昔から政略結婚とか、家と家の結婚とかいわれて恋愛と家族(と氏族)との葛藤は文学の大テーマでした(一〇〇八年 紫式部「源氏物語」など)。近代西洋文学でも経済格差と女性の自立をテーマにする恋愛小説が発展してきました(一八一三年 ジェーン・オースティン「Pride and Prejudice 高慢と偏見」)。娘が金持ちと結婚しないと家産の維持が危ない。現代もそれはありますが三百年前には家族の死活問題でした。ジェーン・オースティンは、美貌と知性が資産階級の高慢と偏見に打ち勝つ、という近代恋愛小説の原型を作り出しています。
恋愛と経済格差との葛藤は一九世紀文学の普遍的テーマでした(一八九七年 尾崎紅葉「金色夜叉」)。「現代では、金権主義に対抗する恋愛の原理が涸渇しているからであり、『金色夜叉』において、金に明瞭に対比させられている恋愛の主題には、実はそれ以上のものが秘められていたのである。それ以上のものとは、恋愛に関するストイシズム、そのストイシズムと儒教道徳の節倹主義との癒着の残存、金をいやしむ武士道徳の名残、純潔な理想主義、・・・・いや、そもそも青春そのものの非功利主義的性格が、時代の出世主義の裏側にはっきり生き動いていたのであり、それは又、読者の心の中にも活きていた。(一九七〇年 三島由紀夫『作家論』)」
しかし日本でも世紀が改まると、草食系の元祖のような三四郎が、三四郎池で、新時代の蠱惑的なヒロイン里見美禰子を見初めるが、付き合うのか付き合わないのか、自分に覚醒できずに立ち往生している間に彼女は安定した資産階級の生活を選んで消えていきます。付き合いの終末期になってようやく告白するが、話をそらされて間もなく小説は終わります。―三四郎は堪えられなくなった。急に、「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。(一九〇八年夏目漱石「三四郎」)
女性の自立が可能となったとされる現代においても、この小説のプロットは、あまり変える必要がなさそうです。逆に、漱石が作ったこのプロットの方向に、百年かけて、人々の行動が進んでいったのかもしれません。エリートサラリーマンを戯画化した現代のテレビドラマでは「女なんて、どうせ金を持っている男が好きなんだろう。(二〇二〇年 松本佳奈「東京男子図鑑」)」 とナレーションは語りかけます。
女性に資産があり経済的自立が十分な場合、恋愛は自由になるのか?環境から自由になった場合、男も女もペアになるためだけに引きつけ合うのか?
叔父から莫大な遺産を相続したイザベラは英国貴族の求婚を退け、若いアメリカ人大富豪の求婚をも退け、結局、財産目立ての流れ者オズモンドに騙されて結婚しローマに住む生活を選ぶ(一八八一年 ヘンリー・ジェイムス「The Portrait of a Lady ある婦人の肖像」)。あんな気障な自己中男のどこがいいのか、とイザベラをひいきする読者は思います。自由に選択したつもりが騙されてクズをつかんだ、という話は婚活ばかりでなく通販などでもよくありそうです。
結婚詐欺に家産をだまし取られた資産階級の女性がその後一生ウェディングドレスを着たまま屋敷に引きこもるという怪談(一八六一年 チャールズ・ディケンズ「Great Expectations 大いなる遺産」)は、一九世紀イギリスで大好評だったようです。この女性に養子にされた少女は男性敵視を叩き込まれて育ち、主人公である少年の求愛を翻弄する、という筋になっています。
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現代人はますます恋愛が分からなくなっています。物理的に存在するセックスのほうがまだ分かりやすい。分かりやすいほうのそっちを(ヘドニズムとして)人生の目的にしたい、と思う人が多くなっている。セックスフレンドはいるが恋人はいない、となってきます。
ちなみに秘密のセックスフレンドがいても付き合っていることにはならないでしょう。人に見えないところでいくら一緒にいても社会とかみ合わないからです。社会とかみ合わなければ人生ともかみ合わない(一九七九年 中上健次「赫髪」)。ほかの誰にも知られずに二人だけでいくら熱心にセックスをしてもそれだけでは「僕たちは付き合っています」とはいえません。
付き合っている、という関係になりたければ社会へ公然と出ていくしかありません。秘密のセックスフレンドとして隠れるのではなく二人のペアとして公然と社会へ出ていかなければなりません。それは隠れなければならない裸の行為であることとは矛盾であり、それを社会は受け入れません(二〇〇八年 平野啓一郎「顔のない裸体たち」)。
公然と付き合っている同性愛カップルは陰でデートする異性愛カップルより強靭だったりします。女嫌いを公言する男子高校生が女子とキスをしているところを男嫌いの同性愛女子カップルに目撃されてかえって見せつけてみますが、おおらかに疑似家族を演じる女子カップルの仲は全然崩れません(二〇二〇年 松浦理映子「最愛の子ども」)。
付き合いは公共の場でしなければ付き合いにはなりません。人に見られているところで手をつなぐことが大事。本命の場合は友人や家族に知られて付き合うのが原則です。当然、家の話が出てくる。そうなると結婚がちらついてきて話は面倒になります。
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動物(人間以外)は交尾行動をするが自分がいま交尾行動をしているとは思っていません。行為に疎外されず身体が自然に動きいつの間にか交尾している。その後何も悩まずに、いつの間にか子を産んでいます。
動物(人間以外)は簡単に性行為ができる。しかし人間だけは自覚のない性行為はできない。自分たちが性行為をしていると二人ともが思っていないと性行為はできません。自分たち二人は付き合っている、と二人ともが思わないと付き合っていることにはなりません。
人間は最初に付き合って、その後(あるいは同時に)性的関係になる。その後、場合によっては結婚する。あるいは別れる。あるいは子を産む。自分たちが何をしているのか、その行為をしっかり意識しています。人生におけるその行為の目的を自覚しています。逆に自覚していなければそれは人生とはいえない。
付き合っている二人にとっては、付き合いの目的は自己利益ではないはずです。その目的は、単純に言ってみれば、好きな相手とペアになっていたい、ということでしょう。つまり吉本のいう対幻想です。
人間には行動の最終目的がいくつかあって(吉本によれば)、自分自身も最終目的であるが、それとは別に、一対の男女で作られるひとつのペア構造に自我を埋め込むこともまた人間の行動の最終目的である、という見方です。(ちなみに吉本の対幻想は、男女の恋愛ばかりでなく親子、兄弟姉妹に広がって家族の観念につながる、とされています。)
バレンタインデーにチョコレートを贈る女子も、それ以外の日の男子とまったく同じ形をした対幻想に埋め込まれて行動している、といえます。しかし最近これも少し怪しくなり始めている。今の人は、義理チョコは分かるが本命チョコは分からん、と思う人が多い。義理チョコをもらっても対幻想に埋め込まれることにはならない。つまり付き合いは始まりません。
男女の仲は他人には分からぬ、と昔の人はいっていました。ところが現代人となると、他人には分からぬ二人だけの仲が存在するということの意味が分かりません。自分の身体だけを目的とする近代功利主義の価値観からは、はみ出しているからです。
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男と女が一緒になりたいと思うことは昔から当たり前であると思われていました。しかし現代に至ってこの感覚がすこし分かりにくくなった。少子化もこの現象に関係するかもしれない、となるといささか心配です。
現代人は自分のこの身体が自分だと思っています。この身体が自分の意志で動いて自分の利益のために必要な目的を実行していく、と思っています(拙稿36章「目的の起源」)。 たしかにその通りですが、昔の人はこれほど自分中心ではなかった。神仏に導かれているとか運命に従うとか思っていたようです。つまり自分の利益ばかりが自分の行動の目的ではありませんでした。
自分より家族のほうが大事であるとか、御家が大事とか、お国のために働くとか、神に仕える、とか多様な価値観がありました。もちろん昔の人はきれいごとが好きであったし嘘も偽善も横行していました。しかし純粋な本心も本物だったと思われます。芸術家は芸術に殉じた。ロミオとジュリエットは愛のために死んでいきました。
現代人の功利主義的価値観はこれらを理解できません。損得は分かるが恋愛は分からない、となる。時代は進んだが人間の価値観は単純を好む方向へ退化したといえます。産業革命で人々は豊かになったがその分マネーゲームが楽しすぎて功利主義的になった。感情も感覚も自己利益に集中するだけになりました。権力と金銭以外は価値がない、という方向に進みました(一九一一年 夏目漱石「道楽と職業」)。
ちなみに、人生の価値観を幻想という語でまとめた昭和の大思想家は、共同体に殉ずる共同幻想、あるいは恋愛に殉ずる対幻想という語を使っていました(一九六八年 吉本隆明「共同幻想論」)。
自分のために生きる自分というものはいわば幻想です(拙稿12章「私はなぜあるのか」、拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか」)。もちろん、家族のために生きる自分も幻想であるし、国のために生きる自分も幻想にすぎません。
しかしそれらの幻想に生きる人間たちを組み上げて現実の社会が構成されているのも事実。一対の男女として生きる自分たちという幻想(二〇一一年 石川晃司「対幻想の含意」)もまたこうして現実の社会における構成要素になっています。実際、現実の社会を認める限りこうした幻想の存在を認めないことはできないでしょう。
一対の男女の関係、つまり対幻想というものは性行為を媒介するものです。しかしその逆ではない。人間は行為の幻想を持つことによって現実の行為から疎外されているという理論があります(共同幻想論)。
人間以外の動物はもちろん盛んに性活動はするが、対幻想は持ちません。身体の行動から疎外されていない。猫の恋であるとか、動物の交尾行動をロマンチックに恋と呼ぶのは古く素朴な比喩から始まっていますが、その概念をマスコミもユーモアとして便利に使っているうちに本気にしている感があります。
言語を持たない動物は自我を持たないし幻想を持たない。したがって人生(動物生?)を持たない(拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか」)。したがって対幻想も共同幻想も持っていません。恋愛もしないが戦争もしません。人間だけが言葉で愛を語り、付き合いという幻想を求める。
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