筆者はどうも存在という言葉が、あまり好きではありません。存在、なんて存在しないのじゃないか? 存在なんて、いい加減な、ぞんざいな言葉なのじゃないか、と思えてしまう。
「今朝は晴れていて気持ちがいい」と言いたいときに、「今朝が存在してかつ晴れが存在しているので気持ちの良さが存在する」と言い換えることはできますが、素直な言い方とは思えませんね。 あるいは、「今朝と共に晴れがあり、そして気持ちの良さがある」とも言い換えることもできそうですが、どうですか? つまらない言葉遊びのような気がしませんか?
存在という言葉は、いい加減で頼りないけれど、存在感という言葉は存在感がある。ふつうの人は、存在論などという言葉はあまり使わないけれど、直感で感じる存在感は頼りにしていて、それに導かれて毎日の行動をしている。
「彼女は存在感がある」というと、何を言いたいか、すぐ分かりますね。
つまり人間は、哲学理論以前に、直感で感じる存在感をもとに目の前の物質や人物が、今その場所に幻覚ではなく現実に存在し、自分や他人など人間の感覚に映り、自分や他人の運動作用にきちんと反応し、また干渉し、影響する、と思っている。
自分が感じる存在感と他人が感じていると感じられる存在感が組み合わさって、人間は物の存在を感じている。窓の外にいる子供が「きゃあ、ミミズがいる!」と叫ぶのを聞けば、聞き手の脳は自動的に子供の目に映っているミミズの存在感を感じる。
人間が感じる物の存在感は、自分だけがその物の存在感を感じていると感じるよりも、だれもがその存在感を感じている、という集団的感覚が先にある。それがそのまま、その物の実在感になっています。
物の存在を感じる人間の脳のそういう機構、つまり主観的な言葉でいうところの存在感、それがすべての存在の根拠でしょう。目に見える現実の物質も、そして目に見えない錯覚などすべての存在も、存在感を感知する脳のその機構が働くことによって存在していると思えるのです。
私が目の前に見ている物質たちは客観的に存在しているらしい。私以外の人間らしくみえる物質、つまり他人も、私と同じような構造の人体という物質らしいから、彼らも私と同じように周りの物質たちが存在しているらしいと感じているらしい。あらゆる経験が、その感覚と矛盾しないから、この物質世界は、私の主観とは独立に客観的に存在しているらしい、と理屈ではなく直感で私は感じる。
このことは、自分が身体を動かしていろいろな角度から周りの物質を見回し、手で接触することでいつでも確かめられる。さらに周りの人々の行動を見聞きしたり、その人たちと会話したりすることから、毎日毎日の経験でますます直感的に確信できる。こうして、物質世界は私の主観とは別に客観的に存在できる。これ以外に、客観的物質世界の存在のしかたはありません。
目の前の物質を指して、「○○がある」と言うとき、まず○○は私たちの日常的な経験側にしたがう物質として、いくつかの条件を満たしている。
(○○としては、たとえば、読者のパソコン、一万円札、一円玉、地球、近所の奥さん、あるいは日本の総理大臣、などを思い浮かべてください。)
つまり○○は空間のどこかに位置していて、立体的な輪郭を持っていて、周りのものと同じように何色かの光を反射している。触れば温かさや、堅いか柔らかいか分かる。重心は静止しているか滑らかに動く。瞬きをしている間になくなってしまったり、数が増えたり、形や大きさが激変してしまったりすることはない(筆者の一万円札は瞬く間に消えるし、一円玉はいつの間にか殖えるが)。○○が何かに接触すれば、運動は相手の影響を受けて変化する。つまり、相手にぶつかって止まったり、跳ね返ったり、減速したりする。何にも接触しなければ、○○の動きは変化しない。
観察者が目玉や頭を動かしても、内心の念力で祈り倒しても、その影響で○○が動くことはない。逆に私たちが経験でよく知っている物質の運動法則だけで○○は動いていく。○○は、だれがどの位置から観察しているかに関係なく私たちのだれもが良く知っている現実の法則にしたがって動き変化する。だれが見ても、同一時点では同じ形に見えて、同じ動き方をするように見える。
こういう場合、私たちは○○の存在感を感じ「○○がある」と思い、聞き手に向かってそれを指差しながら「○○がある」と言う。あるいは、動作でそれを示す。そのときの聞き手の目つきを見れば、その人が私と同じように○○の存在感を感じていることが確認できる。そういう場合○○は、たしかに、客観的に、存在するわけです。
○○の存在感は、瞬時に、それに適切に対応する私たちの反射的な行動を引き起こし、それと同時に、感情ラベルを添付されて記憶に蓄えられる。近所の奥さんと会ったら(反射的に)挨拶する、とかです。こうすることで私たちは、ふたたび同じ存在感を感知したときに、ますますじょうずに適切な行動が取れるようになる。
ものが存在する、ということはこういうことです。逆に言えば、こういうこと以外に、存在の神秘的な意味などはありません。
こうして存在するもろもろの物質はすべて、私の視線の方向や私の関心とは無関係に、そこにある、ということを認めることができる。それを認めると、私の身体から前後左右上下に、目の前から無限遠方にまで、ここにも、あすこにも、そこらじゅうに存在する無数の物質を認めることができる。ということは結局、この世、つまりこの物質世界が存在できることになるわけです。
この感じ方は、私の感じ方という以前に、すべての人の感じ方だと分かっています。西洋の近代哲学者たちも、世界の存在を前提する前に経験で感知できるものから考えを始めるべきだ、として古典哲学の存在論と分かれて近代の観念論を作っていきました(一七八一年 イマニュエル・カント『純粋理性批判』{既出})。
こういうふうに人間は、自分が感じるというところから身の回りに広がる物質世界を認めると同時に、他人もそう思っていることを確認する。そしてそこにある物質を、会話の相手と一緒に認めることができることを確認する方法として「○○がある」という言葉を作ったのではないでしょうか? 物質世界の中に物質として○○がある、ということと、「○○がある」という言葉があることとは、互いに支えあっている。話し手が「○○がある」という言葉を発したのに対して聞き手がうなずいた瞬間に、客観的世界の中に○○が出現し、会話の聞き手と話し手は対称的に同じその世界の中に立って○○を見つめていることになる。つまり聞き手と話し手は、お互いに相手の鏡像になり、同一の内部構造を持っていて、いつでも交換可能でなければならない関係になる。それと同時に聞き手も話し手も、このひとつの世界の内部にあることとなって、これから共に○○という存在に対応して行動していくことになる。
動作や指差しや視線や言葉を使って、「物が存在している」という感覚が人間どうしで通じ合えると、物質世界についての共有する経験を会話で表現し、知見を交換できる。そしてそれはだんだんと伝承的知識になり、書物に書かれ、学問として科学に発展していく。
科学は、こうして出来上がってきたのでしょう。誰もが同じように目や手で感じられる物質を測定して数量で表わし、その量的変化の法則を方程式で表わす。そうすると、目の前の物質は確かに、どれもどんな場合でも、だれが観察しても、物理化学の方程式による予想通りに変化する。そういう意味で、目の前の物質は科学が表現するように存在している、と感じられる。
しかし物質の世界にはないもの、「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」、などを相手に格闘したい哲学者やこういうものから作品を発想する文学者などとしては、物質を出発点にはできません。物質世界にはないこれら抽象概念がだれでも自明に理解できるはずだ、という前提で議論を始めてしまう。その言葉を相手がどう思っているかは確かめようがないのに、それは存在するに決まっているものとしてどんどん話を進めてしまう。文学に限らず言葉を使う仕事では、言葉は通じるものと前提して、どんどん使ってしまう。確かに、ふつうはそうすることが正しい。強引に自信を持ってどんどん使ってしまうことで、それらの言葉は相手に通じるようになる。この方法は強力です。逆に言えば、実体を指差せない以上、そうする以外にこれらの言葉を相手に分からせる方法はないのです。そうすることで、言葉で言っているものはしっかりと存在するかのように思えてしまう。人間の言葉は、そういう働きを持っているから、これほど簡単に通じていくのです。
しかし、言葉をうまく使うことで物質ではないものが存在するかのように思えてしまうかどうかと、目の前の物質が存在するかどうかとは、レベルの違う話です。混同してはいけません。
脳内の存在感という感覚にしか根拠がない「存在」という概念を出発点にして、ものごとを哲学しようとしても、結局は挫折する。
そうだとすれば、「存在」という言葉は、物質世界で指差せるものだけに限定して使うべきでしょうか? 議論を分かりやすくするためにはそうかもしれませんね。まあしかし、いままで自由に使ってきた言葉を勝手に制限することなどできない。言葉使いに関して拙稿の方針は、むしろ自由主義、つまり、あいまいな言葉はあいまいなまま使う。「存在」に関しても、拙稿では、世間で使われているあいまいな言葉使いをそのまま使っていくことを原則にします。
さてその上で、拙稿では、物質も物質でないものも全部ひっくるめて、この世に存在などは存在しないのではないか、と疑ってみる。存在とは人間の脳が感じる錯覚の一種だ、と決め付けてみるわけです。少々過激ですが、この決め付けがうまく成功すれば議論はかなり単純化できるはずです。
では少々過激に聞こえても躊躇せず、それで進めてみます。目の前の物質も私の身体も含めて、皆さんが存在すると思っているあらゆるものは存在しない、と言いきってみる。まあとりあえず、そこから出発してみましょう。
まず、借金の取立てに来た人が話を始めた瞬間をとらえて「そんなことよりも、まず、この机は存在するのだろうか」と言ってみましょう。「この机は私が見てもあなたが見ても、どう見ても確かにここに存在するように感じられます。しかし、本当に存在しているのでしょうか? さらに疑問なことは、私の借金というものは、この机と同じような意味で存在できるかということなのです」と暗い顔をして深刻な声で言いましょう。取立人は、顔色を変えて帰っていくでしょう。とりあえず、しばらくは返さなくてすむかもしれませんよ。
昔からこういう哲学議論はありました(一七一〇年ジョージ・バークリー『人知原理論』{既出}など)が、過去の偉大な哲学には深入りせず、さっと流してみましょう。
まず、現実にそこにあるとしか思えない目の前の物質(たとえばこのパソコン)も、存在しない、ということにしましょう。目の前に物がある、という考えは意味がない、ということにします。そこにそれがある、と感じさせるような存在感が錯覚として脳内に存在するだけだ、とするわけです。つまり、万物は存在しないのに存在するかのように感じられる。その存在感を与える原因となる物理学的な法則は存在するとしても、その法則がバーチャルではなくリアルに存在するかどうかを、人間は結局のところ知ることができない。限りなくリアルらしい、というところまでは言える。しかし絶対にリアルだ、ときめつけることができない。つきつめるほど、リアルもバーチャルも、意味があいまいになってくる。こうなると、何を言っているのか、よく分からなくなってきます。
だから、存在するとかしないとかを、むずかしく議論することは空しくなってくる。ただ目の前の物質世界はどう見ても存在する、としか感じられません。この世は、あまりにももっともらしく存在しています。あらゆる物理現象、生命現象、人間行動が、複雑に関連しながらも経験的な法則に完璧に従って実在しているとしか感じられない。疑いようがない自然さで動いている。このリアルさは、けっしてバーチャルとは思えない。だいたい、そっくりにリアルなバーチャルを作るのは大変ですから、この世界全体がそれだとは、とても思えない。こんなに複雑精巧に作られたバーチャルはありそうにない。この世界を見かけだけの、実在しないバーチャルな幻影だ、と強弁するのはつらい。そんな説明をしようとすると、話が複雑になりすぎる。強弁はあきらめて、これは存在すると言ってしまうほうが、話はまったく簡単になる。
ですからここは素直になって、その物質が確かに存在するように感じるときその物質は存在する、と言うことにすればよいのです。まず言葉を整理するためだけの意味で、そういう言い方を使いましょう。この場合、存在するということの意味は単純です。存在するようだ、と言える場合、それは存在することにする。これ以外にむずかしい意味を考える必要がない。
これで議論は単純になった。
目の前のそこにある物質は、私が見てもだれが見ても、どう見ても確かにそこに存在するように感じられますから、とりあえず存在する、という言い方をすることにします。これで(語の使い方を改めただけですが)現実の物質世界が存在することになりました。