哲学の科学

science of philosophy

長寿と夭折(1)

2017-01-27 | yy55長寿と夭折

(55 長寿と夭折 begin)




55 長寿と夭折

長生きするためには極力、冒険のようなことは避け、安全第一の人生を送るほうがよい、といわれます。その通りでしょう。しかしこれは、人間の生き方として、正しいのか?

天才の夭折、という話はなぜか、人を引き付けるところがある。その天才はなぜ若くして死んだのか?もし生き延びて長寿を全うしてしまったならば、どう違うのか?

佐伯祐三(一八九八―一九二八)はパリの風景を描き続け、その地の精神病院で死んだ洋画家です。三〇歳でした。昭和初期の東京美術学校(現東京芸術大学)出身の、典型的な日本人エリート画家といえます。その絵は、まさに、パリとフランスに対する現代日本人の心象風景とぴったり重なっています。
精巧な迫力のある絵もあれば、売るために描いたような雑な絵も多い。後者の小さなものを筆者は玄関に飾っていますが、いかにも日本人の思う古き良き時代のパリという絵柄で、現代的なカワイサがあると気に入っています。
三十歳で死んだので当時としても若死にです。パリ郊外の精神病院で食を拒み衰弱死した、となっています。彼はなぜこの若さで死んだのでしょうか?
東京で新進気鋭の画家として喝さいを浴び、パリに修行に行く。パリで世界の最高峰に接して、才能の限界を悟り絶望したのでしょう。
時代が離れた私たちから見れば、かなり単純な野心ある若者の挫折です。それでも彼は、パリの風景を熱愛した。短期間に描いた作品の量は、その時代の青年の情熱を感じさせます。
玄関の絵をひっくり返して裏ぶたを取ると、キャンバスの裏に「佐伯祐三」と漢字で書いてありますが、隣に四角い紙が貼ってあって、それには「佐伯米子鑑」とあります。キャンバス裏の字と紙上の字がよく似ている。おなじ人が書いたようです。この佐伯米子(一九〇三―一九七二)という人は、祐三の奥さんで、才能のある画家でもあったとのことです。祐三の絵は頻繁に米子による加筆がなされていて、贋作という見方もあるようです。日本人に売るために日本人好みに修正したとのことですが、ありそうな話です。米子は、祐三を慕って日本から来た後輩の画家の世話もしたようで、その交際関係に疑問を呈する憶測も伝わっています。
祐三の二年後輩の洋画家荻須高徳(一九〇一―一九八六)は、祐三の晩年にフランス生活を共にし、死にも立ち会っています。若いころの絵は、パリの市街を描いて、まさに祐三にそっくりですが、しだいに端正緻密な風景画になって晩年まで制作を続け、八四歳で死亡と同時に文化勲章を授与されました。
同じような画風から出発した同時代の二人。一人は三十歳で夭折。他の一人は八十四歳の長寿を全うしています。この二人の男の生涯を比べると、まず端的には、身体の健康の違いが極端に寿命に反映した、ということができます。








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性的魅力の存在論(16)

2017-01-22 | yy54性的魅力の存在論


ストリップショーを見に行ってダンサーが美人であるとうれしい。宝塚でもそうでしょう。それらの場面で、あるいは図書館の司書さんの姿が美しいと感じる場合、衣服の下にある見えない裸の姿、あるいは相手と性交に至る場面を想像するばかりとは限りません。そういうよこしまな想像もしていないのに、美形と思う間もなく、ただうっかり0.3秒くらい見つめてしまうということがあります。
このような場合、相手の性的魅力を感じていない、というのは無理があるでしょう。あるいは、お医者さんがもしかしたら私の性的魅力に引かれてうっかり見つめてしまっているのかしら、という気がしていつの間にか彼の視線に性的魅力を感じてしまうという場面もあるかもしれません。目的意識は希薄な場合といえます。
性的魅力は目的意識とは独立に存在する、ということができそうです。何の目的も考えずに性的魅力を感じてしまう、という場面は多くあります。
性的魅力が存在する場面の大部分は、実際、そうでしょう。そうであるから美人女優さんがインスタント食品やお酒や鉄道会社やローン会社や住宅会社や化粧品や女性用整髪料の広告に必ず登場するのです。注意すべきことは、同じ女優さんが男性用の酒や女性用の化粧品の広告に同じような表情で起用されていることです。
身体外見における性的魅力の感受性に男女の性差異はない、そして男性的身体に比べて女性的身体は(女性の感受性によっても男性と同程度に)はるかに美しく感じられる、という拙稿の理論を裏付けています。■




(54 性的魅力の存在論 end)





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性的魅力の存在論(15)

2017-01-14 | yy54性的魅力の存在論


性的魅力の存在にとって、性交のコンテキストは重要ですが、必要ではないでしょう。性交の概念に関わりなく、性的魅力は存在します。
そもそも性交の概念を持たずに人は性交するのか?あるいは、性交の概念を持たずに人は性欲を持つことができるのか?自分が性交していることに気付かずに性交できるのか?はなはだ疑問です。成功の概念を持たずに成功するほうがまだありそうです。
人以外の動物はもともと概念という機構を持たないので、当然、交尾の概念なしに交尾します。人間の行動は、求愛、性交などの性行動であろうとも、概念と目的を伴うことが多いので複雑で分かりにくいところが困ったことです。
人は目的意識をもって行動する場合が多い。少なくとも私たち自身は、自分のほとんどすべての行動は、目的をもってそれをしている、と思っています。しかし、目的意識が希薄な行動は記憶できない。記憶している行動は目的的コンテキストに乗っているものだけです。実際、他人の行動を観察すれば、環境刺激に即応するだけ、あるいは習慣的であるだけ、とみられるものが大部分です。
拙稿のテーマである性的魅力の存在問題に関しても、性交、求愛あるいはその他の行動目的を持って性的魅力を感じ取る場合もあれば、そうでない場合もあります。そうでない場合に、感じる性的魅力が(客観的に観察すれば)大部分を占めることが分かるでしょう。












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性的魅力の存在論(14)

2017-01-07 | yy54性的魅力の存在論


拙稿の本理論で特徴的なことは、この、見る見られる、という一方通行の、一見、男女の心理的な差異に起因すると思われがちな行動の非対称性が、実は心理的な性差異から生ずるものではなく、女性の身体外見の特徴にだけ美しさを感じるという人間男女共通の(性的に無差異の)感受性から来ているということです。
繰り返せば、人類における性的魅力の存在は、おそらく、男女の心理的差異を必要条件とするものではありません。性的魅力に関する男女の行動上の非対称性の起源は、男女身体の外見の特徴差異に対する男女共通の感受性に由来するのであって、(マスコミ、ネットなどで語られている俗論心理学のいう)性ホルモンの量的差異、あるいはそれによる脳形状または脳機能の男女差異に起因するとされる心理的差異に由来するものではない、という結論が拙稿の見解です。

ちなみに、性的魅力(英語でsexual attraction)という語も誤解を呼ぶ原因になっていると思われます。性的というと、男性女性の(ジェンダーの)差異という概念と直結します。そこから、性的魅力の感じ方は男女間の引力である、という議論の出発点が持ちだされる。それは男女の心理の違いからくる、という安易な理論に導かれやすい。
だれもが不可解と思っている異性の心理の話をしたくなる。ここから間違いが始まっています。拙稿のいうような、男女の心理差異に無関係の性的魅力のあり方、という発想は、はじめから、なかなか出てきません。
異性の心が不可解という話題にはだれもが参加したくなるところに、男女の心理差異という人気のあるテーマがなりたっているようです。しかしこのテーマは問題のとらえ方が間違っています。人は実は、同性の心も異性の心と同じくらい分からない。(拙稿の見解によれば)自分の心さえも分かることは、実は、できません(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちがわかるのか?」)。むしろ、自分の心あるいは他人の心、が分かると思う錯覚の存在のほうが問題である、ともいえます(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。
確かに性的差異のテーマはおもしろい。差異という語もおもしろそうだし、性的という語はもっとおもしろそうです。しかしどこがおもしろいのか?英語のsexをカタカナで書くセックスという日本語は、現代口語としては性差を指すよりもしばしば性交を指す。この用法を適用すれば、性的魅力は、性交に関する魅力、となりますが、拙稿の見解ではこのニュアンスにも注意が必要です。つまり性交という行動を想起できるコンテキストで他者を認知する場合、性的魅力を当然感じていることになりますが、逆は必ずしも成り立ちません。











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