哲学の科学

science of philosophy

心はなぜあるのか(3)

2007-08-04 | 8心はなぜあるのか

 本題に戻ります。さて、心とは、人体のどこにあるのか?

人間の脳を最新の科学でいくら詳しく観察しても、たとえ電子顕微鏡を使って脳細胞をひとつひとつ解剖しても、「心」にあたる器官は見つからない。それは観察される人間の中にはなくて、観察者の中にあるからです。人の心は、その人の脳の中にではなく、その人の動きを外から見ている観察者の脳内の運動形成神経回路の共鳴現象としてある。つまりその人を見て、そこに心があるように感じられるとき、そのときだけ、そこに心はある。

 人間は他人を観察するとき、自分の脳の中で運動共鳴によって生じる運動形成回路の活性化を感じ、それをその人間の心と捕える錯覚を作る。次に、その他人の心に映っているはずだと感じられる自分の肉体と心という錯覚との共鳴を感じる。私たちは、そういう脳内の錯覚の相互交差に、常時注意を集中して生きている。

 しかしながら、一個の人体の中に一個の心が入っている個人というような人間像は、現代人にとっての常識ですが、それは錯覚です。実際は、そういうものはこの世に存在しない。それは原始人の素朴な錯覚に始まり、それを古来の宗教や哲学、さらには近代現代の社会科学が権威付けて、現代人にまで定着させた幻影です。

あたりまえのことですが、この世には、私自身の身体も脳も含めて、単なる物質としての人体がある。間違いなく、あるように見えます。これらは、だれの目にも見えて、手で触れますから、明らかに物質なのでしょう。しかし、そのようにだれの目にも見えて手で触れるものは、物質として感じられる人体の表面だけです。身体の内部は、どうなっているのか、服を着た身体の表面しか、私たちの目には見えない。服を脱がして裸にすることはできますが、皮膚を破って体内を覗くことはできない。まあ、外科医が手術するときは、それもできるでしょうが、生きている脳を解剖して個々の神経細胞の働きを全部調べることは不可能ですね。もし、仮にそれができたとしても、何が分かるのか? 目で見える物質としての神経細胞の物質変化しか分からない。つまり、どこまでがんばっても、人間について私たちは、物質としての構造しか知ることはできない。いわゆる、その人の内面、つまり心、といわれているものは、目で見ることはできないのです。

さて、ふつうのエッセイならば、こう書いてきた場合、ここで簡単に、目に見えない人間存在の神秘、というような言葉を使ってきれいにまとめて終わればよいわけです。ところが拙稿では、徹底懐疑の姿勢を貫くことにしていますから、ここでも「この世に神秘などはない」などと不遜なせりふを吐きつつ、さらに先へ進みましょう。

まあ、世間常識では、一個の心を内蔵する個人という存在は、尊厳に満ちた特別に神秘的なものだと思われている。このことについても、拙稿のとる見解を述べるとすれば、ちょっと違うことになる。人体という物質を見るとき、私たちの感受性がそれをそういうふうに感じるというだけの錯覚だ、ということになる。人体も脳も、当然のことながら、ただの物質です。この物質世界の中で特に変わった物質ではない。まあ、こういう見解は、拙稿が改めて主張するまでもなく、いつでもどこでも、しばしば表明される見解でしょう。研究対象である人体に対する医学者の態度は、まさに、これです。医学者に限らず科学者は、自分の研究対象に関する限り、このような物質主義を当然と考えている。一方、まわりの人々の心を感じ取ることで毎日を生き抜いていくふつうの人々は、人間を単なる物質などとは、片時も思うわけはない。ときたま、科学者の物質主義的な発言を聞くと、「科学者というのは冷たい人間たちだなあ。しかし科学を進歩させてもらうためには仕方ないかな」と思う。つまり、科学者や哲学者ではない一般の人も、物質主義的な考えについて、頭ではよく分かっているのです。

科学の時代になった現代では、人間についてのこういう物質主義的な見方はごくあたりまえに感じられますが、百年ちょっと前には、こういうような考えを持ったのはもっとも先鋭的な哲学者だけでした。「人間とは身体だけの存在なのだ、私とはこの身体であり、それ以外のなにものでもない」という主張が近代哲学の古典として書き残されている(一八八三年 フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラはかく語りき』)

心が錯覚であるとすれば、私の心、つまり、私が私だと思っている存在感、も私(の脳)が感じる錯覚に過ぎないということになる。拙稿の見解では、私という存在も現代人(西洋の近代人も含む)特有の感受性がつくる脳内の錯覚であり、この世に現実にあるものではない(この問題は拙稿第12章で詳述予定)。

 A君の身体の内部にきちんと入っている、というようなA君の心は(拙稿の見解では)存在しない。A君の心は、A君を見ているB君の脳の運動形成回路の共鳴活動として存在する。同時にC君もA君を見ている場合、C君の脳の運動形成回路の共鳴活動としてもA君の心は存在する。だれに見られているかで、A君の心は違ってくるでしょう。大体似ているでしょうが、ちょっと違う。それはしかたのないことです。人間の心というものは、その人間を見ている他人が感じる錯覚の中にしか存在しないのですから。

 相手の人間の声の出し方、目の動き、表情、手つき、動作から私たちの目や耳に入る信号。それらが脳の中で記憶と混ぜ合わされ、変換されて、私たちの脳の中に相手の「心」が作られる。その過程で、自分の経験が自動的に重なる。だから、男は子宮の感覚を語る女の心は分からない。子供は親の心が分からない。子を持って知る親の情けかな、となるわけです。

 (拙稿の見解によれば)他人の心は自分の心よりもさきに分かる。幼児が幼稚園児になるころ、他人の心のイメージを自分の脳の中に作って、それからその他人の心に映っている自分の心を作ることができたのです。それで自分は何をすれば良いか、自分が自分に何を期待しているのか、自分は何を考えているのか、分かってくる。だから、私たちは、人と交わって他人の心を感じなければ、自分の心というものもなくなってしまう。

 初めて会った人でも、その人の顔を見たり、動作を見たり、しゃべり方を聞けば、どんな人かという印象が作れる。人はそれぞれ違うと思える。その違いを個性というのか、人格というか、キャラクターというか。その人の内面がすぐ分かるような気がする。目と耳でその人の外見を見たり聞いたりしただけで、内面が分かるような気がする。心がどういうように動く人か分かると感じる。しかし、実際、脳の中身が見えるはずはない。他人について分かる情報は外見だけです。それでも私たちは他人を理解してしまう。コンピュータとカメラとマイクを搭載したロボットにこれをやらせようとしても、現在の工学技術ではとても無理です。

私たち人間の脳には生まれつき、ドラマを感じ取る神経機構が備わっているようです。これを、拙稿では仮に、ドラマ神経回路ということにしましょう。この回路は、自分の目の前で展開する人間ドラマを、観客のようになって見るという働きをする。自分は観客だから、ドラマの外の観客席にいてドラマの筋には関係していない。そこで次に、自分の人体というものをそのドラマの中においてみる。登場人物に扮するわけですね。それに適当な役柄を持たせて、ドラマに参加させる。しかし本当の自分は、ドラマの中の人物たちのだれにも知られずに、外側の暗い観客席に座って、静かにドラマを見ている。こういう形で、私たちは、いわば、人生の観客と俳優という一人二役をしている。ちょっと複雑ですね。しかし、私たちの頭の中は、こんな具合になっているのではないでしょうか? 世界をこういうふうにとらえるドラマ神経回路は、人間のだれにでも備わっているようです。

逆に言えば、私たちが楽しむ映画、演劇、マンガなどドラマの類は、人間のこのドラマ神経回路に強く働きかけるから、古代から現代まで何度も繰り返し発明され、人間社会の中で、これほど普及している。テレビ、映画、演劇、マンガ、小説、歌舞伎など、どれほどのドラマを人間は作り出し享受しているでしょうか? こういうものは、生活の役には立たない、と言ってしまえば、その通りです。しかし、これほど、人々に求められているものが、本当に役に立たないものなのでしょうか? 人間の脳にドラマ神経回路は間違いなくある。貴重な身体資源を裂いて役に立たない神経回路を作る遺伝子が現代人の身体の中に伝わってきているはずがない。かつて、人類は、このドラマ神経回路を持ったために、おおいに生存繁殖がしやすくなったはずです。

このドラマ神経回路が、どれだけ大きなメモリ容量を利用できるとしても、私の狭い脳の中に、何百人もの心が全部入っているという考えはちょっと無理そうです。パターン認識工学の常識からすると、いくつかの特徴要素を組み合わせて数多いパターンを識別しているはずです。たとえば、顔の表情の特徴を四種類に分けて覚える。同じようにしゃべり方を四種類に分け、手の動かし方を四種類に分け、視線の動き方を四種類に分ける。これだけで二百五十六人のキャラクターが識別できる。

たぶん脳は何十種類かの感情回路が相手の見かけのある特徴に反応して、それぞれの信号を出すのでしょう。そうすれば脳内にひとつだけ人間のモデルを作っておいてそれを特徴にしたがって変形すれば、何百人ものキャラクターを識別できる。人間は、そのうちの一人のキャラクターを自分の性格だと思って特に注目している。しかしもともと、人間はだれもがだれでもあり得る。あらゆる役柄を創造し、それを見分ける能力を持ったドラマの作者でもあり、観客でもある。つまり人間は互いに、周囲に見かけるすべての人間を自分の中で作り出している。

それでも他人の内面は本当のところ分からない。他人も、その内面の人格は、自分と同じように舞台からは見えない外側の暗い観客席に座っているのだろうと想像できる。観客どうしは同じドラマを見ているのかどうかも分らない。とても完全な相互理解はできない。私たちは目と耳で他人の言動や表情を見聞きして 漠然とその内面を想像できるだけです。もともと見聞きできるわずかの情報をヒントにして自分の脳内でイージーオーダーのように型を当てはめて作りだした人物イメージが、私たちがそれだと思っている他人の心です。それはその人の真実の姿なのか? そもそも人間の真実の姿などというものはあるのか? あやしい話です。

初めて会う他人に対すると、その人は目に見える顔やその身体そのものというよりも、実は、こちらからは目で見えないその脳の奥の、深い真っ暗なところに静かに座っていて、黙ってこちらをじっと見ているのかもしれない、という気がしませんか? 見ず知らずの他人というのは、そんな感じがして、顔はにこやかに笑っていたとしても、すぐには親しみが持てないものでしょう。会話を始めて、さらに冗談を言い合って、あはは、と笑いあうと、やっと心が通じるような気がする。だがそれも、笑い顔は、まだちょっと緊張しているように見える。向こうも、こちらが感じていると同じようにぎこちなさを感じているらしい、と想像できる。だから、にこやかに笑っているのも、演技ではないかと疑ってしまえば疑えないこともない。そういうことですから、人間どうしは、なかなか相互理解はむずかしい。親しい人と見ず知らずの人とは、きちんと区別してその心を感じるように、私たちの脳神経系はできているようです。そういう脳神経系の仕組みが、原始時代の人々の間では、生存繁殖の成功率をあげたのでしょう。

人間どうしが相互理解するには、言葉が不可欠と思われる。また逆に、相互理解がなければ、言葉は使えないでしょう。しかし、私たちが実際に使っている言語は、不完全な錯覚を組み合わせたあやしげな影のようなものです。その言語を使って行われる人間の会話は、すれ違う錯覚のずれをさらに新しい錯覚で補いながら進められている。人間には、直接他人の心は分からない。その分、自分の心も分かりません。それでも、なんとなくは分かるような気がする。しかしそれは錯覚です。そう錯覚する働きが人間の脳には備わっている。それで人間は互いに相互理解できると思い、結果的に仲良くなれるし、互いに仲良くならなくては生きていけない社会をつくった。そういう人間たちが集まって集団として協力できるようになり、現在あるように上手に生きている。それが、人類という動物が脳の新しい仕組みとして進化させた、心(という錯覚にもとづく理論)の、生物学的な役割だといえる。

この物質世界に、物質ではないものは存在できない。つまり、心は存在しない。人間の脳の奥にあるように思える、私たちにはどうしても分かりきれない気がする神秘的な、心、というものは、存在感だけがあって、実は存在しない錯覚というべきものでしょう。

脳の中心にあって、物事を感じ、脳の中から指令を出して身体を動かしている心、という考えは、だれもが常識と思い込んでいるものですが、それは人間だれもが共有している錯覚だというしかない。人体という物質は、ただの物質であって、ただ物質の法則にしたがって変化していく。それを心という神秘的な存在の働きだと見ることは錯覚です。そういうものが確かにあるかように錯覚する能力が、人類には備わっている。それは進化の結果、獲得したすばらしい能力です。その錯覚を作る能力が、言語を作り出し、社会を成り立たせ、人類の大繁栄を実現した。だから今生きている私たちは、はっきりとお互いの心を感じることができる。

心はなぜあるのか、これがその答えです。

人の心というものは、その人を観察する観察者の脳の中に発生する錯覚を組み合わせて作られた、人間が社会を形成するための便利な道具です。そしてそれは、私たち人類がこの世を生き抜いていくために、もっとも大事な道具なのです。

8 心はなぜあるのか end

9  意識はなぜあるのか? 

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心はなぜあるのか(2)

2007-07-28 | 8心はなぜあるのか

どうも、心の存在というものは、常識で素直に思い込んでいるよりもずっと、実は、はっきりしないものだ、というふうに思えてくるでしょう? それが、筆者の言いたいところなのです。心はあるように思えてもない、ということです。そこで次には、常識から見て逆のほうに振ってみましょう。今度は、心はないように思えてもある、ということです。ふつう心を持っていない、と思われている木石や水や気象現象など(非生物)が、ある種の心を持っているのではないか、という話をしましょう。

私たちが、動物以外の物の存在感を感じるときも、(拙稿の見解では)それが存在することが自分の身体の動きであるかのように感じることで、その存在を意識できる。つまり、自分の身体を動かす運動回路が、物の存在に共鳴して仮想運動を引き起こす。そのとき私たちは、それをその対象の存在感と感じる。たとえば、すっくと立つ大木。満々と水をたたえる池。踊り狂う激流。荒れ狂う嵐。容赦ない日差し。というような文学的な擬人法の表現がある。対象が非生物(正確には非動物)であっても、それに注意を向けるとき、私たちはそれを人体の運動として認識している。それは対象物を見ることで、私たちの脳内に、自分の身体に運動指令を出す場合の神経活動と同じ仕組みで起こる仮想運動が引き起こされる。その神経活動によって、私たちはその対象物を認識できる。それが、(拙稿の見解では)人間の言語の基底をつくっている。古来の擬人法は、仮想運動から言語が発生してくる、その根源的な仕組みをうまく表現しているのでしょう。

ちなみに、「擬人法」という言葉の形に引っ張られると、その本質を見失いますので、注意が必要です。擬人法を使うとき、話し手は人に擬して物事を表現している、と国語の先生は言う。しかし、この説明は本当でしょうか? 人でないものを人に見立てて言い方を考えようとするよりも前に、話し手の頭の中では、その物事がまるで人が動くようにいきいきと動き回っているのではないでしょうか? 

話し手は、人間でないものを面白く言い表すために、無理やり人間とみなして表現するのでしょうか? それは違うでしょう。むしろ、物事は、まず、人であろうとなかろうと、何であっても、それを見つめる人間にとっては、最初から人のように動いている。つまり、擬人法を使うときの話し方のほうが、使わないときの話し方よりも原初的だといえる。

話し手の脳内では、(拙稿の見解では)まず、注意を向けている何者かの動きの存在感が発生する。脳内で、それに共鳴する仮想運動が自動的に発生することで、その動きの存在感が発生する。はじめに存在があって、それから動きが出てくるわけではありません。まず、私たちの身体がつられて動き出してしまいそうになるような動きが感知されて、そこから、その動きを生み出す物の存在感が引き起こされる。仮想運動が引き起こされて、それでそのものが存在してくる、という順番になっている。その仮想運動が言葉を形成させる。それでセンテンスができてくる。仮想運動を誘発する外界のその動きが、実際の人間でない自然物であるとか人工物である場合に、対象が人間かどうかの理論にこだわった現代人が、それを擬人法と呼ぶようになったというだけなのでしょう。この見解が正しいとすれば、かつて、原初の言語が発生してきた太古の時代には、注目対象が実際の人間ではなくても、すべてのものはまず「心」のようなものを持っていたはずです。

面白いのは、擬人法を使われる対象が、人間個人ではなくて、人間の集団の場合です。「クラスのみんな」、「XX村」、「XX株式会社」、「暴力団XX組」、「XX県警」、「日本政府」、「世間」、「欧米人たち」などなど、世間話やマスコミなどの言葉で重要な主語になるものはほとんど、個人より人間集団です。その人間集団が、どうだこうだ、と言うとき、話し手の脳内では集団の群行動が引き起こす仮想運動が起こり、それが言葉を作り、聞き手の脳内の群行動としての仮想運動を誘発する。これも集団を個人のように表現する、擬人法の一種といえるでしょう。しかし、注意が必要なことは、これらの場合こそ、個人を主語にするときよりもさらに、人間にとって原初的な仮想運動の形成がなされているということです。仲間の空気を読む、といわれるような脳の機能です。

直感的に集団の動きを自分の仮想運動を使って読み取る。この仕組みは、言語の発生以前からあった、たぶん、霊長類に共通の古い脳機構です。私たちは、注目する集団の集合的意図や集合的感情、つまりその集団の集合的な「心」のようなものを感じ取って、かなり感情的にそれに反応する。相手は個人ではないのに、その集団全体の意図や感情を感じ取って。それをひどく恐れたり憎んだり期待したりする。これは私たちの身体が深いところで、そう作られているということでしょう。他者個人や自己という認識が作られる以前にあった仲間(群集団)の集団的運動をひとかたまりのイメージとして無意識に感知する機構です。それは古く、たぶん霊長類共通の祖先のころからある脳の機構のようです。人類の遠い祖先の時代、それは生存繁殖に重要な機能だったと思われます。これが、事物の主観的な存在感を発生し、私たちの感情と認識を発生する脳機構なのでしょう。

ちなみに現代哲学では、共感やシミュレーションによる他者解釈の理論がつくられていますが、それらの根底は、まず自己があって、その自己の心的状態の観取により他者が現れる、というものなど(一九八九年 アルヴィン・ゴールドマン『心理解釈』)です。拙稿が述べるような、他者や自己の成立以前に群集団の運動への無意識による共鳴があり、それによって引き起こされる脳内の仮想運動が(他者と自己の認知に先立って)存在認知の根底にある、という見解を取る理論はいまのところ(拙稿以外には)提起されていないようです。

 赤ちゃんが幼児にまで成長すると、自分が他人の内部に入ったように、相手の身体の動きを想像することができるようになる。他人に取り付くと言う意味で、拙稿では、この脳機能を「憑依」という。

幼児は三、四歳くらいから、こういう「憑依」の能力を獲得する。そしてすぐ上達して相手の運動の予測がだいたい成功するようになる。その成功経験から、仲間の人間が動く仕組みを予測するモデルとして自分の脳の内部に作り出したシミュレーションが、人の「心」なのです。

そうなると、人間の姿を見たとたん、自動的にその心を感じるようになる。この人はこれから何をしようとしているのか、予測できる。生きた人間の顔を見ると、その心の存在感が何よりも強く感じられる。特に、声の調子や目や手の表情で心が感じられる。これは無意識に自動的に感じるので、相当、意識して感じないようにしないと、相手をただの物質とは思えない。ちなみに、生きている人間の身体を物質としか見えない感受性を無理やり訓練したプロフェッショナルが、外科医とか、殺し屋でしょう。

 幼児の脳がさらに発達すると、自分自身も周りの人間と同じような一人の人間だと思うようになる。このことに関して、拙稿の見解を、少々詳しく述べておきましょう。(拙稿の見解では)幼児は脳内でまず他人に憑依し、次にその他人から見える他人であるところの自分の身体、に再帰的に憑依することで自分という模型を作る。この過程で、はじめから自分は他人の一種として作られる。つまり周りの他人とまったく同じ内部構造をもっているはずの一人の人間、として自分のイメージが作られる。

そこで自分も他の人間と同様に「心」を持っていて、それで考えて行動しているはずだと感じるようになる(自分という模型については第12章で詳しく述べる予定)。

子供の発達心理に関する、ふつうの常識では、幼児が成長して他人の心理を理解できるようになるには、その前に自分というものを認識して、その自分自身の心理というものを理解できているはすだ、と考えられますね。しかし、(拙稿の見解では)それは間違いです。現代一般に普及している心理学理論ではこの間違いはきちんと整理されていないようですが、幼児の知的能力に関する多くの実験観察からの知見(一九九五年 P・ハリス『シミュレーションから常識心理学へ』など)によると、拙稿の見解が正しいと思われます。つまり、人間の幼児は、他人というものを認識する前に自分を認識することはなく、三歳から四歳の年齢で、他人の認識と同時に自分の認識ができるようになる。

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心はなぜあるのか(1)

2007-07-21 | 8心はなぜあるのか

8  心はなぜあるのか?

 心。

「あの人の本当の心が分からない!」、少女は空を仰いでつぶやく。

「私の心は沈んでいく」、男は両手で頭を抱える。

ドラマでいつも聞くセリフです。

 心、という言葉を使わなければ、ドラマも小説もマンガも作れません。実際、私たちが話し合いたいと思うような大事な話はひとつもできません。人間が興味を持つ、人の感情を揺さぶるような話は、必ず心に関する話です。心こそ、人間にとって一番大事なものだと思えます。

しかしこの心、というものを改めてしっかり見つめようとすると、実は目に見えないし、手で触ることもできません。だから(すべての存在を疑うことにしている拙稿としては、この際仮にですが)もしかしたら心というものは存在しないのかもしれない、と疑ってみましょう。

 その場合、心というものは、それがないのにあるかのように脳で感じられる錯覚だ、ということになります。では、心というものはそういう錯覚である、と仮定して、人間の脳にはなぜそのような現象が生じるのでしょうか? 科学的に考えてみましょう。

 目の前にいる人を観察すると、心を持っているとしか思えない。その人が何を考えて手足や視線を動かしているのか、よく分かる。あたりまえですね。さらに、その人と会話をすれば、これはもう、心のないロボットが出す音波振動を聞いている、などと思い込むことは絶対にできない。

 生きている人間は、疑いようもなく、みな心を持っているように見える。逆に言えば、心を持っているように見えるものを人間と呼ぶ、といってもよいくらいです。

この世には、自分という人間と自分以外のたくさんの人間がいて、それぞれの人間はみな、その身体の中にそれぞれの心を持っている。その心が働いてお互いに気持ちを伝え合い、会話をすることができる。こういうふうにこの世はできている。それがあたりまえだ、と私たちは思っている。

死んだら心はどうなってしまうのか不思議ですが、心は消えないのではないか、とも思える。そこで、人間は霊魂というものを考え出した。死んだら霊魂はあの世へいく。あの世って何だ? まあ、そっちの話へ進むとますます謎は深まっていきますね。

また、改めて考えてみると、物質である脳のどこに心がしまってあるのか不思議ですが、心は脳のどこかにあるらしい、という気がする。たいていの人は、ふつうそう思っています。心と脳はどういう関係なの? こういう発想から最近数十年、心脳問題(心の哲学)という哲学が提起され、さかんに議論されています。これは昔から、精神と物質の心身二元論とも呼ばれていた古典的な近代哲学の問題の現代版です。現代哲学や認知科学ハードプロブレムと呼ばれる問題もこの類です。哲学者に科学者も加わって、真剣にむずかしい議論が戦わされています(たとえば一九九五年  デイヴィッド・チャーマーズ 『意識の問題に取り組む』、一九八〇年 ジョン・サール『心、脳、そしてプログラム』などすでに古典)。

そういう哲学的な謎の中心である心。それが結局は存在しない。錯覚に過ぎない。そうだとしたら、すごい錯覚です。もしそうならば、私の心に映っている目の前のこの物質世界も存在しないことになってしまいそうですね。怖い話です。

まあ、でも、怖いもの知らずの拙稿としては、そういう仮説でどんどん進んでみましょう。

 なぜ私たちは、生きている人体に心が入っていると感じるのか。

 石ころや机には心は入っていませんね。このパソコンにも入っていないらしい。人体という物質だけが、なぜ石ころや机やパソコンと違って特別に心を持っていると、私たちは感じるのか? ただの物質の中に、なぜ心があるという錯覚を感じるのでしょうか?

 だれかに教えられたからでしょうか? いや人間は生まれつき、仲間の人間を見ると、それが心を持っているように感じる感覚を持っているらしい。生まれつき脳の中に、そういう機構があるようです。

 人間は、相手の人間が身体を動かしたり声を出したりすると、まるで自分自身がそういう動きをしたり声を出したりしているように感じることができる。

つまり人間の脳の運動形成神経回路は、他の人間の身体の動きを見ると、(拙稿の見解では)それに共鳴して同じような運動信号を脳の内部で発生する。こうすることで相手の身体の動きを感じ取り、次に相手がどういう運動をするか、無意識のうちに予測している。これは人間どうしが協力したり、戦ったりする場合に不可欠な能力です。

人間の脳の運動形成神経回路は、実際に自分の筋肉を動かすばかりでなく、たぶんその何十倍の計算量で、瞬間瞬間の(目に触れる、あるいは想像している)他人の運動を予測計算している。もちろん、次の瞬間の自分の運動計画もそれに連動して、猛烈な速度で計算しているのでしょう。

(拙稿の見解では)この「運動共鳴(拙稿の造語)」によって、人間は他人の脳内で作られている運動のシミュレーションを自分の運動形成回路で(無意識のうちに)読み取ることができる。自分の脳の運動形成回路の上に作られる他人のその内部運動シミュレーションによる錯覚を、人間は他人の「心」と思っている。

人間は生きている人体を見ると、いつもその中にある「心」を意識する。その人体の中に入っている心がこちらに注意を向けているかどうか、こちらの合図や話しかけに応答するかどうか、関心がその目に見えない「心の動き」に集中してしまう。

周りの人間に対しての、こういう感じ方と動きをしながら、私たちは毎日生きていく。それで人生はうまくいく。目に直接見えない他人の心を、その人体の見かけの動作と音声だけを頼りにいつも読み取りながら、その人の行動を予測し、そして時には自分自身の心も読みながら、自分の行動を決めていく。こういうことが、自分にとって、今のこの瞬間では最も重要な仕事だ、と人間は無意識に思っている。まさに人間どうしのその心の動き、という錯覚の検知と操作が、社会生活において、私たちの関心のほとんどを占めている。

その際、相手が本当に人間であるかどうかは、問題ではない。見かけが人間のように見えて人間のように動くものには、私たちは心を感じる。人間らしい動きに誘発される私たち観察者の脳神経系の自動的な運動共鳴によって、運動形成回路は動いてしまう。だから人間は、アニメーションを見て、泣いたり笑ったりすることができる。猿がアニメを見て泣いたり笑ったりするのは、ちょっと無理なようですね。

 人類の脳の運動シミュレーション機能は(拙稿の見解では)、身体を動かすことなく脳の中だけで仮想的な運動信号を発生できるように進化した、と考えられる。この仮想運動の能力は、もともとは自分の運動の準備のためのシミュレーションをするために進化したと思われますが、それが他人の運動を予想するためにも使われるようになったのでしょう。他人の身体の動き方を見ることで、その人の運動の連続的な実行を予想できる。これによって他人の心を読む。つまりその人がこれからするであろう行動を予想する。脳のこの働きの進化は、原始人類の生活能力を飛躍的に向上させることになった、と考えられる。

仲間の人間の動き方を見ることでその身体運動に共鳴する脳の仕組みは(拙稿の見解では)、赤ちゃんの頃から発達してくる。生まれつき身についている機能と学習の相互作用でしょう。赤ちゃんは、何よりも近くに寄ってくる人間(ふつうママですが)の動きを、自分の運動形成神経回路で写し取る。それで(拙稿の見解では)、相手の動きに自分の仮想運動を共鳴させる仕組みを獲得する。

動く人間の存在感を感じる感覚は、動かない物質の存在感を感じる感覚とは脳内で働く仕組みが違っているらしく、赤ちゃんは前者を早く獲得するようです。だから人間にとって一番存在感が強いものは仲間の人間であり、次に動物など動くもの、最後に動物でないものたち、食べ物、道具、役立たないガラクタなどという順番になる。動くものが目など感覚器官に信号を発生すると、(拙稿の見解では)人間は無意識に感情回路が動いて不安、興味などの感情を引き起こす。それに続いて意識的に、その物が何でどうなっているかを感じる。このときは自分の脳の運動形成神経回路が対象物の動きに共鳴して自動的に仮想運動を起こす仕組みを使っているらしい。

つまり私たちが、意識的に、他の人間あるいは動物の存在を感じるときは、(拙稿の見解では)その動きを自分の運動形成神経回路の共鳴によって写し取って、自分の動きのように感じる。さらにその人間あるいは動物の、これからの動きを自動的に予測する。つまり無意識のうちに、その観察対象に乗り移って自分が運動しているように感じる。その予測できた運動を自分の脳内の運動回路で感じて、その人間あるいは動物の心、という錯覚を脳内に作る。

さらに対象が人間の場合、私たちは、仲間の人間の動きを他の動物とは区別して、強烈な存在感をともなって感じる。つまり、人間の脳は、そこに人間が存在するという知覚に特異に反応する。

仲間の存在にするどく反応する。これは、人類だけの能力ではなく哺乳類の脳に共通の機能です。動物が同種の仲間を識別する仕組みでしょう。もともと夜行性の哺乳類には匂いが重要な情報だったと考えられます。夜行性から昼行性になった霊長類では、視覚が発達し、嗅覚の役割を果たすように置き換わっている。霊長類の脳では、視覚情報を変換した信号が古い嗅覚情報処理回路に流れ込むように改良されているらしい。たとえば、目で人間の姿を見ることで、それが仲間だと感じさせる強烈な臭いの信号が脳内(の臭い情報処理回路)に立ち現われてくるような配線になっている。それで、人間は、目の前の人間の存在を他のどの物質よりも強烈に感じる。その上、人間は仲間のする運動をみると自分の運動形成回路が共鳴する機構を持っている。それで他人の運動形成が分かる。これからその人がどう動こうとしているか、分かる。その神経機構が(拙稿の見解では)、心を感じさせる基底になっている。こうして、人間は、仲間の人間の内部に心がある、という感覚、というか理論、つまりいわゆる、心の理論、を身につける。

人間の脳のこの仕組みによって、心というものがこの世界にある。

このような脳の無意識な運動共鳴が働くことを感じて、私たちは、すべての人間は身体の中に心という目に見えない仕組みを持っていると思い込んでいる。心があるように見えることを心があると思い込む。実際、心があるように見えて心がないものなどありませんから、これで問題はないのです。SFに出てくる人と会話するロボットとか超コンピュータとか、人間の言葉を話す動物とかは実際はいませんから、問題はありません。実際、私たちが、心を持つと思っているものは生きている人間しかいない。そのため、心があるように見えるときは心がある、と思っていれば間違いない。

人間というものは心を持つ。自然現象や機械仕掛けと違って、心がその身体を動かしている。つまり、私たちは、人間というものは心が動くことで身体が動くものなのだ、というものの見方(というか一種の理論)を持っている。他人の動作や表情などの知覚から自分の脳の運動形成回路に運動共鳴が誘発されることを感じると、私たちはそれを、その人の心が動く、と感じる。

その見方を自分自身のイメージにも当てはめれば、自分も自分の心を動かして行動しているのだ、と思えるようになる。自分の動作、表情を自覚して、それが自分の心を表わしているのだ、と感じられるようになる。このような運動共鳴による神経活動の働きを自覚することで、私たちは(拙稿の見解では)その仮想運動(身体が動いていこうとする感覚)を感じ取って、自分の心があると思い、それが自分の意図、意志、欲望、なのだ、と思うわけです。

私は本当に私の心を持っているのだろうか? 改めて考えてみると、だんだん自信がなくなってきますね。確かに私だって、ほかの人と同じように心を持っているはずだ、とは思うものの、それを目で見ることはできません。見極めることができません。まあ、ここで拙稿得意の言い方を使えば、他人の心というものがあることはよく分かるけれども、私の心というものがあるかどうかはよく分からない、ということになってしまいます。

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