人生には、ふつういわれているような目的というものは、実は、ない。人生には、私たちが思っているような幸福も、実はない。幸福は、将来の人生の中にはなくて現在の脳の中にある。現在の私の脳の中には、今思う幸福、今思う憧れ、夢、今思う目的、が確かにある。それが世界を映し出し、世界の中で、仲間の人間の動きを見渡し、今の私を動かしていきます。
今どう動けば、その夢にみる幸福のイメージに近づけるのか? そのように動いていくために、人間は世界を見渡す。そういう動きをするための対象として見渡すから、私たちの運動神経系のシミュレーションとして世界が捉えられる。その結果、現在の現実の世界が存在するようになる。つまり、いわば、夢のために現実がある。夢があるおかげで現実が存在するようになる。その現実世界の中を夢みた将来の幸福のイメージを求めて動いていく私の姿。それが、私の人生の目的、という錯覚を作っていきます。
将来きたるべき自分の人生、というイメージは、人類が農耕をはじめた時代から、社会と文明の基礎を作る重要な錯覚です。私たちの脳の中に、いつも、しっかり固定されている。たぶん、狩猟採集の時代からこの数万年、すべての人間が「自分の人生」というその錯覚のゲームを生きることができた。
私たち人間は、十数年にわたる異常に長期間の無力な幼少期を過ごす。子供の養育に要する母親と家族の負担は長期にわたり持続されなければならない。このことが、おそらく人類が人生という超長期のシミュレーションゲームを脳内に作り出すようになったきっかけでしょう。来年以降のために食物を保存する。道具を作る。不測の事態に備える。子供を大切に育てる。将来の人生というイメージを持たなければ、こういうことはできない。逆に言えば、個々人が人生というイメージを見つめることで、人類は、強力な生存繁殖能力を身につけた。
現代においても、自分の人生をイメージした個々人の努力が、社会を安定させる基礎になっている。逆に言えば、こういう人生シミュレーションの能力を持った人類だけが生き残って現生人類になったのでしょう。その結果、今も、私たちは懸命に明日を予測し、自分の人生を見つめながら生きている。
(拙稿の見解によれば)私たちは、客観的世界のモデルを人々と共有することで、明日の世界で生きる自分のイメージを予想するシミュレーションを作り、その実現を期待する(拙稿4章『世界という錯覚を共有する動物』)。明日の幸福を夢みて、そのシミュレーションを感情機構にしっかりと連結する。こうして作られた私たちの脳では、感情機構の働きによって、幸福に近づくような衝動的行動が起こりやすくなる。こうすることで、衝動的行動が世界の現実に適応する。私たちの感情機構が現実にうまく適応するように進化しているからです。そのため、人間は、他の動物と同じように無意識の反射で衝動的に行動を形成しているにもかかわらず、見かけ上は、長期の目的を追求してその実現に必要な最適な行動をとっていくように見える。
私たちは、おいしいものを食べるとか、かつて生存繁殖に有利であった状況を幸福と感じるような身体になっている。そして、無意識な身体の衝動的反射行動は、やはり、かつて生存繁殖に有利だった行動を自動的に選んでいく。その結果、私たちの自然な行動は、私たちが、自分の幸福を目的として行動していくように見える。
実際、私たち自身、自分たちの行動をそう思っています。それで、私たちは、自分が幸福をめざしている、と思える。そうして私たちは、今日も、明日の幸福をめざし、がんばって生きていく。その自分の行動のイメージを言葉にしたものを、私たちは、計画と呼んでいる。つまり、幸福を目指すことを計画という。だから計画は実行される。私たちが幸福を目指すから実行されるであろう将来の状況予測を、いつのころからか、人生の目的、というようになったのです。
他の動物はそれができない。人間だけが、遠い将来、たとえば明日、の世界のモデルをつくり、それを仲間と共有し、その中に明日の自分を夢見ることができる。毎日、その実現を目指して働く。それで人類は社会と文明を作り出し、急速に地球全面に広がり、他の動物をすべて駆逐して大繁殖することに成功した。
どこの国もそうですが、日本でも、つい百年前まで、だれにとっても人生は単純でした。だれがどう考えても、人生の目的は同じようなものになった。何が幸福か、分かりきっていた。家族や共同体の仲間の間で認められ、できるだけ優位な地位を得られるよう行動する。富を蓄積し、良い配偶者を得て良い家族を作り子孫を繁栄させる。個人が達成したい人生は、共同体の存続に直結していて、はっきりしていた。
ところが現代のように爆発的に経済が成長し生活が豊かになり、国家が安全を保障して市場が自由化すると、共同体の輪郭があいまいになってくる。共同体の文化が変容する。かつては物語や役割や儀礼によって共同体に貼りついていた人生の捉え方がはっきりしなくなる。
家族と共同体の文化は、物語や役割や儀礼を通じて、人間の感情機構に刻み込まれている。文明が発達することで、その言語表現の中に各個の文化は吸収され溶解される。そうなると、共同体の文化に代わって、文明による言語表現が感情機構に刻み込まれ、それが個々人に人生の捉え方を教える。現代の私たちは、すべてを言葉だけで表現しようとする文明に、直接、放り出されるようになった。言葉に引きずられて私たちは、人生を、個人が自分だけの幸福を求めて戦う出世ゲーム、あるいはマネーゲーム、などと極端に単純化してとらえるようになる。自分の人生というものを、共同体と関係せず、自分個人だけのゲームとして単純素朴に捉えてしまう人たちが多くなってくる。最近の日本人の晩婚化少子化など、その結果でしょう。
まあ現代、グローバリゼーションは進むというものの、日本人を含めて人類の大部分は、まだ、家族や仲間と共に生き、そこで認められたいという気持ちに動かされて生きている。そうである限り、共同体の中で懸命に働き、生活を安定させ、子供を産み育てる能力を失うことはない。つまり、実際、伝統的に正しい夢を失ってはいない。そうであれば、人類の再生産システムは維持され発展し続ける。すぐ危なくなるという心配はない。もうしばらく人類の繁栄は続くでしょう。
人生の目的といい、幸福といい、もともと言葉で表されるものではない。私たちがばくぜんと抱く期待、明日への夢がその実体です。その夢は、言葉ではなく、無意識の感情に根ざしている。生存と繁殖に適応するように進化した感情機構は無意識のうちに身体を動かしていく(一九九一年 リチャード・ラザルス『感情と適応』)。幸福は、それが言葉になる前に、身体がその意味を知っている。その動きを見て、私たちは、それが自分の目的だと思い、言葉にしてみる。逆にいえば、身体がそれに向かって動いているその夢が実現することを、幸福という。
私たちは実際、目的との距離を測りながら冷静な計算で動くゲーマーというよりも、どちらかといえば、明日にくる幸福をばくぜんと思い描き、夢を追って生きているドリーマーなのでしょう。
筆者の夢ですか?
まあ、年もとったし、たいていの夢はかなってしまった。でも、今も、もちろん夢はある。
ハワイの海岸でビーチチェアを二つ借りて、妻と並んで青い波を眺めることです。そのとき通りかかった観光客(たぶん年配の日本人)にデジタルカメラを渡して写真を撮ってもらうでしょう。デジタルメモリに保存するだけではすぐ忘れてしまうでしょうから、「夢 X年X月X日」と文字入れしてプリントし、机の上の小さな写真立てに飾ろうと思っています。
(17 私はなぜ幸福になれるのか? end)
(第三部 私はなぜ死ぬのか? end)