毎日の新聞は、もしかしたら、私たちの身体器官の一部を作っているのかもしれません。ヒツジは新聞紙を食べて血肉を作る。私たちは新聞紙を目の前に広げて、世界を透かし見ているつもりなのかもしれない。その内容は日々変わる。日々変わらなければなりません。そうでなければ、私たちはそれを新鮮な現実として読むことができない。
私たちの身体は、毎日世界の現実を観察している必要があります。その必要のために新聞を読む。新聞を読まなければ、テレビを見なければならず、あるいはインターネットで人々と情報交換を続けなければなりません。
世界が目まぐるしく動いているから私たちがそれを知らなければならない、というよりも、目まぐるしく動く世界を知らなければならない身体を私たちが持っているから、世界が目まぐるしく動くのではないでしょうか?
毎日の新聞を見ながら、なぜ毎日の新聞はいつも同じページ数であるのか、日曜日は分厚くなるものの、なぜ平日は同じニュースの量なのか、と疑問に思うことがあります。世界の作り出すニュース量は毎日一定なのか、毎日同量の重要事件が起こっているのか?
それとも、私たちが必要とするニュース量が毎日一定なのか?羊が食べる毎日の新聞紙の量のように、毎日読むべき記事の量は、ほぼ一定であるのだろうか、と思います。
私はなぜ新聞を読むのか?羊のように毎日、一定量のそれを身体に取り入れる必要があるから、ではないでしょうか?
蛇足ですが、新聞を読んでいるとき不思議な感覚が起こることがしばしばあります。楽しく読んでいるにもかかわらず、記事の途中で新聞をおいて、他の用をしたくなる。コーヒーをつぎ足しにキッチンに行きたくなるとか、エアコンの温度設定を変えたくなるとか、爪切りをしたくなるとか。
新聞を読む時間が長すぎていけない、と自分で思うのでしょうか?実はいつの間にか、つまらなくてその行為に退屈してしまう、ということかもしれません。それとも、人々が懸命に書いているものを、あまりにも気楽に流し読んでいることへの、かなり微かである、罪悪感のようなものを感じるからかもしれない、という気もします。■
(52 私はなぜ新聞を読むのか? end)

新聞は、ふつうあまり意識しませんが、美しさがあります。それが身体感覚を引き付ける魅力となっています。紙面がビジュアルに美しい。長い伝統で洗練されてきているからでもあるし、改良されたフォントやカラー精細画像など現代技術を上手に取り入れてきているからでもあります。
また、新聞の文章は美しい。プロの記者、文筆家、ライターたちが競って美しい文章を書こうとするからです。新聞はそういう仕組みで作られています。
美しい言葉は読んで気持ちがよい。くわしく言えば、これらの文章は紙面に印字されたときにもっとも美しく見えるものが選ばれています。目にやさしい。ここちよい。これは新聞を読む楽しみになっています。
もうひとつ重要なことは、これらの文章が新鮮である、という点です。新鮮であるに違いない、と感じられる、ということです。
書かれたばかりのものを読める、という感覚があります。これは筆者が今日書いたとか、昨日書いたらしいとかいう感覚でもありますが、実は、実際に書かれた時期が決定的なのではない。多くの読者が、今初めて目にしている、と思えることが重要でしょう。実際、過去の古典文学が引用されていることも多い。しかし私たちは、今、多数の人々の一人として、みないっせいに、同時にそれを目にしている。そうであれば、これは新鮮です。
皆で同じものを見ている。これが重要。今見ている理由は人それぞれ違うかもしれない。情報を必要としているから、という理由。ひまだから。気持ちいいから。自分で優雅だと思うから。などなどが理由なのでしょうが、皆で同時に同じものを見ているということが最も重要です。
皆同じものを見ている、という感覚は人間の身体が常に必要としているものです。このことによって、現実を感じられる(拙稿24章 世界の構造と起源)。そうであれば、新聞は現実を映しています。
テレビも現実を映している。インターネットも現実を映しているかもしれない。友達とする世間話は、もちろんその背景の現実を痛感させます。
それが私たちの生きる環境です。その中で、ある人々は新聞に現実を感じる。かなり多数の人々でしょう。

なぜ紙の新聞が読まれるのか?単なる習慣なのか?どうも、そうではないらしい。
根本のところが、なかなか理論では解明できません。どうも私たち自身が分かっていない不思議な理由によるのではないでしょうか?それは感覚的な、身体的な、身体の深いところにあるメカニズムではないか、という気がします。
新聞などなかった江戸時代、あるいは室町時代の人は、現代の新聞のようなものを受け入れる体質を持っていなかったのでしょうか?分かりません。さらに昔の文字がない原始時代の人々の身体であっても、潜在的には、新聞のようなものを受け入れる能力があったのでしょうか?
たとえば江戸時代、村や町には寄合というようなものがあって、人々は情報交換、つまり噂やゴシップを楽しんでいたようです。人事情報、犯罪のニュース、物価相場、あるいは宗教的な説教や道徳教育もあったかもしれません。今の新聞に書いてあるような種類の情報を、それらの集会あるいは辻の立ち話で見聞きしていたのでしょう。それは現代の私たちの見方では、不正確な怪しげな情報源ですが、そのころの人々には現実そのものでした。
さらに原始時代、人々は事実と幻想と伝説が入り混じった現代人には不可解な世界観の中に生きていたと思われます。そこでも毎日、伝聞や幻想や気象や精霊の動きを見聞きして身の回りの変化をつかんでおくことは重要だったでしょう。
身の回りに広がる現実を言葉で聞き取ることで、私たちの身体は安心を得る。そのような機構が人間の身体に備わっているとすれば、そこに現代の新聞、テレビ、あるいはインターネットがなりたっている、といえます。
今、私の周りは、どうなっているのか?現時点での現実の状況を表示する信頼できる情報の流れに身体を浸している必要が、私たちにはあります。信頼できるかどうかは、理論ではなく、直感でそう感じられる必要があります。
かつて、それは呪術師であったし、中世の講や寄合だったし、族長や長老の説教だった。しかし時代時代で、最も信頼できるものは変わっていきました。それはその時代のマスメディア、つまり前世紀前半までは、新聞であったしラジオでもあった。
現在、それは新聞なのか?テレビなのか?インターネットなのか?
デジタルの消えゆく情報では不安が残る。紙に印字する媒体は安心感と身体につながるような連続感を与えることができます。

さて、みなさんはなぜ新聞を読むのか?
日本新聞協会のアンケート調査(二〇一五年)によると、その理由の第一位は、世の中の動きが知りたいから、第二位は、テレビ欄が見たいから、第三位は、生活に役立つ情報があるから、となっています。しかし、筆者はちょっと首をかしげたい。
情報を知りたいならば、テレビ欄などを含めて、インターネットを開ければ無料で見られます。テレビのリモコンにもテレビ欄のボタンがあります。実際、テレビをつければ簡単に世の中のリアルタイムの動きが目に見えるでしょう。
どうも回答者のみなさんは深く考えずに回答欄に丸を書いただけのようです。
本当の理由は何でしょうか?
新聞を見れば、世の中の、主流の人々が何を現実と思っているのかが、もっとも正確に理解できる。あるいは少なくとも、新聞社のエリートが、何を現実と思って欲しいのか、がよく分かります。あるいはテレビ番組を作る人々が何を見てもらいたいのか、どう思ってもらいたいのかが正確に理解できる。あるいはそうすることで、今現実の世の中で、もっとも役に立つことは何かを知ることができる、と人々は思っているのではないでしょうか?ほかの情報取得法よりも新聞はそこのところが良いのではないか、と思っているのでしょう。
しかし近頃は、デジタル版新聞があります。電車に乗っているときや、待ち時間などに見るには最適です。スマートフォンは実にハンディだし、大きい画面が見たければタブレット型パソコンがあります。
紙の新聞はやめてデジタル版だけにしたらどうか、とよく言われます。ところが実際には、そういう人はそう多くないようです。特に中高年の読者には圧倒的に紙が好まれる。
なぜか?
軽いから?面積が広いから?柔らかいから?寝転がってタブレットを見るのもよくしますが、手が滑ると顔に落ちてくる。紙の新聞なら痛くありません。それにデジタル画面にはやたらにバナーその他客引きのような広告が目障りで、しかもうっかり指をすべらすとすぐ有料ページに飛んでしまうので油断できません。液晶画面を見るときは、紙面を見る時に比べていくらか緊張感が残るようです。
テレビ・ビデオなど動画や液晶画面は、なにかしら発射してくるものが視聴者の内部に侵入してくるようなところがあるのかもしれません。キンドルホワイトペーパーという手持ちの電子画面がありますが、受動光方式で見た目が紙のように見えるからか、緊張感は減るようです。
しかしいずれにしろ電子画面は紙とは違う感触を与えるものであって、紙を好む人に違和感なく受け入れられるのはむずかしそうです。

バングラデシュで大勢の人が殺された。日本人もいた、となると、だれがなぜ、そんな遠い国にいたのか、どのように殺されたのか、知りたい。JICA(独立行政法人国際協力機構)という政府活動は知っているが、バングラデシュでどういう事業をしていたのか?まったく知りません。バングラデシュのテロリストはどういう人たちなのか?ぜんぜん知らない。いつもは知りたくもないのですが、事件が起こってしまった今は、知らないのはいやだ、という気分です。
自分がよく知らない世界の解説はすなおに納得できます。そうかそうか、そうなっているのか、といかにも本当の話と思えます。しかし、たまたま、自分がよく知っている分野の解説が書いてあると、ちょっと違う。今朝の一面に日本人宇宙飛行士の打ち上げ成功が出ていて二面は宇宙開発の解説ですが、背景はその通り、と思いつつも、その裏にはもっと重要な現実があるのだが、とか、裏の裏があって記者のだれも知らないのだな、とか思ってしまいます。
まあ、一般読者は裏の裏など知らなくてもまったく困らない。知らないほうがよけいな誤解をしなくて済みます。
週刊誌の裏情報などありますが、半分以上は作り話です。ソースはだれの情報か?よく内情を知っている人ほど、利害に関係しているので、事実は都合に合わせて作りたくなるものなのでしょう。
もちろん真っ赤なウソを書くことはしないようですが、上手にうわさを切り貼りしてつなげることで、おもしろおかしい図式が透かしみえるような書き方をしたくなるのでしょう。
第四面を開くとき、右手の親指と人差し指で挟んでいた一二面を素早く中指と人差し指の間で挟むように替えて、自由になった親指で三四面を挟みます。このとき、うっかり親指の圧力を緩めてしまうと、三四面がするっと落ちて、下手をすると一二面以外の新聞全体が手前に落ちてきます。
こうなると、あわてて戻そうとしても折り目の背中が元のように合わなくなってずれた重ね紙になってしまいます。その時の気分の悪さは、今朝一番の不幸と感じるくらいです。新聞の背中をホチキスで閉じる人の気持ちが分かります。ずれた紙はなかなか元に戻らない。背中がずれた新聞は気持ちよく読む気がしません。古新聞を読んでいるみたいです。
さらにあわててコーヒーを少し紙面にこぼしてしまうと記事の新鮮さはたちまちあせます。どうして毎日、世の中は同じような失敗を繰り返しているばかりなのでしょうか?人類の進歩というものがどこにも感じられません。
十五世紀にグーテンベルグが印刷技術を発明して以来、毎日、紙面をめくるという行為を全人類は営々と行ってきましたが、その気持ちは期待という言葉にぴったりです。次のページを見れば何か読むべきことが書いてあるのではないだろうか、という期待に満ちてページをめくる。
そのめくりが失敗して新聞がばらけてしまうとか、本を取り落としてどこのページか分からなくなってしまうとか、あります。デジタル本でも指がすべって違うところに飛んでしまう。この五百年間余り進歩していません。
朝刊をめくっていく。数十ページあります。その真ん中くらいに株式欄がある。十年前ならともかく現在、新聞で株価情報を見る人がいるのでしょうか?ふつう携帯かパソコンでしょう。高齢の非デジタル世代がまだ紙で見ているのかもしれませんが、年々先細りでしょう。しかしすぐにはやめられない。紙の新聞が時代錯誤になる将来を暗示しているかのようです。
株価情報は重要です。経済面でEU(欧州連合)危機の見出しが躍っているにも関わらず東京市場株価は上がっている。
新聞経済面の解説記事はいつも一周遅れで投資家には役立たないかのようです。逆に言えば、株価欄の数字だけが正直に現時点での企業の経済価値を伝えています。株価を見るほうが記事を読むより、現時点での、真実が分かる。
太平洋戦争敗戦直前まで株式市場は開いていて暴落はありませんでした。つまり一億玉砕の記事とは裏腹に株式市場は戦後復興を予見していた、といえます。
ちなみに、終戦数日前、長崎原爆投下の翌々日から「一億玉砕」に代わって「国体護持(当時の字体では國體護持)」という語句が新聞に大きく出てきます。当時、新聞社エリートも国家意思を共有していた、ということでしょう。

バングラデシュで大勢の人が殺された。日本人もいた、となると、だれがなぜ、そんな遠い国にいたのか、どのように殺されたのか、知りたい。JICA(独立行政法人国際協力機構)という政府活動は知っているが、バングラデシュでどういう事業をしていたのか?まったく知りません。バングラデシュのテロリストはどういう人たちなのか?ぜんぜん知らない。いつもは知りたくもないのですが、事件が起こってしまった今は、知らないのはいやだ、という気分です。
自分がよく知らない世界の解説はすなおに納得できます。そうかそうか、そうなっているのか、といかにも本当の話と思えます。しかし、たまたま、自分がよく知っている分野の解説が書いてあると、ちょっと違う。今朝の一面に日本人宇宙飛行士の打ち上げ成功が出ていて二面は宇宙開発の解説ですが、背景はその通り、と思いつつも、その裏にはもっと重要な現実があるのだが、とか、裏の裏があって記者のだれも知らないのだな、とか思ってしまいます。
まあ、一般読者は裏の裏など知らなくてもまったく困らない。知らないほうがよけいな誤解をしなくて済みます。
週刊誌の裏情報などありますが、半分以上は作り話です。ソースはだれの情報か?よく内情を知っている人ほど、利害に関係しているので、事実は都合に合わせて作りたくなるものなのでしょう。
もちろん真っ赤なウソを書くことはしないようですが、上手にうわさを切り貼りしてつなげることで、おもしろおかしい図式が透かしみえるような書き方をしたくなるのでしょう。

(52 私はなぜ新聞を読むのか? begin)
52 私はなぜ新聞を読むのか?
トーストが焼ける間に新聞を取りに行く。毎朝、こうして目が覚めていくようです。
コーヒーを飲みながら読む。優雅なひととき。と自分でも思う。しかし、私はなぜ新聞を読むのか?
新聞を広げてみるまで中身は分からない。分からないものをなぜ読むのか?改めて考えてみると、分かりません。
新聞を読むことで、私は何をしているのでしょうか?
まず一面を見る。世の中太平だなあ、こんなつまらないことがトップニュースか、と思います。しかたがないから下のコラムを読む。二、三行読むと、全文が分かったような気になって、隣のコラムへ移ってしまいます。短くて数行くらいなら一目で見られます。
この一面の下のほうにあるコラムというのは、大学入試によく出るというので、そのために新聞を購読する受験生の親もいるそうです。新聞社一番の文筆家が書いているらしく教科書に使いたいような現代の名文です。毎日ではテーマ選びに苦労するでしょう。時の話題に沿わなければおかしいし、あまり違和感を与える意見を書いてもいけません。ユーモアも必要です。バランス感覚というか。毎日たいへんでしょう。
食いつきがよい文章になっているので、数行はさっと読みます。しかしなぜか最後まで一気に読む気にはなりません。これはむしろ、新聞を読む行為のよいところで、テレビのように途中で目を離せない行為とはちがいます。目を離して他の記事を読んで戻ってもよいし、戻らなくてもよい。そのまま新聞を置きっぱなしにして別のことをしてもよいわけです。
一面の底辺に並ぶ四角い広告を眺める。本の広告です。児童書が並ぶとか、文芸書が並ぶとか、日によって広告欄全体を通じてのテーマがあるようです。本の題名は面白いものが多い。それで売れ行きがきまるわけだから、よく考えられています。
題名のわきに惹句というのですか、たまに面白い文句が書いてあります。コピーライターと呼ばれる優秀な人々が作った語句らしい。この本を買いたい、と思わせます。
新刊の広告を見ると、今、こういう本を書きたい人がいて、それを売りたい出版社があって、それを買う人々がいる、という現代の世相のようなものが分かって面白い。少なくとも、分かったような気にはなれます。
実際には本を買う人はとても少なくて、出版社は懸命にがんばっているらしい。営利目的だけではこれほどがんばれないでしょう。プライドかな。特に大新聞の一面に広告を出すということはそれ自体が目的のようなところがありそうです。
広告を見るのは新聞の大きな楽しみです。広告料は新聞収益の大きな部分を占めているので、新聞側も広告が効果を最大に発揮できるようにレイアウトを配慮するでしょう。そのためでしょうが、大きな広告も小さな広告も、新聞広告は実に見やすい。目に入りやすい。目で見て気持ちがよく作られています。たいへんなコストをかけて広告を出している人々の、なんとしてもこの商品を買ってもらいたいという気持ちがよく表れています。それを読者としては(買うと決めるまでは)ただで見ることができる。楽しいわけです。
第二面にはよく一面記事の解説が載っています。そのニュースがなぜ重大なのか、教えてくれます。結果的な出来事だけを知っても、その背景を知らないと、それはなぜ起こって今後どのように展開していくのか、そのどこを注目すべきなのか分からない。新聞の一面は簡潔に結論だけを書いてありますが、スペースがないので、その背景や経緯は解説しません。それを二面がする。
今日のトップニュースに興味がある人はここを詳しく読んでください、という記事です。
自分がよく知らない世界のことはふだん見過ごしています。事件が起こると、急にその世界のことを知りたくなる。ざっとでよいから解説してほしい。ちょっとだけ知っておきたい、というような気分です。
