力は増大していきます。そうすることによって目的を指向する将来の行動計画を立てて身体を操縦していくことができます。長期的な計画を立てて身体を制御していくこのような行動の仕組みを身につけることによって、人類は効率の高い栄養供給システムを獲得し、その結果、地球全域に拡大繁殖することに成功しました。

ちなみにこの成功には多少の副作用が伴いました。人類文明とともに[]の理論が徐々に発展肥大していった結果、ますます緊密になった人間集団の協力体制や会話技術や集団行動技術が発達すると同時に、副産物として、自我や人生にきわめて強くこだわる生き方を生み出してしまいました。

自我や人生にこだわる生き方は緊密な社会を発展させ文明の発達には役立ちましたが、現代人にとっては精神的な悩みの原因ともなっています(拙稿19章「私はここにいる―私と世界とのいかがわしい関係」)。強烈な存在感を持つようになった自我の取り扱いに困惑を感じとる人々は、自我の存在感と(これまた文明によって鮮明になった)客観的世界の存在感との断絶に強い違和感を感じとるようになります(拙稿23章「人類最大の謎」)。冷たい物質法則に支配された客観的世界の内部にあって自分だけが孤立した特異な存在だ、という孤独感におちいってしまいます。

科学者も、客観的世界の内部にあるとしか思えない自分の脳の中にある主観的な自我(意識あるいはクオリア)の探究が科学の課題だと思い込んでしまうという錯誤に陥ります(一九九三年 大森荘蔵『意識の虚構から「脳」の虚構へ―時間と存在(1994)』)。

文明の発達によって鮮明になった世界の客観性と[]の理論との違和感は、自我 (意識あるいはクオリア)の神秘性を生みだし、そこから自分の内面は自分しか知ることができないというプライバシーの不可侵性の信念を生みだします。それが極端に作用する場合は社会からの孤立感や虚無感を導き出す原因にもなっています。 []の理論の副作用によって生じるこのような(哲学的というべき)悩みは、拙稿の見解では、現代人を悩ませている哲学の間違いのうちでも最大のたぐいだと思われます(拙稿第1章「哲学はなぜ間違うのか?)。

さて、世界の構造に話をもどしましょう。拙稿の見解では、人間にとって世界はまず目的論的に意図的行動によって推移していくような構造を持っている。目的を持って意図的に推移している世界あるいは人々、社会に対して、私たちはおおいに感情を働かせて、願ったり祈ったり交渉したり闘ったり操ったりしながら、毎日を暮らしている。

原始生活においては、仲間の人間や敵や獲物や家畜や猛獣の動きに対してこういう対応行動をとることによって、うまく栄養供給システムにつながることができたからでしょう。原始的な宗教は、あらゆる物事に神性を感じとるアニミズムからはじまっています。人類は、自分たちが感じとれるすべての存在を、まずは目的と意図を持った人間的な存在として感じとり、自分たちがよく知っている性質を持って動いているに違いないと思い込む性向があるようです(一七五七年  デイヴィッド・ヒューム宗教の自然史』)。

ところが、人類の生活技術が発達してくると、食料を保存したり道具を作ったり戦争したり移住したり自然災害に対応したりしなければならない場面も多く出てきます。そういう場面では、人間や動物以外の物質、植物や非生物、自然現象などを自然の法則に従って操作する必要があります。相手が人間でもなく動物でもない場合(たとえば木石、土、空気や水の場合など)、その動きが目的論的に意図的行動によって推移していくと思うだけではうまく操作できません。むしろ、因果論あるいは場の理論、あるいは物質的知識や工作技術や科学を使って論理的に世界の推移を予測して行動するほうがうまく栄養供給システムにつながることに成功する。世界はこういう面も持っていることに私たちは気付くことになります。

世界は、いわばホットな目的論的な側面とクールな因果論的な側面との二面的な構造を持っている。そういう世界の二面性を知っている私たちは、自分たちも二面的に行動することで世界のこの構造に対応してうまく栄養供給システムにつながっていきます。

世界は二面的な構造を持つ。すなわち目的論的に意図的行動によって推移していくような側面と、因果論あるいは場の理論にしたがって(自然に、無目的に)推移していく側面とです。この二つの側面の間に調和はありません。互いに独立で無関係です。厳密に言えば、互いに他を否定しなければならないという意味で矛盾しています。

私たちが生活していく場面場面で、世界はそれぞれの側面を出してきます。人と交わる場面、獲物を追う場面、猛獣を防ぐ場面などは目的論を使うと便利です。一方、道具を使う場面、火や水を使う場面、あるいは石器や土器あるいは植物や動物の死体等の自然の物質を加工する場面などでは、因果論を使うと便利です。

それぞれの場面に対応して、私たちは目的論を使ったり因果論を使ったりする。私たちは、さらにきめ細かく、存在の理論や心の理論や[]の理論など実用的な理論を次々に使いこなしながら、現実世界の出方に対応してうまく動いていきます。そうして毎日うまく栄養供給システムにつながることが重要であって、世界の構造の二面性など、それぞれの実用的な理論の間に多少の哲学的矛盾があっても、それには目をつぶってうまく立ち回って生き抜いていけばよい、ということになります。

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世界の構造と起源(19)

2011-02-19 | xx4世界の構造と起源

いずれにせよ、人間は意志を持って自分の身体を動かしている、という目的論的な思い込みは、霊長類共通の認知機構を基礎とする人類の生得的機構であるようで(一九五七年 エリザベス・アンスコム『意図』既出、一九八七年  ダニエル・デネット意図的観点』既出)、拙稿の見解では、これが言語の基礎になっている(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。また同時にこの機構が(次に述べるように)私という存在の基盤にもなっていると思われます。

目的論・意図的行動により世界を描写する理論(反自然主義)を採用するならば(実際私たちは日常この理論を使って会話していますが)、私の身体が動いているのは当然それをだれかが意図を持って動かしているはずだ、ということになります(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。そのだれかは私と呼ばれるものだ、と私たちは思います。実際、私たちの言葉がそうなっているからです。こう思うことによって、私が存在すると感じられることになります(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。

ところが一方、因果論(あるいは場の理論)による世界の描写(自然主義)を採用するならば、人間の身体といえども因果関係にしたがう物質現象によって自然に動いているわけだから、自分の思考を含めて身体の状態の現状は、そうなる直前の身体の状態とそれに影響を与える周辺環境の状態とを原因として物質の法則によって決まる結果が現れることで実現している、ということになります。そうだとすれば、この身体も風が吹くのと同じように、自然現象として動いていることになるから、それを操縦している私という主体が存在すると言わなければならない理由はありません。

そうであるならば、なぜ、私たちはわざわざ私という理論を作り出して使っているのか? それはやはり私たちが生きていくために、そうすることがとても便利だからでしょう。私が私を私と思うようなそういう理論を身体に埋め込んでいることによって、人類は集団として緊密に協力できるようになりその結果、地球環境の中でずぬけて効率のよい栄養供給システムを維持する私たち現代人を出現させたからでしょう。

世界の中心に置かれているらしいこの身体を動かしているだれかがいる。そのだれかを私とする(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。まあ、こういう考え方を、拙稿としては、私の理論(筆者が作った理論という意味ではなくて、この世に私というものが存在するという考え方、という意味です)、と名付けましょう。

人間は、幼稚園に入るころまでに、存在の理論(本章で既述)と、心の理論(一九八七年 アラン・レズリー『ふりと表現:心の理論の起源』既出)、に加えて、ただいまここで名付けた[]の理論(まぎらわしいので[]とカッコでくくります)という理論群を身につけて人々と交わることができる。これらは幼児が大人の人間になるための基礎理論群であるといえます。これらの理論群を使いこなせれば、人々と言語を使って会話するときにたいへん都合がよい。逆にそうしなければ、まず言語をきちんとは使えません。人々と深く通じ合って協力する緊密な社会に参加することはできないでしょう。

私たちはまた、[]の理論を持つことで、自分の行動を記憶し反省し自分自身と会話することができる。自分の行動を基軸にして過去の出来事を記憶することでそれを思い出して利用できる。学習できる。これからの行動をうまく計画することが可能となる。便利な方法です。そうして人類は[]という理論を獲得し、自分たちが住む現実世界の内部を動いていく自我という存在を獲得したのです(拙稿20章「私はなぜ息をするのか?」)。

いまここで名付けた[]の理論は、昔から哲学者や心理学者が述べてきた自我とかエゴ、自意識等といわれるものに関連する概念ですが、それらと少しずつ違うところもあるので、やや脇道になるのを覚悟で少し詳しく解説してみます。

拙稿の見解では、目的論・意図的行動表現による世界の描写から派生したこの[]の理論は、人類の発達史上、言語と並行して急速に発展したと推測されます。

私たちは[]の理論を持つことで、仲間に私のことを私といって話をすることができます。まずこれがとても便利なことです。もうひとつ[]の理論を持つことのメリットとして、生活をしっかりと見通すことができるようになるという点が重要です。

私という概念がないと日記が書けませんね。日記も書けないような状況では、生活を反省することもできず、記録もできず、学習もできません。明日からの計画も立てにくいでしょう。現実世界の内部を動いているこの身体の動きを私という主体が意図的にこの身体を動かしているのだ、と感じとることで、それを記憶し、評価し、学習することができます。

私という主体が自分の身体の内部に存在していてそれがこの身体を動かしているのだ、という感じ方は物心ついたときから、無意識のうちに、ごく自然に私たちの身についています。むしろ自分の身体が動いていることに関してこれ以外の感じ方は考えられませんね。しかし自分の身体が動くときにこう思っているのは、大人の人間だけです。言葉を話せない赤ちゃんや猫や犬は、こう思っていません。赤ちゃんや猫や犬は何も思わないうちに身体が動いていきます。

赤ちゃんや猫や犬は、おいしそうな食べ物があれば「私としてはこれを食べよう」などと思わずにいつの間にかそれを食べている。受けた刺激に応じて決まった法則に従って自動的に運動が起こる。物が動くということは、こういうプロセスで起こることが、実は当たり前なのです。人間以外の動物は皆そうです。人間だけが例外だといえるでしょう。赤ちゃんも動物もロボットもコンピュータも自動洗濯機もエアコンも、(言葉を話す)人間以外の動くものはすべて「この私がこの身体を動かしている」などと思わずにいつの間にか身体が動いている。

言葉を話す人間だけが「この私がこの身体を動かしている」と思っています。それは(言葉を話す)人間だけが[私]の理論を身につけているからです。人間以外の動物や機械は、私というものを持っていないからといえます。人間以外の動物と人間の能力の違いは、この違いからきている、といえるでしょう。

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世界の構造と起源(18)

2011-02-12 | xx4世界の構造と起源

ちなみに意図を持つ主体が目的を追求して行動することで世界の物事が推移するという世界観は目的論と呼ばれ、アリストテレスから近代哲学に至る西欧哲学の系譜のひとつになっています(BC三三〇年頃 アリストテレス形而上学』既出、一七八一年 イマニュエル・カント純粋理性批判』既出)。私たちが人間や動物の動き(あるいは心理現象や社会現象)を見るときは、ふつうこういう見方をしています。

これに対して因果論と呼ばれる、物事はすべて原因から結果が引き起こされることが連鎖して推移していくのみであってどこにも目的を追求する主体などはない、という考え方も、古くから東洋にも西洋にもあります。西洋哲学ではこちらもアリストテレスから始まって近代哲学(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論既出)において発展し、現代科学の根底を支える思想になっています(自然主義という)。

因果論は、世界の中である変化が起こるのはその前の状態に原因があって、その状態から決まった法則に従って結果が起こるからその変化が起こる、という考え方です。世界には物事の推移を決める法則がまずあって、その法則に従って原因が結果を決めている。すべてはその法則と初期の状態だけで決まってくる、という理論です。

現代科学は典型的な因果論として作られています。現代物理学では、宇宙全体の時空間の上に定義される状態量伝搬方程式(時空間関数方程式)の展開によってすべての物事が推移するとする場の理論によって世界を描写しています。

科学が描く世界像によれば、物質現象を表現する微視的な(正確にいえば量子的確率分布の)状態は隣接直近過去の状態(物理学では境界条件という)によって必然的に決まることになります。そのような物質変化が連鎖し蓄積することですべての物事は推移していく。私たちの目に見える日常的な現象について例をあげれば、カエルの子は必ずカエルになる、つまりDNA分子が物理化学的法則にしたがって生物体を組織するから生物ができあがるのだ、という現代生物学の原理がその典型です。別の例をあげれば、犯人の頭蓋骨の内部にある一群の脳神経細胞に電位変化が起こったから指収縮筋の運動神経が活性化した結果、ピストルの引き金が引かれて殺人が起こったのだ、という見方を導く考え方です。その神経細胞の電位変化はその数ミリ秒前の周辺の連結神経細胞の電位変化を原因とする結果であり、そのまた原因はそのまた数ミリ秒前の神経細胞ネットワークの連結状態からの必然的な結果である、等々となる。犯人の犯意などいうものが表現される必要はない、となります(拙稿10章「欲望はなぜあるのか?」)。

因果論場の理論による世界の描写(自然主義ともいう)が正しいのか それとも目的論・意図的行動表現による世界の描写(反自然主義ともいう)が正しいのか? どちらでしょうか?

私たちの直感では、どちらもそれなりに正しいと思えるところがある。直感がそうなっているということは、人類が、互いに矛盾するこの二種類の世界認知機構を生得的に備えているということでしょう。実際、現代の認知心理学では、人間の幼児は機械的存在として非生物の概念を作り、目的論的存在として生物の概念を作り、その中間的なものとして人工物の概念を作るような生まれつきの認知機構を備えている、という実験にもとづく理論があります(一九九二年 フランク・ケイル『概念、種類と認知発達』)。

私たちの脳神経系に、他の動物の意図的行動を予測する機構が生まれつき備わっているとすれば、目的論あるいは意図的行動を読み取ることによる世界の捉え方(反自然主義)はそこから来ていると考えてよいでしょう。どうも私たちは直感を使う限り、単純な物事の動きは因果関係から予測する一方、(動物でないものも含めて)複雑な物事の動きは目的を持つ主体が意図的に動いて引き起こされている、と見たくなるようです。私たちは、雨乞いをしたり、転がるゴルフボールに向かって「入れ」と命令してみたり、株価チャートに向かって「そろそろ上がれよ」とか、つぶやきます。

人類の言語が意図を持つ主体の行動を仲間と一緒に集団的に予測するという(反自然主義的な)図式のもとに構成されている表現システムであるとする拙稿の見解(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)が正しいとするならば、言語を使って物事を記述する限り、私たちは目的論・意図的行動により世界を描写する理論(反自然主義)の枠内でしか物事を考えられないはずです。

一方、人間や社会の動きを含めて世のすべては自然の法則で移ろい行くだけであって、目的などどこにもない、というような因果論あるいは場の理論による世界の描写(自然主義)は、仏教やインド哲学などにみられるように歴史的に古くから無名の賢者たちによって唱えられてきたようです。この思想が現代科学の真髄になっていることはおもしろい現象でもあります。

しかしながらこの思想(因果論・自然主義)は歴史的に古いといっても(拙稿の見解では)たかだか一万数千年くらいの(農耕牧畜から始まる)人類文明の歴史の中で本格化した考え方でしかないと思われます。言語の発生は(拙稿の見解では)少なくともその十数万年も前に起こっています。したがって、人類の認知する世界像は、もともと目的論・意図的行動による世界の描写(反自然主義)が土台になっていて、後から因果論あるいは場の理論による世界の描写(自然主義)が、自然の物質現象を観察する実務家(ハンター・航海者・農業手工業生産者・軍人・医者など)あるいは理論家(哲学者・宗教家・天文学者・科学者)によって普及されたのではないか、と(拙稿の見解では)推測できます。

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世界の構造と起源(17)

2011-02-05 | xx4世界の構造と起源

この現実世界の中にA君がいる。A君はA君の意志によってA君の身体を動かしている。言い換えれば、A君はA君の意志によって動いている。A君の身体の動きを見て私たちはそう思います。しかしなぜ、私たちはそう思うのでしょうか? そう思うのは人間だけではないでしょうか? それともチンパンジーもそう思うのか? チンパンジーも仲間のチンパンジーが自分の意志によってその身体を動かしていると思うのでしょうか?

それでは猫もそう思うのか? カラスもそう思うのでしょうか?

肉食系の哺乳類や鳥類は、覚醒時には体温が高くなっていて、いつでもすばやく運動できます。その分、体温を維持するための餌食をいつも探しだして獲得しなければなりません。このような生態をとる動物は、その結果、身の回りの物事の変化を瞬間瞬間に察知してそれに対応して身体の神経・筋肉・内分泌系をすばやく変化させる機構を備えるようになりました。

これらの動物は、獲物や外敵など身体の周りに出現する変化に対応して、すばやく体勢を変化させることが必要です。これらのうち、高度な情報処理機能を持つ脳神経系を特に発達させた動物種は(霊長類が典型的ですが)、他の動物が動くときにその動きを予測して先回りする機能を持っています(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。

特に社会性の高い狭鼻猿類(ニホンザルや類人猿など)などでは、仲間や他の動物(運動物体)の動きを目と耳で見聞きして、それ(運動物体)が次の瞬間に目玉や顔や手足の筋肉をどう動かしてどのような姿勢を取ってどのような運動を行い、またどの位置に移動していくかを正確に予測できるようです(二〇〇八年 ジャスティン・ウッドル、マーク・ハウザー『人類以外の霊長類における行為把握:運動シミュレーションか推測法か』既出)。脳神経系のこの機構がさらに発展して、他の動物の意図を推測するシステムを作り出し、それが(拙稿の見解では)人類では言語の基礎になっている(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)、と思われます。

「お客が少ないレストランに私が入ってあげると、なぜか客が集まってくるんだ」と妻に言ったところ、「食事の時間が人より早いからじゃない?」と笑われてしまいました。人間は人間の動きをみると、その動きの意図を同時に感じとっています。逆に言えば、人間の意図を感じとれるからその人が動いたことが感じとれる、といえる。その人の意図を感じとれるからその人の存在が感じられる、ともいえる。その人が動くことと私自身とはどう関係するのか?私たちは無意識に予測してしまいます。私たちの脳神経系は、人間の意図を感じとりその動きを予想するときに最も活発に働くようです。

人類の言語(自然言語)は(拙稿の見解では)、意図を持つ主体の行動を仲間と一緒に同時に予測しそれを共有する、という図式のもとに構成されている記述システムです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。言葉(自然言語)を使って物事を語る限り、主体―意図的運動、というこの図式から抜け出せない(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』既出)。

これは(拙稿の見解では)言語以前に人類の認知機構が、目的あるいは意図を持つ主体の行動を仲間と一緒に同時に予測しその予測を共有するシステムとして構成されているからです。人間の認知機構は、物体(たいていは動物)が動くことを(目や耳で)感知すると、その動きの結果として実現する状況を予測し、その状況を実現するという目的や意図を持ってその物体(たいていは動物)が動いている、という図式を作り出す。

私たちは、たとえばライオンがシマウマの後ろから走っていくのを目撃すると、ライオンはシマウマを捕食するだろうと予測して、その捕食がライオンの走行の目的だ、ライオンはシマウマの捕食という意図を持って走行しているのだ、という図式を構成する(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。私たちは、リンゴが枝から離れて地面に落ちるのを見ると、「あ、リンゴは地面に向かうという目的を持って地面に向かって動いているな」と一瞬思います(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?【11】」)。

ところが現代科学は、アイザック・ニュートン(一六八七年 アイザック・ニュートン自然哲学の数学的原理』既出)に始まる因果関係を基礎とする力学、さらにジェームス・マックスウェルに始まる場の理論など、(偏微分方程式やテンソル方程式などの)時空間関数方程式を使って状態量の伝搬を表現することに成功し、これにより物質世界を記述することで主体―意図的運動という認知図式から抜け出しました(拙稿第14章「それでも科学は存在するのか?」)。

つまり、ニュートンによれば、リンゴは地面に落ちるという目的を持って地面に向かっているのではなくて、何か(この場合は地球重力)を原因として加速された結果(因果関係により)そのように動いているだけであって目的など持たない、ということです。この考えにもとづいて作られてきた科学は大成功しました。

一方、私たちの日常言語(自然言語)は(拙稿の見解では)、意図を持つ主体の行動を予測しその意図を描写する、という図式のもとに構成されている記述システムですから、科学の記述システムと日常言語のそれとの間には乖離が起こる。その乖離が現代に至り、(拙稿の見解では)先に述べた世界のチキン―エッグ問題(あるいはデカルトスピノザ問題、あるいは心身二元論問題、あるいは心脳問題クオリア問題あるいは現象学、あるいはハードプロブレムと呼ばれる形而上学の問題)を深刻化しています。

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世界の構造と起源(16)

2011-01-29 | xx4世界の構造と起源

人間は一人では生きられない。まして一人では子供を育てられない。人間は、家族や仲間と集団を作って、互いに緊密に協力し合って(高効率の栄養供給システムを維持することにより)生活することで、高い栄養エネルギーを要求し発育が遅い大きな脳を持つ子供を育てる。その大きな脳を持つ子は次世代として、仲間と緊密に協力できるような知的能力を持つ集団を再生産する。それが人類という動物の特徴です。

人類は(拙稿の見解によれば)、仲間との緊密な協力を維持するための特別の仕組みを持っている。それは(拙稿で述べる概念を使って言えば)、現実世界の共有です(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。この仕組みの上に人類の言語は作られている。さらに正確に言えば、人類は仲間と緊密に協力する機構として共通の現実世界というものを互いの身体の外に感じとれるような脳神経系を作り上げた。それが、私たちがここに感じとっている現実世界の起源である、と(拙稿の見解では)いえます。

さて、こうして存在している世界の中にあるように感じられる私という存在もまた(拙稿の見解によれば)、私たちがうまく仲間と協力するために存在している、といえます。私が私の身体と思っているこの物質の動きとそれが引き起こす感覚現象について、私が仲間と会話する場合、ふつうそれ(私の身体)が私の意志によって動いていて、その感覚を(私の身体が)感じとっているのだ、ということにして語ることになります。そうすれば仲間と話が通じる。逆に、そうしなければ話は通じませんね。

たとえば「ぼくが今、机のこっち側を持ちあげるから、ちょっと重いけど、A君、きみもそっち側を持ちあげて机を動かそうよ」と言う代りに、

「ぼくのこの身体は、なぜだか知らないけれど、今、机のこっち側を持ちあげるみたいだよ。この手が、なぜだか知らないけれど、重力を感知しているみたいだよ。だからA君、きみもそっち側を持ちあげれば、二人の身体運動の協調現象が起こって、この机は動かせるみたいだよ」と言ってみましょう。A君はぞっとして机を持つ手を離してしまうでしょう。つまりこういうことでは、会話はうまく伝わらない。人と人の協力はなりたちません。

A君と私の間に協力がなりたつためには、A君はA君の意志によってA君の身体を動かしている、私に関しても、私は私の意志によって私の身体を動かしている、とお互いに思い込む必要があります。そういうふうに動くものが私のこの身体だ、と思い込まなければなりません。つまりそういうように動くものが私だ、ということにする必要があります。

「ぼくが今、机のこっち側を持ちあげるから、ちょっと重いけど、A君、きみもそっち側を持ちあげて机を動かそうよ」と私が言うことによって、私というものが意志を持って自分の身体をコントロールしている主体としてここに存在している、という世界の現実をA君は確認する。そして同時に、私もそういうような世界とその中で意志を持って自分の身体をコントロールしている私というものの存在を確認する。

このような現実認識を、私と私の協力者であるA君とが共有する場合に限り、私とA君との間に緊密な協力がなりたつ。逆に言えば、たとえば二人で机を運ぶ、という協力がなりたつためには(拙稿の見解によれば)、机を持ちあげる意志を持ち机の重力を感じとることができる私、という主体が(私にとってもA君にとっても)この世界に存在するという現実を、はっきりと感じている必要があります。

他の動物たちとは違って、私たち人間は(拙稿の見解では)このような(意志を持つ人間が存在する現実世界という認識を共有する)仕組みで互いに協力する。その仕組みをうまく働かすために、私というものがこの世界に存在する、といえるでしょう。

昔の大哲学者の言葉をもじっていえば、「『ここに机がある』と私は思う」とA君に語る必要があるが故にはある

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世界の構造と起源(15)

2011-01-22 | xx4世界の構造と起源

私たち人間の身体もまた、蝶と同じように日々栄養を取らなければならない。そのためには私たちは、栄養を毎日供給してくれるシステムにつながっている必要があります。私たちの身体は栄養供給システムにつながるための機構を備えています。それは人類の場合(拙稿の見解では)仲間とつながるための機構でしょう。

それは仲間と共有する客観的現実世界を感じとる脳神経系の機構であり、仲間の心を読み取り、仲間と共有する空気を読み取って仲間と協調し協力して生活していく神経機構であり、それを効率化するために発達した存在の理論や心の理論であり、またそこから派生して自分というものを自覚してそれを操縦する機構にもなっています(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」拙稿12章「私はなぜあるのか?」など)。

これらの身体機構が、それぞれの状況で、私たちが栄養供給システムを作り出すために必要な世界を再構成していて、それが私たちの目に見える現実世界の構造となっている。逆に言えば、このような現実世界を感じとれる身体機構を持つことによって、私たち人間の身体は栄養を獲得している、といえます。

人間がつながっている栄養供給システムは、私たちにとって、いろいろな現実として現れてきます。たとえば、それは私たちが身の回りを動き回るために存在する道具や建物や道路など身の回りの物質の配置構造として現れてきます。また毎日を過ごすために存在する日常生活の習慣や言語など無意識の行動様式となっていたり、または家族や仲間と暮らすために感情や表情や行動をコントロールする技術、あるいは私たちが社会に参加するために先生や友人やマスコミから習得する常識や集団知識の集積となっていたりします。また物質の構造を知らなければならないときには、その現実は、科学理論の描く物質世界として現れてきます。

毎日の場面場面で、私たちはこれらの現実を感じとり、それに合わせて自然に身体が動くようになっています。逆に言えば、私たちにとって、そのように自然に身体が動くように現れる現実が正しい現実であり、そのように自然に動く身体の動きが正しい動きである、といえます。私たちは、自分たちの身体のその動きが正しいと感じることによって、身体にかかわるその物事が現実であると知ることになります。

ちなみに、正しい、とか、真実である、とかいう言葉は古来の哲学ではたいへんむずかしく使ってきましたが、拙稿ではごく単純に、だれもが現実と感じる、というような意味で使います。幼稚園児でも、いいとかいけないとか、うそとかほんととか、しっかり使いこなしていますね。人間は、哲学など知らなくても、正しいとか真実とかの区別は完全にできる。それは(拙稿の見解によれば)現実を現実と感じとるという身体の感覚からきていることだからです。

私たちは正しく栄養供給システムにつながるために正しく世界を思い描き、その中を正しく動いていかなければなりません。私たちはいつも、身体の動きが正しくあることを確認し、正しくないときはいつも正しくあるように修正しなければなりません。正しくある場合に、私たちはそれを現実と感じ、正しくないときにはそれを現実ではない、現実にあってはならない、と感じます。そして現実を正しく見ることができるように私たちの身体の動きを修正します。

私たちの身体は自然と正しく動く。私たちの身体が自然に動く動きを正しいという。私たちが毎日の生活で意識して、していることは、そういうことです。逆に言えば、そのように現実を感じとって動いている場合、私たちは意識がある、といわれる状態にある、といえます。

私たちの身体は、いつもそれぞれの状況で、それぞれの現実と接触し、目の前のその現実を正しく操作するように作られている、といえます。

目の前にあるパソコンを操作することがなぜこれほど楽しいのか? 自動車を運転して街角を走ることがなぜこれほど楽しいのか? 学校や会社に通って友達や同僚とおしゃべりしたり、忙しく仕事をすることがなぜこれほど楽しいのか? 

それは(拙稿の見解では)私たちの身体が、そういう物事を現実と感じ、その中に飛び込んでしかるべく身体を動かして動き回ることが正しい身体の動きだと感じるようにできているからでしょう。それら現実を正しく現実として感じとるとき、その中で自分の身体が正しく動くことでそれら物事は正しく反応してくれる。その現実感覚にそって身体が正しく動いていく結果として間違いなく栄養供給システムにつながることができる。そのとき私たちは楽しいと感じる。そのような仕組みに、私たちの身体がなっているからです。また逆に、私たちの身体がそうなるようにこの現実世界が作られているから、とも言えます。

たとえば、私はA君と協力して机を会議室に運ぶことができます。A君が机の向こう側を持ち、私がこちら側を持って持ちあげる。机を持ちあげてA君が後ろ向きに廊下を進む。私は机のこちら側を持ちあげながら、A君の動きに合わせて前向きに廊下を進む。廊下が(私から見て)右に曲がっているところでは、A君は(私から見て)左によって大まわりをすることで、私が進みやすくしてくれる。

この協力行動をするためには、A君は自分の身体と私の身体と机が連結して作られている連結運動体の動きを正しく予測して自分の身体を操縦できなければなりません。そのためにA君は三次元空間の中を動く連結運動体の存在を間違いなく現実の世界として感じとっている。

A君は、骨と関節と筋肉からなる自分の身体と、同じような構造を持つ私の身体と、さらに大きいが単純な剛体である机からなる連結運動体が現実に実際にここに存在している、と感じている。そう感じているから私と協力して運動することができる。逆にこういう運動体が、今ここに現実に存在していると身体で感じない限り、A君はうまく私と協力して行動することはできないでしょう。

私とA君は、この三次元空間の中に存在している地面と重力が働くことでその地面に引きつけられている物質である自分たち二人の身体とそれらに掴まれている机という運動体が存在していて、それは重力の法則や人体運動の法則などよく分かっている法則に従って動いている、という現実を強烈に身体で感じとっています。そうすることによって、私たちはうまく協力して運動することができる。その結果私たちは栄養供給システムにつながることができています。

このようにこの物質世界が現実に存在していると感じとることは、私たちが自分たちの身体を正しく動かし、互いにうまく協力して生きていくためには必要な条件であるといえます。逆に言えば、このように私たちが身体を正しく動かして互いにうまく協力して生きていくために、この現実世界は存在している。拙稿の見解によれば、これが現実世界の存在の起源であるといえる。つまりこの世界は(拙稿の見解によれば)、私たちが互いにうまく協力して栄養供給システムにつながることができるために存在するようになった、といえます。

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世界の構造と起源(14)

2011-01-15 | xx4世界の構造と起源

拙稿の見解では、世界の起源は私たち人間の間に起こる集団的な運動共鳴です。仲間との運動共鳴によって、私たちは客観的な世界が存在していると思い込む。

目に見えて手で触れる物質でできている世界がここにある。この世界の中にある物質である私の身体がこの世界を感じとっている。私は私の身体を動かして世界の中を移動し、世界の(ごく小さな)一部分に影響を与えることができる。こうすることができるということは、ここにこの世界が現実に客観的に存在するからである、と考えられます。

以上のような考え方、あるいは物事の捉え方、つまり物事を見てそれが存在すると考える理論を私たちのだれもが持っています。拙稿ではこれを、存在の理論、と呼ぶことにしましょう。子供の成長過程で、存在の理論は心の理論の発達に先立って一歳くらいから幼児に発生し、四歳ころの心の理論の完成を待って完成すると観察できます(一九九八年 ウィルコックスベイラジオン幼児期における物体の個別認識・隠蔽実験に関する判断における特徴情報の利用』既出、など)。

現実世界は(拙稿の見解では)私たちの身体に備わっている運動感覚機構によって作り出される存在感によって表現されている。私たちに共有されている存在の理論によって現実世界の存在感は発現している、といえます。存在の理論は、結局は人々の身体の間に作られる運動共鳴にもとづく経験記憶の共有によって支えられている。つまり、だれが感じても同じ世界が存在するかのように感じられる場合、それが現実世界だということになる(拙稿23章「人類最大の謎」)。

ここにこの現実が間違いなく存在していると私たちが実感できるということは、この現実を感じとることができる存在の理論を私たちのだれもが共有しているということに他ならない。つまり、だれもがこの現実世界を私と同じように感じとっているはずだ、という私たちの実感を支えている考え方が存在の理論です。

現実を感じとるためのその理論は、仲間の人間たちの感覚をその身体の動きから自分の身体で感じとる運動共鳴の機構にもとづいています。この存在の理論は、私たちの身体の内部に無意識の空間感覚を作り、また生活空間を作り、手続き記憶を作り、意味記憶を作り、あるいは空気、あるいは掟、礼儀作法、社会通念、あるいは人生の理論、処世術、神話や伝承の物語、あるいは民間信仰、信心、あるいは地理歴史の知識を作り出す基礎となっています。またこの理論は科学を作り出して現代社会を支えています。さらにはこの存在の理論が人々に共有されているおかげで現代文明のいろいろな現象、たとえばテレビ、新聞が発信する世相やファッションなども作り出されている、といえます。

この現実世界に表れているいろいろな存在になじみ、それを作り出す存在の理論になじんでいることで私たちの身体はこのように動いている。逆に言えば、私たちの身体がそのように動くような現実とそれを作り出す存在の理論が存在するように私たちは感じる。つまり私たちの身体のそのような動きが世界を作り出している、と(拙稿の見解によれば)いえます。

そうしていつの間にか、その中に自分が置かれている世界というものが身の回りに広がっている、と私たちは思い込むようになっている。それは厳然として存在し、整然とした法則に従って動いていると思えます。幼児が成長して幼稚園に入るころにはこのような現実世界を身体で感じとる能力を身につけ、大人と通じ合って生活できるようになります。成長の過程で存在の理論を身につけていくこの仕組みによって、人間は世界を共有し、その中で互いに協力して上手に世界を利用することで、地球上もっとも繁栄した動物となりました。

私たち人間は世界をこういうものとして捉えています。つまりこの宇宙は宇宙の歴史の結果としてこうあり、生物は生物の歴史の結果としてこうあり、人類は人類の歴史の結果としてこうある。我が家は我が家の歴史の結果こうあり、私は私の人生の結果こうある。すべてには法則があり、その法則に従って展開した過去の歴史がある。それらの法則と歴史は、私が今どう思おうと、どう願おうと関係なく、そうある。私たちはそう感じる。それが、私たちにとっての、この世界の現実の作られ方です。

さて、ここで現実として存在するこの世界はなぜこのような構造になっているのか、を考えてみましょう。つまり、私たちの身についている存在の理論は、私たちの身体の感覚器官が感じとる物事をどこでどう切り取って現実世界として再構成しているのか? それは(拙稿の見解では)その場その場で、特に仲間との関係において、私たちの身体がどう動けばよいのか、どう動けばこのこういう身体を子孫に伝えていけるのか、という必要によって決まってくる。

それは、世界がどうであるから私たちがどう動けばよいのか、という問題であるというよりも、私たちが世界がどうであると思い込むことで動けばよりよく動くことができるのか、という問題である。人類が進化の過程で獲得したその仕組みが、世界を構成する存在の理論を作り出してくる、と(拙稿の見解では)考えられます。

野に咲く花はなぜこれほどまで美しいのか? 生物学(エコロジー)の理論によれば、蝶を引き付けるため、といえるでしょう。蝶にとって花の美しさは栄養という意味がある。一方、花にとっては蝶は生殖という意味がある。蝶は花を美しい(あるいは、おいしそう!)と感じとってそれに近づいていくことで、栄養獲得に成功する。花は蝶に花粉を運ばせることで、生殖に成功する。ともに勝利する。ウィンウィン関係です。こういう関係は共進化する。

蝶にとって花の美しさは、栄養を補給して生き延びるために必要であるから存在する。そのとき同時に、花にとって花の美しさは、生殖に成功して子孫を残すために必要であるから存在する、といえます。

蝶が住む世界は、なぜ美しい花が咲き乱れる野原なのか? 花の野原は、蝶の身体が生存するためにそれを作り出している栄養供給システムです。そうであれば、蝶は美しい花を魅惑的と感じとって近づいていくような身体になっているはずですね。 同じように考えれば、私たち人間が感じとっているこの現実世界もまた、私たちが生き延びるために必要であるから私たちの身体がこれを作り出している栄養供給システム、といえるのではないでしょうか? そしてそこで人間は、魅惑的な花の群れを見つけ出して、その栄養供給システムに身体をつなげる必要があるはずです。

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世界の構造と起源(13)

2011-01-08 | xx4世界の構造と起源

私がクラゲの刺身になってしまった後、私の仲間のクラゲが二匹ほど水槽に残っていたとしましょう。

「あれ、あいつがいないよ」

「ああ、あいつね。さっき網ですくわれたから、今頃刺身になっていると思うよ」

「あ、そうなんだ。あいつがいなくなった分、世界が広くなったけど、ちょっとさびしいね」

二匹のクラゲは、こんな会話をするかもしれません。私というクラゲが一匹いてもいなくても関係なく、この二匹にとっては当然、この水槽世界は存在し続けていますね。つまりクラゲ集団にとっては、世界は永久に存在し続けている、といえます。このことは、人類集団にとって(拙稿の見解では)、ある人がいてもいなくても、この三次元宇宙空間が存在し続けているのと同じことです。

ところで、刺身になる直前の私が、彼らがするであろうこのような会話を想像したとしましょう。その場合、その会話の中では、私が刺身になった後も世界は存在し続けていることになる。

この想像の話を私は網ですくわれる直前に、仲間のだれかに話したとしましょう。その場合、私とその仲間との間で、世界は存在し続けることになっている。

「ぼくが刺身にされちゃった後、きみたちはぼくのことを覚えていてくれるだろうか?」

「覚えているとも。忘れるわけないじゃないか」

というような会話をクラゲの私たちがするとき、私たちの間では、その後もいつまでもこの世界は存続しなければなりません。

私が刺身になってしまうかしまわないかにかかわりなく、こうしてこの世界は存続し続ける。私とは無関係に存在する世界というものは、こうして成り立っている、といえます。

まさにこれが(拙稿の見解では)、世界の起源であるといえるでしょう。私たち人間が仲間どうし、世界がここにあると思い、この世界は私が何を思うかとはかかわりなく私が死んだ後も私の存在とはかかわりなく当然客観的に存続していく、と思い込みながら会話をする。そうすることがこの世界を成り立たせている。

そういう世界の中に置かれている互いの存在を認め合って集団的に行動する。互いに共有するこの世界の存続を同じように思い込んでいる仲間と協力して毎日の生活をする。私たちはなぜそうするのか? それは、そう思い込むことで、私たちの祖先が大いに繁殖し、そう思い込むような私たち子孫を残したからでしょう。

私たちの身体がそうなるように作られていることによって、世界は、今日現在ここに存在し、明日の未来にも存続することになる。こうして、私が存在していても存在していなくてもかかわりなく、世界は厳然として存在し続けることになります。これが(拙稿の見解では)、世界の在理由、つまりこの現実世界の起源です。

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