つまり、青目男は、大金を使って自分と同じような青目を持つ女を追い求めるよりも、大金を使って自分を求めてくれる青くない目の男あるいは女に買われることに喜びを感じるからです。
そういう仕組みになりますから、青い目の男あるいは女は、たいていは、青くない目の男あるいは女に買われてその家に住むことになり、青目が映える美しいドレスを着て化粧し、青い目をさらに目立たせるようなアイシャドウをしたり、逆にわざと美しい目を隠すためにサングラスをかけたりして、性的魅力に磨きをかけることに熱心になります。
さて、それでこの社会は持続可能なのか?
ダメでしょう。なぜならば出生率が小さすぎて急激に人口が減るからです。男女の区別は魅力と関係がないため、確率的に女の半分は女を選び女どうしのカップルになるので男と一緒になる女はまず半減する。その上、外で忙しく働く非青目の女が、家にいてドレスを着て化粧するだけの青目男のために、仕事をしながら何人もの子供を産んで授乳育児できるのか?もし男女とも仕事をしないで育児するとすれば、子どもの生活費教育費は誰が稼ぐのか?
結局、極端な少子化になる。そういうことで人口維持は難しいでしょう。そうであれば、このような社会が一瞬存在したとしてもすぐに消えていきます。
背理法ですが、こうして、現存人類が今のような性的魅力の感受性を持つことが納得できます。逆にいえば、人間の持つ他の特徴の差異に対してよりも男女の差異に対して敏感であって、女性側に美しさという属性を貼り付けるような感受性を持つように感覚が進化した人類だけが繁栄して地球上に広がった、ということができます。こうして性的魅力の存在は、男女差異の上にあってしかも女性側になければならない、という結論が得られます。
拙稿のこの理論によれば、性的魅力が存在するための条件は、次の通りとなります。
まず人口の半分くらいが魅力的となる差異を与える属性が大部分の人間に(男女にかかわらず)認められること。そしてこの魅力が他の魅力よりも強く安定的に人間と人間の結合を作ること。この結合から妊娠出産授乳育児の実現が担保されること。
これらの条件から、この差異は男女の違いによる差異でなくてはならないことが分かります。
妊娠出産授乳育児は人類の存続に不可欠であり、それらは女性と男性の安定的結合によって可能となる。この男女の結合を作る機能を持つ魅力は男女の違いによる差異であるはずです。
ここで重要なことは、この魅力は男だけ、あるいは女だけが認知する魅力ではなく、男女が同じように認める魅力である、というところです。
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ちなみにこの社会では、不美人が汗水たらして得たお金で買われた美人はそのお金で着飾ったり、美容院に行ったり、美人仲間と高級レストランでおいしいものを食べたりできるわけで、不公平ではないか、という指摘が出そうですが、実は公平な社会です。
なぜならば、不美人は不美人どうし猥談をしたり楽しく仕事に精出したり金儲けや出世競争をしたりして楽しい。そのうえ、めんどうな化粧や服選びをしなくてすむので外出も気が楽です。美人を買うために、高収入になれるスキルアップを目指し、勉強して高い学歴を獲得し、仕事も懸命にするので結果として社会の役にたち、社会的地位も高くなり、えらそうにすることができます。
結局、実態としては、美人不美人ともにこの社会構造にあまり不満は持っていません。不美人が美人になりたいとも思っていないようだし、美人が不美人になりたいとも思わないようです。
この仮想社会において、美人の魅力は、不美人との差異が大きいほど大きい。たとえば美人がみな肩まで髪が長く、不美人はみな短髪であり、美人も不美人も長髪が見とれるほど美しいと感じる感覚を持っているとすれば、この社会では髪の長いことが美人の魅力となります。これをこの社会での性的魅力ということができます。こうしてこの社会では性的魅力が存在することになります。
この社会構造では、生まれた時から子供の半分ずつが美人あるいは不美人に認定されていけば後はうまくいきます。人間社会として実際に成り立つでしょう。
問題は、生まれたときにどういう仕組みで美人不美人が決定されるか、です。生物学的な男女身体構造の違いは無視するわけですから、どうしたらうまくいくでしょうか?くじで決めるというのも不条理です。男女の違いなど問題にならないくらい衝撃的な差異が必要ですから。
まあ仮に、そのような人口を二分化できるような分りやすい適当な差異が見つかったとすれば、この社会はうまく実現されます。
例として、人口の半分が青い目の国があるとしましょう。ヨーロッパの東北あたりにありそうです。生物学的差異ではありますが男女の違いとは無関係ですからこの思考実験に適しています。さて、この国の人々は男女ともに青い目の男女にだけ性的魅力を感じる体質である、と仮定します。男とか女とかは関係ありません。そして男女とも青い目でない人間にはまったく性的魅力を感じません。
であるから、青い目でない男は青い目の男あるいは女を買うために努力する。青い目でない女も青い目の男あるいは女を買うためにがんばります。
青い目の男は青い目の女あるいは青い目の男に性的魅力を感じはするが、それほどではない。なぜならば、青い目の女あるいは男は、自分に対して魅力を感じている青くない目の男あるいは青くない目の女に選ばれることを好む。自分に関心を持つ人間を誘導し操作して自分を追わせることに楽しみを感じる。追うよりも追われるほうが楽しい。鬼ごっこと同じです。
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拙稿の見解では、性的魅力は、人類特有の家族構造と社会構造の安定化要素として不可欠であったから発生し存続した、と考えます。性的魅力は、動物の雌雄を結合させるフェロモンのようなものというよりも、人類の家族と社会の構造を安定させ、栄養補給システムを効率よく稼働させることを可能とする機能であるから人類に必要な存在となって存続しています。
実際、次に述べるような理論で、男女の結合を問題としないところからも人間の性的魅力の存在は導き出すことができます。
ここで思考実験として、生物学的性を無視することにしましょう。人間個体の雌雄の区別を問題としない。そうしておいて、人間をあらためて二つに分類する。男女の区分けとは無関係に、別の区分けとして、すべての人間を二つの種類に区分けする、とします。
仮に、人口の半分は、(性別とはかかわりなく)だれからも美しい人々として認められている人々で、これを(仮に)美人と呼ぶ。残りの半分は自他ともに美しくない人々として認められている人々で、これを(仮に)不美人と呼ぶ。
すべての人間は全員ある程度のお金を持っていて人身売買市場で他人を買うことができます。美人は美人を買ってもよいし不美人を買ってもよい。不美人もまた美人を買ってもよいし不美人を買ってもよい。単純化するため一人は一人だけ買えるとしましょう。そしてだれもが美しいものを手に入れようとするとしましょう。さて、この社会はどうなるでしょうか?
美人としては自分が十分美しいのであるから、美しい美人を買う必要はありません。もちろん美しくない不美人などまったく買う気がしません。余ったお金で高価な衣服を買ってさらに美しく着飾るほうが楽しいのでそうするでしょう。一方、不美人としては美しい美人を入手したくてたまらない。お金を貯めて、人身売買オークションでがんばって、なるべく美しい美人を買おうと努力するでしょう。
そうこうしているうちに、不美人の間では、美人の美しさを賛美する文化が芽生えてきます。たとえばテレビドラマやマンガや世間話で美人を獲得することの幸せが繰り返し語られる。そういう文化に影響されて美人の購入に夢中になる人がますます増えてきて、美人がとても価値が高く、それを獲得できた人は満足し、それを入手できない人生は不幸だ、という常識が確立されます。
一方、美人の間でも、不美人を誘惑し操作して振り向かせる魅力を保持する楽しみが繰り返し語られる。その美人の魅力の強弱に関して優越感やジェラシーが渦巻きますから、より高く買われようとする競争は激しくなります。世の中全体として、美人が持つ魅力へのあこがれが語られ、美人は美しさのゆえに不美人に追い求められるものである、という常識ができ上がります。
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両性のうちで女性だけが美的である、という見方は一つの理論ですが、これを唱えることは、現代では男性ショービニズムであって品性がないとされています。女性の容姿を露骨に評価しようというミスコンテストなどは、まことにけしからん発想です。しかしここではフェミニズム論争を脇において、性的魅力に係る存在論の構造としてこの理論を分析してみましょう。
古来、裸婦像は美術の一大テーマとなっています。ミロのビーナスの複製と、男性像の複製、たとえばミケランジェロのダビデ像の複製とどちらが多く作られているか?圧倒的にミロでしょう。マーケットは正直です。少なくとも現代人男女ともにそのほとんどは、女性の身体が男性よりも美しい、あるいは美しくあるべきである、と直感では信じているでしょう。まあ、もっと簡単に調べるには、女性化粧品の総売上高と男性化粧品のそれとを比べてみれば明らかでしょう。デパートに行ってそれらの売り場面積を見比べれば一目瞭然。マーケットは正直です。
世の中の男も女も、女性は美しい、あるいは少なくとも、美しくあらねばならない、とすなおに、あるいはひそかに、思っているという事実は無視できません。
ここに一つ性的魅力の存在に関わるヒントがあります。性的魅力にかかる両性の非対称性はなぜ生じるのか?男は女の身体に強い性的魅力を感じるが、女は男の身体に性的魅力をあまり感じない。少しは感じる場合もあるが、むしろ性的嫌悪を感じる場合も多い、といわれています。なぜでしょうか?
この事実に関して、動物の雄は生殖のために雌を追い求め雌は雄を受け入れる選択をするような本能を持つから当然だ、という俗説で私たちはたいてい納得させられています。一方、科学は、本能といわれるものの存在自体を否定しています。哲学の科学を標榜する拙稿としては、ここは科学の味方をして本能論を排するべきでしょう。
すなわち、拙稿としては、性的魅力の存在を調べる場合、動物の交尾行動からの類推や生殖本能の存在という安易な目的論から理論をつくることは間違いと考えます。
マスメディアやマンガや俗説では、動物の雄は雌を美しいと思う本能に従って求愛し交尾したがる、というテレオロジカルな理論を当然のごとく使いこなしていますが、科学的には何の根拠もありません。アリストテレス以来の生物目的論の理解しやすさから根強い俗説として生き残っているだけでしょう。
科学としては、むしろ、スキナー(Burrhus Frederic Skinner, 1904―1990)の系譜に連なる行動進化論、つまり機械的反射のシステムが動物の発達過程に適応することによって求愛交尾行動が定着する、という理論を実証する方向へ進んでいきます。
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