哲学の科学

science of philosophy

この世に神秘はない(9)

2013-05-25 | xxx4この世に神秘はない

 

私たちの目の前に見えている現実は、実は(拙稿の見解によれば)、人とそれを語り合うためにそれは見えている。人間の身体は、仲間と協力して生活するために仲間と共有できる現実を作りだしている。逆に言えば、仲間と共有できる現実を目の前に見ることができるように人間の身体は進化した、といえます。

 

そうであれば、そうして私たちが目の前に見ることができるような現実は、それを理解するための理論を私たち人間が思いつけるようにできているはずです。逆に言えば、理論で理解できるものが現実であるはずです。そういう理論のひとつとして成功したものが現代科学であり、現代科学ができあがる以前にかなり実用的であったものが、神秘を伴う占いや習わしや迷信や伝説だった、といえます。

 

このうちの科学が一人勝ちしました。つまり現代科学はほとんどの神秘を伴う占いや習わしや迷信や伝説にとって代わってしまったようです。科学では解明できないといわれてきた「命」とか「心」とか「自分」とか「運命」とかにまつわる神秘についても、先に述べたように、(拙稿の見解によれば)神秘とは言えないでしょう。

 

 

 

これらを神秘としてそれを研究すると称している哲学という学問もまた、うっかりすると、占いや習わしや迷信や伝説と同列の歴史的遺物として時代から取り残されてしまいそうです(哲学の科学: 人間はなぜ哲学をするのか(2一般公開で +1 しました 取り消す

 

古来、人類は、現実の中に神秘を見つけ、それを語り合い安逸な行為を戒めあって危険に満ちた厳しい自然の中を生き抜いてきました(二〇一二年 ジャレッド・ダイアモンド「昨日までの世界:伝統社会から何を学ぶか」)。そのような生活の中から作り上げられてきた人類の言語は、これら神秘を共有し語り継ぐためによく適した概念を発展させました。たとえば、本章で話題にした、宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命。これらの概念は神秘感を含んでいます。しかし(拙稿の見解によれば)現代人はこれらを真剣に考えすぎた、と思われます。これらの言葉を深く真剣に考えれば考えるほど、人は、言葉の限界を気づかずに超えてしまう(哲学の科学: 私はここにいる(27 )。そして深い穴に落ちる。

 

 

 

 

宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命。私たち現代人は、これらの言葉が実体を持っていると信じています。これらは、疑いもなく存在している、と思っています。しかしそう思う根拠は何でしょうか? 言葉を話しはじめた幼児のころ、私たちはこのようなもの(宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命)を知らなかった。これらの言葉が表しているものがこの世で最も大事なもので、最大の神秘であるということを、いつ、だれに教わったのでしょうか?

 

身の回りの現実について仲間と語り合い、現実の移り変わりを予測し合い、予測のために理論を語り合って、私たちはこれらの神秘を感じ取れるようになりました。

 

私たちは、仲間(家族、友人、同僚、マスコミ、先生、あるいは説教師など)と、次のようなものについていつも語り合っています。

 

宇宙はこうであるという理論とその神秘。

 

命はこうであるという理論とその神秘。

 

心はこうであるという理論とその神秘。

 

内面はこうであるという理論とその神秘。

 

自分はこうであるという理論とその神秘。

 

意識はこうであるという理論とその神秘。

 

運命はこうであるという理論とその神秘。

 

これらの理論(拙稿では理論という語を 少し広い意味に使っています。科学理論のように学問的に作られたものばかりではなく、子供ころから周りの人々の影響で私たちが身に付けた知識や信念を理論といいます)と神秘はすべて(拙稿の見解によれば)人によって(集団的に文化として)作られたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この世に神秘はない(8)

2013-05-18 | xxx4この世に神秘はない

私たちは現実を予測するために理論を作ります。科学理論ばかりでなく、予測あるところに必ず理論はある。企業経営にも、株式市場にも、競馬にも、処世術にも、それぞれ立派な理論がある。しかし理論による予測は完全ではない。予測しきれないところに未知が残る。神秘が残ります。

未知を神秘と感じることで私たちは理論の予測結果に関心を持つ。理論は繰り返し実践によって検証され、修正され、改良されることになる。つまり(拙稿の見解によれば)予測理論を改良するために必要だから、私たちは未知を神秘と感じ取るような身体になっている、といえます。

そういうことであれば、未来を予測しようとするときはいつも神秘を感じる。競馬の予想ではいつも運命の神秘を感じる。人生は神秘の連続からできている、と思いたくなります。

私たちはいろいろな理論を駆使して未来を予測しながら生きています。しかし理論では予測しきれない未知が必ず残る。予測される複数の未来の中でどれが現実になるのかは分かりません。未来が現実になるとき、理由もなくどれかの未来が実現する。

結局、予測される未来の中から理由もなく一つ一つの結果を投げ与えられることで私たちの人生は展開していく。私たちは、自然の法則に従って推移する現実の中で、理由もなく、今、ここにこの身体を与えられて、いつの間にか生きているとも思えます。

いずれにせよ、私たちはある一つのこの人生を与えられている。予測不可能な何らかの理由によってそれが与えられたと考えると、その未知の理由をもって神秘と感じられます。

しかしこの人生も、結局は決定的な理由もなく、このように与えられているという事実だけからすべてが始まると考えれば、神秘はない。

予測する人間にとって現実は(拙稿の見解によれば)予測できる可能性の一つが理由もなく実現することによって存在する。

私たちはふつう、すべての現象にはそれが起こるにふさわしい理由があるはずだという理論に慣れきってはいますが、よくよく考えてみればそういう理論に固執する理由はない。現実に起こることは、何者かがそうなるように操作しているのでもなければ、何かの間違いや恩寵でそうなるわけでもない、というべき場合がほとんどでしょう。何の理由もなく、現実はそうなっている、というだけ、といえます。

そうであれば、現実とは、やはり、私たちが知り得る可能性の一つが理由もなく実現することによって存在するものだとしてかまわないのではないか?実際、現実とはそういうものだと素直に考えれば、すべては納得できます。つまり、そう考えてよいとすれば、今ここにこの現実が実現していることに神秘はありません。

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この世に神秘はない(7)

2013-05-11 | xxx4この世に神秘はない

要するに、人間は予測をするから運不運という問題が生じる。

人生における予測は、将棋の読みのように、頭の中で状況の変化を想像する。未来の変化を計算することです。自分という将棋の駒を現実という将棋盤で動かしてみるシミュレーションです。

将棋の予測の場合、棋士の頭の中の将棋盤は現実の将棋盤ではありません。将棋の場合、シミュレーションの将棋盤はどれも抽象的な空間でその構造は同一です。先手後手、縦横九行九列の升目と持ち駒台に金銀とか飛車角とか、どの駒がどこに置かれているかという抽象的事項だけですべての状況が決まっています。コンピュータの中で数値として表現できます。

現実の将棋盤は木製であるとか表面に木目が見えるとか、一つ一つ違う。駒も木製であるとか木目であるとか、表面の字も手描きや機械彫りのばらつきがあります。

つまり予測は抽象的で記号的ですが、現実はあらゆる要素が観察されます。

なぜ予測は抽象的記号的なのか?予測では、予測者にとって関心がある情報だけが抽象的に表現されればよい。それ以外は煩雑で予測計算の邪魔になるだけですから切り捨てます。将棋の予測の場合は勝ち負けだけに関心がある。将棋盤が美しいかとか、高価そうだとかは、勝負に関係ないでしょう。

人生における予測も、同じ理由で抽象的かつ記号的になります。予測する将来の自分という人間も抽象的な人物にしかなりません。将来の自分がおかれるであろう立場を予測するという場合でも、抽象的な言葉で書かれた物語のようになる。自分の気持ちを想像するとしても、それは他人の気持ちを想像することと同じになります。予測する自分はドラマの観客のようです。小説やマンガの読者のようです。逆にいえば、私たちが将来の自分を想像することと同じことをできるように作られているシミュレーション装置がドラマやマンガや小説である、といえます。

予測される未来は様々な可能性を持っています。未来が現実になるときには可能性の一つだけが現れる。なぜ多くの可能性の中からその一つの可能性だけが選ばれたのか?そこに神秘が感じられます。

たとえば私の人生はいくつもの分かれ道があった。それぞれの可能性があった。現実にはそのうちのひと筋の道だけを私は通って現在に至っています。何故この道だけが実現したのか?神秘を感じます。運命と言えば運命なのでしょう。

予測というものはいくら正確を目指しても可能性を絞りきれないものです。予測しきれない未知の部分はかならず残る。その未知は神秘感を呼びます。つまり人間は、予測できない未知に神秘を感じるが故に、人生そのものに神秘を感じる。

さて未知はなぜ神秘なのか?知り得ないことがなぜ神秘なのか?犯人が分からないとなぜミステリーなのか?

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この世に神秘はない(6)

2013-05-04 | xxx4この世に神秘はない

さて、世界の存在というような大きすぎる話はこれくらいにして、ここらで話題をぐっと小さくしてみましょう。身近な私たちの卑近な日常生活で出会う大いなる神秘というと、ラッキー、アンラッキー、つまり生活上の運不運、という話でしょう。

 

この現実世界と、その中にいる自分というものを、自分の人生という立場から考えると、私たちは、しばしば運、運勢、運命、というような神秘的なものを感じます。毎日の生活で、運という言葉には、まさに強烈な神秘感があります。私がレストランを予約しようと思うのは一年に二回くらいしかないのですが、目当ての店に電話すると、いつもその日に限って結婚パーティで貸し切りになっている。運命の女神に見放されているに違いありません(拙稿16章「私はなぜ幸福になれないのか?」html )。

 

 

運命の女神は、何を基準にして私の運勢をきめているのでしょうか?神秘です。運命の女神は、私にだけいじわるであるとはいえないにしても、無慈悲でときには冷酷であることは間違いありません。

 

ふつう私たちはしばしば自分が人よりも不運だとは思いますが、人よりもラッキーだとはなかなか思えません。それで、たいていの人は運命の女神を好きになれない。この女神は嫌だ、怖い、目を合わせたくない、と思っています。それがまた、神秘感を増しているのでしょう。

 

この神秘感もまた、拙稿の見解では、実は神秘ではない。神秘感は強いけれども、神秘ということはない、といえます。

 

自分は運が良いと思う人は、用心が足りなくなりがちでしょう。木の根っこにつまづいたり、穴に落ちたりして、時には大けがをします。逆に自分はたいてい運が悪いと思う人は、用心深くなって、警戒おこたりなく、何かをするときは準備おこたりなく、不具合の場合の対策も計画に入れてから行動します。

 

したがって成功率が高い。失敗率が小さい。

 

パラドックスですが、いつも自分は運がよくないと思い、運命の女神を神秘と思い、おそれ敬う気持ちを持てる人々が生き残って、その性質を子孫に伝えていきます。そういう人々の子孫である私たちは、当然、運命を神秘と思うでしょう(拙稿16章「私はなぜ幸福になれないのか?」pdf )。

 

 

 

 

私たちはだれもが、明日のことは分からない、あるいは明日はとにかく、来月または来年のことは分からない。病気になっているかもしれないし、事故、災害にあっているかもしれません。死んでいるかもしれない。宝くじに当たって大金持ちになっているかもしれません。まあ、最後の可能性はないと思いますが。

 

そういう私たちの思いは、私たちが将来の予測をするからだと言えます。人間は明日や来週や来月や来年の自分の姿を予測する動物です。これほど長期の予測をする動物は人類以外にいません。明日のことも分からないのに長期の予測をする。

 

そうすると、ほとんど外れます。長期の予測はよく外れます。当たれば運がよい。外れれば運が悪い。外れが多いから、私たちは自分の運は悪い、と思います。運が悪いと思うと、安全側の行動を取る。将来は悲観的に予測しておくことだ、と思う。それで世の中にはペシミストが多い。

 

地震学者やエコノミストなどは、ほとんどペスミスティックな予測をします。それがジャーナリストに受けるので、そういう地震予測あるいは経済予測を書くことがビジネスになっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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