私たちの目の前に見えている現実は、実は(拙稿の見解によれば)、人とそれを語り合うためにそれは見えている。人間の身体は、仲間と協力して生活するために仲間と共有できる現実を作りだしている。逆に言えば、仲間と共有できる現実を目の前に見ることができるように人間の身体は進化した、といえます。
そうであれば、そうして私たちが目の前に見ることができるような現実は、それを理解するための理論を私たち人間が思いつけるようにできているはずです。逆に言えば、理論で理解できるものが現実であるはずです。そういう理論のひとつとして成功したものが現代科学であり、現代科学ができあがる以前にかなり実用的であったものが、神秘を伴う占いや習わしや迷信や伝説だった、といえます。
このうちの科学が一人勝ちしました。つまり現代科学はほとんどの神秘を伴う占いや習わしや迷信や伝説にとって代わってしまったようです。科学では解明できないといわれてきた「命」とか「心」とか「自分」とか「運命」とかにまつわる神秘についても、先に述べたように、(拙稿の見解によれば)神秘とは言えないでしょう。
これらを神秘としてそれを研究すると称している哲学という学問もまた、うっかりすると、占いや習わしや迷信や伝説と同列の歴史的遺物として時代から取り残されてしまいそうです(哲学の科学: 人間はなぜ哲学をするのか(2))。
古来、人類は、現実の中に神秘を見つけ、それを語り合い安逸な行為を戒めあって危険に満ちた厳しい自然の中を生き抜いてきました(二〇一二年 ジャレッド・ダイアモンド「昨日までの世界:伝統社会から何を学ぶか」)。そのような生活の中から作り上げられてきた人類の言語は、これら神秘を共有し語り継ぐためによく適した概念を発展させました。たとえば、本章で話題にした、宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命。これらの概念は神秘感を含んでいます。しかし(拙稿の見解によれば)現代人はこれらを真剣に考えすぎた、と思われます。これらの言葉を深く真剣に考えれば考えるほど、人は、言葉の限界を気づかずに超えてしまう(哲学の科学: 私はここにいる(27) )。そして深い穴に落ちる。
宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命。私たち現代人は、これらの言葉が実体を持っていると信じています。これらは、疑いもなく存在している、と思っています。しかしそう思う根拠は何でしょうか? 言葉を話しはじめた幼児のころ、私たちはこのようなもの(宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命)を知らなかった。これらの言葉が表しているものがこの世で最も大事なもので、最大の神秘であるということを、いつ、だれに教わったのでしょうか?
身の回りの現実について仲間と語り合い、現実の移り変わりを予測し合い、予測のために理論を語り合って、私たちはこれらの神秘を感じ取れるようになりました。
私たちは、仲間(家族、友人、同僚、マスコミ、先生、あるいは説教師など)と、次のようなものについていつも語り合っています。
宇宙はこうであるという理論とその神秘。
命はこうであるという理論とその神秘。
心はこうであるという理論とその神秘。
内面はこうであるという理論とその神秘。
自分はこうであるという理論とその神秘。
意識はこうであるという理論とその神秘。
運命はこうであるという理論とその神秘。
これらの理論(拙稿では理論という語を 少し広い意味に使っています。科学理論のように学問的に作られたものばかりではなく、子供ころから周りの人々の影響で私たちが身に付けた知識や信念を理論といいます)と神秘はすべて(拙稿の見解によれば)人によって(集団的に文化として)作られたものです。