哲学の科学

science of philosophy

人間はなぜ哲学をするのか(2)

2007-02-24 | 3人間はなぜ哲学をするのか

私たち人間は、目に見える物質そのものよりも、目には直接見えない人の心、自分と人との関係、自分の幸福、不幸などについて、むしろ強い存在感を感じる。そうして、目の前の物質そのものをどうにかすることよりも、目に見えない人間仲間との協調、協力など、自分のまわりの人間関係を優先して生きるようにできている。みんなと会食しているときに、勝手にから自分だけおいしいものを取って黙々と食べてさっさと帰ってしまう人は、あまりいませんね。ふつう、会話しながら食べ物を分け合って一緒に食べるでしょう。そういう脳の仕組みを持った人類が生き残って、私たちを産んだのです。その現生人類の祖先は、(目には直接見えない)人間関係に対応するそれら錯覚を共感し、いつのころからか、その強い存在感を共有できる錯覚に対して、命、心、自分、というような言葉を作って神経回路に定着させるようになったのでしょう。

私たちの人生にとって一番大事な、こういうものごとは、(拙稿の見解によれば)たまたま動物ホモサピエンス(ヒト科ヒト属ヒト)の脳が、この数百万年くらいの生活環境に適合する便利な錯覚の存在感を作り出すように進化したことで作られた。その共感できるようになった錯覚を(たぶん二十万年前くらいから)言葉で表現して子孫に伝承し上手に使ってきたから、私たちがそれを語りあっている。

これらの(命、心、自分、というような)錯覚を作り出す脳の神経機構は、何百万年もかかって偶然の積み重ねによりDNA配列(ゲノム)を進化させることで、自然に人類の身体に出現してきた。

偶然の積み重ねによる自然の設計ですから、論理的に完璧には作られてはいない。数学のように、論理の専門家が精密に設計した概念体系とは、違う。そのため、論理感覚に優れた哲学者のような人が真剣に研究すると、「命」とか「心」とか「自分」とかの素朴な常識概念の構造は、論理的におかしいところが見つかる。科学など物質世界の観察の経験を厳密に表現した理論と比較して分析すると、いろいろな矛盾が見えてしまう。哲学者は、それを神秘と思う。

物質である人体に、なぜ主体性のある心が入っているのか? ただの物質であるこの人体が、なぜ意識を持っているのか? 自分はなぜ、他の人と交換できない特別な「自分」なのか? とても神秘的です。

哲学者の厳密な議論が進んでいくと、精神物質主観的自我客観的世界の両方とも存在することの矛盾が発見されてくる。心身二元論独我論存在論、など、古来の哲学の諸問題もそこに見出されたのでしょう。

「命」とか、「心」とか、「自分の主体性」とか、こういう言葉が表すものは目の前の物質の現象としては、はっきり見えない。だから存在しない、と言ってみたくなるようなところがある。それなのに感情に強く響く。だから神秘的に見える。目に見えないのに神秘的に感じられるからこそ、崇拝される。物質を超越した宗教や哲学の対象、と思える。神秘的であるほどありがたがられて、ますますしっかりと人々の感情に訴えるようになる。どうも、人間の脳神経機構は、こう働くように進化してきたようです。

だから危険です。「命」とか「心」とか「自分」とか「運命」とか、これら存在感の強い神秘的なものごとを、あまりまじめに、理論的に考えるのは、どんなものでしょうか? 

これらの伝統的な常識概念は、もともと大昔の人々の単純な生活を背景として、幼児にも分かるような素朴な感覚をつなげて作られている。それだけに人間の身体に深くなじむ。逆に言えば、人間の身体になじみやすい観念だけが今までなくならずに、私たちにまで伝えられているわけですね。

しかしこれらは、数学のように、論理のプロによって注意深く矛盾を取り除きながら作られた概念体系ではない。また科学のように、物質世界との整合性を確認しながら科学者というプロの集団によって洗練されてきたものとも違う。

生物進化という、偶発性と矛盾に満ちていてあたりまえな過程を経てできた脳神経回路が、自動的に作り出す錯覚の雑多な積み重なりの結果です。何百万年という長い時間の間の、無数の偶然の積み重ねで生き残った進化の産物、というだけです。宝くじで一億円が当たった人にとって自分の運命が神秘的に感じられるように、これら錯覚の存在感は神秘的です。しかし、実は、何の不思議もない。

宝くじで、誰かが一億円を当てることは、何の不思議もない。同様に、人類がこのような脳神経系を持つようになったことも不思議ではない。人間が自分の人生を謎と感じるような脳を持っていること、その事実自体は、まったく謎ではありません。そこに落ちている小石のように、その存在自体は何の意味もありません。その小石がなぜ、そこに落ちているのか、それを神秘と思えば、確かに神秘です。ただ、それを考え続けることに意味があるとは思えませんね。その点を忘れてはいけない。

命とか、心とか、自分とか、そういう大事そうな、神秘的で感情に響くものについて、真剣に論理的に考えれば考えるほど、おかしなことになってくる。他人と違って自分の存在だけが、この世で特に重要なものであるように感じ、自分探し、など言う言葉が何か、意味深いものであるかのような錯覚にとらわれて、現実から乖離していく。

この世の現実は、物質の法則だけで動いていく。人間の念力や、神秘の魔法で動くわけではない。目には直接見えないのに感情にだけ響く、神秘的なものごとと、目に見える現実の物質世界の動きとを、無理やり結び付けて理解しようとするのは間違いです。古代の呪術のようになってしまう。

「命」とか、「心」とか、「自分」とか、強い存在感があるのに目には見えず神秘的でつかみどころのないもの、宗教家や哲学者は、そういうものを、直感を頼りに考えぬくことでこの世の謎を解こうとする。いつかは真理に到達できる、と思う。そうすると、どうしても錯覚と格闘することになってしまう。間違いに間違いを重ね、神秘感に落ちいり、言葉の罠に落ち込み、堂々巡りになってしまうのです。

物質で示すことのできない錯覚は、人間どうし、よほどツーカーの間柄でないとなかなか伝わりません。言葉で懸命に語っているのに、相手は理解してくれない。それで人間の間に、反目と対立が起きてくる。分かってくれない相手に対して、警戒、蔑み、憎しみのような感情が起こる。異なる神を信仰する者たちを憎み恐れるのは、当然です。それで育ちが違う人間の間、違う宗教の間、異文化、異文明の間、の相互理解はむずかしくなる。現代に至って、ますます、人類共通の哲学は作れそうになくなってきた。相互理解の限界、言語の限界、哲学の限界が頻繁に語られる一方、希望はちっとも見えてこない。空転する議論に疲れて、哲学者もニヒリズムに陥っていく。

それなのに、人間はなぜ哲学をするのか? なぜ神秘を追い求めようとするのか? なぜそんな難しいものにこだわり続け、考え、語ろうとするのか?

それはたぶん、かつてそうすることが人類の生存に有利だったからでしょう。全然哲学しない人類は何万年も前に滅びたのではないでしょうか。私たちの祖先は、哲学、あるいは宗教をすることで生き残った。もちろん、人間は(拙稿の見解によれば)間違った哲学しかできない。それでも、間違った哲学でも、哲学するほうが、しないよりも生き残りやすかったに違いありません。

あまり哲学しない現代人は、昔の人に比べて、生き生きとたくましく生きているでしょうか? 何ものをも信じないニヒルな現代人は、幸せそうですか?

そうではないようです。たとえ錯覚であっても、しっかりした自分の信念やゆるぎない物の見方を持っている人々のほうが、着実に仕事をこなし、周りの人々としっかりした人間関係を保ち、立派な子孫を残し、人生をたくましく、幸せに生き抜いていくようにみえる。そして、そういう信念や物の見方は個人のものではなく、宗教や文化を同じくする大きな集団の中に共有されて、強固に維持されてきた。

かつては宗教が、そして少し前の時代には学校や書籍やマスコミが、集団の信念や、物の見方を教えた。正しい文化を伝える権威を代表していた。しかし現代、それらの権威は揺らでいる。さらに悪いことには遠い国の異なる考え方が浸透してくる。かつては、モザイクのように宗教や文化が分断され、情報の交換もなく、境界での接触も少なかった。そういう時代は平和でした。しかし、現代は、どうしても遠くの地域の思想がしみ込んできてしまう。グローバリゼーションの現代、文明と文明、文化と文化が接触し、互いに浸透しようとし、衝突していく。その結果、これまで宗教や文化を同じくした伝統的な共同体や文化を共有する集団の内部でもまた多様な価値観が表れ、価値観は個人個人に分断され、個人と個人はお互いに相互理解がむずかしくなっていくようですね。

そんな現代の状況で哲学をすることは、とても危険です。安全で安心な生活がしにくくなる。それなのに現代の若い人の中からもまだ、哲学をしようとする人が出てくる。危ない話です。

たぶん人類の脳は、進化の結果、哲学する傾向を持つようになった。

私たち人間は、他の動物と違って自分の身体が客観的な物質世界の中に置かれていることを知っている。自分の周りに世界がある。自分は世界の中にいる。ということを知っている。というか、少なくとも、そう思い込んでいる。まあ、みなさん、そう思い込んでいるでしょう? 筆者も実はそうです(脳のこの興味深い仕組みについては後の話題にします)。自分という身体が置かれているこの世界はどういうふうに動くものなのか? どう変化してこれからどうなるのか? その中にある自分の肉体は、これからどういう影響を受けるのか? そういうことを、いつも知ろうとするように、人間の身体はできている。

人間の脳は、世界が変化する原理を知りたがり、仲間の多数派の考え方を知りたがり、権威ある教えを身につけ、それを自分の行動に織り込んでいくようにできている。人間の脳は、たぶん、権威を持った尊厳のある大きなものにひれ伏し、それを信じ、それに導かれ、それに追従する、という神経機構を持っている。その神経機構の集団的な働きにより、人類は権威を作り、権威のある錯覚を作り、言い伝えを作り、ついには経典や法律を作って、そこに集団としての経験を集約し、実用的な知識を蓄積してきた。人間は、権威を持った集団知識の集積を作り、その教えにしたがって集団として生活していく(たとえば一九八九年 マーガレット・ギルバート『社会的事実について』)。これは確かに、安全で効率的な生活様式です。そうすることで有利に生き抜いてきた動物の子孫が私たちなのでしょう。そして人類は、文明社会を作った。技術や知識を蓄積して権威付け、それを継承していく。そのような社会活動をするような脳を作るDNA配列(ゲノム)を獲得して進化した人類が、他の旧人類たちとの生存競争に勝って、今のように世界中に増殖した私たち現生人類、ホモサピエンスサピエンス、になったわけですね。

最近の健康志向ブームに便乗して、「○○は身体によい」などと教えるニセ科学が、テレビなどを通じて、はびこっているようですが、これなども、権威がありそうな集団知識に乗り遅れたくないという人間の神経構造を利用した商売でしょう。

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人間はなぜ哲学をするのか(1)

2007-02-17 | 3人間はなぜ哲学をするのか

     3 人間はなぜ哲学をするのか?

筆者は気が短いのか、一時間以上も続くテレビドラマはあまり好きではありません。それでも妻がテレビを見ていると、横のほうから、ちらちらと見てしまいます。テレビドラマには、たいてい定番のような悲劇が作り込まれているようですね。恋人どうしや家族の死に別れの場面など、見るとなく見てしまうと、涙がにじんできそうになります。冷静で知的なはずの筆者が、そんな表情を妻に見られてはなりません。さっと横を向いてごまかす。そして、なぜこんな安直な芝居を見て涙ぐんでしまうのか、我ながら首をひねりたくなるのです。無意識のうちに心が共鳴する。それはこういう自動的な現象のことをいうのでしょう。

しかし冷静で知的な筆者としては、このように無意識のうちに感情を揺さぶる命、そして心、という存在は錯覚だということも知っています。たとえば、詳しくは後で述べようと思いますが、命とか心とかいうものは物質として存在するものではありません。だから大事でないと言うつもりはありませんが、手に取って目に見せることができない。はっきりと感じるものであるにもかかわらず、物質として捉えられるものではない。人間どうしの交流のうちに、そのときどきの状況の経験から直感して、共感する。それで分かったような気持ちになるしかありません。

そうではあっても、よくできたテレビドラマは、なるほど、本当に心に響く。身体が勝手に反応してしまう。身体が理解してしまう。涙が出そうになったり、手に汗を握ったりしてしまう。見ているこちらの身体に、テレビの中の主人公の心が乗り移ってきて、いつのまにか身体を動かして心を揺さぶる。次はどうなる、次はどうなる、と場面を進ませようとするのです。いいところでコマーシャルがはさまれる。実にうまく作られている。そういう連続ドラマを見ると毎回、(妻には内緒ですが)ぜひ次回を見ようと思ってしまう。

優秀なディレクターたちがそういう効果を狙って作ってあるのですから、あたりまえなのでしょう。同じように昔の人たちは、囲炉裏を囲んで長老が物語る伝説の動物、竜とか天狗などの怖い話を聞いて、本当に身体が震えて後ずさりしたくなった。それでも、その話をもっと聞きたくなる。それもこれも、同じ脳の働きです。

人間の内部には、心というものがある、森の奥には、天狗というものがいる、と言われれば、そういうものが確かにあるような気がする。でもだれも、現実の物質として、それを見たことはない。

日常生活では、それでも十分です。話し手がそれを言うときの表情、身振り、声の調子、そして前後の状況、そういうものを感じ取って聞き手は話し手の感情を共感し、相手が感じている錯覚を想像し、その錯覚の存在感を自分の経験として記憶していく。そうして、その錯覚は言葉で名づけられ、存在感という感情を伴って想起することができるようになる。さらにその言葉で錯覚を思い出し、それに想起される感情を声や表情で表現したときの相手の反応を観察して、その錯覚がだれとでも共有されていることを確認していく。こうして一連の錯覚を確実に共感できるようになり、仲間どうしは通じ合った気になって会話がはずみ、共同生活がうまくいく。

「天狗にさらわれるから子供から目を離すな」とか、「滝つぼには竜がいるから、子供は深いところで泳ぐな」とか言い合っていれば、その部族の幼児死亡率が低くなって人口は増加した。そういう便利な錯覚を共感し、それを言語で表現する人間の集団は結束が高まり、繁殖率が高まり、大いに繁栄して、錯覚を共感し言語を伝える能力をもつ子孫を増やしていく。いわば、人類の繁殖機構に埋め込まれることで、言語もまた繁殖していく。

しかし結局は「天狗」とか、「命」とか「心」とか「自分」とか、感情に訴える存在感の強い直感的な錯覚と、目に見える現実の物質世界の構造とは、もともと整合が取れてはいない。

私たちが直感で強くその存在感を感じ、人生でもっとも大事だと思っているものごとたち。命、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・。こういうものは錯覚です。物質として目で見ることはできない(たとえば、あなたが直感的に「自分」だと思っているその肉体は、目で見える限りでは、分子の集合であるただの物質でしょう?)。

人間の脳は、これらの錯覚を、現実の物質現象とはきちんと対応しないにもかかわらず、自分の脳内で作り出し、それを感情回路に連結して強い存在感を持って感じ取り、仲間と共感することで、行動に結びつけるような働きを持っている。こういう脳の機能を持つように、人類は進化した。人類は、群れを作り、群れの中で仲間どうし感情を共感し、共鳴して集団行動ができるように脳機構を進化させた。さらにその機構を下敷きにして、高度な社会生活とそれへ適応する上位の脳機構を共進化させた。それが、生物としての人類の生存と繁殖に有利だったからでしょう。

命、心、欲望、存在、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む・・・こういう言葉で引き起こされる強い感情を集団で共感し、共有することで、人間は団結して上手に生活することができるようになった。上手に生活できた人間集団だけが現代まで生き残り、そのDNA配列(ゲノム)を受け継いだ子孫が私たちです。だから当然、私たちは、こういうものごとが人生でもっとも大事なものだ、と感じる。

私たち人間は、命や心の存在やその動きなど、これらの錯覚を物質現象として(自分の)脳の外の物質世界に直接見つけることはできない(たとえば、自分以外の人間は明らかに心を持っているらしく見えますが、その身体や脳をいくら詳しく調べても、これが心だといえる物質は見つかりませんね)。それにもかかわらず、人間は、仲間の人間の身体の動き方を見たときに自分の中に自動的に引き起こされる感情として、その人の命や心の存在感を、直感によって、瞬間的に、簡単に、はっきりと感じ分けることができる。

群れの仲間と感情を共感して、集団行動をとる機能は、群れをなす哺乳動物によく発達している。古くからある脳のこの機能を基にして、人間の共感共鳴機能も進化したのでしょう。

群棲動物は、仲間が恐怖を感じて逃走を始めると、その恐怖感情を共感して逃走する仲間に全力で追従する。人間の幼児も、動物と同じように、隣の子が泣き出すと泣き出す。しかし成長した人間はそれと同時に、仲間が感じる恐怖の対象、たとえば加害者の悪意、などの存在感を共有してそれに反応する。人間は、直接の感情を共感すると同時に、仲間が感じるその感情の対象である錯覚(たとえば加害者の悪意)の存在感を推測し共感するからです。「加害者の悪意」などというものが、それを感じる人の脳の外には物質として存在しないとしても、その錯覚の存在感を脳の中で感情に結び付けて感じ、仲間の人間とその存在感を共感できれば、その脳機能は人類の生存に有利に働く。そうして、結果的に子孫が増える。つまり、その錯覚を作る機能は人類全体に遺伝していく。

動物の中で人類だけが、仲間と共感する存在感を錯覚として固定できるように、脳の神経回路を進化させた。ヒト科に属するチンパンジーゴリラには原初的な形で似たような神経回路があるかもしれませんが、たぶんは、人類の進化史上、せいぜい数百万年くらい前(チンパンジーと別れた頃)以降に起こった人類特有の脳の進化でしょう(後で論じるようにヒト科の中からヒト属が出現した二百万年前かもしれない)。人類は、脳内で作り出される錯覚を、存在感を伴って感じとり仲間と共感することで、共有できる世界のモデルを脳内に作り出し、それにもとづいて仲間との連携行動を調整するようになった。その結果、連携行動を活用する採食繁殖行動パターンの獲得に成功して、この数百万年間、どんどん繁殖してきたのです。

この機能が、脳のどこの神経回路で、どのような生理的現象として起こるのかは、現在の脳科学ではまだよく分かっていない。たぶん、扁桃体前部帯状回、前頭葉内側など、辺縁系の神経回路が側頭葉、頂頭葉など運動・感覚系の大脳皮質と連携して機能しているらしい、としか分かりません。いずれにせよ、明らかに人間の脳神経回路では、人の命、人の心の動き、自分自身に対する意識、などに関する錯覚の共感が感情回路に強く連結して、強い反応を起こしている。その神経回路の反応は、視線による注目など、決まった表情や声色や動作で表わされるようになり、人間どうし互いに視覚聴覚のみで(テレパシーなど使わずに)共鳴し 認識できるようになり、人間集団の中で安定し定着する。仲間のその表情や動作を感知して、人間は、仲間の内部で起こっているらしいその錯覚とそれに伴う仮想運動と感情を共感できて、それらにはっきりした存在感を感じることができる。

仲間の人間の脳内で感じられている錯覚は、その人体の運動となって外部に表現される。つまり、表情、動作、発声となって、それを観察している人間の目や耳で感知できる。その視覚聴覚の受信信号は、観察者側の脳内で自動的に運動形成回路を共鳴させ、その運動信号は記憶にある共有の錯覚の再生を誘発する。そうして、人間から人間へと、共有された錯覚が伝わる仕組みなのでしょう。

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言葉は錯覚からできている(5)

2007-02-11 | 2言葉は錯覚からできている

さて、ようやく本題に戻ります。

ここで定義しなおした「錯覚(以下、括弧は使わない)」という見方を使えば、人間が感じる物事をはっきりと、錯覚でしかないものと、錯覚ではない物質に関するもの、とに分類できる。人間がふつうに使う言葉では、錯覚でしかないものと、きちんと物質現象に対応しているものとが混在している。ふつう、日常言語では、(拙稿の切り分けでは)錯覚でしかないものが、当然しっかり存在しているものとして、多く表現されている。錯覚だからいけない、ということではありません。それらの言葉は人間関係を適切に言い表し、社会、経済を作り出し、人生を豊かにする、実用的で重要な道具です。一方、きちんと物質現象を表現している言葉は、科学論文などに多い。ただし、こちらも物質現象を述べているからすばらしい、ということではありません。価値の低い科学文献は実に多い。

拙稿では錯覚という言葉に、だから良いとか、だから悪い、とかの価値観は含ませていません。脳の中で起こることをきちんと分類して、はっきりと観察するために、言葉遣いを改めただけです。

脳が作り出しているこれらの錯覚の仕組みは、将来いつかは神経細胞(ニューロン)一個一個のレベルから発生、分化、進化のメカニズムまで、すべてのレベルで解明されるでしょう。それは残念ながら、現代科学ではまだまだ無理です。観測技術も理論解析もまだ発展途上だからです。脳の各部分にある神経細胞のネットワークがそれぞれ何か信号処理をしているらしい、としか分かりません。

たとえば幼稚園児が芋虫をつついて「あっ、生きてる!」と叫ぶとき、つまり「命」という抽象語が表わす錯覚の存在感が活動しているときの脳の神経回路の仕組みは、よく分かっていない。網膜から視蓋に視覚信号が送られ、それが動眼神経を活動させて、瞳孔を開き、まぶたを全開して目を見開く。同時に視覚信号は視床外側膝状体に送られ、さらに扁桃体前部帯状回側坐核が活動し、脳幹から自律神経系に信号が送り出されて顔を赤くし、鼻孔が開く。並行して視覚信号は大脳皮質視覚野に送られて画像処理され、最後に大脳頭頂葉小脳側頭葉が活動して言語を形成し発声する。同時に、前頭葉から逆向きに神経信号がまた何度も戻っていく。こういう信号の流れはだいたい分かっていますが、それらがどう相互作用して認識を作り、「命」という存在感を作り、それから「生きている」という発声運動を形成し、その記憶をどう作っていくか、具体的な神経回路の活動メカニズムは全然分かっていない。

ここではわざと難解な脳の解剖用語を羅列してみましたが、筆者は脳科学や医学の専門知識をふりまわしたい用語マニアというわけではありません。こういう書き方をすれば脳内の神経信号がいかに複雑に処理されているかをイメージアップできるかなと思ったからです。問題は、この難解そうな名前がつけられている複雑な脳の各組織のさらに内部で行われているはずの微細で具体的な信号処理の中身が、現代科学では、まださっぱり分かっていない、もちろんその微細機構の医学用語など作られていない、ということです。それらを記述するためには、これら難解な名前の組織のさらに内部がそれぞれ数百種類の(将来さらに難解な名称がつけられるであろう)微細機構から成り立っていて相互に連絡しながら情報を処理している、その具体的メカニズムを解明していかなければなりません。世界中の科学者が今後、何十年もかけて取り組む仕事になるでしょう。

今から数十年前、脳内の神経活動に関する科学的知識は細胞集合説などと呼ばれる理論的な仮説だけだったことに比べれば、現在の脳科学は進歩したものだと思いますが、信号処理回路としての脳組織の微細な内部機構はまだまだ分かっていない、と言わざるを得ません。

コンピュータの仕組みを知らない国(そんな国は今どきないと思いますが) の科学者たちが、「あ、今、冷却ファンが回っているから、ずいぶん電気が使われていて内部温度が上がっているのだろう」とか、「記録装置のようなところと演算装置みたいなところの間で高速の電気信号がやりとりされているらしい」とか言いながら、初めて見るコンピュータを観察している、というような段階が、現代の脳科学です。内部の仕組みがさっぱり分らないのに、「コンピュータは神秘的だ」とか、「コンピュータ内部のどれかの部品には意識があるのではないか」などと言い合っている。実際、現代科学は、コンピュータに関しては原子電子のレベルからソフトウェアの設計思想まで完全に理解していますが、脳に関してそこまで達するには百年かかるでしょう。

たとえば幼稚園児がお腹をくすぐられて、「くくくっ」と笑いこけるときの神経回路の仕組みも単純そうに思えますが、それもまったくというほど分かっていない。くすぐられている子の隣でそれを見ている子も、「くう」とくすぐったそうな声を出しています。その子を次にくすぐろう、という手つきを見せながら顔を向けると、触れないうちから、もうたまらないというように身体をねじってその子は笑い出す。こういうとき、猿は笑いません(チンパンジーがくすぐられたときの表情や声の変化を「笑い」とみなす見解もあるが、触られる前には反応しない)。人間だけがこういう複雑なしかたで笑う。

このような人間特有の感受性の仕組みとして一番基本的な笑いなどの反射運動も、その脳内の仕組みは、具体的には、全然と言ってよいほど、分かっていない。そのため私たちは言葉を形成している自分たちの脳内の神経処理プロセスにまったく無自覚なまま、言葉を操ってむずかしい話を語っている。幼稚園児がジェット機を操縦しているよりも、ずっと怖い話ではありませんか。

脳科学はまだまだ、という話を長々としてしまいましたが、また、錯覚の話に戻ります。

錯覚は通常、人間の生活に役立ち不可欠なものです。私たち人間は、自分の脳が自動的に作り出す錯覚が映し出している世界を現実と思い込んで、便利に暮らしているといえる。

そもそも物理、化学などの基礎的な科学の実験観測も、脳が作る錯覚に基づいている。科学者も、測定装置が発生するエネルギーの変化を写真あるいはデジタルメモリなどに記録し、それを彼または彼女の網膜で受け、脳で変換した錯覚を感知している。運動シミュレーションを使った錯覚の存在感で得られた空間と時間の感覚にそって、データを観察し理論を作っていく。科学者が使っている錯覚が現実にうまく対応していなければ、間違った結論が出るだけです。ただ科学者は、同じことを何度も繰り返し理論モデルと照らし合わせながら慎重に再現性を確認して実験観察を進める。さらに多数の科学者の共同作業によって繰りかえし実験や視点の移動、多面的観測事実の統合などを行って錯覚を相殺し、修正し、理論モデルと観測結果を合わせ込んで総合的に判断することで、観察者の作る錯覚から独立した物質に普遍の法則を発見していく。

ようするに、(拙稿の見解では)私たち人間の脳は、五感で感知した感覚データ(哲学用語にもなっているが、筆者の用法では単に感覚器官から中枢神経系へ送信される信号のこと。data=ラテン語で「与えられたもの」)の入力情報を、記憶から生成されるシミュレーションなど脳の内部情報と組み合わせて現実にうまく対応する錯覚を作り出し、それを目の前の物質世界の存在感として感じ取っている。同時に錯覚の組み合わせによって、物質に対応しない錯覚も作ってしまう。さらに、それを仲間どうしで共感し、運動や表情や発声を使って共鳴し、その記憶を共有することで、錯覚を言葉として固定させていく。

それらの過程を繰り返して、脳では次々と抽象的な錯覚が製造され、それは再生できるようにデータ圧縮を受けて記憶に定着される。シミュレーション機構によって記憶から再生された信号は、外界から受けた直接の感覚データとは違う、圧縮された錯覚情報に変換されている。逆に言えば、錯覚を使うことでデータ圧縮と再生の効率がよくなる。この仕組みによって、進化した現生人類の脳では、それら圧縮変換された蓄積データ、つまり錯覚の記憶でできている脳内の世界像、に直接得た感覚データを埋めこんで使う。このシステムにより、人間の脳は、直接の感覚データを断片的に逐次リアルタイムで処理するよりもはるかに能率よく、(実用の観点から)再現性のよい実用的な世界の法則を獲得できる。つまり、私たち人間は、進化と学習によって、脳のシミュレーション発生機構の内部構造として、世界の法則(の断片を実用的に変換したもの)を身体の内部に取り込んでいる、といえる。

脳のこのシミュレーション機構は生活に便利で不可欠なものです。これがなくては高度な知的活動は不可能です。そうして生活に便利な錯覚を作る脳の能力が、遺伝によって増殖し、その使い方が人類の文化として私たち子孫に伝えられていったのです。

「命」、「心」、「自分」、「他人」、「個人」など、特に人間関係を操作するときに使う抽象概念を表わす錯覚が、生活に関係のない物質の存在感よりもずっと強い存在感を持ち、私たちの感情に響くのも、そういう錯覚を発生する脳神経系を持つことが、緊密な社会生活を営む人類の生存に有益だったからです。

人間関係に関するこういう錯覚を感じる機構は、もともと霊長類の脳に備わっている神経回路から発展したのでしょう。猿などが仲間との集団活動の中で運動や感情の共鳴を起こす神経機構の発展形だろう、と考えられます。

人間は仲間が自分と同じように持つ錯覚の感覚を、周辺の状況とお互いの身体の動きや叫びや視線表情として、目や耳で互いに感知し合い、互いの脳の感情回路と運動回路を共鳴させることで、仲間どうしの共通体験として記憶する。この場合、シミュレーションが活用されるのでしょう。脳のこの仕組みを使って人類は相互理解し、緊密な共同生活を営み、共有できる錯覚を作り出す神経活動の個体間共鳴を音声で表現する言語を作っていった。集団に共有され、言葉として固定された錯覚は、連想によっていつでも記憶から再生でき、目の前に現れる現象ではなくても、その錯覚に伴う感情回路と運動回路の神経活動を再現できる。

つまり、運動と知覚の経験に伴って脳内で次々と錯覚を作り出し、それに存在感を感じ、その存在感を仲間と共感し、それを表情や発声などの身体運動として表現し、さらに言語としてそれを固定することで、仲間との緊密な協力関係を維持していく動物として、人類は二百万年間の生存競争を勝ち抜いてきた。

そうしているうちに、「命」、「心」、「自分」・・・など、仲間と共感できるこれらの錯覚を表わす言葉は、より大きな集団に共有され、社会習慣や権威による信頼感を伴って、集団の記憶として安定的に固定されていく。大きな人間集団が、共通の言語として、その錯覚を生成する感情回路と運動回路の神経活動を集団的に記憶し、共感を通じて共有することで、その錯覚の存在感はゆるぎないものとなる。

言語を持たない動物は、たとえ錯覚を作れたとしても、それを仲間との間で共有し頻繁に再現することで集団として記憶を共有する言語として固定できないため、錯覚の記憶を維持できないでしょう。その理由で、動物は目の前の物質以外の観念を保持することができない。ところが人間は、集団としてそれらの錯覚の記憶を共有し、言葉を使って頻繁に再生することで、脳内で形成する錯覚に伴う仮想運動と感情を安定的に記憶し保持し、必要な場面で再生する能力を発展させ、さらにその神経活動の作り方を若い世代に伝えることができる。

その結果、人間は仲間どうし相互理解できる。つまり、互いに互いの行動を予測することができるようになった。

仲間の行動を予測するために人間は他人の心の動きを読む方法、つまり欲望や信念という心理的概念を使う素朴心理学を組み立てて利用するようになった、と述べる現代哲学者がいます(一九九一年 ダニエル・デネット『リアルパターン』)。これは拙稿の見解に近い考えですが、少し違います。すなわち拙稿では、人間のこの予測機能は、素朴心理学を学習する以前に、仲間の運動の認知により誘発される無意識の自発運動共鳴により生得的に備わっている、と考える「(一九八九年 アルヴィン・ゴールドマン『心理解釈』にこの点は近い。その予想の存在感から(次に述べるように)言語が発生した後、仲間どうしで錯覚の存在感を言葉で語り合うために、後から素朴心理学が作られたのでしょう。

共有できた錯覚をうまく利用して、仲間どうし互いの行動を予測し合えるようになった(現代人の祖先である)人類の集団は、緊密な相互協力の能力を発展させ、それによって、狩猟採集生活での、他の人類集団との生存競争を上手に勝ち抜いていった。そして、その錯覚製造機構を進化させ、存在感を持って錯覚を感じ取り、仲間と共感し、その錯覚の経験を共有して記憶し、それを信頼性のある(権威がある)言葉として固定し、脳の中でその記憶を巧みに操れる子孫を増やしていった。つまり、原始時代の集団生活の中で、たまたま人間の脳内に発生した錯覚が、仲間と共有されることで集団生活に利用され、発声運動として固定され、さらに世代を超えて伝えられ、集団の記憶として蓄積されたものが、今私たちが話している言語です。

しかしながら、抽象概念を表す言語の基底になっているそれらの錯覚は、脳神経系における内部だけでの情報処理でしかない。脳神経回路の内部の記憶、すなわち神経細胞連結部(シナプスという)の微視的な物質状態として存在するだけで、脳の外側の物質世界の中には具体的な対応物を見つけられるものではない。それなのにこれらの抽象概念は、なぜ存在感が強いのか? 

これら脳内だけで作られる錯覚の存在感が強いのは、それが脳の感情回路に結びつく仕組みになっているからでしょう。感情を揺すぶられると人間は(哺乳動物は)興奮し、ホルモン物質を分泌し、体中の筋肉を使って夢中で努力する。「自分の命がなくなる!」、あるいは「地獄に落ちる!」と思うと、その人は極限までがんばる。そして結果的に危ないところを生き残り、その後子を産んだりもできる。そういう人々の集団は生存率が高まり繁殖率が高まって、子孫が繁栄する。

それが錯覚であろうとも、「自分の命」あるいは「地獄」などという物質的な実体が脳神経回路の外には存在しないとしても、そういう類の錯覚を大脳皮質で作り出し、その神経活動を感情回路に導いて存在感と恐怖感、期待感を発生させ、仲間とその感情を共感することでそれを共有し、集団行動に結びつける脳の機能は、人間が生き残り子孫を残すためにとても役に立つ。そのような機能を持つ脳神経回路を作り出すDNA配列(ゲノムという)が、あるいはそれに伴った文化とともにそれが、子孫に伝わり、その種族は増殖していく。そうすることが人類の繁殖に有利だったから、といえる。

逆にいえば、感情に直結して人間を自己保存と繁殖に有利な集団行動に駆り立てることができたから、物質に対応しない錯覚を作りだし共感する脳のDNA表現(遺伝子型、ゲノタイプ、英語発音はジェノタイプ)は増殖し、現生人類である私たちの身体に備わっている。

(2 言葉は錯覚からできている  end

3  人間はなぜ哲学するのか?

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言葉は錯覚からできている(4)

2007-02-04 | 2言葉は錯覚からできている

またわき道にそれていくので話を戻しましょう。確かに脳科学がある程度進んできた現代、昔からの哲学の問題に科学者が答えられるようになったのではないか、と期待される面もある。哲学や心理学の問題は、結局は、脳の物質現象を含めた物質科学として、科学者が解明するべき問題なのでしょうか? しかし、多くの科学者は難問だという。科学者は、ふつう科学以外のことを考えるのは嫌いですから、難問だと言って逃げているところがある。それに、こういう問題を科学の思考法で考えようとしても歯が立ちませんから、本当に難問だ、と感じるのでしょう。

脳神経科学でも、主観的な心理問題はどう扱ってよいか分からないので、科学者は「主観的な心の問題は、今研究している物質としての脳の部分々々の科学とは別」といって無意識のうちに心脳二元論に逃げていく。ちなみに、ノウ、nousというと、フランス語では「私たち」という意味だし、ギリシア語では「心」という意味です。駄洒落はさておき、科学者は逃げていき、この問題を引き受ける役と思われている哲学者たちは「心脳二元論は、昔の心身二元論と同じで論理的におかしいからだめ」と否定するばかりで分かりやすい一元論的な説明はできていない(一九八六年 ジェニファー・ホーンズビー物理主義思考と行動の概念』)という状況です。これは大変な難問のように思えますね。

筆者の考えでは、しかし、これは難問ではありません。答えは簡単です。

「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」こういう主観に絡む抽象概念に対応する存在感やそれに伴う不安、神秘感、尊厳、などもろもろの感情は、物質現象としては目に見えず手で触ることもできないのにはっきりと存在感があるわけですから、いわゆる錯覚です。物質としては存在しないのに存在感だけが感じられるのです。人間の脳神経系の中だけにある物質現象です。その脳の持ち主本人だけが自覚できる錯覚の存在感です。

それは進化の結果できた、たぶん人類にだけある特有な神経回路の活動です。大きな大脳皮質を使わなければ不可能なほど複雑で膨大な、神経信号の操作なのです。人間以外の動物が、「心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」、のようなものを感じているとは考えられません。猿が自分や他人(他猿?)の死をイメージするでしょうか? きちんと観察すれば、そんなことはありえないことが分かります。

命、心、自我、生死など、そういう目に見えない神秘的なものに強い存在感を感じるような脳の働きは、人類が他の動物と分かれて進化して来た過程で獲得したものに違いありません。動物が感じる世界には、こういうものは存在しません(と動物に聞いたわけではありませんが、筆者は確信しています。その理由はだんだんと述べます)。つまり、これらの神秘的な抽象概念に対応するものに強い存在感を感じることは、この数百万年間の進化競争を勝ち抜いてきたホモサピエンスの脳の神経機構だけが作りだす人類特有の錯覚現象なのだと思います。

二百万年前の旧人類ホモ・ハビリス)の化石では、頭蓋容積が急に拡大していて大脳の急な発展を示しています。人間以外の動物が使わないような大脳皮質神経回路の使い方が始まったのでしょう。二百万年前におきたこの中枢神経系の飛躍的なパワーアップは何に使われたのでしょうか?

ちょとしたアナロジーとして、五十年前におきた人工頭脳、つまりコンピュータ、の情報処理能力の急な拡大を考えてみましょう、一九六〇年代に集積回路の出現によりスーパーコンピュータが可能になったとき、飛躍的に増大したその高速計算能力は何に使われたか。戦闘機大陸間弾道ミサイルの飛行シミュレーション核兵器爆発過程シミュレーション気象予測シミュレーションです。つまり、三次元空間での力学系の複雑な運動過程を高速計算で模擬する大規模高速シミュレーションに使われたのです。

では、二百万年前に人類が入手した大脳新皮質の高速計算能力は、当時、何に使われたのか? 興味深い諸説が提起されている。石器のハンドリング、言語の発生、あるいは投石のコントロールに使われた、など(一九九八年 リチャード・ドーキンス虹の解体』)です。ここで僭越にも筆者の推測を言わせていただけば、この世界最高性能の大容量高速生体計算機(人間大脳小脳)は、狩猟生活における人間の身体運動という力学系の高速シミュレーションとそれを応用した物質世界の変化の予測、特に高度の情報圧縮によるその記録と高速再生、さらにはそれらを応用した錯覚の形成のための情報処理に使われるようになった、と考えられる。

獰猛な、あるいは迅速な獲物を狩るには、自分自身と獲物と道具(投石とか槍とかこん棒)の三者が三次元空間で高速運動する過程を、瞬時に正確に失敗なく、予測しなければならない。そのためには運動の実行以前に身体の動かし方を何度も頭の中でシミュレーションして練習することが効果的です。失敗が許されないロケットの打ち上げ前には必ず、大規模で正確なコンピュータシミュレーションがなされる。それらシミュレーションの結果得られた運動の特徴はデータ圧縮され、整理されてメモリに蓄えられ、似たような事態が実際に発生したときに、高速で再生されて状況の判断に使われる。それが人間の脳が作り出す将来の事態の予測イメージ、さらには目に見えないものたちの存在感、などの錯覚現象となっていったのではないでしょうか?

現在の科学では、脳機能の精密な観測方法が開発されていないので、これら錯覚現象は研究の対象にはならない。いずれ観測装置が開発される時代(百年くらい先か?)がくれば、これらの存在感が自然科学の研究対象になることは間違いない。ただし、そのときには

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言葉は錯覚からできている(3)

2007-02-01 | 2言葉は錯覚からできている

しかしこれらの言葉をしゃべっているとき私たちの脳(中枢神経系ともいう)の神経細胞(ニューロンともいう)はどういう物質変化を起こしているのか? それを考えたとき、すべての信念はぐらついてきます。

科学の立場で見ると、世間話であろうと数学であろうと哲学であろうと、どんな内容を話すためであろうと言葉を使っているとき、私たちの脳の中では膨大な数の神経細胞膜の電圧がパルス状に変化(活動電位という)し、それにともなって神経伝達物質が分泌されて、膨大な量の神経細胞間電気信号の伝達(シナプス伝達という)を調整している。

人間が言葉をしゃべっているときに限らず、動物が運動するときはいつも脳内の神経活動があり運動信号を作り出して脳から神経系(遠心神経系という)を介して全身に送り、いろいろな筋肉を収縮させたり、弛緩させたりしています。それで運動が起こる。つまり、外から見えるように身体が変形したり、顔色や表情が変わったり、全身が移動したり、身体に接触する物に力を加えたり、声や音が出たりしている。動物の運動というものはそういう物理化学的現象、つまりは物質現象の一種です。それだけです。それしかありません。二十世紀の中ごろから発展した神経科学(日本では脳科学ともいう)は、神経細胞の連結からなる神経回路網を流れる電気信号の伝達現象が、知覚、記憶、学習、思考など精神活動の基盤になっていることを示した(一九四九年 ドナルド・ヘッブ『行動の組織化』)。現在、その原理を疑う科学者は、ほとんどいない。

脳の神経細胞の活動は、身体の外にある物質世界との間に交わす運動出力や感覚入力の信号に直接対応するものもあれば、夢や抽象的思考のように主に脳の中だけで信号を伝播させるようなものもがある。

人間が物を見たり物を持ち上げたりするときは、その物質と人間の身体との間にエネルギーと情報のやり取りがある。しかし夢や抽象的思考のように脳の中だけで信号が伝播する場合、身体の外の物質との間にエネルギーや情報のやり取りがない。

詳しくいうと、人間が声を出さずに言葉を思いつくときには、のどや口など発音器官にわずかな筋電流が流れる。しかしこの小さな運動は口の形を変えるほどには筋肉を動かさない。他の人が観察しても、この人の脳内の活動が身体の外の物質と関係しているようには見えない。外界に関係なく人間の神経系が活動するだけといえます。

その観点から言うと、「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」、そういう直感的にすぐ分かる抽象的な概念、あるいはそれに伴う存在感、神秘感、など種々の感情、を言葉に表現するときの脳の活動は、脳に入ってくる感覚信号に直接対応するのではなく、身体の中の神経細胞の間だけでの信号伝搬です。

これらの神経活動は、カメラやビデオに撮ったり、数値データとして精密に記録したりできるものではない。(脳科学の研究で使われるfMRIなど脳活動測定装置では、脳の各部位の血流量の変化など神経活動の量を示す立体画像が得られますが、現在の技術レベルではかなり大雑把なもので、言語の内容との対応は測定できません。)つまり現在の科学では、脳の言語活動は精密な観測が不可能なものだ、と言わざるを得ない。主観的な存在感は感じられるものの目の前の観測可能な物質現象には直接対応しないものは科学では研究対象にできない。

心理学科言語学科は、ふつう、大学の理学部には属していませんね。いわゆる科学的方法論といわれる客観性再現性反証可能性簡潔性など自然科学の方法が使えないからでしょう。物理学を手本とする科学的方法論の立場からいうと、心理学や言語学の対象は脳の神経細胞の活動の一種、というしかない現象です。しかし、そう言ってしまっては人間が最も関心を持っている人間自身の心理や言語の内容の研究ができない。現代の心理学や言語学の研究者は、素朴な主観が混じる心理描写や言語の直接的な内容を研究対象にすることを避けて、人体の物理的運動などコンピュータに入力できるような観測データを客観的に記述する方法を開発し、科学的方法論に近い方法で研究を進めている。

ところが、古来の哲学の対象である精神的な概念、「命、心、欲望、存在、言葉の意味、自分・・・」というようなものは、人体の運動を客観的に観察しても、なかなか厳密には捉えられない。コンピュータに入力できるようなデータになりませんね。こういう主観的情緒的、あるいは文学部的なものを科学としてどう考えたらよいか。自然科学に組み入れることはできないのだろうか?

この問題は、現代哲学では、心の哲学(philosophy of mindとして研究対象になっている。欲望というような心的な概念で表わされる心的現象と身体の運動との因果関係は、どう考えるべきか。心的現象が脳の運動神経を起動するのか? そうではなくて観察する人間がそう思い込んでいるだけなのか? 現代哲学でも、うまい説明はできていない。現代哲学の傾向としては、だんだんと主観的な心的現象(欲望、信念、意識など)を、懐疑的にみるようになってきている。主観的にしか捉えられない心の現象は、脳神経科学の記述で置き換えられはずだ(一九六〇年 W・V・O・クワイン『言葉と対象』)とか、いやそうではない、とかの議論が盛んになっている。

数学モデルとして提唱されたニューラルネットワークが、情報科学認知科学の研究のための脳神経系の有力なモデルとして一九八〇年代頃から注目されはじめた。この分散型の情報処理システムは、現代のフォンノイマン型のコンピュータに取って代わる次世代のコンピュータではないか、という期待が計算機科学に影響を与え、また人間の脳のモデルになるとして認知科学の基礎理論になった。ニューラルネットワークの研究が心の問題を解決できるという考え(コネクショニズムという)や、それをさらに発展させて、常識的な心理学(素朴心理学などともいう)のいう欲望や信念など心的現象概念に関する経験的心理法則はすべて脳の働きをニューラルネットワークの作動過程とみなすことで物理的に理解できるはずだ、という考え(消去的唯物論などという)が、特に英語圏で発展した分析哲学の系譜に繋がる現代哲学では盛んになっている。心的な概念に実体が伴わないという言い方は、拙稿の考えと似ている。ただし人間観察から考察する拙稿と違って、現代哲学や認知科学では、ニューラルネットワークの数学的構造と数学的表現から導かれるシステムの特性を示すことで心的現象を説明しようとする傾向がある。

確かに数学モデルを使えば、コンピュータシミュレーションなどがどんどんできるので、面白い。哲学の論文も数学的な字面になってきて、いかにも現代的な研究に見える。学会で発表したり、大学で講義したりするにも、メリハリが利く、という効用もあるのでしょう。しかしまあ筆者に言わせれば、数式を羅列して説明しなくてよいことまでわざわざ数式で書いている傾向がある。数学で表現できることは言葉でも説明できる。拙稿のようなエッセイ風の文章でも、書き方を工夫すれば、高等数学の内容も書けるわけです(若干牽強付会?)。ただし、上手な数学的表現は大きな発展性を導くことがある。地動説天動説座標変換による数学的表現の変更だといえるし、地動説にもとづくニュートン力学の座標変換そのものを力学変量に繰り込んだアインシュタインの相対論力学も、またを対象として力学を書き直した量子力学も、それぞれの数学表現の選び方に成功の鍵があった。コンピュータの発展も二進法の採用によるところが大きい。表現はいろいろ試してみることがよいでしょう。表現を変えるだけでは内容は変わらない。ただし理論の進化と発展は表現のしかたに大いに依存することがよくある、ということです。

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