補足として、最後に、拙稿本章で述べたこのような(世界の構造と起源の)考察が実生活にどう応用できるのかを、ちょっと考えてみましょう。
まず世界の二面構造のうち、どちらが正しいのか? 目的論的な側面と因果論的な側面と両面があることは分かった。しかし実際私たちは毎日の場面場面でどちらかを選んでいるわけです。その場合、どちらが正しいと思えばよいのか? つまり、どちらを採用すればよいのか?
うまく栄養供給システムにつながることができるような現実を正しいと感じるように私たちの身体が作られているという拙稿の見解によれば、その人がその場面でおかれた環境によって正しい現実は違ってくるでしょう。太古の人類にとっては、目的論的な世界が明らかに正しかった。現代の私たちにとっては、残念ながらそう簡単にはいかないでしょう。
人間関係にますます依存する現代人は、無意識のうちに目的論的認知機構を高度に発達させています。一方、現代人はまた深く科学に依存して生きています。
人と忙しく会話する場面では目的論的に身体は反応していくものの、それだけが現実とは思えない。自然を観察しまた自分自身の身体を観察すれば、因果論的な物質世界が結局は正しい現実としか思えないと感じる。そこで現代人は二重生活をすることになる。クリスマスに聖歌を歌って正月に初もうでとか、上着にネクタイを締めているが下着はフンドシとか、私たちはそのおかしさをあまり自覚しないが改めて考えてみるとおかしいですね。
社会がますます緊密化してくるため、現代人はますます人間関係に依存し、言語に依存し、社会的自我の防衛に忙しくなる。この面で(自他の目的や意図を見分けて人間関係を操作するために)目的論的感覚をますます磨く必要がある。一方、科学が発達し医学が発達し、現代人は自分の身体をはじめとする地球上の物質を冷静にコントロールする必要も高まってきます。この面では(科学医学技術を使いこなす)因果論的センスを磨きあげる必要がある。
しかし個人の能力にはすぐ限界があります。それで周りの人々と助け合う能力がますます必要になってきています。科学を勉強する暇がなくても、よい医者と友達になるとか、組織を作って科学者を雇うとか。つまり場面場面に合わせてじょうずにふるまっていく。目的論も分かる、因果論も分かる、という顔をすればよい。実際、かしこい人はそうしています。家の中ではフンドシひとつでいるほうが楽でよい。しかし外に出たら何食わぬ顔をしてネクタイを締めてきちんと装っていく。そういう生き方が現代人にはますます必要になっているのではないでしょうか?
以上の拙稿の見解は、もちろんひとつの理論にすぎません。世界のチキン―エッグ問題、つまり世界が先か私が先かの問題、あるいは世界の構造と起源の問題に対応する理論は他にもいくつも考えられるでしょう。たとえば、すべては神様がなさっていることだから私たち人間は理解できるわけがないのであってそれでよいのだ、という理論もある。いずれ科学がすべてを解明するまで待つしかない、という理論もある。人生などすぐ終わってしまうのだから、めんどうなことは考えずに、元気いっぱい直感で動いているほうがうまくいくのだ、とか、いろいろな理論があります。
しかし私たち現代人の実際の人生に応用しようと思うと、どの理論も少しずつあやしいところがありそうです。どこかで破けてしまうような気がする。拙稿としては、あやしい理論ばかりの中では比較的シンプルなわりに破けにくそうな理論として、ここに述べたものをお勧めします。
(24 世界の構造と起源 end)