若いころ、ナイアガラの滝を見ました。一歳前の娘を乗せた乳母車に、しぶきがかかるので、水面まで覗き込めなかった。どれほどのエネルギーが発生しているのだろうか? 自然の法則だけで、こんなすごい滝ができる。神様が創った奇跡のようです。まれにですが、自然ではこんなものもできる。地球生物の発生もまれな現象でしょう。しかし、ナイアガラへ流れ込む水は、ナイアガラに落ちるのが一番、周辺空間の状態自由度を大きくできる。つまり、この滝はできるべきものだからできた。滝の形成も生物進化もすべての物事は、エネルギー保存の法則とエントロピー増大の法則にしたがっているので、こういう形になっている(二〇〇七年 ジョン・ホイットフィールド『尤者生存?』)といえる。
科学にとって生命現象は、神秘なところはないふつうの自然現象です。そこで人間にとって残る問題は、命の存在感はどこからくるか。つまり動物を見たときの人間の脳の反応の問題です。這っている虫を棒でつつくと逃げるように動く。こういうものを見たとき、人間の脳では、無生物の物質を見るときとは違う神経回路が強く活性化される。この神経回路は、おそらく人間の祖先が魚だったころよりずっと古くからある。脊椎動物にとって、目の前で動物のような動きをするものは、餌か、仲間か、捕食者です。そのような物体は、身の回りに何が起こっているかを検知して対応した運動を作り出すシステムのはずです、身の回りに起こったそれ(状況変化)に対応して(逃げるとか襲うとか)何かの運動をしようとする。こういうような動きをするシステムは、そうでないものと簡単に区別できる。人類文明以前には、そういうものは動物だけだったでしょう。人間が人工物を作るようになってからは、シシオドシだとか、防犯センサーライトだとか、動物(=命を持つもの)とまぎらわしい動きをする機械がでてきた。いずれにせよ、そういうものに敏感に反応できないような脊椎動物では子孫繁栄は覚束かない。身の回りにいる動物の存在に反応できないような身体を作るDNA配列(ゲノム)を持つ動物は、子供を産む前に食べられてしまったか、交尾の相手を見つけられなかったか、だったので、そのようなゲノムは現在の動物には伝わっていない。
ちなみに、無脊椎動物でも昆虫やタコなどはよい眼を持っていて、動くものに敏感に反応する。こういう動物も、いわば、命を感知する神経機構がよく発達している。つまり、彼らは命の存在感を知っている、と言える。
この、少なくとも脊椎動物に共通な、命を感知する神経機構は、もちろん、人間の脳にもしっかり備わっていて、人間が身の回りの状況を感じているときにいつも感度よく働いている。特に人間にとっては、命がありそうに見えるような動きをする種々の物体のうちで、相手が仲間の人間の場合が重要です。
仲間の人間の命をどう感じるか。これに鈍いような人類が生き残っているはずはない。つまり人が死ぬところを目の前で見て、何も感じない人間は異常です。他人の命が損なわれるのを見ると、怖いとか、嫌だとか、可哀想だとか、悔しいとか、強い情緒を感じるでしょう。そのとき、脳の奥の(特定されていませんがたぶん)扁桃体にある特有な命を感知する神経回路が活動している。それは、生き物が生き物でなくなる瞬間の視覚情報などが、自分自身の警戒状態を作り出す神経回路に共鳴するからでしょう。その回路の活動信号が知覚されて、命が存在する、あるいは命が消えていく、と感じられる。
このような人間の脳の反応が、「死」、つまり「命が消えるということ」の物質的な意味です。人類の祖先が原始的な哺乳類だった頃からある脳の古い神経回路が、目の前の生き物の生き死にを検知して、不穏な感情反応を発生する。つまり特有の警戒信号を発信するのですね。感情に関与する視床、扁桃体など脳の辺縁系の活動信号は、自律神経系には直接働きますが、大脳新皮質の意識に直接は上らない。意識的には、自律神経系の反応などを介して、身体の中で漠然と不穏な感情が動くことが分かるだけです。そのとき私たちは、目の前の生き物が不意に動かなくなることを見て、同時に自分の身体が怯えているような感覚を感じる。そのとき、私たちは、目の前のその命が消えていく、と感じる。
主観的な言い方をすれば、生きている物を見るとき自分の中で何かある感情が動くと感じる。これは脊椎動物に共通な神経系の反射です。これが命の存在感、生命の神秘の正体です。こうして、人間は、この世の中には命がある、という感覚、というか理論、つまりいわば、命の理論、を身につける。
命はなぜあるのか、これがその答えです。
その命ある物のように見えるものが、本当に生き物かどうかは関係ない。生き物らしく見えれば、それで十分です。そういうものの動きに反応して、人間の脳は、命をはっきりと感じるようになっている。命に関しては、それ以外に、特に神秘的なものはない。あとは、連想という脳内のシミュレーション機構が、命という言葉が関係するいろいろな状況に対応して働くことで、命に関する人間のいろいろな反応が起こってくるだけです。脳内のシミュレーション機構は、連想によって、生き物を検知したときと同じような擬似信号を作り出し、それを命の存在感を発生する神経回路に送り込む。
いずれの場合も、命の存在感を感知するその神経回路は、辺縁系など無意識の古い脳にあるので、大脳新皮質の意識にはその活動信号がはっきりと伝わらない。命という言葉を考えたときに、意識的には、漠然とした神秘感が感じられるだけなのはそのためでしょう。そういう事情から、大脳新皮質を使う情報計算処理に頼る科学としては、なぜ命が大事なのか、実は理解できないはずです。
私たちが直感で感じる「命」は、物質としては存在しない。命を感じる神経機構が、人間の脳の奥深くに存在するだけです。つまり命があるように感じられるものには、命がある。
それを敏感に感じるように、人間の脳は作られている。命あるものを命あると感じ、その動きを自分の脳の奥深く取り込んで感情とともに感じ取り、次にそれがどう動いて、自分の運動にどう影響を及ぼすのか、感情とともに予測する。そういう機能が、人間の脳には古くからある。命が動くところを見ると、人間は必ず心が揺すぶられる。動眼神経が働いて視線がひきつけられ、それを注目してしまう。自律神経が興奮し、心臓がどきどきし、顔や手足の運動神経が自然に動いてしまう。人間はそう作られている。この仕組みによって、人類の祖先は、自然の環境を生き抜いてきた。命あるものは、命がないものに比べて、人間の生活にとって格段に大事なものです。それに敏感でなくては、人間は生きていけない。
目の前のその命が生きていることは、それを見ている自分の感情が動くことで分かる。人間がそれを感知してすばやく対応できるように、脳のこの感知機構はできている。それが、生きていること、つまり命、ということの意味です。命の意味は、それしかない。それは生物学を勉強して分かるものではない。言葉で言われて分かるものではありません。目でそれを見ると、自分の感情が動き、同時に身体が、無意識に自然に動いていく。それでその物に命があると分かる。
死ぬこと。生きていることが止まること。それも、それを見ている私たちの身体が直感で感じることです。それが死といわれるものです。生き物の命、生と死、そういうものは客観的物質世界の中にはない。概念で捉えて考えたり、言葉で言い表して理解したり、科学の対象として分析したりするものではなくて、無意識にただ感じるだけのものです。
それは観察されるものの中にあるのではなくて、観察者の無意識の感情の中にしかない。観察者としての人間はそれを感じ、感情を揺すぶられることから逃れられない。それが命。それを感じるものが人間です。
「命が一番大事って、どういうこと?」
小学生にこう聞かれて、大人は答えられない。
「なぜ人を殺してはいけないの?」
小学生のこういう質問に、安易に答えてはいけません。「命は一番大事なものだからだよ」などと答えると、かしこい子供は、「命が一番大事って、どういうこと? だれがいつ、決めたの?」と来る。そうなったら、大人に勝ち目はありません。
小学生はこういう質問を持ち出して、大人が困るのを楽しみたい、という気持ちもあるでしょう。もちろん大人は答えられない。これは哲学的な質問だからです。つまり、答がない。なぜなら、それを言葉で質問することが間違いだからです。しかし、小学生に向かって、哲学はなぜ間違えるのか(筆者の持論;既出)を語り始めるのも大人気ない。まあ、筆者なら愚問をもって愚問を制する戦略で応戦する。つまり「じゃあ、なぜ君はパンツをはいているの?なぜパンツを脱いで全裸で道路を歩いてはいけないの?」とか、「なぜ、道路でうんこしてはいけないの?」などと聞き返す作戦を取りますね。もっとも、古代ギリシアのある哲学者は、公共の劇場でうんこすることで、犬のように生きることを理想とする哲学を教えたといいますから、うんこも哲学的とは言える。
閑話休題、小学生対策はさておき、話を戻しましょう。
ふつう私たちはどう思っているか。人は死ぬ。人が死ぬと命はなくなる。赤ん坊が生まれると、それは新しく命を作り出す。人の命は流れの中の泡のように現れ消えていく。生まれ、育ち、子を産み育てて、死んでいく。親から子へ綿々と受け継がれるものとしての命。そういう命の流れの存在を感じ、神秘と感じ、大事に守ってきたのが人類です。
そういう命が自分の身体の中にもある。自分はいつか死んでしまうだろうけれども、それまでの間、ずっと自分のものとして命は、ある。そういう考えを、人は持つようになった。
しかし、もう一度考えてみましょう。私たちはなぜ、命は一番大事なものだと思っているのか。「自分の命」と話し手が言うとき、もともとの言葉の働きとしては、それは聞き手が感じる話し手の人体の外見的な動き(息をしているとか)に対応するものを指している。もともとこの言葉は、それしか表わしていない。それは聞き手の無意識な脳の機構の活動としてある。話し手は「自分の命」と言うことで、聞き手の脳内のその活動を期待する。もともとはそういう単純なことです。話し手の中に、なにか立派な神秘的なものがあるわけではありません。独り言で言うときも、日記に書くときも、哲学論文に書くときも、同じ。話し手(または書き手)は、聞き手を想像して、聞き手が見ているはずの、物質としての話し手の身体の状態を言っているだけのことです。
つまり、私の命は、実は私の中にはない。それを思っている他の人間の中にある。それを思っている他の人間の中の私の中にある、と私が思うものなのです。
胸に手を当てて、心臓の鼓動を感じながら、深く考えて見ましょう。心臓は脈動しているけれども、エアコンのモータだって回転し続けている。私には命があって、エアコンにはないのか? 自分の命って何だ? 他人に命があることはよく分かる。でも、自分に命があるかどうか、自分が生きているのかどうか、目をつぶって、正直に言えば、よく分からないでしょう? 自分の命、それは自分の外観が他人から見てどう見えるか、他人の視線を感じることから想像して自分の姿を思い描いているところから来る錯覚に過ぎない。頭に手を当てて思い出してみましょう。ずっと幼いころ、だれかに教えられて、自分は生きているんだ、と思うようになったのではないですか。思い出せないでしょうけれど、それはだれかに繰り返し教えられて、そう思うようになった、という気がしませんか? だから、自分が生きている、ということは、(他人にとっては事実でしょうが)自分にとっては錯覚かもしれない。素直にいえば、それはまったく錯覚のように思えますね。実際、それは存在しない錯覚のことではないでしょうか。
世の中で自分の命が一番大事、と思い込んでいる人がたくさんいますが、それは存在しない神様を拝んでいる素朴な信者と変わらないのではないでしょうか。その神様に誉められたくて善行をすれば、社会はうまく動いていく。実用上は、それはとても役に立つ。しかし実のところ、自分の命というものは、すくなくとも自分にとっては存在しない、と言うほうが、理屈としてはもっとも正しい。つまり、自分にとっては、他人の命があるだけです。私の命は、私の目に見える物質としての私の身体の中にはないけれども、私の身体を見ている他人の身体(脳)の中にある。私にとっては、仲間の人間のだれもがそれがあると感じていると感じられるから、それはある
目に見える物質ではないけれども、だれの脳の中にも物質の感知よりもずっと深いところにある錯覚の存在感として、生き物の命というものはある。そういうものは、人間にとって、目に見える物質よりもずっと大事なものです。
だから人の命は、どの物質よりも大事なものなのです。
(7 命はなぜあるのか end)
→(8 心はなぜあるのか? )
生命は命の物質的表現と言えるでしょう。
従って生命は命を失えば、生命でなくなるのです。