哲学の科学

science of philosophy

存在はなぜ存在するのか(2)

2007-11-22 | x3 存在はなぜ存在するのか

筆者はどうも存在という言葉が、あまり好きではありません。存在、なんて存在しないのじゃないか? 存在なんて、いい加減な、ぞんざいな言葉なのじゃないか、と思えてしまう。

「今朝は晴れていて気持ちがいい」と言いたいときに、「今朝が存在してかつ晴れが存在しているので気持ちの良さが存在する」と言い換えることはできますが、素直な言い方とは思えませんね。 あるいは、「今朝と共に晴れがあり、そして気持ちの良さがある」とも言い換えることもできそうですが、どうですか? つまらない言葉遊びのような気がしませんか?

 存在という言葉は、いい加減で頼りないけれど、存在感という言葉は存在感がある。ふつうの人は、存在論などという言葉はあまり使わないけれど、直感で感じる存在感は頼りにしていて、それに導かれて毎日の行動をしている。

 「彼女は存在感がある」というと、何を言いたいか、すぐ分かりますね。

つまり人間は、哲学理論以前に、直感で感じる存在感をもとに目の前の物質や人物が、今その場所に幻覚ではなく現実に存在し、自分や他人など人間の感覚に映り、自分や他人の運動作用にきちんと反応し、また干渉し、影響する、と思っている。

自分が感じる存在感と他人が感じていると感じられる存在感が組み合わさって、人間は物の存在を感じている。窓の外にいる子供が「きゃあ、ミミズがいる!」と叫ぶのを聞けば、聞き手の脳は自動的に子供の目に映っているミミズの存在感を感じる。

人間が感じる物の存在感は、自分だけがその物の存在感を感じていると感じるよりも、だれもがその存在感を感じている、という集団的感覚が先にある。それがそのまま、その物の実在感になっています。

物の存在を感じる人間の脳のそういう機構、つまり主観的な言葉でいうところの存在感、それがすべての存在の根拠でしょう。目に見える現実の物質も、そして目に見えない錯覚などすべての存在も、存在感を感知する脳のその機構が働くことによって存在していると思えるのです。

私が目の前に見ている物質たちは客観的に存在しているらしい。私以外の人間らしくみえる物質、つまり他人も、私と同じような構造の人体という物質らしいから、彼らも私と同じように周りの物質たちが存在しているらしいと感じているらしい。あらゆる経験が、その感覚と矛盾しないから、この物質世界は、私の主観とは独立に客観的に存在しているらしい、と理屈ではなく直感で私は感じる。

このことは、自分が身体を動かしていろいろな角度から周りの物質を見回し、手で接触することでいつでも確かめられる。さらに周りの人々の行動を見聞きしたり、その人たちと会話したりすることから、毎日毎日の経験でますます直感的に確信できる。こうして、物質世界は私の主観とは別に客観的に存在できる。これ以外に、客観的物質世界の存在のしかたはありません。

目の前の物質を指して、「○○がある」と言うとき、まず○○は私たちの日常的な経験側にしたがう物質として、いくつかの条件を満たしている。

(○○としては、たとえば、読者のパソコン、一万円札、一円玉、地球、近所の奥さん、あるいは日本の総理大臣、などを思い浮かべてください。)

つまり○○は空間のどこかに位置していて、立体的な輪郭を持っていて、周りのものと同じように何色かの光を反射している。触れば温かさや、堅いか柔らかいか分かる。重心は静止しているか滑らかに動く。瞬きをしている間になくなってしまったり、数が増えたり、形や大きさが激変してしまったりすることはない(筆者の一万円札は瞬く間に消えるし、一円玉はいつの間にか殖えるが)。○○が何かに接触すれば、運動は相手の影響を受けて変化する。つまり、相手にぶつかって止まったり、跳ね返ったり、減速したりする。何にも接触しなければ、○○の動きは変化しない。

観察者が目玉や頭を動かしても、内心の念力で祈り倒しても、その影響で○○が動くことはない。逆に私たちが経験でよく知っている物質の運動法則だけで○○は動いていく。○○は、だれがどの位置から観察しているかに関係なく私たちのだれもが良く知っている現実の法則にしたがって動き変化する。だれが見ても、同一時点では同じ形に見えて、同じ動き方をするように見える。

こういう場合、私たちは○○の存在感を感じ「○○がある」と思い、聞き手に向かってそれを指差しながら「○○がある」と言う。あるいは、動作でそれを示す。そのときの聞き手の目つきを見れば、その人が私と同じように○○の存在感を感じていることが確認できる。そういう場合○○は、たしかに、客観的に、存在するわけです。

○○の存在感は、瞬時に、それに適切に対応する私たちの反射的な行動を引き起こし、それと同時に、感情ラベルを添付されて記憶に蓄えられる。近所の奥さんと会ったら(反射的に)挨拶する、とかです。こうすることで私たちは、ふたたび同じ存在感を感知したときに、ますますじょうずに適切な行動が取れるようになる。

ものが存在する、ということはこういうことです。逆に言えば、こういうこと以外に、存在の神秘的な意味などはありません。

こうして存在するもろもろの物質はすべて、私の視線の方向や私の関心とは無関係に、そこにある、ということを認めることができる。それを認めると、私の身体から前後左右上下に、目の前から無限遠方にまで、ここにも、あすこにも、そこらじゅうに存在する無数の物質を認めることができる。ということは結局、この世、つまりこの物質世界が存在できることになるわけです。

この感じ方は、私の感じ方という以前に、すべての人の感じ方だと分かっています。西洋の近代哲学者たちも、世界の存在を前提する前に経験で感知できるものから考えを始めるべきだ、として古典哲学の存在論と分かれて近代の観念論を作っていきました(一七八一年 イマニュエル・カント純粋理性批判』{既出})。

こういうふうに人間は、自分が感じるというところから身の回りに広がる物質世界を認めると同時に、他人もそう思っていることを確認する。そしてそこにある物質を、会話の相手と一緒に認めることができることを確認する方法として「○○がある」という言葉を作ったのではないでしょうか? 物質世界の中に物質として○○がある、ということと、「○○がある」という言葉があることとは、互いに支えあっている。話し手が「○○がある」という言葉を発したのに対して聞き手がうなずいた瞬間に、客観的世界の中に○○が出現し、会話の聞き手と話し手は対称的に同じその世界の中に立って○○を見つめていることになる。つまり聞き手と話し手は、お互いに相手の鏡像になり、同一の内部構造を持っていて、いつでも交換可能でなければならない関係になる。それと同時に聞き手も話し手も、このひとつの世界の内部にあることとなって、これから共に○○という存在に対応して行動していくことになる。

動作や指差しや視線や言葉を使って、「物が存在している」という感覚が人間どうしで通じ合えると、物質世界についての共有する経験を会話で表現し、知見を交換できる。そしてそれはだんだんと伝承的知識になり、書物に書かれ、学問として科学に発展していく。

科学は、こうして出来上がってきたのでしょう。誰もが同じように目や手で感じられる物質を測定して数量で表わし、その量的変化の法則を方程式で表わす。そうすると、目の前の物質は確かに、どれもどんな場合でも、だれが観察しても、物理化学の方程式による予想通りに変化する。そういう意味で、目の前の物質は科学が表現するように存在している、と感じられる。

しかし物質の世界にはないもの、「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」、などを相手に格闘したい哲学者やこういうものから作品を発想する文学者などとしては、物質を出発点にはできません。物質世界にはないこれら抽象概念がだれでも自明に理解できるはずだ、という前提で議論を始めてしまう。その言葉を相手がどう思っているかは確かめようがないのに、それは存在するに決まっているものとしてどんどん話を進めてしまう。文学に限らず言葉を使う仕事では、言葉は通じるものと前提して、どんどん使ってしまう。確かに、ふつうはそうすることが正しい。強引に自信を持ってどんどん使ってしまうことで、それらの言葉は相手に通じるようになる。この方法は強力です。逆に言えば、実体を指差せない以上、そうする以外にこれらの言葉を相手に分からせる方法はないのです。そうすることで、言葉で言っているものはしっかりと存在するかのように思えてしまう。人間の言葉は、そういう働きを持っているから、これほど簡単に通じていくのです。

しかし、言葉をうまく使うことで物質ではないものが存在するかのように思えてしまうかどうかと、目の前の物質が存在するかどうかとは、レベルの違う話です。混同してはいけません。

脳内の存在感という感覚にしか根拠がない「存在」という概念を出発点にして、ものごとを哲学しようとしても、結局は挫折する。

そうだとすれば、「存在」という言葉は、物質世界で指差せるものだけに限定して使うべきでしょうか? 議論を分かりやすくするためにはそうかもしれませんね。まあしかし、いままで自由に使ってきた言葉を勝手に制限することなどできない。言葉使いに関して拙稿の方針は、むしろ自由主義、つまり、あいまいな言葉はあいまいなまま使う。「存在」に関しても、拙稿では、世間で使われているあいまいな言葉使いをそのまま使っていくことを原則にします。

さてその上で、拙稿では、物質も物質でないものも全部ひっくるめて、この世に存在などは存在しないのではないか、と疑ってみる。存在とは人間の脳が感じる錯覚の一種だ、と決め付けてみるわけです。少々過激ですが、この決め付けがうまく成功すれば議論はかなり単純化できるはずです。

では少々過激に聞こえても躊躇せず、それで進めてみます。目の前の物質も私の身体も含めて、皆さんが存在すると思っているあらゆるものは存在しない、と言いきってみる。まあとりあえず、そこから出発してみましょう。

まず、借金の取立てに来た人が話を始めた瞬間をとらえて「そんなことよりも、まず、この机は存在するのだろうか」と言ってみましょう。「この机は私が見てもあなたが見ても、どう見ても確かにここに存在するように感じられます。しかし、本当に存在しているのでしょうか? さらに疑問なことは、私の借金というものは、この机と同じような意味で存在できるかということなのです」と暗い顔をして深刻な声で言いましょう。取立人は、顔色を変えて帰っていくでしょう。とりあえず、しばらくは返さなくてすむかもしれませんよ。

昔からこういう哲学議論はありました(一七一〇年ジョージ・バークリー人知原理論{既出}など)が、過去の偉大な哲学には深入りせず、さっと流してみましょう。

まず、現実にそこにあるとしか思えない目の前の物質(たとえばこのパソコン)も、存在しない、ということにしましょう。目の前に物がある、という考えは意味がない、ということにします。そこにそれがある、と感じさせるような存在感が錯覚として脳内に存在するだけだ、とするわけです。つまり、万物は存在しないのに存在するかのように感じられる。その存在感を与える原因となる物理学的な法則は存在するとしても、その法則がバーチャルではなくリアルに存在するかどうかを、人間は結局のところ知ることができない。限りなくリアルらしい、というところまでは言える。しかし絶対にリアルだ、ときめつけることができない。つきつめるほど、リアルもバーチャルも、意味があいまいになってくる。こうなると、何を言っているのか、よく分からなくなってきます。

だから、存在するとかしないとかを、むずかしく議論することは空しくなってくる。ただ目の前の物質世界はどう見ても存在する、としか感じられません。この世は、あまりにももっともらしく存在しています。あらゆる物理現象、生命現象、人間行動が、複雑に関連しながらも経験的な法則に完璧に従って実在しているとしか感じられない。疑いようがない自然さで動いている。このリアルさは、けっしてバーチャルとは思えない。だいたい、そっくりにリアルなバーチャルを作るのは大変ですから、この世界全体がそれだとは、とても思えない。こんなに複雑精巧に作られたバーチャルはありそうにない。この世界を見かけだけの、実在しないバーチャルな幻影だ、と強弁するのはつらい。そんな説明をしようとすると、話が複雑になりすぎる。強弁はあきらめて、これは存在すると言ってしまうほうが、話はまったく簡単になる。

ですからここは素直になって、その物質が確かに存在するように感じるときその物質は存在する、と言うことにすればよいのです。まず言葉を整理するためだけの意味で、そういう言い方を使いましょう。この場合、存在するということの意味は単純です。存在するようだ、と言える場合、それは存在することにする。これ以外にむずかしい意味を考える必要がない。

これで議論は単純になった。

 目の前のそこにある物質は、私が見てもだれが見ても、どう見ても確かにそこに存在するように感じられますから、とりあえず存在する、という言い方をすることにします。これで(語の使い方を改めただけですが)現実の物質世界が存在することになりました。

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存在はなぜ存在するのか(1)

2007-11-17 | x3 存在はなぜ存在するのか

(第三部 私はなぜ死ぬのか? begin

(サブテーマ:13 存在はなぜ存在するのか? begin

第三部 私はなぜ死ぬのか?

13  存在はなぜ存在するのか?

ここまで、存在するとか存在しないとかいう言葉を何回も使って話を進めてきましたが、存在するという言葉自体に問題がありそうですね。

このへんに、哲学が間違う最大の原因があるのではないでしょうか? 筆者の考えでは、哲学者たちが「○○が存在する」とか「いや存在しない」とかいう議論を始めるとき、もう半分は間違っています。さらに議論が盛り上がって、哲学者も文学者も科学者も入り混じって、みんなが「××が存在する、しない」という話が楽しくてしかたなくなってきたら、もう議論は、ほとんど全部間違っているのです。「意識は存在する、しない」とか、「命が存在する、しない」、「主体的存在が・・・」とか言い出したら、もう駄目です。温泉旅行での宴会の終わりみたいにめちゃめちゃな話が飛び交うだけになります。

人間は、そもそも「存在」という言葉をきちんと使いこなすことができないのではないでしょうか? もしそうだとしたら、まず、存在などという存在は存在しないのではないか、と疑ってかかるほうが、まだ間違える恐れが少ない。

昔から存在論という哲学があって(現代哲学のよい例としては、たとえば、二〇〇三年 バリー・スミス『存在論』)、存在という言葉に関しては、真剣なむずかしい議論がされてきました。ここでは「存在」という語に対して、哲学で使われてきたむずかしい意味はとりあえず脇に置いておいて、ふつうに世間で使う意味で考えてみます。

ただふつうの人がこの言葉を使うときでも、気をつけないといけない場合がありそうです。

中国語でも日本語でも英語でも、人類の使うどの言語でも、「存在する」、「ある」という言葉はもっとも使われる述語です。「私はここにいます」とか「トイレはどこにありますか?」とか「破産したときの保証はありますか?」とか、「存在する」、「ある」を述語にする言葉を使わなければ日常生活はできません。しかし「私は何のためにこの世に存在しているの?」とか、「私の幸せはどこにあるの?」とか、自分の内面や人生を考えたいときなどには、この言葉は無邪気に使っていてはいけないような気がしますね? それを考えてみましょう。

何かが存在する、というのはどういうことでしょうか?

なぜ人間は「○○が存在する」、「○○がある」と思うのでしょうか? そのとき人間の脳の神経機構はどう動いているのでしょうか? それは人間以外の動物とどう違うのでしょうか?

人間以外の動物は、「○○がある」と思うでしょうか? たぶん思わないでしょう。動物は、そこに食べ物があれば「ある」などと思わないで、すぐ食いつきます。猛獣がいるのを見つけると「いる」などと思わないで、すぐ後ろを向いて逃げます。

そのほうが素早く行動できて、生き残りやすいでしょう。「ある」とか「いる」などとわざわざ思うのは、時間とエネルギーの無駄です。動物が何かを感じる場合、その知覚信号に対してどう運動すべきかは、たいていはっきりしています。そういう場合、知覚信号を感じてから「それがそうある」などと余計なことを考えないで、そのまま決まっている通り直接行動すればよいわけですからね。神経系のハードウェアとして、生まれる前から、そういう回路を造り込んでおけばよいわけです。

そこに机があっても、動物は机というものの存在など感じないでしょうね。「そこに机がある」などということを感じるための神経活動に時間とエネルギーを使うのは、生存のためには無駄なばかりか損です。動物は、机という目の前の障害物を反射的に迂回するだけです。動物の内部では、その迂回運動の神経信号という形で、その障害物、つまり机、は表現されているだけです。

例外的な動物は、人間です。机を見て、「そこに机がある」と思い、後で思い出して「あそこに机があったよ」などと、仲間に伝える動物は人間だけです。

たとえば目の前のこの机は存在する、と私は感じる。間違いなく存在するとしか思えない。目で見えるし、手で触れるし、持ち上げようとすれば重い。こういうとき人間の脳は、直感で、それが現実に存在すると感じるように作られている。それから私が、ふと身体の向きを変えて窓の外を見たとします。それでも視界の外れにさっき見た机が存在していることはしっかり分かっている。顔に日が当るのを避けるために、窓を向いたまま私が後ずさりしても、ふつう、机にぶつかってお尻を痛くしてしまうようなことはありません。

私たち人間の脳の中には、目に映っていてもいなくても、自分の身体とその周り三百六十度、自分の周りにどういう物体が存在しているかという世界の情報がしっかり保たれている。しかも、言葉で「ここに使えそうな机がある」と叫んで窓の外にいる仲間に、相手の目に見えない物体の存在感を伝えることができる。人間は自分だけではなく他の人にも当然分かるものとして、目の前の世界を客観的に見ている。仲間の人間のだれかに見えるはずの世界を自分の脳内に再構成して、客観的な世界像を作り、そこに机があると思う。これは仲間と運動を共鳴させ、感覚を共感して集団行動をとるために進化した人類特有の脳機構の働きです。その共鳴と共感の機能で、人間は物事の存在感を客観的に感じ取れるのです。

赤ちゃんが育っていく過程で、物事の存在をいつごろからつかめるようになるのか。よい実験例があります。一歳児後期(生後二十二月)の発達検査実験です。被験者の幼児は、濡れていないオモチャ(ぬいぐるみ)を見せられた後で隣の部屋に移動させられる。そこで、実験助手の女性から「オモチャに水がかかってびしょびしょになっちゃった」という説明を受ける。それから元の部屋に戻り「さっき見たオモチャはどれ?」と聞かれると濡れていない同型オモチャではなく、水に濡れた状態になったオモチャ(ぬいぐるみ)のほうを指摘できる、という実験結果が報告されている(二〇〇七年 ガネア、シュッツ、スペルク、ドローシュ『見えないものを考える:幼児、言語使用による心的表現の更新』)。このように言語を使って物の存在を感知する能力は、他の動物にない人類特有の機能です。

脳が、現実の客観的物質世界の存在感を感じているとき、脳画像撮像装置で見れば、辺縁系扁桃体から海馬周辺の覚醒時に活動する神経回路網が活性化している。運動神経が活動するとき、この扁桃体から海馬、視床側坐核あたりの神経回路網が、感知した物体を計算に入れて自分の身体の運動形成を調整するようです。

主観的には、その運動調整過程を物体の存在感として記憶していく。この運動調整の機構は哺乳類に共通と思われる。この機構を下敷きに物体の存在感が形成される。特に、視覚を駆使して樹林の枝から枝へ跳び回る霊長類で、物体を認知するこの機構は大きく発達した。

さらに、群生活をする霊長類は、周辺空間に位置する物体を集団的に認知する機構を発達させた。これは、運動を集団的に連動させる脳機構を下敷きにしていると考えられる。物体を認知する運動調整過程の記憶機構と集団連動機構との連結による(たぶん類人猿特有の)この脳機構が、物質世界を客観的に認知する人間の神経活動の基盤になっているようです。

現生人類はこの機構をさらに発展させて、憑依した他人の視座に乗り移り、そこから世界を見ることによって自分たち集団全体の運動を予測する。その運動に干渉する現実の物質を集団的に感じ取り、自分だけの主観的な感覚から独立して存在するように感じられる確固とした物質世界の客観的な存在感を獲得している。そして他人の行動を理解する。つまり運動の共鳴によって、他人が周りの物質とどう関わるかを他人の内部から仮想体験する。拙稿の見解によれば、人間はその方法で、他人の心の存在感と同時に身体周りの物質の存在感を獲得している。

ではなぜ、物質の存在感を感じる機構が、人間に備わっているのか?脳に物体の存在感を生成するしくみは、たぶん哺乳類共通の神経機構でしょう。哺乳動物の脳神経系に記憶される物体の存在感は、対象の特徴によって分類され、条件反射によって食いつくとか、逃げるとかの身体運動を引き起こすと同時に、感情回路に導かれて好悪などの感情ラベルを貼り付けられて記憶される。人間の場合、自分自身との関係を含めた世界モデルの中での位置づけによって感情ラベルの貼り付けがされるようです。その記憶学習は、後の行動の基準を作っていきます。

以上の考察は、現在の科学で説明しようとしても仮説の域を出ませんが、筆者は、近い将来、神経系の詳細な観察が可能になったとき、この機構は実証されるだろうと予測しています。脳神経科学と情報科学の現状を見ると、容易にブレークスルーがくるとも思えませんが、こういうものはある時点で一挙に全体像が解明されるものと楽観したい。筆者の予想では、かなり楽観的といわれそうですが、今世紀中にそれがあるような気がします。

存在はなぜ存在するのか。これが、科学的な意味でのその答え、ということになるでしょう。存在という語は神秘的な響きがありますが、それも、まもなく科学の対象になってくるわけです。

 

存在の問題に対して、旧来の哲学は非常にむずかしく考えてきました。存在はすべての根本だ、すべては存在から始まる、と哲学者たちは思ったのでしょう。たとえば、「認識論と存在論の相補性」とか、「主体としての私が認識する現象を最も単純化して説明できる理論としての世界の存在」というような言い方で議論を発展させてきた。存在が実体か、それともそうではなくて認識が実体か、などという議論もあった。現代に近くなると、「存在は存在しない」(一九二七年 マルティン・ハイデッガー存在と時間』)という言葉も使われています。

二十世紀後半以降の現代哲学では、何が実体か、などという不毛の議論は避けて論理の整合性を追求することに興味が移っていく。しかし、そういう現代風のアプローチでも、この世の存在の神秘性を説明することはなかなかうまくいかないようです。 

確かに、この世がこんなふうに存在してここに自分がいる、ということをふしぎ、神秘、と思う人は多いでしょう。しかし、その気持ちは「存在」という言葉の響きに引っ張られている。 「我あり」という言葉を思い浮かべるから、「私がここにいるのだ」という気がするわけでしょう? それで自分の存在を不思議と感じてしまう。その前に、私たち人間はなぜ「○○がある」と思うのか、そっちを調べるほうが先ではないでしょうか?

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私はなぜあるのか(5)

2007-11-09 | x2私はなぜあるのか

自己中心的世界モデルとは違い、客観的世界モデルでは、自分の運動が直接、世界を変形させて感覚信号を変化させる、という現象は、はっきりとは表れません。自分の運動の結果よりも、むしろ他人の運動の結果が、はっきりと表れる。他人同士の力関係、他人の間の運動、気象など自然の力、物質の変化、などなどダイナミックに変化する複雑な大きな世界を自分はあまり動かずに観察している、と感じられる。

客観的世界モデルは、自分の内面が表に出ない世界のモデルです。自分も他人も、人間はみな同じように、外面だけしか見えない。外面を見て内面を想像するしかない。そういう世界のモデルです。このモデルでは、世界は物質からできていて、物質の法則だけで動いている。科学は、この世界モデルを土台にして作られている。科学の土台になっていること以前に大事なことは、このような客観的世界モデルを使うことで、人間は仲間と世界を共有することができることです。他人も自分も、間違いなく、同じ世界を見ていると感じられるからです。

そうなれば、他人と共有できるその世界は、客観的に存在すると感じることができるようになる。ふつう私たちは、この物質世界を見渡すとき、強烈な存在感、現実感を感じる。この物質たちを見ながら会話すれば、間違いなく話が通じる。拙稿の見解では、それが言語の基盤になります。そうであるとすれば、子供が成長して他人とうまく会話できるようになるためには、客観的世界モデルをきちんと身に着けなければなりません。

自分が世界の半分以上を占める自分中心の世界モデルと、自分が限りなく小さくなる客観的世界モデル。このふたつの世界モデルを同時に使いこなして、私たち人間は行動している。正確にいえば同時ではなくて、二つのモデルシステムを瞬時に切り替えながら使っています。

テレビゲームとテレビドラマを切り替えながら、楽しんでいるようなものでしょう。(テレビゲームで遊ぶときのような)自分中心モデルを運転するときは、たぶん、側坐核大脳皮質頭頂葉小脳を良く使うらしい。また、(テレビドラマを見るときのような)客観的世界モデルの運転には、帯状回前頭葉、小脳を使うようです。(拙稿の見解では)脳の違う部分を使うこれらふたつの計算システムは、ひとつのコンピュータの違うアプリケーションソフトのように、お互いが知っていることを知り合うことはない。互いを無視して、それぞれ独自に、世界の動きを予測計算している。両方のシステムの計算結果は、それぞれ別の信号として脳の扁桃体海馬など辺縁系の神経システムに送られる。そこで視覚聴覚などからの入力信号と統合され、統一した存在感を作り出します。

ふつう人間はこの二つの世界モデルの切り替えを意識しない。うまく重なり合っていて、滑らかに繋がっているように感じます。つまりこの二つのモデルは同じ現実だ、と人間は感じるようにできています。自分の外側に間違いなく実在している唯一の現実世界を自分は感じているのだ、と私たちは思っている。

しかし、それは錯覚です。

拙稿の見解によれば、この二つの世界モデルは、同じ世界を表しているものではない。私たち人間は、二つの異なる世界を感じながらも、それらをすぐに重ね合わせてしまうために一つのものと思い込んでいる。なぜそうなのか? それを調べてみましょう。

一般に霊長類は、たぶん生まれてすぐ、赤ちゃんのころに(脳の基底の部分で)自分中心世界モデルが完成するようです。人間の場合は、その後二歳くらいで(たぶん帯状回・前頭葉を使う)他人への憑依機構ができる。憑依機構を使って他人の視点に自由に移動することで、自分中心モデルとは別の環境認識システムとして、客観的世界モデルが作られるのでしょう。

客観的世界モデルを使うと、自分中心モデルではあんなに強く感じられた安心感とか不安感とか、生々しい感覚や感情が、あまり感じられない。物体の手触りや、重さや、匂いや、温かみが、はっきり感じられない。一方、時間空間の中で目に見える物体の運動ははっきり分かります。物質がどう動いていくか、周りの環境はどう変わっていくか、はっきり予測できる。その記憶もはっきりしている。この二つの世界モデルの働きは、このように明らかに違うものです。私たちはいつもそれらを同一視するから混乱が起こり、自分と世界の関係に関する(心身問題など存在論的な)違和感がでてくる。

客観的世界モデルのほうは、物質に注目する場面で使う感覚神経系、つまり視覚と聴覚、触覚から構成されている。物質に向けられるこれらの感覚は、他人と共感できる。視覚、聴覚、触覚は、身体の外側にある物質の動きを把握するために発達した感覚システムなので、信号伝達経路も身体の内部感覚とは別になっている。実際、客観的世界モデルは、脳幹や辺縁系に生ずる身体感覚や内部感覚、感情などの情報は使わずに、身体の外側の世界を客観的に表わす情報だけから作られるモデルとなっている。

客観的世界モデルは、身体内部のことはうまく表せない代わりに、身体外部の物体の運動や変化を表わす場合には完璧です。身体の外側の情報を感知する感覚器官(視覚、聴覚、触覚)を使って、大脳皮質と小脳を使う運動予測シミュレーションを働かせる。過去の整然とした記憶や長期的な将来の予測ができるようになる。実際、この世界モデルは運動の記憶、社会機能、言語機能などの土台になっています。

拙稿の見解では、人間が他人と会話をするときはこの客観的世界モデルを主に使う。そうしないと整然とした分かりやすい話はできません。言語はこの客観的世界モデルを下敷きにして発展した。哲学や科学をするときは、もちろんこのモデルの上で言葉を使っているわけです。

一方、たとえば痛みや恐怖で取り乱して赤子のように泣き叫んだりするときは、自分中心モデルを使っている。こういうときの自分中心的な感情などは、長期的に整然と記憶して適時に想起することがむずかしい。自分中心モデルを使っているときは、たぶん大脳皮質でのシミュレーションをあまり活用していないので、客観的物質世界で使われる運動のイメージや言語につながらず、連想しやすい形で記憶することがむずかしいのでしょう。

自分中心モデルは、脳幹と辺縁系、基底核を主に使うらしく、とっさの場面でのすばやい反応には便利ですが、長期的で整理された記憶、予測、精密な制御などにはうまく使えない。

テニスやゴルフなどでも、初心者が自分中心モデルを使って無邪気にボールを打とうとすると、まずうまくいかない。先生のフォームを見習ったり、鏡やビデオで自分のフォームを見たりして意識的に修正できるようにならないと、上達しません。客観的に自分の姿を見ることで、自分の動きを予測したり記憶したりできる。このように他人や自分のフォームを客観的にみるときは、客観的世界モデルを使っている。上達して達人になると、また自分中心モデルを使って無邪気に打つようになる。それで、客観的に見ても正しいフォームになっているわけです。

現代人の生活では、複雑な社会の中での言語生活が重要ですから、自分中心モデルを使うと損をすることが多い。自分中心的な行動が優先して他人の気持ちを無視してしまうのです。自分中心では、言葉を上手に話すこともできません。言語は、他人の目には見えないような、客観的でないものを表そうとしても、うまく伝わらないものだからです。

それで、現代人は、ますます客観的物質世界モデルにはまりこんで生きている。それだけが世界のすべてだと思うようになっています。私が感じることはすべて、ここにある私の身体という物質が感じているのだ、と思っている。この世に無数に見える人体のうちで、ひとつだけが自分が自由に操縦できる。その身体の動きを自分で感じることができる。その身体を通じて、現実世界を感じることができる。それが自分の身体だと思っています。だれの目にも客観的にはっきり見えるこの私の肉体、というものを考えるとき、私たちは客観的世界モデルを使っている。

ふつう私たちが、私、自分、というものを考えるときは客観的世界の中にある自分の身体を考えている。筆者もそうですが、たぶんたいていの人はそれを自分と思ってまったく違和感はないはずです。しかしその場合、私たちは、しっかりと客観的世界の中にはまりこんでいるわけです。逆に言えば、客観的世界に入り込んでいなければ、私というものを、しっかりと考えることはできません。

大人の人間は、客観的物質世界の中の目に見える自分の身体に自分が感じる五感のほか、あらゆる感覚、身体内部感覚、錯覚、感情などを上手に投射しますから、自分の感じることと目に見える自分の身体との統一した存在感を感じることができるのです。

私は、ここにあるこの人体が私の思ったように動く、つまり私の念力で動かせる唯一の物体なのだ、と感じる。そこでときどきは、自分中心モデルも使えることを思い出す。自分の手足が届く空間だけを考えて、そこにあるものを自由に動かすことだけを考えれば、自分中心モデルが使える。だからそういうときは、自分の身体が世界の中心だという感じもする。生まれてから今までの経験のすべてがそれを正しいと教えてくれる、と感じます。

しかしまた、客観的世界モデルを使って世界をながめる限り、物質としての私のこの肉体は世界の中心でもなんでもない。他の人間の肉体とまったく同じようにただの物質でしかない。他の物質とまったく同じように物質の法則にしたがって動き、変化し、いつか壊れていく。

そのことは、私が何を思おうと思うまいと関係のない話です。ただの物質である私の脳が私の意思などというもので動いているはずがない。私の肉体も含めた世界のすべては単に物質の法則にしたがって変化しているだけだ、と思うしかない。神も仏も、誕生日占いも、幸運の女神もない。この世には、科学が明らかにした物質の法則しかないのです。

この客観的物質世界の存在感が強まるほど、物質としての私の人体の外見がはっきりとだれの目にも見えてくる。それと同時に、私がひそかに私と思っているだれの目にも見えない深いところにある熱い感情の部分は無視され、居所を失っていく。

だれの目にも見える私の肉体の外見を含む客観的な冷たい物質世界と、私にしか感じられない私の内面にあるこの熱い思い。この二つは関係がないわけではないらしいけれども、どうも一つのものとは思えない。その違和感が、私たち現代人を悩ませる。それを解決することを哲学に期待したい、とも思うわけです。

しかしそれは無理です。哲学は、真面目にそれをすればするほど、言葉を精密にし、冷たい言葉を使うようになるしかない。それで、どうしても目に見える冷たい物質世界、科学の世界、あるいは数学のような形式論理のほうへ近づいてしまう。精密な言葉遣いは、話し手から見ても聞き手から見ても同じに見える客観的世界について語るしかない。言語というものは、客観的世界の中での話し手と聞き手の対称性を土台にして作られているからです。

話し手も聞き手もこの世界全体も私が感じることの中にしかない、という自分中心的な話は、この世の言葉では語りにくい。実際、語ることは不可能です。人間の言葉を使う限り、あなたも私も人間はすべて同じようにこの実在する客観的物質世界の中にいる、だれもが同じように世界を感じながらそれぞれの身体を運転している、という前提のもとで私たちは言葉を話す。文章を書くときも同じ。人間の言葉を使う限り、そういう語り方しかできない。聞き手に見えない、だれの目にも見えない、私だけにしか感じられないこの今の熱い感覚そしてこの感情が私なのだと言いたくても、人間の言葉はそういうことを言うようには作られていません。自分中心世界にしかないそういう部分は、この現実の物質世界に存在すると言うことができない。無理やりそう言えば、たちまち矛盾した無意味な言葉になってしまう。

こういうことを深く考えないようにすれば、人間は問題なく生きていける。そのほうが客観的物質世界の中で能率的に生活をこなしていける。人間の脳は、まず能率的に生活できるように進化した。つまり私たちは、生活に関係ない問題の存在には気が付きにくいようになっているはずです。生活に関しては、自分たちが住んでいるこの世界の中だけを考えていればよいわけです。この世界にないものを考えても仕方がない。逆に言えば、私たちが考えられるものは全部この世界の中にあるのだ、と思えばよいわけです。

こういう理由で、人間は、自分が感じるものをそのまま全部言い表すことはできないということを理解しにくいようになっている。そういう矛盾に鈍感でいられるように進化しているはずです。それでも、少数の敏感な人はそれを微かに感じ取ってしまう。しかし周りの人たちはそんなことは問題にしていなくて、毎日忙しそうに動き回っている。たぶん自分のこの気持ちはだれにも分からないだろう、と思う。そしてひとり黙り込んでしまう。あるいは、哲学にその謎を解いて欲しい、と思う。しかし、それは先に述べたように、無理なことを期待しているわけです。

私が感じること全体の一部だけが、他の人間が感じることと共鳴する。その共鳴がこの客観的世界を存在させている。それで客観的世界の中にあることは言葉で言い表せる。実際、客観的世界は、ふつう私たちが感じることの大部分を占める。ふつう私たちは、客観的世界を表わすその部分に関係するだけで毎日を過ごしている。その部分の中だけで経済は動く。その部分の中だけで科学もつくられている。つまりその部分についての話だけが言語を使って言い表せる。だれとも共感できる客観的物質世界を下敷きにして私たちは言葉を話し、生活し、哲学や科学を作った。哲学や科学ばかりではない。言葉を使って表現されるものはすべて、この客観的物質世界を下敷きに作られています。文学もドラマもマンガも漫才も、全部それです。だから哲学であろうと科学であろうと文学であろうと、マンガであろうとインターネットのブログであろうと、言葉を使う限り、私が感じることのすべてを言い表すことはできない。

短歌や俳句や詩ならそれができる、と詩人は言うかもしれない。映像ならできる、と映像アーティストは言うかもしれない。けれども、それができないことは、本当の詩人や芸術家なら痛いほど感じているはずです。文学、芸術は比喩を使う。実に巧妙に比喩を使うことはできるけれども、比喩は比喩でしかない。物質現象を手がかりにして、物質でない錯覚を暗示できるだけです。

自分中心世界から持ち込んできた、かけがえのない自分だけの感情のほとばしりを、人間はけっして言葉では言い表せない。赤ちゃんのころは、どんな感情でも泣き叫べばよかった。泣き叫べば、それで感情表現はすんでしまいました。でも大人になると、言葉を叫んでそれですべてを表現したつもりになることはできません。

大人の言葉は、すべてを表現する赤ちゃんの泣き叫びと違って、何でも表現できる万能の仕掛けではない。大人の言葉は、客観的世界を下敷きにして作られている。言語は、他人と共感できるものだけで組み立てられている。その仕組みからして、言語は、だれの目にも見える客観的な物事しか言い表せないシステムです。逆に言えば、客観的世界は、人間が感じるものすべてからではなく、言語で言い表せるようなその一部分だけからできている。

つまり私たちの使う言語や科学は、私たちが感じることの一部分しか言い表せない。残念ながらそうでしかありません。その部分から人間の言語は作られている。したがって、感じることの一部分しか人間どうしは語り合うことができない。少しさびしいけれども、それが事実です。

人間の言語は客観的物質世界を土台にして作られている。客観的世界にあるだれの目にも見えるもの以外のものを、言葉で正確に言い表すことはできないのです。

12 私はなぜあるのか? end

(第二部 世界はなぜあるのか end

→(第三部 私はなぜ死ぬのか 

13 存在はなぜ存在するのか?

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私はなぜあるのか(4)

2007-11-03 | x2私はなぜあるのか

私は私が世界の中心だ、と感じたりもする。私は私を何よりも大切にしている。私は私の幸福を少しでも増やすために毎日、すべての情熱と努力をつぎ込んでいる。私は、少なくとも私にとっては他のどの人間とも違って特別に重要な人間だ。と人間はだれもが思っています。

けれどもその感覚は、この物質世界のどこにも根拠がない。この物質世界では、私は一個の、人の形をした物質だというだけで、世界の中心でもないしむろん特別に重要でもない。物質であれば、原理的にはいくらでもコピーが作れます。そこら中にあるふつうの物質と違いはない。私が何を思おうと、世界はそれとは関係なく動いていく。私が死んでも、世界はそれとは関係なく動いていく。私が死んだ次の日も株式市場は今日と同じように活発だろうし、今から一万年後でも地球自転の角運動量は変化せず、そのために毎朝必ず太陽は東から昇るに違いない。そういうことはよく分っていても、ほんのちょっと、何か割り切れない感じがある。人間は、皆こういう感じを抱いて生きています。

私が感じている私のこの気持ちは、他人の目にも見えるこの物質世界の中をいくら探しても実は見つからない。それが空しい、というか、すこしさびしい。その空しさもそのさびしさも、どの物質の中にも見つけることはできない。言葉で言っても書いても、人に伝わるかどうか自信がもてない。人間は身体の底から孤独だ。現代人には、そういう感覚があるようです。

近代から現代にかけて、文学などにその気分がますます強く表現されるようになっている。現代哲学の始祖といわれる二十世紀前半の大哲学者も、人間を、「時間と運命と死にひれ伏す奴隷(一九〇三年 バートランド・ラッセル自由人の信仰』)」と表現しています。こういう現代人のニヒリズム的な世界観は、まじめに生きようという気持ちをくじけさせる。それは一方では犯罪やモラル低下など反社会的行動の下敷き、あるいは自殺や引きこもりに向かう抑うつ行動の背景として現れてきます。また他方では、人間の脳は生れつき、虚無で無意味なものには嫌悪感を持つようにできているらしく、虚無的な唯物的世界観への直感的な反発から、反科学、神秘主義、あるいは伝統宗教への回帰などの現象が高まってくる。このような現代の傾向を、マスコミなどに見られる慣用表現では、精神文化の危機とか退行、などと言うようですね。

しかし筆者に言わせると、現代という時代に特に顕著なように思われる、このニヒリズム的な感じは主に錯覚からきています。

私のまわりは安心できる世界にとりまかれていて、世界は分かりやすく、いつも私の気持ちに応えてくれる。そうであるはずだ、そうあってほしい、という錯覚が私たち人間の中にあるからです。自分を包んでいる世界は、いつもしっかりと安定していて自分は安心して、いつもいつまでも、同じようにふるまっていれば無事に過ごしていけるはずだ。そうあってほしい。そうでない状況は嘘だ。認めてやりたくない。と、私たち人間は思う。そう思うようにできている。

いつの時代の人もどこの国の人も、そう感じていたし感じているようです。だれもがそう感じるということは、生れつきどの人間の脳にも、世界をそう感じるような錯覚の機構が備わっているということでしょう。

ではなぜ、そういう錯覚の仕組みを人間は持つのでしょうか? 

拙稿では、この問題を、人間が自分の運動を計画するために使っている二つの世界モデルの相互干渉として考えていきます。

人間は運動を計画するとき、自分の身体を中心とする空間での身体の変形を脳内の運動形成回路を使ってシミュレーションで作り、それに対応した周辺環境の変化を予測する。たとえばジャンプすると塀の向こう側が見えるだろう、と予想してジャンプする、とかです。

私たち人間はこのように、いつも自分の運動が直接、世界を変化させ、世界の変化が直接、自分を変化させる、というシミュレーションモデルを運転しながら運動している。これが自分中心的な世界のモデルを作っている。生まれて間もない赤ちゃんのころから、人間は運動神経と感覚神経を使って、このような世界のモデルを作り出し、その中に生きています(二〇〇二年 ワン、スペルク『人間の空間表現:動物からの洞察』既出)。

大人も夢中でテレビゲームをしているときなどは、この自分中心モデルだけを使いこなして行動する。テレビゲームで遊ぶときは、まさにコンピュータの中に作られているこのモデルを脳内の同様のモデルでなぞりながら遊ぶわけです。身体を駆動する運動指令というアウトプットを送り出し、その結果として感覚というインプットを感受する。まさに自分が世界の中心にいて世界とやり取りを続けます。

この自分中心モデルは、人類が狩猟採集をしながら原始社会生活を営んでいくためには最適だった。狩猟採集の原始時代には、目の前の事態にすばやく対応することが重要で、長期の記憶や理論的な予測はあまり必要ではなかったでしょう。単純に自分の感情を運動に直結させて行動する。それに対して世界は単純に答えを返してくれる。こういう経験の中で、人類は数百万年も暮らしていました。

ところが今から数十万年前くらいから、現生人類は複雑な集団社会を作るようになった。役割分担のある狩猟をするようになり、また物々交換や住居建設などをはじめる。すると、洗練された社会的行動が必要になる。複雑な人間関係がある社会の中では、自分中心モデルを使って、目の前の現象に身体を反射的に反応させるだけではうまく生きていけない。自分の行動を他人の視線で見直したり、他人や自分の行動を客観的に記憶したり、これからの自分のあり方を予測したりすることが、生活上の利益につながってきます。

こういう生活になると、自分中心モデルよりもっと客観的なモデル、仲間と同じ視点で世界を客観的に見る見方、さらに他人の目で自分を一個の人体という物質とみなす見方を持つ必要が出てきた。つまり客観的物質世界のモデルを使って、複雑な人間関係や物質の法則を理解することが必要になってくる。それでたぶん二十万年前くらいから、現生人類ホモサピエンスは脳の中に客観的物質世界のモデルを作るようになり、徐々に、それを発展させたのです。この脳の機構は、おそらく動物が仲間の運動に同調して群行動をする古い神経回路から進化したものでしょう。仲間の運動をなぞるために視覚と対応する人体運動の精密なモデルが脳内に作られたのではないか、と思われます。

人間が、目や耳で仲間の人間の身体の運動を感じ取ると、自分がその人の内部に入って運動しているような感覚と感情が起こる。この感覚は、自動的に仲間の運動への追従運動を発生する古い群行動用の神経回路から来る信号によって起こるものでしょう。この感覚を利用して人間は他人の心を感じ取ります。脳の中で他人に乗り移る、憑依(筆者独自の用語、既出)という神経機構です。脳の運動回路が、自動的に仲間の運動の知覚信号に共鳴し連動する。この運動の連動は仲間が感じている感覚の共鳴を伴う。つまり仲間が感じているはずの感覚に対応する神経活動が発生する。脳のこの仕組みによって、人間は仲間の視点から周りを見た光景を想像できる。同時に仲間の目に映っているはずの自分の姿と自分の運動を自分の感覚神経回路で感じ取れる。こうして、どの人間もが共通に目や耳で感じる客観的な物質世界の存在感を、直感で感じ取れるようになる。これを私たち人間は現実と感じる。このように存在感をともなって感じ取れる世界を、現実世界、あるいは客観的物質世界、略して客観的世界、ということにしましょう。

この客観的世界のモデルは、遠くのほうから、自分を含む大きな舞台を観客の視点でながめて感じられるようなモデルです。自分はこのとき、脇役の一人に過ぎない。これはテレビを見ているようなイメージですが、テレビゲームよりもテレビドラマに似ている。カメラが主人公の視線ではなく、遠くへ引いて他人の視線になり、さらに引いて空からの鳥瞰になっていく。仲間も自分も人間の群れの一員に過ぎないとみなす。他人と自分の区別は意味がありません。いくつかの人体が集団として群れて動いている、というだけです。

子供が客観的世界モデルを使えるようになるのは、二歳から三歳くらいの成長段階のようです。私たちが思い出せる幼児期の記憶は、ちょうどこれ以降でしょう。自分中心モデルでは自分というものは感知の対象になっていませんから、自分の行動は記憶できない。自分の行動を記憶するためには、自分の身体を物質世界の一部分として外側から見つめる客観的世界モデルが必要なのです。

はじめは、この世界モデルは自分のそばで動いている人々を観察して、その運動を追従するために作られるのでしょう。人の運動を目で追い、自分の身体を同じように動かそうとする。幼児は、この場合、実際に身体を動かして他人の運動を捉えていく。成長するにつれて、だんだんと、目で見るだけで身体を動かさなくても、脳内の運動形成回路が人の運動をなぞっていけるようになる。このような神経機構は類人猿も持っているようです

このとき、幼児が新しく作り始める客観的世界の中には、はじめ自分は入っていない。他人の動きを記憶し予測できるようになるだけで、自分の動きは見えていません。その意味では、幼児におけるこの過渡期の世界把握は半客観的世界というべきでしょうか(人間の視点からは成長過程の過渡段階でも類人猿などではここで完成段階)。

遠くにいた他人が近寄ってきて自分に視線を向けると、幼児はただの物体が動いたのを見た場合と違う何かを感じて、見返す。人間は、自分を見つめる視線に対して脳の辺縁系の深いところで鋭敏に感情を伴う知覚(まなざし感)が生じ、反射的に相手の目を見返す神経機構を持っているようです。猫なども人間の目を見返したりしますから、視線を感知するこの機構は哺乳類共通の古い脳にあるのでしょう。こちらを見ている視線を感知するこの神経機構は、人間の幼児においても客観的世界モデルを使う以前から働いているようです。ただし、見られている自分というものを感知する、つまり見つめられ感、まなざし感を自意識にむすびつけて感じる機構はまた別の神経回路の働きによると思われます。(拙稿の見解では)自意識を生じるこちらの神経機構は客観的世界モデルの完成後に、それを下敷きにして作られるようです。

三歳くらいの幼児は、相手の視線が見るものを追従して見ようとして、それが自分の身体に向けられたものであることを発見する。このときすでに、幼児は相手に憑依できるようになって、相手の目で世界を見る客観的世界モデルを使うようになり、視線を向けた相手の目の後ろ側に自分が入り込んで、想像の目で、自分の身体を見ることができるようになる。

その場合、相手に憑依している自分が見つめる人体は、いつも自分中心モデルで使っている原点の人体に対応したものであることに気づく。ここで、幼児は戸惑って、見返しを止めて視線を外したりする。無関係として扱ってきた二つのモデル、自分中心世界モデルと客観的世界モデルとが干渉しそうになって、混乱してしまうのでしょう。

こういう経験、つまり他人に憑依し自分を見つめる他人の視線の内部に入り込んで他人の目で人体としての自分を見ることで、幼児は客観的世界における自分、というモデルを獲得していきます。

ちなみに筆者はこういう場合、憑依という独自の言葉を使うことにしていますが、このような発想の自我理論はもちろん筆者の独創ではありません(古典発達心理学における「鏡像段階:鏡による自意識の発生{一九三六年 ジャック・ラカン}」という概念は、憑依の概念に類似)。現代心理学でも、自意識は他人の心を読むことから発生した、という理論が広く支持されています(一九七八年 ニコラス・ハンフリー『自然心理学者』)。

自分のこの人体は、他人から見れば単に人間の一人としか見えないはずだ。だから自分も周りの人間と同じように動く仕組みを持っているはずだ。つまり自分が他人の動きを予測するときに他人の内面にあるものとして想像する、心とか感情、というものが、自分の人体の内部にもあって、それを予測することで自分自身のこれからの行動をも予測できるはずだ、と私たちは直感的に感じるわけです。

こうして(類人猿と違って人間の)幼児は、自分の身体を含む客観的世界モデルを完成していく。この客観的世界モデルを獲得するときの幼児の経験はその後、子供の社会、さらに大人の社会に入ったときの社会行動の基礎を作ります。

たとえば、幼児は、他人に憑依して、その人間になりきることができる。親兄弟や立派そうな先輩に憑依して、その動きを夢中になって真似し学習する。ままごとなど大人の真似をする。優れた人の真似をしてその能力を習得するという模倣機能は、他の動物に比べて、人間で特に顕著です。この機能によって、人類は道具や文化や言語を普及させ発展させることができた、と考えられます(二〇〇〇年 スーザン・ブラックモア『ミームマシーン』)。

憑依した他人の視点から自分を評価することで、自我の存在感を作っていく。その他人の視点から、さらに第二、第三の人物に憑依して乗り移っていくことで、人間を対象とする感情:愛情、憎悪、嫉妬、尊敬、軽蔑、などの感情を作る。憑依を使って個別の人間にこれらの社会的感情を貼り付けることは、人類が社会を構築していくための重要な建築材料になっています。

このように幼児が作る客観的世界モデルは、(拙稿の見解では)系統発生的には、言語、社会、という人類の新しい能力の基礎になっています。

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