総理大臣に限らず、正義にもとづいて毎日の仕事をしている人が世の中には必要です。権力を与えられた地位に就いていて、私利私欲のためではなく社会的使命感に従ってその権力を行使する。法令や多数決でそのような地位に就いている人が典型です。公務員あるいはそれに準ずる人々がそのように必要とされているとすれば、その必要な数だけ実際にそういう人がいてくれて社会は正常に維持されているはずです。
その正義を行っているはずの人がいるとしても、その人が行う正義行為が見せかけであって実は私利私欲を目的としていたと分かったとき、その人は偽善者といわれる。社会の期待を受けて正義を行っているはずの人々は、正義を期待される地位や立場にあるがゆえに偽善者になり得る可能性をも強く持っています。
そのような、正義を行っているはずの人々とは、どのような人々なのでしょうか?
まず公共に奉仕する人。助けを必要とする人々を助ける社会的役割を担う人。聖職者、慈善家、篤志家、公務員などが思い浮かびます。職業的には医師、看護師、教師、弁護士、代議士、司法官、軍人、政府高官、ボランティア活動家などでしょう。
これらの人々は職業人である場合は国家試験や選挙で選ばれたエリートです。社会に必要な正義を実行するために国によって特権を与えられた人々です。法令に従って正義のために働くことを社会から期待されています。その権力の行使を許された職業についている限り、正義を行うことが当然の義務であって、私利私欲のために職権を乱用すれば強い制裁を受けることになっています。
これら権力者層のエリート職業人は、職権を乱用しなくとも、正義にもとる行動をしたことが発覚した場合、問題視されます。粗暴な発言やセクハラ、交通違反や脱税、虚偽申告などふつうの人が犯した場合は重大でない違反行為や迷惑行為をした場合でも、一般の人に比べてかなり強く社会から糾弾されます。新聞や週刊誌に載ったりします。
一般の人々はこれらのエリートが良心に従って職務を誠実に実行するだろうと期待して生命財産を託しているのですから当然です。モラルに抵触するような行為、重大なマナー違反の振る舞いは、その人の品性への疑いを生じさせ、その良心の存在を疑いたくなります。そうした人物は特権的地位から排除されるべきです。また庶民感覚の上からも、地位にあぐらをかくような尊大な偽善者は嫌悪されるでしょう。

総理大臣が偽善者であることは許されない、と思う人は多い。本当はどうなのか、知りたい人は多い。しかし一方、原子力や自衛隊に関しては総理大臣が偽善者であるかどうかよりも、そういう課題が実際危険であるかどうかのほうこそ知りたい、と思う人も多い。
総理大臣が偽善者であるかどうかは、結局は、分からないかもしれないが、原子力や自衛隊が危険かどうかは分かるのではないか?それも分からないというなら分からない理由は分かるのではないか、と思う人も多い。安全問題を「分からない」と言って済ませるような総理大臣では困ります。
総理大臣が偽善者であるかどうかは後で述べるように非常に重要で興味を引く問題でもありますが、それと国民の安全問題とは混同すべきではないでしょう。
ちなみに、どんな場合でも100パーセント安全ということはない、とよく言われます。どんな事象についても完全な予測方法というものはありえないことは、ほとんどの人は知っていますが、安全保証がないものが持ち込まれることもほとんどの人は納得しません。この点から、安全問題は、しばしば、いつまでも分からない状態で推移することがあります。
そこに、本当はどうなのか、という問題と、それに引きずられて、回答者が本当はどう思っているのか、という第二の問題がからみあって出てくるとますます分かりにくいことになります。
そもそも総理大臣が偽善者でないはずがない、と思う人もいる。偽善者でない人が多数派の支持を得られるはずがない。みんなに良い顔をする人は偽善者ではないですか?と思うのでしょう。
まあ、そうかもしれないが、総理大臣が偽善者であっても悪いことをしなければよいではないか、と思う人もかなりいます。実力のある偽善者のほうが実力のない非偽善者よりも皆の役に立つ、あるいは現実を知っている偽善者のほうが幻想の理想を追う非偽善者よりも結果的に悪いことをすることが少ない、と思う人もいるでしょう。もしそうであれば偽善者が総理大臣になることは悪いことではないことになります。
一方、腹黒い偽善者などに我が国を代表してほしくない。国民として恥ずかしい、世の中が不気味になるよ、国民がだめになるよ、と思っている人も多い。古代ギリシアや古代中国の賢人たちが言ったように、国家のリーダーは聖人君子であり明るく正義を代表する人物であるべきだ、という考えは素朴ですが国家体制に従う人間心性の基本にあるのかもしれません。

偽善かどうかは単純な白黒ではありません。ある人はそれを偽善者と思うがほかの人はそうは思わないというグレーゾーンがあります。自分の名前を冠した図書館を大学に寄付した篤志家は偽善者と思う人もいます。養老院に多額の寄付をした人が議員に立候補した場合、偽善者と言う人もいます。風評被害と言われる牛肉を食べるところがテレビニュースに出た政治家を偽善者と言う人もいます。
白か黒か、その間に広がるグレーゾーンは幅広い。限りなく黒に近いグレーだとか、白のようだけれどもわずかにグレーっぽいとか、グラデーションがあります。
見る人によってグレー度は違う。見る角度によっても違う。この顔つきは怪しい、とか、しゃべる言葉が上滑りしている、とか、かなり主観的に私たちは判断します。
納得しやすい見分け方は、その人の背景を見る方法です。何を狙ってそうしているのか?「それをすることで誰が得するのか?(Cui bono?)」という質問は偽善者をあぶりだします。また逆に、そうしていったんあぶりだされてしまうと、その人が内心どう思ってその行動をしたかとは別に、その行為だけで偽善者とされてしまいます。
一番けしからん偽善者であると糾弾されることが多いのは政府や政権にある政治家などいわゆる権力者でしょう。逆に正義の立場でそれら権力者を責める人びと、つまり野党、評論家、新聞、雑誌の記者、テレビのキャスター、コメンテータ、有名タレントなど世論をリードしているといわれる人々もまた、偽善者と疑われる場合が多いのは面白い現象です。
正義は諸刃の剣でもある。正義を語る人はまた偽善者と思われる危険と背中合わせです。実際、偽善者がしばしば正義を語ることを多くの人は知っています。
原子力は安全だと思っていないのに、自分の利益へひそかに誘導するために「安全だと思っている」と公言することは偽善です。心から安全だと思っていて「安全だと思う」と公言すれば偽善ではない。しかし逆に、安全などには興味がないのに、自分をよく見せるために「安全が大問題だ」と叫んでいる評論家がいるとすればその人は偽善者でしょう。
自分が実は興味ないのに利益があるから興味が出てきて、しかもそのことを自覚していない発言者も多いようです。それらの人は偽善者のグレーゾーンにあるといえる。本当はどう思っているのか、本音でそう思っているのか、によってグレーなのか、ホワイトなのか、ブラックなのか偽善者であるのかどうかが決まる。自分がブラックであると自覚しているブラックよりも無自覚なグレーのほうがよほど始末に悪い、という場合もあります。

(47 偽善する人々 begin)
47 偽善する人々
人間は偽善をする。善いことをしていないのに善いことをしているふりをします。実は悪いことをしているのに善いことをしているふりをします。
悪いことをしていると思われると損をするし、善いことをしていると思われれば得をすることが多い。人はふつう利にさといから偽善が可能であれば、しばしば、それをするはずです。実際、世の中は偽善に満ちている。
一方、他人がする偽善にだまされると損をすることが多い。善意を裏切られて傷つく。したがってふつう人は他人がする偽善は大嫌いです。しかし自分の利を求めて偽善をする人は絶えないので、だれでも生きている以上、しばしば人が偽善をする場面に出くわすことはしかたがないでしょう。
偽善はなぜいけないことなのか?まず偽善があると分かると不愉快です。偽善をして得をする人がいればその分、偽善をしない人が損をする。いや、その人が得した分の何倍も損をする場合が多いようです。腹が立ちますね。
腹が立つ以前に白々しい嘘に出会うとぞっとする。悲しくなる。私たちは嫌悪感を持ちます。人間不信になります。
そうであれば、偽善が横行するような場では、言葉を交わすことが空しくなる。人と付き合うことが空々しくなります。それでは人間関係が円滑に保てません。約束事もできない。貸し借りもできない。ビジネスもうまくいかなくなるでしょう。行政も政治も娯楽も芸術も、うまくいかなくなる。そこかしこに偽善ばかりがはびこるようでは、社会がだめになりますね。
偽善者が得をするような世の中では、偽善は後を絶たない。偽善者を犯罪者のように取り締まって罰を与えたり、刑務所に隔離したりすることができる制度にすれば世の中はよくなるはずです。しかし実際はそうなっていない。偽善を犯罪として取り締まることは、実際問題としては、むずかしいのでしょう。
明らかに嘘をついて人の財物を詐取すれば詐欺として犯罪になります。これも被害者からみれば、加害者が善人のふりをするという点で偽善でもあります。見知らぬ人が「おばあさん、荷物を見ていてあげますからトイレに行ってきなさい」といってくれても信用できません。置き引きである可能性があります。振り込み詐欺、悪徳内装業者など、年寄りを狙う詐欺は後を絶ちません。
善人のふりをして財物を狙う。この手法を合法的に使えれば楽に利益が上がります。インチキ商法など上手なものはだまされた後でも気がつかない。見事な偽善ともいえます。
「お客さん気に入ったから仕入れ値でさしあげます。半値でいいよ」といわれて信用する人はよほど人がよい。だまされた場合、商人は偽善者です。「悪性の恐れがありますね。この薬を飲んでください」とお医者さんがいえば、ふつう信用して薬価を支払います。しかし、これが無用な薬で薬屋さんからリベートをもらっている場合、医者は偽善者です。「きみの才能が惜しいから進学を勧めているのだ」と言いつつ、実は進学率を上げて出世することを目指している教師は偽善者です。
