哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ幸福になれるのか(8)

2008-06-07 | x7私はなぜ幸福になれるのか

人生には、ふつういわれているような目的というものは、実は、ない。人生には、私たちが思っているような幸福も、実はない。幸福は、将来の人生の中にはなくて現在の脳の中にある。現在の私の脳の中には、今思う幸福、今思う憧れ、夢、今思う目的、が確かにある。それが世界を映し出し、世界の中で、仲間の人間の動きを見渡し、今の私を動かしていきます。

今どう動けば、その夢にみる幸福のイメージに近づけるのか? そのように動いていくために、人間は世界を見渡す。そういう動きをするための対象として見渡すから、私たちの運動神経系のシミュレーションとして世界が捉えられる。その結果、現在の現実の世界が存在するようになる。つまり、いわば、夢のために現実がある。夢があるおかげで現実が存在するようになる。その現実世界の中を夢みた将来の幸福のイメージを求めて動いていく私の姿。それが、私の人生の目的、という錯覚を作っていきます。

将来きたるべき自分の人生、というイメージは、人類が農耕をはじめた時代から、社会と文明の基礎を作る重要な錯覚です。私たちの脳の中に、いつも、しっかり固定されている。たぶん、狩猟採集の時代からこの数万年、すべての人間が「自分の人生」というその錯覚のゲームを生きることができた。

私たち人間は、十数年にわたる異常に長期間の無力な幼少期を過ごす。子供の養育に要する母親と家族の負担は長期にわたり持続されなければならない。このことが、おそらく人類が人生という超長期のシミュレーションゲームを脳内に作り出すようになったきっかけでしょう。来年以降のために食物を保存する。道具を作る。不測の事態に備える。子供を大切に育てる。将来の人生というイメージを持たなければ、こういうことはできない。逆に言えば、個々人が人生というイメージを見つめることで、人類は、強力な生存繁殖能力を身につけた。

現代においても、自分の人生をイメージした個々人の努力が、社会を安定させる基礎になっている。逆に言えば、こういう人生シミュレーションの能力を持った人類だけが生き残って現生人類になったのでしょう。その結果、今も、私たちは懸命に明日を予測し、自分の人生を見つめながら生きている。

(拙稿の見解によれば)私たちは、客観的世界のモデルを人々と共有することで、明日の世界で生きる自分のイメージを予想するシミュレーションを作り、その実現を期待する(拙稿4章『世界という錯覚を共有する動物』)。明日の幸福を夢みて、そのシミュレーションを感情機構にしっかりと連結する。こうして作られた私たちの脳では、感情機構の働きによって、幸福に近づくような衝動的行動が起こりやすくなる。こうすることで、衝動的行動が世界の現実に適応する。私たちの感情機構が現実にうまく適応するように進化しているからです。そのため、人間は、他の動物と同じように無意識の反射で衝動的に行動を形成しているにもかかわらず、見かけ上は、長期の目的を追求してその実現に必要な最適な行動をとっていくように見える。

私たちは、おいしいものを食べるとか、かつて生存繁殖に有利であった状況を幸福と感じるような身体になっている。そして、無意識な身体の衝動的反射行動は、やはり、かつて生存繁殖に有利だった行動を自動的に選んでいく。その結果、私たちの自然な行動は、私たちが、自分の幸福を目的として行動していくように見える。

実際、私たち自身、自分たちの行動をそう思っています。それで、私たちは、自分が幸福をめざしている、と思える。そうして私たちは、今日も、明日の幸福をめざし、がんばって生きていく。その自分の行動のイメージを言葉にしたものを、私たちは、計画と呼んでいる。つまり、幸福を目指すことを計画という。だから計画は実行される。私たちが幸福を目指すから実行されるであろう将来の状況予測を、いつのころからか、人生の目的、というようになったのです。

他の動物はそれができない。人間だけが、遠い将来、たとえば明日、の世界のモデルをつくり、それを仲間と共有し、その中に明日の自分を夢見ることができる。毎日、その実現を目指して働く。それで人類は社会と文明を作り出し、急速に地球全面に広がり、他の動物をすべて駆逐して大繁殖することに成功した。

どこの国もそうですが、日本でも、つい百年前まで、だれにとっても人生は単純でした。だれがどう考えても、人生の目的は同じようなものになった。何が幸福か、分かりきっていた。家族や共同体の仲間の間で認められ、できるだけ優位な地位を得られるよう行動する。富を蓄積し、良い配偶者を得て良い家族を作り子孫を繁栄させる。個人が達成したい人生は、共同体の存続に直結していて、はっきりしていた。

ところが現代のように爆発的に経済が成長し生活が豊かになり、国家が安全を保障して市場が自由化すると、共同体の輪郭があいまいになってくる。共同体の文化が変容する。かつては物語や役割や儀礼によって共同体に貼りついていた人生の捉え方がはっきりしなくなる。

家族と共同体の文化は、物語や役割や儀礼を通じて、人間の感情機構に刻み込まれている。文明が発達することで、その言語表現の中に各個の文化は吸収され溶解される。そうなると、共同体の文化に代わって、文明による言語表現が感情機構に刻み込まれ、それが個々人に人生の捉え方を教える。現代の私たちは、すべてを言葉だけで表現しようとする文明に、直接、放り出されるようになった。言葉に引きずられて私たちは、人生を、個人が自分だけの幸福を求めて戦う出世ゲーム、あるいはマネーゲーム、などと極端に単純化してとらえるようになる。自分の人生というものを、共同体と関係せず、自分個人だけのゲームとして単純素朴に捉えてしまう人たちが多くなってくる。最近の日本人の晩婚化少子化など、その結果でしょう。

まあ現代、グローバリゼーションは進むというものの、日本人を含めて人類の大部分は、まだ、家族や仲間と共に生き、そこで認められたいという気持ちに動かされて生きている。そうである限り、共同体の中で懸命に働き、生活を安定させ、子供を産み育てる能力を失うことはない。つまり、実際、伝統的に正しい夢を失ってはいない。そうであれば、人類の再生産システムは維持され発展し続ける。すぐ危なくなるという心配はない。もうしばらく人類の繁栄は続くでしょう。

人生の目的といい、幸福といい、もともと言葉で表されるものではない。私たちがばくぜんと抱く期待、明日への夢がその実体です。その夢は、言葉ではなく、無意識の感情に根ざしている。生存と繁殖に適応するように進化した感情機構は無意識のうちに身体を動かしていく(一九九一年 リチャード・ラザルス感情と適応』)。幸福は、それが言葉になる前に、身体がその意味を知っている。その動きを見て、私たちは、それが自分の目的だと思い、言葉にしてみる。逆にいえば、身体がそれに向かって動いているその夢が実現することを、幸福という。

私たちは実際、目的との距離を測りながら冷静な計算で動くゲーマーというよりも、どちらかといえば、明日にくる幸福をばくぜんと思い描き、夢を追って生きているドリーマーなのでしょう。

筆者の夢ですか? 

まあ、年もとったし、たいていの夢はかなってしまった。でも、今も、もちろん夢はある。

ハワイの海岸でビーチチェアを二つ借りて、妻と並んで青い波を眺めることです。そのとき通りかかった観光客(たぶん年配の日本人)にデジタルカメラを渡して写真を撮ってもらうでしょう。デジタルメモリに保存するだけではすぐ忘れてしまうでしょうから、「夢 X年X月X日」と文字入れしてプリントし、机の上の小さな写真立てに飾ろうと思っています。

(17 私はなぜ幸福になれるのか? end)

(第三部 私はなぜ死ぬのか?  end

→(第四部 私と世界とのいかがわしい関係

18 私はなぜ言葉が分かるのか?

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私はなぜ幸福になれるのか(7)

2008-05-31 | x7私はなぜ幸福になれるのか

哺乳類は大脳辺縁系の感情回路で反射的に敏捷な運動を作り出すようにできている。この形質が、恐竜絶滅の後の時代で哺乳類の大繁栄をもたらした。人間も同じ。感情回路は進化の過程で世界を学習していて、生存に有利な運動を反射的に加速するようにできている。それで、人間も他の動物と同じように、感情で動くことによって、(原始時代までの生活環境では)結果的に生存に有利な行動をとれる。

ただ人間は、自分のその運動を、大脳皮質と小脳を使った、仲間と共感できるバーチャルなシミュレーションの世界モデル(拙稿4章『世界という錯覚を共有する動物』参照)に映している。人類の脳においては、シミュレーションでの仮想運動を言語に変換できるので、会話によって仲間との世界モデルの共感を確認することができる。お互いの動作や表情、特に言語を介して、人間の集団は感情を共有する結果、生存に有利な運動に価値を置く文化を発展させ維持する。文化間の競争による淘汰が起こって、集団としての生存に適した文化がますます強化される。

集団の文化が、私たちに適当な錯覚を与え、結果として、世界の見方を教え、人生の目的を教える。皆と同じように世界を見ることができるような錯覚とそれにより引き起こされる感情の使い方を覚える。子供は、文化に教えられて、人生を、皆が見るように見るには、どう見ればよいか、を覚える。他人に見える自分の姿をどう動かすか? どうすれば仲間外れにされないか? どうすれば、仲間の共感と尊敬を得られるように自分の感情をコントロールすればよいのか? 文化は、その感情の操作方法を教える。それをする文化と、その文化に従う脳とが共進化した結果です。

文化は個々人の脳のシミュレーション記憶に埋めこまれ、感情回路に連結されていく。私たちは自分の行動のシミュレーションを記憶し後で回想し、自分の行動を客観的にながめて、それが他人の行動と同じように、冷静な功利計算によって目的を追求した行動だった、と思い込む。人間は、他人の行動を見て、その行動がめざすものをその人の欲望だと思っている。さらにそれを自分の行動の解釈に応用して、自分の行動が目指すかのように見える状態を、自分の欲望だと思う(拙稿10章「欲望はなぜあるのか?」)。

人間の言葉は、この考え方に沿って作られている。「○○は、それをしようと思って、××をした」という形になっている。特に、「私は、それをしようと思って、した」という言い方で、自分の行動を言い表す。こういう言葉遣いを洗練させて、哲学は、人間の行動原理を図式化した。そうして哲学は、欲望が行動を導き、目的が行動の価値を決定する、という図式を教えた。

人間は、目的を持ち、それを達成するために必要な行動を予測計算し、最適な行動を選択実行する。自分たち人間はこういうシステムである、と私たちは思い込んでいる。教師たちは、何事も目的を明確化し手段を比較検討して最適な方法を選択しなさい、と教える。私たちは、自分たち人間はいつも必ず、はっきりした目的を持ち、それを実現するために行動しているはずだ、と思い込む。そのために私たちは、自分たちの行動をその図式でしか考えなくなってしまった。つまり、人間は他の動物と違って、理性を使って目的に沿った行動を選択している、と思っている。人間が反射や衝動や感情で無意識的に動くのは例外であって間違いである、ふつう人間は、理性で利害得失を勘案しながら行動する、と思っている。自分で自分が、何のために何をしているのか、よく分かって、それをしている、と思い込んでいる。しかし、(拙稿の見解では)それは間違いです。

実際、人間は、他の動物に比べて異常に変わった生き物であるというわけではない。私たち人間は、感情に従って衝動的な反射で運動するふつうの動物です。ただし、他の動物のように目の前の環境に直接反応してそのまま行動を起こすことは、あまりありません。覚醒しているときの人間は、冷静で、自分の運動の結果を予測してから行動する。つまり、行動の前に大脳皮質と小脳で作り出す予測シミュレーションが起こり、その結果に感情回路が反応して、自動的にシミュレーションで予測されたバーチャルな世界モデルの中での運動が起こっている。運動の結果起こった変化をまたシミュレーションと繋げて記憶し、後で思い出して、自分は目的を持って損得を計算しながらゲームを実行している、と思い込んでいる。

そうでなければ、人間がこんなに上手に行動できるはずはありません。あらかじめ明確な目的を持ち、詳細な計画を立てて、それをコンピュータのようにペイオフ行列を計算しながら、現実の環境の中で、確実に追求するという行動を本当にしたら、人間はたいていすぐ死んだり病気になったりしてしまいます。実際、小学生が立てた夏休みの計画が実行されることはないのです。すぐ怠けてさぼってしまう。お姉さんのダイエットもうまく実行できない。理想と現実はすぐ食い違ってしまうので、綿密な計画は、必ずといってよいくらい、挫折するのです。でも、それでよいのです。

考えて作った計画に、本当に従って行動したら、人間はすぐ身体を壊してしまう。身体は、自ら壊れるような運動はしない。だから、頭で考えた計画というものは、ほとんど実行できない。

私たちの身体は、そのときそのとき、その場の感情に従って衝動的に動いていく。その結果、行動を選択することになる。そうだから人間は健康に生存していける。将棋をしているときでさえも、「王より飛車を可愛がり」となる。それでゲームは楽しくなり、人はそれを好きになる。皆が好んでそれをすることでゲームとして成り立っていく。

巷のビジネス指導書にあるような、「衝動的に行動すれば失敗、目的を立てて計画的に実行すれば成功」という教えとは関係がない話です。そもそも目的を立てて計画的に実行できるような人は、無計画に進んで失敗するようなことはしない。逆に、無計画で進みたがるような人が計画をつくっても、うまくいきません。いずれにせよ、計画のあるなしにかかわらず、人間が行動するときは、結局は衝動的です。

人間は感情にしたがって衝動的に行動する。それも脳内シミュレーションで予測した将来の自分のイメージに対して感情を引き起こす。その感情に駆られて運動を実行する。それで得られた金銭や勝負の得点などの数字を見て損得をはじき出す。その後、予想した将来イメージを思い出して、その行動がそれを目的として合理的で正しかったことをチェックする。そのとき、自分の人生、というものを確認できる。成功感、失敗感、勝利感、敗北感など感情をしみじみ味わう。その確認が人生ゲームの楽しさです。感情に始まり、感情が勘定に変わり、最後はまた感情で終わる。感情にゆすぶられ、楽しいからゲームに夢中になる。それでいて後から見ると、勘定としてもあまり損がない行動になっている。

進化と学習で絶え間なく改善された人間の感情回路。それを支える歴史に耐えた集団の伝統的文化。それらの組み合わせが私たちの行動を作る。この複合機構は、試行錯誤の末、現実の世界に鍛え抜かれて共進化した。洗練され、生存しやすい戦術を、衝動的に選択する能力を持つようになった。

その能力を駆使して、人間は現実の世界を戦い抜いていく。懸命にそれを戦うように人間の身体は作られている。だから人間にとってゲームは楽しい。現実の世界での戦いを模擬しているからです。ゲームは現実のエッセンスを抜き出して、純粋に楽しめるように設計してある。だからスポーツもテレビゲームも、とても楽しい。夢中になれる。

現実の人生は本物だからもっと楽しい。原始時代の現実を、懸命に戦い抜くように人間の身体は作られている。現代の現実は原始時代とはかなり変わってしまっている。それでも、人間は適応する。適応性が高い。現代の現実の中でも、私たちは懸命に戦う。それは、やはりそれなりのゲームになっているからです。

現実の人生であっても、それをゲームと見なせるならば、人生は実は楽しくてたまらない。だれもそうは言いません。しかし、つらいつらいと言いながら、人生を、実はやめられない。麻薬みたいです。本当は、私たちのだれもが、自分の人生というこの本物ゲームが好きでたまらない。楽しすぎてやめられない。人間は、そう感じるように進化している。そう感じることで、人生ゲームをプレイし続ける。それが人生の真実でしょう。

私たちは、幸福を目指して計画的に行動しているつもりです。それも実は、習慣と文化に従って感情を動かし、その衝動に動かされて行動している。しかし、私たちは、自分たちが計画的に行動している、と信じている。そう思うほうが、上手に行動できるわけです。そのほうがうまくいく。自分が目的を持って計画的に行動しているならば、自分のこれからの行動をうまく予想できる。そうでなくて、自分が感情だけに突き動かされていると考えたら、自分で自分が予想できないでしょう?

あなたは、自分が今日懸命に働いているのは、来月の休みにハワイ旅行をするためだと思っている。なぜ、ハワイに行きたいのか? あなたのお友達も、そうしたいと思っているのでしょう。あなたはたぶん、それを幸せと思う文化の中にいるのでしょう。ハワイの海岸はすばらしい。雑誌の写真が美しく撮れていたから、そう見えただけなのかもしれない。でも、そこにいる自分の姿を想像する。つまり予測シミュレーションをつくり、それが感情回路に映ると、それを自分の欲望と思い、目的と感じる。それをシミュレーションで想像しながら、現在の努力を加速させるのです。

ロボットなら想像とかシミュレーションは要りません。ハワイに行くためには一日何円貯金しなければならないか計算して、その分だけ労働時間を延長する。簡単なゲームの解です。感情は必要ない。ちっとも楽しくない代わりに、まったくつらくもない。しかし、これでは人間ではありません。人間は、こんな無味乾燥な数値計算だけのゲームはしない。こんな計算だけでは人間の身体は動かない。

人間は将来を予測したシミュレーションを作り出す。ワイキキの海岸で、裸になって優雅に寝そべっている自分の姿を想像する。海の香りをかいでいる。その自分を見たら、だれもが私を幸せだと思うだろう、と想像するのです。そのシミュレーションを感情回路に連結して、幸福感に憧れる。人間は、将来への期待や不安を膨らませ、その働きで現在の行動を加速する動物です。ハワイの海をながめる自分を想像できるから、いやな残業にも耐えられる。それで結果的には、ロボットが計算したものと同じ行動になる。つまり一日の労働時間の延長、という行動を取ることになるでしょう。でもハワイの海を夢見るから、夜勤の労働もつらくない。裸でハワイの海岸に寝転ぶ自分の姿を想像する。幸せだろうな、と思う。そこがロボットとちがう。人間は、ロボットとはぜんぜん違う仕組みで行動ができてくる。それが人間です。そういう人間の行動が、結果として目指しているように見えるものがあるとすれば、それを、幸福といい、人生の目的という。

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私はなぜ幸福になれるのか(6)

2008-05-24 | x7私はなぜ幸福になれるのか

ほとんどの場合は衝動的に行動していながら、人間は、自分のその行動結果について、ゲームのように理論化された人生のモデルを想像することができる。現実の人生を、この模型のゲームに当てはめて、コンピュータを使って目的関数の最適化を求める探索計算をすることもできそうな気がします。二十世紀の中ごろから、政治や経済やビジネスなどの世界などで、実際にコンピュータ計算が行われていて、この方法はよく成功している。数学的なゲーム理論による最適戦略探索です(一九八四年 ロバート・アクセルロッド協力の進化』既出)。これが成功した場合は、実に鮮やかな成功感を与えます。それで、これこそが現代人の行動原理であるべきだ、ということになってきた。

数学的ゲーム理論が作られるよりずっと昔から、人間どうしの会話では、成功戦略のような理論が頻繁に語り合われてきた。行為行動の利害得失、つまり、その行動は損だ、いや得だ、という会話を、私たちはいつもしている。物語やドラマでも、人間は結果を予測計算して目的を追求していることになっています。それで私たちは、人間はだれでもそのように功利的計算をしながら行動を選択している、と思い込む。当然自分もそういう行動を実際にしている、と思っているわけです。それは、私たち現代人の基本的な世界観、人間観になっている。

人生の目的という言い方には、人生をそういうゲームの戦略として計算するべきだ、という思想が背景にある。人生の幸福という言葉も、その世界観から来ている。人生とは、幸福という得点を最大化するゲームであり、人間はそのゲームをプレイするゲーム用コンピュータである、という世界観です。

生命保険の勧誘パンフレットなどに、人生を一本の横線で表わした図が載っている。結婚、出産、育児、教育、老後などに掛かるお金が試算されている。このお金の出し入れが人生の目的? ちょっと違うでしょう、という気がしますね。だが、かなり説得力がある。人間は八十年くらいかけて、間断なくいろいろと努力を積み重ねていくものなのでしょうか? それで最後は死んでしまう。「それで、目的は?」と聞かれても明答があるわけではない。しかし八十年もの間努力を続けるということは、目的があるはずだと思われる。

目的がないとゲームも戦略も作れない。そう考えると、人生の目的という問いは非常にむずかしいけれども非常に重要な質問のように思われます。

しかし、これは間違った質問です。実際の人間の行動は、ゲームでも戦略でもありません。私たちは人生の目的を目指して毎日の行動を実行しているわけではない。「人生の目的」とか、「生きる意味」とかいうような言葉に深い意味があると思うことは、錯覚です。「○○の目的は・・・」というと、何か、重要なことを意味しているように聞こえる。しかし、それは錯覚です。私たちは、習慣によって、言葉の響きに引っぱられる。「今日の訪問の目的は・・・」などというと、たしかに重要なことを言っている。けれども、「今のあくびの目的は・・・」とか、「今の居眠りの目的は・・・」とか言っても意味がない。実際、「○○の目的は・・・」といって、意味がはっきりすることは、特別な場合だけです。

あまり多くはいませんが、自分の目的に役立つ行動しかしたくない、という人が、たまに、いますね。ある意味、非常に純粋な人です。そういう人にとってはあくびとか、居眠りなどは、人生にとって、まったく無駄な行動です。たとえば、笑う、ということもくだらない。目的がないから、笑っても仕方がない。実際、こういう人は、あまり笑わない。冗談や駄洒落をいうと、ひどく嫌がる。眉間にしわを寄せたりする。

さて、拙稿の見解では、人間は、目的を追求するように作られた機械ではない。人間は目的もなく、泣いたり、笑ったり、居眠りしたりする。私たちは、いきあたりばったりに数億年かけて生存競争を戦い抜いているうちに、こういうつくりの身体になってしまっただけ、といえる。泣いたり、笑ったり、あくびや居眠りの連続でできている私たちの人生について、「その目的は?」と聞かれても、答えがあるわけはない。

ふつう人間が行動するとき、その脳はコンピュータのようにゲーム理論の戦略計算をするわけではない。チェスや碁を打っているときでさえ、アマチュアのプレイヤーはそれほど深読みをせず、イメージで「いけそうだ」とか「王手をかけて脅してみよう」などと瞬間的な感情で判断しています。人間の脳は、計算の理論値よりも感情で感じる現実感のほうを優先します。だからときどき錯覚して予測を間違え、コンピュータのほうが正しい判断をしたりする。 

けれども感情で直感的に判断するとき、人間はコンピュータよりずっと速く行動できる。人間の脳は錯覚に反応して衝動的に動くことによって、かえって簡単に速く、損のない行動を導けることが多い。人間の感じる錯覚が、進化の過程で洗練されていて、実質的に最適値を得られるシンプルでスマートな近似計算を実現しているからです。

(拙稿の見解によれば)人間の通常の行動は、犬や猫など一般の哺乳類と同じく、感覚情報の感知に対応する感情回路の反射的反応で決まってくる。ただ人間の場合は、目の前の感覚情報ばかりでなく、それに記憶情報を加えて大脳と小脳で作ったバーチャルな、仲間と共有できる予測シミュレーション(拙稿4章『世界という錯覚を共有する動物』参照)によって引き起こされる錯覚を、感情回路に反映して行動を選ぶ。チェスゲームに勝つ、という予測シミュレーションにおける状況が最高の感情を与えるように学習で設定されていると、感情回路はゲームの理論で計算したのと同じ駒の動きを(無意識のうちに)好ましい結論として、直感的に選んでいく。結果的に、コンピュータで最適戦略を計算して動くことと同じになる。人間はゲームに勝とうとして全力をつくすように見えるし、コンピュータも同じように、勝とうとして全力をつくすかのように行動を選択する。

こういう行動を外見だけで見ると、人間とコンピュータは良く似ている。それで、コンピュータを使いこなせば人間そっくりのロボットが作れそうだ、という楽観的な予想がなされますが、それは間違いです。人間のようなロボットは、そのような設計思想では作れない。いかにも機械のようにしか動けない、感情がない、ぎこちないロボットができるだけです。

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私はなぜ幸福になれるのか(5)

2008-05-17 | x7私はなぜ幸福になれるのか

十八世紀のロンドン株式市場で起こったバブル崩壊の際に、今の貨幣価値で数億円も失ってしまったアイザック・ニュートンは「天体の運動と違って、人間の狂気は計算で予測できない」といったそうです。現代のトレーディングロボットでも、バブル崩壊のような事態になると混乱して、かえって損失を大きくしてしまう危険がある。では、現代の科学を総動員して、人間の心理などすべてを計算に入れた計算アルゴリズムをつくれば、人間より優れた予想をするロボットが作れるのか?遠い将来のいつか、そういうロボットが作られるかもしれませんが、今は、とても無理です。もし、近い将来に人間と同じ程度に優れた予想能力を持つロボットが作られたとしたら、それは、現在のロボットとはかなり違って、人間の脳と同じしかたで行動する仕組みを持つものになるでしょう。

もし、人間の脳が現在のロボットのように、計算して運動を決定する仕組みだとしたら、こんなにしなやかなすばやい身体の動きはできないはずです。感知できるすべての情報を取り入れて功利的計算をし、その結果によって最適な行動を選択して動き出すような脳は、現実の場面では、何も行動できなくなる。動きが鈍いために生存競争に負けて滅びてしまうでしょう。実際、人間は、世界の予測シミュレーションの中に自分の姿を映し出して、感情機構に照らし合わせ、その自動的反射運動によって、すばやく、いわば衝動的に、行動を決めている、と(拙稿の見解によれば)思われます。人間の感情機構と文化の共進化が生存競争に鍛えられて現実世界にうまく適合しているから、衝動的な行動が、最適に近い利益を得ることに成功する確率は大きい。それで、衝動的行動が、結果的に、ペイオフ行列を緻密に計算して計画した功利的な行動に見える。

人間の行動を結果的にみると、実に合理的な行動をしているように見える。つまり、進化によって洗練された衝動的行動をしている人間を見て、人間は、自分たちが経済的欲望や社会的欲望を追求して緻密な損得計算をし、功利的に行動している、と思い込む。自分たちは、経済的、社会的成功、という目的をもって、戦略をたて、日々、損得の計算をして最適な行動を選択している、と思うわけです。

その結果、人間は、他人も自分も、人生というゲームの中で、幸福という目的を目指して、功利的に、ペイオフ行列を計算しながら最適化アルゴリズムにしたがってプレイするゲーム用コンピュータであるかのように思っています。そのコンピュータの目的のように見えるもの、それが幸福の追求、だと思っている。

確かに、私たちが人々の行動を理詰めで考えるときは、ふつう、その行動が何を目的としているのか、と考える。目的指向の行動、という図式で考えるわけです。そうすると、人間の行動がよく理解できる。たとえば、人はお金の獲得を追求する。お金を獲得する目的は何か? 何かを買うためです。その、何かを買う目的は何か? ・・・というように、その目的は?その目的は?と質問していくと、最後は、幸福になるためだ、という答えに行き着く。結局、人は幸福を求めている。人生の究極の目的は幸福だ、ということになる。最初に、こういう議論を述べたのは、古代ギリシアの哲学者です(紀元前三五〇年 アリストテレス二コマコス倫理学』)。人生の目的は幸福の実現だ、とはじめて書いた。それ以来、世界中の哲学者や宗教家は、同じことを言っている。しかし拙稿の見解は違う。

実際はこうです。お金を貯める、ということが自分の幸福だと思い込んでいる人は、脳の感情回路がお金を増加させるシミュレーションをプラスに加速することで形成される自分の行動を観察して、それを自分の欲望だと思っている。なぜ、自分の感情回路がお金を得る行動を加速するのか、本人は分からない。それは若い頃からの学習によって、感情回路に刻み付けられているからです。若い頃は貧乏で、お金があると不安が減って、安心が増えるから、お金を増やす行動に力を入れていたのかもしれません。しかし一生懸命にお金を増やしているうちに、いつの間にか、それが習慣となって、何のためにお金を増やすのかは忘れてしまい、貧乏ではないのに、お金を増やす行動はとにかく加速する、そっちのほうへ身体が傾いてしまう、という習慣が身についてくる。習慣ですから、いつの間にか身体が、衝動的に、その行動を進めてしまう。それを本人は、自分が気持よくなるためにしている、それが自分の欲望だ、と思っている。

感情回路は若い頃の学習によって、特に仲間と感情を共有する集団としての学習によって、その反射を刻み付けられている。本人はその仕組みもその働きも自覚できない。膨大な回数の過去の繰り返し学習によって、感情回路は世界の法則を取り込んでいますから、無意識な衝動的反射の連鎖による行動が、緻密な計算による功利的な目的追求行動のように見える。

進化によって洗練された人間の感情機構の働きは、驚くべき実務能力を備えている。目前に迫る現実の課題を、驚異的な能率で実務的にさばいていきます。現代のスーパーコンピュータも、とてもかなわない。動物や人間の感情機構のこの具体的な仕組みを解明することが、今後百年の科学の、最大の仕事になるでしょう。

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私はなぜ幸福になれるのか(4)

2008-05-10 | x7私はなぜ幸福になれるのか

人間も動物なのだから、基本的には、他の動物と同じように、単純で反射的な運動形成をしているはずです。生まれたばかりの赤ちゃんの動きは、明らかにこうなっている。ただ、成長した人間の脳は、(拙稿の見解では)リアルな物質世界からの感覚入力信号に直接反応するばかりでなく、過去の学習で作られた予測シミュレーションに、感覚入力信号を組み入れて、そこで作り直したバーチャルな世界モデルとその存在感に反射的に反応して、仮想運動、仮想感覚を作り出している。拙稿4章で論じたように、大人の人間は、予測シミュレーションから作られるバーチャルな世界の存在感を、仲間の人間たちと共有することで、それを現実と感じとっている。赤ちゃんや他の動物に比べて、大人の人間の行動は、このシミュレーション世界モデルに反応する仮想運動と仮想感覚が加わった分だけ、運動形成過程が複雑ですが、基本的な仕組みは動物共通のものと同じでしょう。

(拙稿の見解では)人間の場合も動物と同じように、実運動も仮想運動も、単位の運動は単純に自動的な反射として起こる。ただ、人間の場合は、大脳で大規模な予測シミュレーションをする結果、数多くの仮想運動を次々に連結、連鎖するので、全体として複雑な将来予測モデルを脳内に作り出し、それに対応して行動が形成される。そして実際に出力された運動をふたたびシミュレーションに繰り込んでそれを思い出すことで、自分が計画して複雑な行動を起こした、という経験として記憶する。

(拙稿の見解では)動物と同じように、人間にも、主体性などはない。脳内の将来予測モデルに自動的に反応して何かをしてしまって、それをしている自分を見て、「ああ、私はこれをするのが好きだからしているのだ」と思うだけです。あるいは、「私は、これをすべきだからしているのだ」、「あの目的のために、これをしているのだ」と思うのです。どっちにしても、そう思う前に、他の動物と同じように、無意識に自動的に身体が動いていく。自分がそうしようと決める前に自分の身体がそれをすることは決まっている。感覚器官からの入力情報に自動的に反応して、脳内で世界の予測シミュレーションが起こり、それに反応した感情回路が加速する運動が自動的に起こり、身体が動いてしまう。進化の過程で洗練されてきた反射回路と感情回路が加速する運動は、「怖いものを避ける」など生き残るために有益な運動だから整合が取れている。合理的に見えるわけです。

それで、目的を持った行動のように見える。あたかも、人間は、脳内にゲームのペイオフ行列を備えていて、それを最適化するアルゴリズムで計算して最適な行動を生成しているように見える。目的の得点を最大化する最適戦略による行動と見える。人間は自分をそのように行動するものだ、と思い込んでいる。そして、その目的のためにその行動を実行した、として、自分の行動を記憶する。

このことは、自分の行動ばかりの話ではない。私たちは、自分たち人間の行動が、すべて目的を追求する最適行動として生成されている、と感じると同時に、犬や猫などの動物の行動も同様に目的指向でなされている、と感じる。人間は、物事を観察する場合、それが目的を指向して動いている、と感じ取る。これは、たぶん生れつきの人間の神経回路に備わっている仕組みです。

赤ちゃんや未開人などの世界認識は、素朴にそうなっている。あらゆる物事は目的を持って起こる。原因は結果を目指して起こる。物事は目的の状態に至ることを目指して動いていく。そういう物の見方です。自分を含めた人間はもちろん、動物も、草木も、気象や海山でさえも、そうして動いていく、と思い込むわけです。すべてのものは魂を持っている、というアニミズムです。

太陽は地上を暖めようとして照る。

風は、人や物を吹き飛ばそうとしてふく。

雨は、地面を濡らそうとして降る。

花は人を慰めようとして咲く。

ゴキブリは主婦を嫌がらせようとして台所に現れる。

この世の、すべての物事は私たちに何かをしようとして、起こる。

私たちは無意識のうちに、目に映る物事が起こる原因を見つけようとする。財布が落ちていれば、誰が落としたのか、と思ってしまう。何年も前から、そこにあったとは思いません。小石だったら? 何年も前からあったに違いない。しかし、そういうものは、ふつう、目に映らない。誰かがそれをしたという感じがしない物事は、ふつう、私たちの関心を引かない。

では、突然、目の前に小石が飛んできたら? 私に当たったら怪我したかもしれない。だれが投げたんだ? 私を狙撃しているのか? と思う。人間は、物が動くのを見ると、その原因を、だれかが何かの目的を持って行為した結果に違いない、と思う。

飛んできた小石は、崖の上から自然に滑り落ちた落石がはねた、という場合もある。しかし、私たちは、ふつうそう思わない。この石を投げたのはだれだ? と思って、周りを見回す。

南極の氷山が崩れると、地球温暖化だ、と思う。しかし、氷山というものは、いつの時代でも崩れるものなのです。自然は、人間の意図と関係なく、変化していく。それなのに、私たち人間は、物事はだれかが何かをするから変化する、と思ってしまう。

しかし、一方、自然科学の知識にもとづいて物事を見ると、まったく別の見方になる。まず、自然現象は人間の意志とは関係がない。植物も、意図を持って動くことはないでしょう。動物ですが、人間以外の動物については、目的指向の計画的な行動が存在するかどうか、明らかに疑わしい。

忠犬ハチ公は、果たして本当に、死んだご主人の面影を求めて渋谷駅まで往復したのでしょうか? それとも、駅前の焼鳥屋で餌をもらえるから行ったのか? それとも、単によい匂いのする方向へ歩いて行ったら、そこが渋谷駅だっただけなのか? 

ハチ公の行動が目的指向であるとすれば、ネズミの行動も目的指向なのか? ネズミがそうなら、ゴキブリの走りも目的指向なのか? じゃあ、クラゲの泳ぎも目的指向なのか?

逆に、ハチ公の行動が目的指向でないとすれば、人間の行動も目的指向ではないのではないでしょうか? 動物の中で人間だけが、主体性を持って計画を立て、正確に目的を追求できる、とか、あるいは、コンピュータのように冷静に最適計算をして目的に到達できる、という考え方は、怪しいと思いませんか?

(拙稿の見解では)人間が動物と違うのは、主体性があるかないか、あるいは、目的指向かどうか、ということではない。

人間は、極端に大脳(+小脳)が発達しているおかげで膨大な過去の経験を記憶できる。記憶から多くのデータを呼び出して、現時点で感知した感覚情報を修飾することで、将来の精緻な予測シミュレーションを高速で作り出す。その予測シミュレーションが感情機構に投影されることで表れる錯覚の存在感を、いつでも感じている。人類は、その錯覚の存在感を仲間と共有できるところが、他の動物と違う。自分の脳内に作り出したバーチャルなシミュレーションに自動運動形成機構が反射的に反応して、仮想運動を作り出す。それが感情回路で加速減速を受ける。その結果に、また脳の自動運動形成機構が反応して、次の仮想運動を作り出す。それを繰り返し、連鎖的で自動的な運動シミュレーションの形成が起こる。身体を動かさずに、脳の中だけで次々に錯覚が作り出され、それに反応して脳内に仮想運動が形成されていく(拙稿4章参照)。

ひとつひとつの仮想運動の形成は、単純な反射の連鎖により自動的に生成される。将来を予測したいろいろな場面のシミュレーションが作られて、同時にその存在感を現実と同様に感知できる感情機構によってそれぞれが評価され、加速減速を受けた運動が自動的に実行される。自動的な反射の連続ですから、運動の選択は躊躇なく、迅速に実行されるわけです。近年、脳科学の実験でも、人間の意思決定が無意識の反射で生成されていて、意識による意思決定の自覚は錯覚であるらしい、という実験結果が多く報告されています(古典的なものは、一九八五年 ベンジャミン・リベット『随意動作における無意識大脳指令と意識意思の役割』)

感覚信号や連想から生成されるシミュレーションからの反射反応で形成された運動が選択されるときは、いつも感情機構によって評価されるから、感情機構が加速する方向に人間は行動していく。感情機構の働きは進化によって洗練され、その設計がDNA配列(ゲノム)に刷り込まれている。結果として、私たち人間は、連鎖的な錯覚を、無意識のうちに巧みに操作して、生存繁殖に有利な行動を選択する。たとえば、仲間を嫌いにならずに仲良くつきあっていく、とかです。

つまり、結果的にですが、最小のリスクと最小のコストで、生存繁殖の確率を最大化する。ちなみに、さらに正確にいえば、生存と繁殖とは個体のレベルではなく、行動を生成するDNA配列(ゲノム)の遺伝子単位で起こる。自分の生存繁殖には不利になっても兄弟姉妹を助ける遺伝子群は、本人の子が生まれなくても、生き残っていく甥や姪に伝わって伝播していく(一九六四年 ウィリアム・ドナルド・ハミルトン社会行動の遺伝的進化)。また、村落を作る仲間とは孫の代までつきあうわけなので、利己的に仲間を裏切らずに、仲間がうまく生存し繁殖できるように助け合い協力し合う行動が、生存繁殖を有利にします。そういう繁殖に有利な行動を生成する遺伝子群は保存され拡散する(一九八四年 ロバート・アクセルロッド協力の進化)。これが、人類の社会と文明と経済の基礎になっている。

たとえば、生存繁殖のためには、なるべく楽をしてカロリーの高い食べ物を手に入れるような行動を選択するべきです。それには泥棒が一番正しい行動かもしれない。しかし、泥棒をすると捕まってひどい目にあう確率も高いから、割に合わない。それに、いったん泥棒の汚名を着てしまうと、一生、仲間は食べ物を分けてくれなくなるだろう。泥棒はやめて、まじめに働くほうが、結局は得なわけです。しかし、ふつう人間はこういうことを冷静に計算して理解するわけではない。泥棒はいけない、という正義の感覚は習わなくても身についている。そこへ文化による教育が加わると、まず泥棒はしないという人間が育つことになる。

泥棒はしない、というような、人間のこういう判断は、コンピュータのようにペイオフ行列から損得を計算して、一番、得になりそうな行動を選択しているのではない。経済的行動として、純粋に期待利益の多寡から、泥棒をしたり、しなかったりする人はいない。ここのところを、私たちは自分自身を誤解している。経済学のいうような利益最適な功利的行動、というものを、実際の人間が計算して実行しているわけではありません。

コンピュータにやらせてみるとよく分かりますが、現実の世界で役に立つような功利的計算をするためには、天文学的な量の前提条件が必要となり、計算量も膨大すぎて、とても実用にはならない。たとえば、いつも損得計算をした結果で行動する自分は、仲間から見ると協調性がないやつ、と見られていじめの対象になる恐れがある。それも計算に入れて、自分の行動の損得を評価しなければならない。不確定要素が多すぎて、どんな高速コンピュータでも無理になる(フレーム問題という)。

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私はなぜ幸福になれるのか(3)

2008-05-02 | x7私はなぜ幸福になれるのか

入試が難しい大学や学科に合格すれば将来お金持ちになれそうだ、と予想して、合格確率から将来収入の期待値とコストを計算し、効用が最大になるような大学や学科を選んで受験する。そういうことを判断するのが、主体性を持った「ゲーマーとしての私」です。こういうことも、うまくプログラムされたコンピュータに、十分な量の正しいデータをインプットすれば、計算で答えを出せそうです。

かつては、むずかしい意思決定の問題は、人間が多くの知識と経験を使って、熟慮の末、結論を出すしかなかった。しかし、高速コンピュータが実現した現代ならば、変動する膨大なデータをコンピュータにリアルタイムで読み込ませ、瞬時にペイオフ行列を計算することで、次にすべき行動を決めさせることができる。

現代の株式市場では、取引の半数がコンピュータにより自動化されたトレーディングロボットを使う、つまりシステムトレーディングになっているそうです。それが景気の動向を左右する。私たちの実生活の根幹を決定する人々が、急速に、コンピュータによる主体性に取って代わられていく、ともいえる。

 このようなコンピュータプログラム、つまり、効用という得点を最大化するようにゲームの戦略を選定していく最適化アルゴリズムは、機械的に主体性を実現する試みといえる。認知心理学などでは、このような情報処理システムが人間の行動の基本的なモデルとされている(一九七五年 ジェリー・フォダー思考の言語』)。この仮説によれば、私たちの主体性とは、人生というゲームの得点を最大化するような戦略を計算して選び取っていくアルゴリズムだ、という理解になる。

人間の行動をこのような最適化アルゴリズムとする見方は、また、現代経済学の考え方に通じる。ゲーム理論から発展した経済学では、個々人が自己の利益を最大化する最適行動をとると仮定して、経済現象を理論化する。こういう理論は、現代人の理解する人間行動のモデルにぴったりあっているように見えるところから、現代の経済理論、政治理論、経営理論などに、広く受け入れられている。

 だが、本当にこれが人間なのか? 人間は一種の最適化アルゴリズムなのか? 人間という動物は、本当にこう動くような仕組みになっているのでしょうか? 拙稿は、この点に関しても、懐疑的な見解を述べてみたい。

 アルゴリズムで動く人間という仮説モデルは、実は、人工知能で動くロボットに似ています。現在開発されている知能ロボットは、みんな、この原理で設計されている。このようなロボットは、セットされた目的を最適化するアルゴリズムに状況のデータをインプットして最適な行動計画を算出し、それをモーターのアウトプットとすることで動いていきます。このようなロボットの行動計画の作られ方は、いかにも人間の思考に似ているように見える。しかし、(拙稿の見解では)このように作られている現代のロボットは、人間のような思考はできない。行動計画の作られ方が違う。そのために、ロボットの動きは、人間を含めた動物全般の動きとは違うものになっています。

私たちは、財産が増えるとうれしい。幸福になります。その幸福を最大化することが、ある人々にとっては、人生最大の目的といえるようです。しかし、現代、そのために一番確実な方法は、すべてをトレーディングロボットにまかせることかもしれない。では、投資家に取って代わったそのロボットは、目的のために行動する人間と同じなのか? 株を買ったり売ったりして、財産を増やしていく行動を見ている限り、人間と同じです。しかし、投資がうまくいくと、ロボットは幸福を感じるのか? 

ロボットが幸福を感じる、という言葉の意味がよく分かりませんね。ロボットは、いくら財産が増えても、幸福になるとは思えない。こういうロボットが幸福になれないとすると、では、人間は、なぜ幸福になれるのか? 同じ行動をして財産を増やすことに成功しているのに、なぜ、ロボットは幸福になれず、人間だけが幸福になれるのか? そもそも、ロボットは幸福になる必要がない。幸福になれなくても、目的を目指してしっかり働く。人間はそうなっていません。幸福になれないと分かっていては、やる気は出ない。どうも、行動の仕組みが、そこのところで、ロボットと人間は根本的に違うらしい。なぜ違うのでしょうか?

哺乳類に比べて簡単な脊椎動物、たとえば、カエルやトカゲは、人生(カエル生、トカゲ生?)の目的を持っていて、それを実現するように行動しているようには見えませんね。たとえば、カエルの脳には、財産を増やしたいとか、子孫を増やしたいとかいう人生目的がセットされているわけではない。目の前に表れた異性の運動やフェロモンに刺激されて、手足が自動的に動いて、自然に交尾の姿勢をとってしまう。目的のために計画して行動を作り出す機能はない。

同じように、トカゲが、幸福なトカゲとして一生を送るために、計画的に確実な餌場を確保するとか、自分の生存に最適な行動を選択しているとは思えません。目の前に飛んできた虫をぱくつく、とか、目の前の現象だけに対応して反射的に動いていく。カエルやトカゲなどの行動の原理は、目的とする利得を最大化する人工知能のアルゴリズムにより計算されて動いているロボットの行動原理とは、かなり違う。

トカゲに限らず、ふつうの動物の行動は、みな、単純な反射運動の連鎖で生成されている。身体の右側で大きな音がすれば、左に頭を向けて全速力で走りだす。とかですね。もし、人間の行動の仕組みが、財産を最大化するというように、目的を設定して最適な行動をアルゴリズムから算出するようになっているとすれば、人間は、人間以外の動物とは全然違う原理で行動していることになる。

ふつう動物は、「人生(動物生?)」とか「目的」とか「主体性」とか、などはなくて、上手に生きていく。生まれつき備わった反射運動のプログラムと感覚器官を通じて受ける環境からの信号、それに過去の経験の記憶から再生される反射運動が加わって、自動的に動きが決まっていく。生まれつきの反射で決まっている一瞬一瞬の単純な自動的運動が連鎖して、複雑な合理的な行動のように見えるわけです。

動物の行動は、たいがい合理的に見える。数多くの試行をすれば成功も失敗も出るが、統計的に平均した結果としては、たいてい環境に適合した行動になっている。上手に生き抜いて、子供を増やせるような行動をとっている。計算して最適な戦略を選択した結果と同じようになる。環境適合を目的として設計された人工知能のような最適化アルゴリズムが算出する最適行動に似ている結果が出ます。

カエルやトカゲが、深く考えて最適戦略を選んでいるとも思えません。また、それら小動物が、高級な人工知能のような最適化アルゴリズムを備えているはずもない。小動物の小さな脳は、反射運動に必要な小さい計算能力を持つだけで、高級な人工知能のようにあらゆる場面において最適化アルゴリズムを構成してそれに必要な高速計算をする能力はない。

簡単な計算だけで最適化と同等の結論を出せれば、それにこしたことはありません。脳は大きいと不便です。大きな脳は、重いし、産道を通りにくい。酸素や栄養を多く消費する。行動計画の計算に要する脳容量は最小限であることが望ましい。そういう脳を作るDNA配列(ゲノム)が競争に勝って生き残る。そういう理由で、動物の脳は、進化の結果、最適化アルゴリズムと同等の結果を出すように組み合わされた単純な反射運動の連鎖システムを、最小の容積でコンパクトに実装しているはずです。

いろいろな動物が、大小さまざまな脳を持っていますが、それらはいずれも、進化の結果、それぞれの生活環境にぴったり適応する設計になったコンパクトな制御装置です。大きいからよい、というものでもない。それぞれの動物は、それぞれの生活に必要な最小限の制御装置を持っていればよいわけです。そういう制御システムができれば、行動を生成するためには高性能な大型の搭載コンピュータはいらない。必要な反射運動を生成できる限りで、なるべく簡単な神経回路が、コストもかからず、故障も少ないわけです。

できれば、サーモスタットのように単純な制御回路がよい。いろいろの温度に設定されたサーモスタットを数多く連鎖作動させれば、複雑な行動が生成されます。一方、人工知能を備えたロボットには高性能の搭載コンピュータが必要です。それがなくては身体をわずかに動かすこともできない。簡単な機構から徐々に進化してきた動物の身体は、そうなってはいないはずです。

カエルやトカゲの小さな脳は、簡単な反射機構の集合でできている。人間の脳は、最終的には大きくなっていますが、ある日突然、複雑な大型コンピュータとして作られたはずはない。カエルやトカゲのような極小の単純な脳を改良しながら、まずネズミのように小さな脳を作り、そこから徐々に進化したはずです。もしそうであれば、環境に適応する行動を計画するための脳機構は、人間の場合でも、基本的には人工知能ロボットのような高性能のコンピュータを必要とする最適化アルゴリズムになっているはずはない。

ある日突然、人間の脳に大型コンピュータが付け加えられて、人生の目的を設定して最適な計画を考え出せるようになった、ということなのか? それはおかしい。人間に特有の、目的を追求して計画を立てる能力は、原始人類の脳に最後に付け加えられた小改修で実現されたはずです。それまで、人類の脳は、そういう仕事のために使われてはいなかった。他の動物のように、反射と感情に従って衝動的に実行される行動のためだけに使われていたでしょう。

もしそうであれば、人間の脳の機構も、この基本のところは、カエルやトカゲの仕組みのように、単純な反射回路の集合でできているのではないでしょうか?

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私はなぜ幸福になれるのか(2)

2008-04-26 | x7私はなぜ幸福になれるのか

幸福とは何でしょうか? アンケートをとるときの選択肢としては、家族、お金、結婚、出世、成功、勝利、裕福、栄誉、尊敬、安心、安全、健康・・・ いろいろなキーワードがあげられそうです。

幸福は目に見えない。ですから、幸福というのは脳の中に生ずるひとつの錯覚です。目に見える物質世界には幸福はありません。幸福は物質ではなくて目に見えないものなので、他人どうしが同じものを感じながらしっかり共感するのはむずかしい。

例外的には、分かりやすい幸福というものもある。蚊に刺された腕の赤い斑点を見せて、それを掻きながら、「痒いところを掻くと幸せ!」と言えば、その幸福は聞き手にも共感されるでしょう。その共感が、その幸福の意味です。そのほかの幸福も、それを感じている人を見ている人が、共感をはっきり感じられるときは、確かにそこに存在する。幸福とはお金や地位そのものでもなく、状況そのものでもなく、それらの状況にある人が感じているらしいことを、目や耳で観察して想像する観察者の脳の状態にある。特に、自分の状態を観察している場合、観察者は、自分を観察することで、他人から見た自分の幸福を、あるいは不幸を、感じることができる。

人はなぜ幸福を追求するか? なぜ私たちは、それを人生の目的として追求するのでしょうか?

 五分後であれ、五日後であれ、あるいは五年後であれ、今から将来を予想してその中で自分の幸福を追求する、というゲームを作り上げ、それをプレイする機能が、進化のある段階で人類の脳に追加されたようです。しかし、他の動物は、こういうことはしない。動物の中で人間だけが、なぜ、自分の行動を計画できるのか? なぜ、一年以上もさきの収穫を予想して穀物の種を保存することができるのか? なぜ、そういう脳機構を持つように進化したのでしょうか?

他の動物はそうなっていない。チンパンジーなどは、ごく断片的に、この機能を持つようですが、人間との差は大きい。観察すれば、すぐ分かる。チンパンジーに、「来年の計画は?」と聞く人はいないでしょう。

 人間だけがなぜ、目的をもって長期的な自分の人生を計画できるのか? そして、なぜそうするのでしょうか?

 筆者が若いころ感動した有名な小説の筋です。ある日、老漁師はいつものように小船に乗り、一人で海に出る。巨大なカジキマグロと大格闘の末、釣り上げるけれども、獲物は鮫に食われてしまう。骨だけになった獲物を持って陸に戻った老人は、それでも幸せそうに見える(一九五二年 アーネスト・ヘミングウェイ老人と海』)。この一日の老人の大格闘は、次の日からの彼の人生には、良くも悪くも関係しそうにありません。しかし、私たち読者は、老人の行動の美しさに感動する。

 人間はなぜ、「今のこのときだけ、今日一日だけ、幸せならそれで満足」と考えられないのでしょうか? それは聖人君子のような、美しすぎる生き方かもしれない。しかし凡人の私たちも、ちらっとは、それが分かるような気になることもある。 今食べたい食事と、今すぐ交尾したい異性のことだけを考えている動物は、聖なる精神を生きているようにも見える。しかし、「動物はばかだから、それしか考えられない」と言ってしまえば、それもそのとおりでしょう。

 人類の脳機構は、将来の自分というイメージを自動的に予想する機能を持っている。明日の自分、来週の自分、来年の自分、というものを全然考えない人は少ない。二十年後、あるいは五十年後の自分を心配して、人生を設計し、そのために毎日努力している人も、たくさんいます。そういう人は、しっかりしている、立派な人だ、信頼できる人だ、といわれる。たしかに、将来の自分のために努力する人は信頼できる。そういう人は、将来の自分の立場をいつも実感している人ですから、約束や契約を守ってくれる。自分たちの組織を守ってくれる。法律も守ってくれる。そういう人々が集まってしっかりした社会ができる。

将来の自分を守るということは、仲間との信頼関係を守ることです。人間としてはそうすることがまともです。そうすることがまったく正しい。しかし、こういうことをすることは、動物としては、かなりおかしな行動です。人間以外の動物は、今、目の前に感じられる物事しか考えない。それがふつうです。

他の動物はけっしてしないのに、なぜ人間だけが将来の自分のありかたを予想して、それを計画までするのか?

 将来の計画を持つ、ということは、どういうことなのか? 行動を計画するということは過去の記憶と将来の予測を現実と比較して、次の行動を評価し、選択する機能です。主観的には、「私」と言われるものがいろいろ考えながら、これをしているように感じられる。行動の主体性、とでもいうべきものでしょう。

 コンピュータでこの主体性のようなものを作るには、どうしたらよいか。チェスや将棋などのゲームをする人工知能は、主体性を持って、相手に勝とうとしているように見える。こういうゲームの自動プログラムを改良すれば、うまくいくのではないでしょうか? 

 実際、世界で一番強いチェスのプレイヤーは、コンピュータです。チェスで成功するという行動は、コンピュータが得意なわけです。では、人生ではどうか? コンピュータには、とても無理そうですね。だが、大学入試なんかは、どうだ? コンピュータのほうがいい点を取って、合格してしまうのではないか? ビジネスの取引などはどうか? ゲームと考えれば、コンピュータもできそうです。

予測シミュレーションの結果に対して数学のゲームの理論(一九四四年 ジョン・フォンノイマンオスカー・モルゲンシュテルンゲームの理論と経済行動』)を当てはめて収穫と損失を計算し、その手が有利か不利かを判断するコンピュータプログラムを作ればよい。原理としては簡単な仕組みです。ゲーム理論では、収穫と損失の比較表をペイオフ行列という。この数値表がゲームのプレイヤーとしての主体性を表わしている。この表が、どういう状況では、どう動くべきか、という行動計画を決めている。この表に並んだ数値が、いわば、「ゲーマーとしての私」、ということになります。

 

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私はなぜ幸福になれるのか(1)

2008-04-19 | x7私はなぜ幸福になれるのか

17 私はなぜ幸福になれるのか?

 人生の目的は何か? このごろは流行らないようですが、筆者の世代、あるいはその一つ前くらいの世代の若者は、こういう問いがまさに哲学だ、と思っていたようです。しかし哲学者の本も、科学者の本も、文学者の本も、どの本を読んでも、人生の目的は何かについてまともな答えは書いていない(現代哲学の開祖といわれる哲学者も、人生の意味という問題に意味はない、と書いています。一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考既出 一九九七年 カレブ・トンプソン『ウィトゲンシュタイン、トルストイ、人生の意味』)。そうなると、こういうことを質問しても空しい、と思われるようになるからでしょうか、今はだれもこういうことを質問しません。

そういう空気が支配している現代、いまどきいい大人がこんな質問をしてきたら、ちょっと警戒したほうがよさそうです。おかしなオカルト宗教の人か、ノイローゼの人か、何かをごまかすために演技しているか、どれかの可能性が高いからです。

 それでも純真な中学生なら、素直に聞いてきそうです。

「人生には目的があるのでしょうか?」

中学生が顔をまっすぐに向けて、こう質問してきたら、大人は、まず目をそらしてはいけません。まじめな顔をしてきちんと回答しなければなりませんね。幸いというか、筆者は、こういう場面の経験がありません。自分が遭遇した場合を想像するに、つぎのように答えようかな、と思います。

「好きな女の子を見つけることかな」

男子だったらこれでよいかもしれない。

しかし女子だったら? それは、考えたことがありません。幸運なことに筆者の娘はこういう質問をしてきませんでしたので。いずれにせよ、大人は、こういう場面を想定しておかなければなりませんね。そこで拙稿では、この際、ちょっとまじめに、この問題を考えてみようか、と思います。

 しかしまあ、大人の人間はだいたい、自分の人生というものは大事だと思っている。自分の人生の目的というほどはっきりしたものは考えていないにしても、周りの仲間と比べての成功、勝ち負け、運不運という意識はある。結婚生活のイメージだとか、家族のイメージ、年収の良い安定した職業、会社でのポジション、あるいは、家の大きさや自動車のグレード、資産の大きさ、などが、その目安でしょう。そういうものを、人並みに、あるいは、できれば少し上等なものを、手に入れたいと思って毎日、努力しています。こういうものが、いわゆる個人的な幸福、といわれるものですね。そして、これらを手に入れることと個人が毎日どういう行動をするかとは、深い関係があると思われているわけです。

 近頃流行の、ビジネスマンの心構えを説く講座などでは、「五年後の自分の姿を想像して人生の目標を立てよ」と教えてくれる。しかし、なぜ人生の目標を立てなければいけないかは、教えてくれない。それは、あまりにも当たり前のことだから、書いてないのでしょう。つまり、だれにとっても自分の人生の成功というものが、間違いなく、とても大事なことだ、と考えられているわけです。

人生の成功を達成し、幸福を手に入れることが、人生の目的なのでしょうか? だれもが、そう思うならば、これが正しい答えといってよいでしょう。

「人生の目的は、幸福になることだ」

こう答えればよいとすれば、これは簡単でよい。中学生の男子にも女子にも、使える答えです。さて、それでは、これが正しいかどうか、それを調べる必要がありそうです。

人生の目的は、幸福になることなのか? そうなのか、そうでないのか、どうなのか、と言う前に、なぜ、私たちは、幸福になることが大事だと、思うのでしょうか? 拙稿は、この辺の考え方そのものに興味がある。

なぜ、人間は、人生において幸福になることが大事だと思うのか? 自分の人生の成功というものを大事だと思うのか? なぜ、そういう脳の働きがあるのでしょうか? なぜ、そういう機能が進化したのでしょうか? 他の動物には自分の人生(動物生?)を考える能力がないのに、なぜ人類だけにそういう機能があるのでしょうか?

 原始時代の人間が、人生の目的について深く悩んだとは思えません。今晩の食料が足りないとか、夜中にたき火が消えてしまって狼に襲われるのではないかとかの悩みに忙しくて、人生について考えることはなかったはずです。飢餓の心配がなく夜は安心して眠れる生活になって、はじめて人間は人生について考えるようになった。

もちろん現代でも、今週中に子供の手術代を稼ぎ出さなければならない孤独なシングルマザーにとっては、人生の目的などは何の意味もない。人生の幸福について考えることができる人生は、それだけでもうかなり幸福な人生なのです。多くの人がこういう人生を送ることができるようになったのは、人類の歴史でもつい最近のことです。

日本国憲法第十三条には 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書いてある。生命、自由および幸福追求が人間にとって一番大事だ、と憲法は言っている。そういえばあの頃は、あの世界大戦が終わった二十世紀の中ごろ、日本国憲法が書かれた頃は、世界中の知識人の関心は、個人、自由、幸福、権利、というような言葉の中にあった。

実際、とりあえず生命と自由に対する脅威への対応に全力を傾ける必要がない(現代の欧米、日本などの)文明国の人々は、個人としての幸福を追求することに相当のエネルギーを傾けている。

しかしこれは実は、人類史上、つい最近あらわれてきた行動様式です。日本でも、個人の幸福の話が問題になるようになったのは、たかだかこの百年のことです。それまでは、人間にとって自分個人の幸福はあまり問題ではなかった。関心がそこまでいかなかった。自分が属している集団、大家族、氏族、一族郎党、の幸福が問題だった。自分の属する集団が生き延びられなければ、個人の存在などはない。まず、集団の生存、それが問題なく確保された段階にいたって、集団内部の過酷な支配体制に対する疑念がでてくる。そして自由が希求される。革命内戦など大騒動が終わって、ようやく個人の自由が当たり前の時代になる。そしてはじめて、さて個人の幸福とは何か、という問題がでてくる。

集団全体の生存があって、その上に、集団内の自由があり、さらにその上に、個人の幸福がある、という構造になっている。それなのに今は、自分個人の幸福以外興味がない、という人がとても多い。自分ひとりだけ成功するよりも仲間と仲良く暮らすことが一番幸せ、などと言うと、主体性がないとか、個人が確立していない、などと叱られてしまいます。

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