哲学の科学

science of philosophy

目的の起源(12)

2013-12-07 | xxx6目的の起源

人は人の動きに目的を見る。人の行動は、しかし、ほとんどは無意識の反射で構成される動作、さらに多くは仲間の動きに誘発される共鳴運動、あるいは、詰将棋やテストの答案を書くときのように意識的に計算された計画行動、の組み合わせで実現する。それでも、言葉でそれを語るとき、すべては目的を目指す行動として、人はそれを語る。

私たちがいつもする日常会話、テレビ、新聞、文学、社会経済理論、科学論文あるいは学説などでは、人は目的を実現するための方策を比較検討し、結果を計算して最適な方策を実行する、ということになっている。たしかに人間は、場合によっては、やればそのような予測の計算はできます。

その予測計算された計画の実行を、しかし、実際に実行する場合は少ない。

コンピュータが人間よりも正確に迅速に実行できる最適化計算。詰将棋。試験答案。王より飛車をかわいがったりしない冷徹な戦略。最大利益ビジネス戦略。そういうものは現代人が思っている理想化された目的行動ですが、極めてまれにしか実際の人間の動きにはならない。人の行動のほとんどは無意識の反射か、仲間の動きに誘発される共鳴運動の連鎖、あるいはそれに触発されるルーティン的行動です。

実態がそうであっても、人間は、その他人あるいは自分の行動を目的の追求と見る。そう観察する。そう観察するように人間の身体ができているからです。

人間が使う目的追求という行動様式は、もともと集団の動きへの(意識にのぼらない)共鳴追従にある。しかし私たち現代人はそれを、個人の内面に発生するものとして語る。

そのように目的を語りあう私たちの会話の起源は、自分たちの行動を目的追求の図式として観察する私たち人間の身体構造にある。またそれを個人的目的の追求という図式で語る語り方は、階級制社会のエリート層から始まり、資本主義社会での個人間競争によって定着した歴史上新しい人間観からきているといえます。■

36 目的の起源 end

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目的の起源(11)

2013-11-30 | xxx6目的の起源

人類の身体の構造が、拙稿のいうように、本来、集団的に動くものとなっているとすれば、まず無意識のうちに集団の目的に追従して、私たちの身体は動いていく。そう動いていく自分の身体を意識するとき、私たちはそこに個人的目的を推測し、次にそれを追求して自分を操縦していく。

たとえば、短いスカートが流行すれば、自分もなぜか理由もなく短いものを履きたくなる。次には短いスカートを履くことが自分の目的であると思う。この頃には、なぜ自分にはそれが必要なのかについて、はっきりした理論ができている。それを実行するための準備行動を既に開始している。たとえば素足が見えてしまうので肌の手入れをする。エステティックサロンに行く。以前には高価と思ったその料金も当然と思えてきます。こうなるとこの人がミニスカートを履くという行動は個人的目的によるものといえるでしょう。

またたとえば現代社会では、社会を支える政治経済システムに適材適所の人材を供給して社会の機能を維持再生産していく必要性を皆が認めている。マスコミでも毎日そう言っているし、学校の先生も組織の幹部も村の長老も誰もが、そう言います。そういう空気の中で、職業を持って社会人になることを個人的目的として子供は育ち、勉強し、学校を卒業すると当然、就職して生計を稼がなければならないと思われています。なぜ就職しなければいけないのか、などと問うことが最近はマスコミでも行われたりしていますが、これは議論をおもしろくする必要がある企画者たちの活動によるところが大きいと思われるので、実際に就職しないことを積極的な目的とする人が増えているということではないでしょう。

私たちがなぜこういう話をしているのか、あらためて考えてみると、個人が自分の行動を決める、と思うところからきている。私たち現代人は、自分がしているほとんどすべての行動は、自分が持っている個人的目的を追求するために行っているのだ、と思っています。しかし、拙稿の見解によればそれは間違いということになる。

個人的目的というものが人間行動の基礎であるとすることは間違いです。目的というものは、そもそも、個人的なものではなくて、集団的なものであったものが、現代においては取り違えられている。現代においては、目的はまず個人的なものでそれが特殊な場合にだけ集団的なものとなる、と思われています。たとえば、オリンピックを成功させたいという個人的目的を持つ人が多数集まると、それは集団的目的となる。しかし、狩猟採集社会でのある集団、たとえば狩猟採集部族の集団が熊祭を成功させたいと思うときは、それはまず集団的目的でしょう。

現代人と狩猟採集民とのあいだに、目的の持ち方について、そのような大きな違いがあるのでしょうか?

拙稿の見解では、現代においても過去においてと同様に、人間の行動はほとんど、仲間の動きに誘導されて目的もなく身体が動いていくことが積み重なってできている、と思われます。ひとりで動くときも(身体に埋め込まれている)記憶が呼び出す仲間の動きに追従している。部分的には目的を追求してなされる(と本人が自覚し記憶しているような)行動があるが、そのほとんどは、本人が思うほど個人的な目的ではなく、仲間と共有する集団的目的の追求からきています。

そうであるにもかかわらず、人が人を見るときは、特に現代では顕著に、その行動に個人的目的を見るようになっています。そのように個人的に生きる人間のモデルを普遍的であると思い込んでいます。

現代人が人の行動の本当の要因を個人的目的として見とってしまうところから、目的というものが個人的なものと思われることになる、と思われます。

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目的の起源(10)

2013-11-23 | xxx6目的の起源

農耕牧畜社会では人口密度が上がり、富の蓄積と分業が進んだ結果、急速に階級制の支配構造が発達しました。少数の支配階級が農民、牧畜民を支配する社会構造です。支配階級である王侯貴族は、権力、富、名誉、子孫の安全などを人生の目的として日夜努力するようになったでしょう。それらの人生目的は仲間と共有するものであるというよりも王侯貴族の間で競合して奪い合うものであったといえます。歴史上の王侯貴族がそのような個人的な人生目的を持っていたことは、歴史資料からも明らかです。

個人的な人生目的は仲間と共有するものではありません。例えば権力的地位、あるいは領土など、むしろ奪い合うものであったりします。戦いや競争が正当化されるエリート階級のあいだでは仲間と共有せず個人的に戦いとるべき目的は、当然、自尊心にかかる人生の重要事項です。そのような状況では、個人的目的を強く意識した行動が全面に出てくることになります。そのことが、中世など階級制社会でのエリート階層の人々のあいだで、個人的目的が意識され、言葉に現れ、語られるようになった理由でしょう。

 

近代以降の産業社会では、ブルジョア階級が前時代の王侯貴族のように個人的目的を追求するようになりました。逆に言えば、むしろ、産業革命以降の時代では、王侯貴族でない人々でも個人的目的を追求し社会の上層階級を形成できるようになったのでブルジョア階級が出現した、と言えます。いずれにせよ、現代の資本主義社会では、個人間の競争に勝つ程度によって権力、富、名誉、子孫の安全など人生において個人が獲得できるものが確実に大きくなる仕組みになっている、と思われています。

個人的目的を追求して社会的競争に勝つ。目的行動はそのためになされる、と思われるようになったのでしょう。この時代から現代にかけて、知識人、言論人など社会の表層で言葉を語る人々の間で、目的行動というものは、いつでも、個人的目的を下敷きにしているはずだ、という認識が常識になってきます。

そういう現代の常識のもとで、集団的目的を目指す行動というものは、まずそれを良いことであるとする場合には、個人主義を克服した賛美すべき協調性だとか、絆だとか、一致団結だとか言われ、新しい人間関係や政治革新が期待できるものであるとか、論じられます。また、それが悪いことであるとする場合には、愚かな群衆行動であるとか、あるいは極端な理想主義を信奉する教条的過激集団の行動であるとか、あるいは偽善的な人々が個人的目的を隠蔽するための見せかけのパフォーマンスである、というような見方がなされるようになります。

拙稿の見解によれば、これはパラドクシカルな現象であって、人類史数万年にわたって、もともと圧倒的に集団的なものであった目的行動が、最近のたかだか数百年においてそれから派生してついには多数派となった個人的目的行動にとってかわられてしまったために、先祖伝来の集団的目的行動が、個人間の人間愛的連携とか一致団結とか、群衆行動とか、異常なものとして呼ばれるようになってしまった、といえます。

 

 

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目的の起源(9)

2013-11-16 | xxx6目的の起源

そもそも、拙稿の見解では、目的というものは、仲間と協力して連携行動をとるために生まれてきた。仲間と共有すべきものが目的です。目的というものは、そもそも、個人的なものではなくて、集団的なものでした。

そうであれば、個人的な人生の目的という概念は、はじめから矛盾を含んでいる。人工的な匂いのする概念に思えます。個人の人生というものが語られるようになったのは、歴史上古いことではなさそうです。古代ギリシアの叙事詩などに英雄の人生が歌われていますが、現代人のいう人生の目的というような概念が当時あったかどうか、はっきりしないようです。

個人が主人公になる文学とか演劇とか、伝記とか新聞記事とかが書かれるようになったのは、数百年前以降、つまり中世から近世にかけてです。それも中世初期の頃に書かれたものは訓話や王侯貴族聖人列伝のたぐいだけです。いずれにしろ、個人的な人生の目的というようなものは、せいぜい数千年前以降に考えつかれるようになって、さらにそれらが顕著に語られるようになったのは、数百年前以降、つまり近世以降になって、それらは、はっきりと語られ書かれるようになったようです。

昨今、人生の目的は定まりにくくなった、というよりも、もともと人類の伝統において人生の目的などというものはそれほどはっきりしたものではなかった、という言い方の方がより現代的今日的である、といえそうです。

目的を追求する行動は、言語発生以降の人類に特有な行動であって、しかも個人的に人生の目的を持つなどということは、ここ数千年、西洋文明から始まって世界中に広まった歴史的産物といえそうです。もしそうであれば、人生というゲームの目的をしっかりと見定めていなければならない、と教えられてきた私たち現代人の生き方というものもいかがなものか? そもそも伝統的な人類の生き方とは少し違うのではないでしょうか? (近代的な)目的志向のこういう生き方自体、すこし古くなってきたのかもしれない、という気がしてきます。

個人的な人生の目的ではなく、仲間と共有する目的、人間集団としての目的を追求するとき、私たちは最も生き生きと生きることができるのではないか?人類の身体はそのように作られている、というのが拙稿の見解です。

目的というものを使って計画的な行動を遂行することは、人類に特有の行動様式です。集団として目的を共有し、役割を分担し、自分たちの身体を道具として使いこなして、効率的な行動をする。そうして高い確率で栄養供給システムにつながり、繁殖に成功する。それが人類の特徴といえます。

近代以降の文明社会では、個人的な人生の目的が人間の行動を決めているように見えますが、これは人類の普遍的な行動様式というよりも、農耕牧畜から発生した文明社会特有の行動様式というべきでしょう。狩猟採集の時代には集団的なものであった目的という行動様式から、農耕牧畜の時代には、個人的な目的という行動様式が派生してきた、といえるようです。

狩猟採集社会における目的志向行動は仲間と共有する目的を追求するものであった。狩猟採集行動に関する目的を仲間と共有しない個人が仮にあったとしても、その人は獲物の分け前にも預かれず、子供たちも仲間に受け入れられなくなるなど生活に困る可能性が大きいでしょう。狩猟採集社会では人々の専門技術、作業用具、生産装置、行動パターンなどの個人間の違いはあまりなかったと思われます。またたとえ、ある個人がすぐれた技術あるいはすぐれた道具を持っていたとしても、その人は仲間の集団行動の中でしかその能力を発揮することはできなかったでしょう。だれであろうとも、そういう状況では仲間と目的を共有する行動しか取れません。そうであるとすれば、狩猟採集社会において、個人的人生の目的を持つということは、やはりあまり一般的ではなかったと推測できます。

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目的の起源(8)

2013-11-09 | xxx6目的の起源

いずれにしろ、私たち人間は、原始時代もそれ以降も現代に至るまで、少なくとも直感としては、目的論を使って物事を見取っている。私たち人間は万物の変化に目的を見る。万物というよりも人間が関心のあるような物の変化や運動に関して、人間は、まず、目的を読み取ります。

 

「XXが○○したくて○○する」という言語様式は、私たちが関心のある事物の変化を表現するときに使います。人間のように心があるものは目的を持って行動する。逆に目的を持っているように動くものは心を持っている。心とはそういうものです(拙稿8章「心はなぜあるのか?」 )。そういう動きをする者たち、つまり言語で表現されるとき主語になるような者たち、人間、動物、擬人化されたもろもろの物事、そういう者たちの動きを、私たちは言語を使って互いに語り合うことができるし、記憶することができます。

 

 

 

 

私たちは自分自身、目的を持って何かをしている、と思っています。意志を持って行動しているからには、その行動の目的を持っているはずだと思われます。そうであれば、人間は目的を持って毎日を生きている。特に人生の目的を持って毎日を生きているはずだ、と思われます。

 

しかし、人生のその目的ですが、現代は、それを語ることがちょっと面倒な状況が多くなっているようです。二十一世紀の私たちは、これまでの人々とちがって、その人生の目的を語ることがむずかしくなっている、と言われます。

 

その理由は分かるような気もします。かつて人生の目的は、正しく人生を生きることだった。結婚して子を産み育てて、出世して、金持ちになって、職業において成功し、あるいは大事な勝負に勝つことでした。皆そう思っていました。皆ではなくとも大多数の人々はそう思っていました。しかし二十一世紀の現代人である私たちは、それらの正しいことが正しいことなのかどうか、いささか自信がなくなってきたようです。

 

現代社会は複雑になってきているからどう生きるべきかが分かりにくい。しかしそればかりではない。現代はその上、良くも悪くも、何もかもが相対的で自由であるような気がする。結婚してもよいがしなくてもよい。子を産んでもよいが産まなくてもよい。出世してもよいがしなくてもよい。金持ちになってもよいがならなくてもよい。成功してもよいがしなくてもよい、勝負に勝ってもよいが勝たなくてもよい。

 

そうであれば、人生の目的は定まりにくいでしょう。

 

 

 

 

 

 

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目的の起源(7)

2013-11-02 | xxx6目的の起源

さて、拙稿の見解では、人間にとって世界はまず目的論 的に意図的行動によって推移していくような構造を持っている。目的を持って意図的に推移している世界あるいは人々、社会に対して、私たちはおおいに感情を働かせて、願ったり祈ったり交渉したり闘ったり操ったりしながら、毎日を暮らしている。そういうような世界に私たちは生きている、と私たちは思っています。

それは、人類の文明以前の原始生活においてまさにそうでしたが、文明のまっただ中に生きている私たち現代人も、同じように、そう思っています。

原始生活においては、仲間の人間や敵や獲物や家畜や猛獣の動きに対してそれらの持つ目的を読み取りながら必要な対応行動をとることによって、うまく栄養供給システムにつながることができたからでしょう。現代においても、私たち人間は、仲間の人間や敵の人間や獲物としての人間や家畜や猛獣に似た人間たちを相手に彼らの目的を読み取りながら、願ったり祈ったり交渉したり闘ったり操ったりして毎日の生活を維持しています。

原始時代の宗教は、あらゆる物事に神性を感じとるアニミズムからはじまっています。人類は、自分たちが感じとれるすべての存在を、まずは目的と意図を持った人間的な存在として感じとり、自分たちがよく知っている性質を持って動いているに違いないと思い込む性向があるようです(一七五七年  デイヴィッド・ヒューム 『宗教の自然史』)。

ところが、このような宗教と相容れない、人間の感性にそぐわない理論が現代では大きな存在となっています。科学です。

現代科学に代表される因果論は目的論とは相容れない。科学によれば、人間の身体を含む万物は物質の法則による原因と結果の関係だけで推移していく。世界は人間の喜びや苦しみに全く無関心に動いていく、という見方しかしません。ここから科学は非人間的だという感覚が生まれてくるのでしょう。

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目的の起源(6)

2013-10-26 | xxx6目的の起源

意図を持つ主体が目的を追求して行動することで世界の物事が推移するという世界観は目的論と呼ばれ、アリストテレスから近代哲学に至る西欧哲学の系譜のひとつになっています(BC三三〇年頃 アリストテレス形而上学』既出、一七八一年 イマニュエル・カント純粋理性批判 』既出)。このような哲学、あるいは認知システムは、私たちが人間や動物の動き(あるいは心理現象や社会現象)を見る場合しばしばこういう見方をしているというところから来ている、といえます。

 

 

これに対して因果論と呼ばれる、物事はすべて原因から結果が引き起こされることが連鎖して推移していくのみであってどこにも目的を追求する主体などはない、という考え方も、古くから東洋にも西洋にもあります。西洋哲学ではこちらもアリストテレスから始まって近代哲学(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論』既出)において発展し、現代科学の根底(一八六四年 ジェームス・クラーク・マックスウェル電磁場の動的理論」既出)を支える思想になっています(自然主義という、哲学の科学: 世界の構造と起源(18) - 哲学はなぜ間違うのか?

 

 

 

 

人間は意志を持って自由に自分の身体を動かしている、という自由意思による人間観は生まれつき私たちの感覚に埋め込まれているようです。またこのような感覚が万物を対象に拡張された目的論的世界観は、霊長類共通の認知機構を基礎とする人類の生得的機構であるとみることができます(一九五七年 エリザベス・アンスコム『意図』既出、一九八七年  ダニエル・デネット意図的観点』既出)。拙稿の見解では、この認知機構が言語の基礎になっている(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」 )。また同時にこの機構が、次に述べるように、私という存在の基盤にもなっていると思われます。

 

 

目的論・意図的行動により世界を描写する理論(反自然主義という)を採用するならば(実際私たちは日常この理論を使って会話していますが)、私の身体が動いているのは当然それをだれかが意図を持って動かしているはずだ、ということになります(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか? 」)。そのだれかは私と呼ばれるものだ、と私たちは思います。

 

 

実際、私たちの言語の構造がそうなっているからです。言語を使うことで私というものの存在が現れてくる。言語を使う瞬間、私という存在を認めざるをえない。そうして「私が存在する」という言葉を使うことによって、自然に、私が存在すると感じられることになります(拙稿12章「私はなぜあるのか?」 )。

 

 

そうなってくると、今度は、私が存在するからには、私というものは目的を持っているはずだ、私の存在の目的は何か、人生の目的は何か、というような哲学的疑問が生まれてくるわけです。

 

ところが一方、因果論(あるいは場の理論 )による世界の描写(自然主義)を採用するならば、人間の身体といえども因果関係にしたがう物質現象によって自然に動いているわけだから、自分の思考を含めて身体の状態の現状は、そうなる直前の身体の状態とそれに影響を与える周辺環境の状態とを原因として物質の法則によって決まる結果が現れることで実現している、ということになります。

 

 

空気の分子の現在位置と運動量から次の瞬間の風速方向と風量が決定する。そうして風は、だれの意志にもかかわらずに、吹く。

 

そうだとすれば、この身体も風が吹くのと同じように、自然現象として動いていることになるから、意志を使ってそれを操縦している私という主体が存在すると言わなければならない理由はありません。(拙稿24章「世界の構造と起源(19)

 

 

因果論によるこのような考え方は当然、大昔からあって、人が物質や道具を操る場合にはもっぱら使われてきました。現代においてこれが洗練された先端に現代科学があります。人間の身体に関しても人がそれを物質としてみなす場合〈医学など〉や道具として使用する場合〈スポーツなど〉は、この考え方が使われます。

 

 

 

 

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目的の起源(5)

2013-10-19 | xxx6目的の起源

「ライオンはなぜシマウマを襲うのか?」ケニヤでシマウマを追っているライオンを見て、あるいはテレビでそれを見て、質問するのは、ふつう、大人ではなくて、子供たちでしょう。大人は、ライオンがシマウマを追うのはサラリーマンが会社に行くようなものでいまさら目的を考えるまでもない、と思う。幼稚園生は違う。ライオンの疾走を見て、彼らは「なぜ」と質問します。

幼稚園生よりも若い、言葉を覚えたばかりの三歳児は一日中、「なぜ」「どうして」と質問します。子供は「なぜ」と聞くことで、言葉で表されているこの世界の仕組みを知っていきます。

子供にとってそれは同時に、言語の仕組みを学習することです。言語において目的というものがどのように世界を作っているのかを知ることです。言語における目的というものがどのような社会的経済的意味を持っているか?人々が言葉を使って、物事の目的というものをどう扱っているのか?そうすることで人々とどう協力していけるのか?この世界でどう生きていけばよいのか?子供はそれを知る必要があるから、「なぜ」と聞いてきます。

言語は(拙稿の見解では)、世界の物事について、だれが何のためにそれを起こしているのか、という形を表す(拙稿26章「「する」とは何か?」 )。物事と行為者と変化の予測を結びつける。それはつまり物事が起きるその背景にある目的を知ることです。

アリストテレス が、物事は目的を持って存在しているとする哲学(目的論という)を唱えたのも、そもそもは子供のように素朴な、このような認知感覚から来ているのでしょう。世界の物事の変化は、だれかがある目的を持ってそれをしようと思うから起こる。物事に関してのこういう見方は、私たちの使っている言葉(人類の自然言語)の根底を作っています(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。

人類の身体に備わった認知機構がこのような見方を作り出している、と考えることができます。そうであれば、人類は言語を使用するよりもずっと以前からこのような見方で世界を理解していたと思われます(二〇〇七年 ゲルゲリ・シブラ、ギョルジ・ゲルゲリ『目的に憑かれて:人類における行為の目的論的解釈の機能と機構 』既出)。

これは人類だけでなく言語を持たない類人猿にも共有されている認知機構でしょう。仲間の動作を見て、それが自分の運動形成機構に共鳴を引き起こすことで、行動の目的を感じ取る認知神経機構が下敷きになっているようです。類人猿は仲間のサルや猛獣や人間など利害関係にある動物の行動の中に目的を感じ取れることが観察されます(二〇〇八年 ジャスティン・ウッドル、マーク・ハウザー『人類以外の霊長類における行為把握:運動シミュレーションか推測法か 』既出)。

人類ではこれがさらに強化されて、注目に値するすべての現象、すべての物事の変化の中に目的を見る、という感じ取り方をするようになっています(拙稿31章「哲学の科学: 私はなぜ、なぜと問うのか(4」)。人間は、他人、人間集団(国家、会社、部族など)、あるいは動物、あるいは気象や化学変化など非生物の自然現象、その他すべての事象に対してその目的を言語を使って表現します。「XXが○○したくて○○する」という言語様式です(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。

 

 

 

 

 

 

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目的の起源(4)

2013-10-12 | xxx6目的の起源

たとえばケニヤの草原で人間がライオンを見たとしましょう。ライオンはなぜシマウマを追って走っているのか?人間はその光景を見た瞬間、すぐにライオンの目的を察知します。

ライオンが懸命に走っている目的はシマウマを襲うためだ、と私たち人間はすぐに分かります。本当にライオンはそういう目的のために走っているのでしょうか?ライオンに言葉で質問できれば簡単ですが、そうもいかないので、ライオンが何を考えて走っているのか、その動作から推測してみましょう。

ライオンがシマウマを襲うという目的を持っているための条件は、ライオンがその行動の結果何が起こるかを予測していることです。ライオンは、シマウマを追いかけることによって、数秒後にはシマウマの背中に飛び乗ることを予測しているように思えますね。もしそうだとすれば、ライオンがシマウマを襲う目的は、シマウマの背中に飛び乗ることだ、といえる。

しかしここで注意しなければいけないことは、ライオンがシマウマの背中に飛び乗るという運動シミュレーションを使って運動目的イメージを持っているとしても、それはライオンを観察している人間が「ライオンがシマウマを襲う」という意味のことを日本語あるいはケニヤ語で、つまり人間の言語を使って言う場合に思っているライオンの行動の目的ではない、という点です。

私たち人間が目的というときは、ふつう動物が使っていると思われるような直接の身体的な運動目的イメージのことではない。むしろ、社会的な意味合いのある行動の結果を言っている。それは、人間にとって関心が深い、重要だと思えるような社会的経済的状況の変化を予測させる結果です。人間関係の利益につながるような社会的経済的な(コンテキストの上での)意味のある変化をもたらすであろう結果です。たとえば、個人的な、経済的な利益、あるいは政治的な利益につながるような変化を予測させる行動の結果をいう。

それは走るライオンを眺めている観察者(の人間)に対して「ライオンはなぜシマウマを襲うのか?」という質問を発してみれば分かる。

ふつうの答えは「シマウマを殺して食べるためだ」とか「餌食にして食欲を満たすためだ」とか「シマウマの肉を消化して栄養を取るためだ」とかになるでしょう。こういう言語表現が、ふつう、私たち人間のいうところの目的です。拙稿本章でテーマにしている目的は、まさにこの人間的な意味での目的です。

こういう言い方でのライオンの目的は、実際にケニヤでシマウマを追っているライオンとは何の関係もない。それを観察する人間が勝手に想像しているライオンの目的でしょう。私たちが使う目的という概念は、人間どうしの会話でよく使う言い方になってしまっています。つまり人間どうしが関心を持っていること、たとえば「殺す」とか「食欲を満たす」とか「栄養を取る」とか、人間にとって重要だと思えるような社会的経済的状況の予測を言葉で表したもの、といえます。

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目的の起源(3)

2013-10-06 | xxx6目的の起源

 

 

目的を定めてそれを保持するという人類の持つ能力は(拙稿の見解によれば)、仲間との協力のために必要だから、人類の身体に備わったものでしょう。

 

家族で生活するために食料を保存する。つまみ食いしない。その目的を共有する必要があります。狩りの仲間と獲物を包囲する。皆で獲物を担いで運ぶ。言語で目的を表現し共有する必要があります。つまり狩猟採集生活の中で、仲間と一緒に活動する、社会のようなものを形成するためには、言葉で表現される目的を共有していなければなりません。

 

原始人が仲間と協力して落とし穴を掘る場合、ウサギを捕まえる目的なのか、イノシシを捕まえる目的なのかで穴の場所も大きさも深さも違う。どんな動物を捕まえようとしているのか、行動の途中で目的がぶれてしまうとうまく協力できません。ウサギとかイノシシとかいう言葉を使わないとまったく不便です。仲間と協力するために、まずは目的を共有して行動の過程でその目的を変わらないように維持する。目的を言語表現してその言葉を仲間で共有する。現代社会では、契約とか、計画とか、スローガンとか、校訓とか、憲法とかの形を取ったりもします。

 

目的を言語化し仲間と共有する。そういう仕組みが人類の身体に備わるようになったのでしょう(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(6」)。

 

 

 

人類は(拙稿の見解によれば)仲間と緊密な連携行動をする必要から、目的というものを使うようになった。次の段階として、目的を使うことに習熟してくると、これをいろいろな別の用途に使うことができるようになります。

 

まず、人間は、他人、他の集団、あるいは動物、あるいは気象や化学変化など非生物の自然現象、その他すべての事象に対して、その目的を問うことができるようになる。幼児が「なぜ」「どうして」と親に質問する段階ですね。「象さんはなぜお鼻が長いの?」とかです。

 

人類の進化過程で、物事の目的を問うことで、その物事がこれからどのように変化していくのかを予測することができるようになったと思われます。目的を推定することが予測することになるという認知機構が人類の身体に備わったといえます。

 

「象さんはなぜお鼻が長いの?」と子供が聞けば、大人が「お手々の代わりに食べ物をお口に運べるようにお鼻が長いのよ」と答えてくれるでしょう。すると子供は「じゃあ、象さんはお鼻でお箸を持つの?」と言ったりします。

 

この場合、子供は象の鼻の目的を知ることでその鼻の用途を予測しています。子供は、象の鼻を、人間が手を使ってする仕事をすることを目的として存在しているものであると理解し、そうであればどのような予測が可能なのかを考えることができます。こうして子供は象の鼻がどう動くものであるかを推定する能力を身につけることになります。

 

人類の認知機構は(拙稿の見解では)、物事が変化推移する過程の予測を(その物事が内包する)目的を推定するという方法で実行します。人類はそのような物事の予測を仲間と共同して行う。そこから(拙稿の見解では)人類の言語が発生しました(拙稿26章「「する」とは何か?」 )。

 

 

人間は、仲間の動作、表情あるいは音声表現と共鳴することで物事の予測を共有します。私たちの身体が無意識のうちに働くその結果を、私たちは物事の現実として身体で実感していると感じます。私たちが、物事が当然そうなると感じるとき(拙稿の見解によれば)、それは仲間がそう感じていることを感じ取っていることからくる感覚である、つまり現実である、ということになります。

 

こういう現実認識をしている私たち人間は、物事を予測しなければならないと感じるとき、その物事が起きる目的(物事が内包する目的)を知ろうとする。そうすることで仲間とともに現実であるその物事に対応して連携行動を取ることができます。

 

そのために物事の動きの目的を知りたい。それを問う言葉として「なぜ」という疑問詞ができた、といえます(拙稿31章「私はなぜ、なぜと問うのか(6」)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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