本題に戻ります。さて、心とは、人体のどこにあるのか?
人間の脳を最新の科学でいくら詳しく観察しても、たとえ電子顕微鏡を使って脳細胞をひとつひとつ解剖しても、「心」にあたる器官は見つからない。それは観察される人間の中にはなくて、観察者の中にあるからです。人の心は、その人の脳の中にではなく、その人の動きを外から見ている観察者の脳内の運動形成神経回路の共鳴現象としてある。つまりその人を見て、そこに心があるように感じられるとき、そのときだけ、そこに心はある。
人間は他人を観察するとき、自分の脳の中で運動共鳴によって生じる運動形成回路の活性化を感じ、それをその人間の心と捕える錯覚を作る。次に、その他人の心に映っているはずだと感じられる自分の肉体と心という錯覚との共鳴を感じる。私たちは、そういう脳内の錯覚の相互交差に、常時注意を集中して生きている。
しかしながら、一個の人体の中に一個の心が入っている個人というような人間像は、現代人にとっての常識ですが、それは錯覚です。実際は、そういうものはこの世に存在しない。それは原始人の素朴な錯覚に始まり、それを古来の宗教や哲学、さらには近代現代の社会科学が権威付けて、現代人にまで定着させた幻影です。
あたりまえのことですが、この世には、私自身の身体も脳も含めて、単なる物質としての人体がある。間違いなく、あるように見えます。これらは、だれの目にも見えて、手で触れますから、明らかに物質なのでしょう。しかし、そのようにだれの目にも見えて手で触れるものは、物質として感じられる人体の表面だけです。身体の内部は、どうなっているのか、服を着た身体の表面しか、私たちの目には見えない。服を脱がして裸にすることはできますが、皮膚を破って体内を覗くことはできない。まあ、外科医が手術するときは、それもできるでしょうが、生きている脳を解剖して個々の神経細胞の働きを全部調べることは不可能ですね。もし、仮にそれができたとしても、何が分かるのか? 目で見える物質としての神経細胞の物質変化しか分からない。つまり、どこまでがんばっても、人間について私たちは、物質としての構造しか知ることはできない。いわゆる、その人の内面、つまり心、といわれているものは、目で見ることはできないのです。
さて、ふつうのエッセイならば、こう書いてきた場合、ここで簡単に、目に見えない人間存在の神秘、というような言葉を使ってきれいにまとめて終わればよいわけです。ところが拙稿では、徹底懐疑の姿勢を貫くことにしていますから、ここでも「この世に神秘などはない」などと不遜なせりふを吐きつつ、さらに先へ進みましょう。
まあ、世間常識では、一個の心を内蔵する個人という存在は、尊厳に満ちた特別に神秘的なものだと思われている。このことについても、拙稿のとる見解を述べるとすれば、ちょっと違うことになる。人体という物質を見るとき、私たちの感受性がそれをそういうふうに感じるというだけの錯覚だ、ということになる。人体も脳も、当然のことながら、ただの物質です。この物質世界の中で特に変わった物質ではない。まあ、こういう見解は、拙稿が改めて主張するまでもなく、いつでもどこでも、しばしば表明される見解でしょう。研究対象である人体に対する医学者の態度は、まさに、これです。医学者に限らず科学者は、自分の研究対象に関する限り、このような物質主義を当然と考えている。一方、まわりの人々の心を感じ取ることで毎日を生き抜いていくふつうの人々は、人間を単なる物質などとは、片時も思うわけはない。ときたま、科学者の物質主義的な発言を聞くと、「科学者というのは冷たい人間たちだなあ。しかし科学を進歩させてもらうためには仕方ないかな」と思う。つまり、科学者や哲学者ではない一般の人も、物質主義的な考えについて、頭ではよく分かっているのです。
科学の時代になった現代では、人間についてのこういう物質主義的な見方はごくあたりまえに感じられますが、百年ちょっと前には、こういうような考えを持ったのはもっとも先鋭的な哲学者だけでした。「人間とは身体だけの存在なのだ、私とはこの身体であり、それ以外のなにものでもない」という主張が近代哲学の古典として書き残されている(一八八三年 フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』)
心が錯覚であるとすれば、私の心、つまり、私が私だと思っている存在感、も私(の脳)が感じる錯覚に過ぎないということになる。拙稿の見解では、私という存在も現代人(西洋の近代人も含む)特有の感受性がつくる脳内の錯覚であり、この世に現実にあるものではない(この問題は拙稿第12章で詳述予定)。
A君の身体の内部にきちんと入っている、というようなA君の心は(拙稿の見解では)存在しない。A君の心は、A君を見ているB君の脳の運動形成回路の共鳴活動として存在する。同時にC君もA君を見ている場合、C君の脳の運動形成回路の共鳴活動としてもA君の心は存在する。だれに見られているかで、A君の心は違ってくるでしょう。大体似ているでしょうが、ちょっと違う。それはしかたのないことです。人間の心というものは、その人間を見ている他人が感じる錯覚の中にしか存在しないのですから。
相手の人間の声の出し方、目の動き、表情、手つき、動作から私たちの目や耳に入る信号。それらが脳の中で記憶と混ぜ合わされ、変換されて、私たちの脳の中に相手の「心」が作られる。その過程で、自分の経験が自動的に重なる。だから、男は子宮の感覚を語る女の心は分からない。子供は親の心が分からない。子を持って知る親の情けかな、となるわけです。
(拙稿の見解によれば)他人の心は自分の心よりもさきに分かる。幼児が幼稚園児になるころ、他人の心のイメージを自分の脳の中に作って、それからその他人の心に映っている自分の心を作ることができたのです。それで自分は何をすれば良いか、自分が自分に何を期待しているのか、自分は何を考えているのか、分かってくる。だから、私たちは、人と交わって他人の心を感じなければ、自分の心というものもなくなってしまう。
初めて会った人でも、その人の顔を見たり、動作を見たり、しゃべり方を聞けば、どんな人かという印象が作れる。人はそれぞれ違うと思える。その違いを個性というのか、人格というか、キャラクターというか。その人の内面がすぐ分かるような気がする。目と耳でその人の外見を見たり聞いたりしただけで、内面が分かるような気がする。心がどういうように動く人か分かると感じる。しかし、実際、脳の中身が見えるはずはない。他人について分かる情報は外見だけです。それでも私たちは他人を理解してしまう。コンピュータとカメラとマイクを搭載したロボットにこれをやらせようとしても、現在の工学技術ではとても無理です。
私たち人間の脳には生まれつき、ドラマを感じ取る神経機構が備わっているようです。これを、拙稿では仮に、ドラマ神経回路ということにしましょう。この回路は、自分の目の前で展開する人間ドラマを、観客のようになって見るという働きをする。自分は観客だから、ドラマの外の観客席にいてドラマの筋には関係していない。そこで次に、自分の人体というものをそのドラマの中においてみる。登場人物に扮するわけですね。それに適当な役柄を持たせて、ドラマに参加させる。しかし本当の自分は、ドラマの中の人物たちのだれにも知られずに、外側の暗い観客席に座って、静かにドラマを見ている。こういう形で、私たちは、いわば、人生の観客と俳優という一人二役をしている。ちょっと複雑ですね。しかし、私たちの頭の中は、こんな具合になっているのではないでしょうか? 世界をこういうふうにとらえるドラマ神経回路は、人間のだれにでも備わっているようです。
逆に言えば、私たちが楽しむ映画、演劇、マンガなどドラマの類は、人間のこのドラマ神経回路に強く働きかけるから、古代から現代まで何度も繰り返し発明され、人間社会の中で、これほど普及している。テレビ、映画、演劇、マンガ、小説、歌舞伎など、どれほどのドラマを人間は作り出し享受しているでしょうか? こういうものは、生活の役には立たない、と言ってしまえば、その通りです。しかし、これほど、人々に求められているものが、本当に役に立たないものなのでしょうか? 人間の脳にドラマ神経回路は間違いなくある。貴重な身体資源を裂いて役に立たない神経回路を作る遺伝子が現代人の身体の中に伝わってきているはずがない。かつて、人類は、このドラマ神経回路を持ったために、おおいに生存繁殖がしやすくなったはずです。
このドラマ神経回路が、どれだけ大きなメモリ容量を利用できるとしても、私の狭い脳の中に、何百人もの心が全部入っているという考えはちょっと無理そうです。パターン認識工学の常識からすると、いくつかの特徴要素を組み合わせて数多いパターンを識別しているはずです。たとえば、顔の表情の特徴を四種類に分けて覚える。同じようにしゃべり方を四種類に分け、手の動かし方を四種類に分け、視線の動き方を四種類に分ける。これだけで二百五十六人のキャラクターが識別できる。
たぶん脳は何十種類かの感情回路が相手の見かけのある特徴に反応して、それぞれの信号を出すのでしょう。そうすれば脳内にひとつだけ人間のモデルを作っておいてそれを特徴にしたがって変形すれば、何百人ものキャラクターを識別できる。人間は、そのうちの一人のキャラクターを自分の性格だと思って特に注目している。しかしもともと、人間はだれもがだれでもあり得る。あらゆる役柄を創造し、それを見分ける能力を持ったドラマの作者でもあり、観客でもある。つまり人間は互いに、周囲に見かけるすべての人間を自分の中で作り出している。
それでも他人の内面は本当のところ分からない。他人も、その内面の人格は、自分と同じように舞台からは見えない外側の暗い観客席に座っているのだろうと想像できる。観客どうしは同じドラマを見ているのかどうかも分らない。とても完全な相互理解はできない。私たちは目と耳で他人の言動や表情を見聞きして 漠然とその内面を想像できるだけです。もともと見聞きできるわずかの情報をヒントにして自分の脳内でイージーオーダーのように型を当てはめて作りだした人物イメージが、私たちがそれだと思っている他人の心です。それはその人の真実の姿なのか? そもそも人間の真実の姿などというものはあるのか? あやしい話です。
初めて会う他人に対すると、その人は目に見える顔やその身体そのものというよりも、実は、こちらからは目で見えないその脳の奥の、深い真っ暗なところに静かに座っていて、黙ってこちらをじっと見ているのかもしれない、という気がしませんか? 見ず知らずの他人というのは、そんな感じがして、顔はにこやかに笑っていたとしても、すぐには親しみが持てないものでしょう。会話を始めて、さらに冗談を言い合って、あはは、と笑いあうと、やっと心が通じるような気がする。だがそれも、笑い顔は、まだちょっと緊張しているように見える。向こうも、こちらが感じていると同じようにぎこちなさを感じているらしい、と想像できる。だから、にこやかに笑っているのも、演技ではないかと疑ってしまえば疑えないこともない。そういうことですから、人間どうしは、なかなか相互理解はむずかしい。親しい人と見ず知らずの人とは、きちんと区別してその心を感じるように、私たちの脳神経系はできているようです。そういう脳神経系の仕組みが、原始時代の人々の間では、生存繁殖の成功率をあげたのでしょう。
人間どうしが相互理解するには、言葉が不可欠と思われる。また逆に、相互理解がなければ、言葉は使えないでしょう。しかし、私たちが実際に使っている言語は、不完全な錯覚を組み合わせたあやしげな影のようなものです。その言語を使って行われる人間の会話は、すれ違う錯覚のずれをさらに新しい錯覚で補いながら進められている。人間には、直接他人の心は分からない。その分、自分の心も分かりません。それでも、なんとなくは分かるような気がする。しかしそれは錯覚です。そう錯覚する働きが人間の脳には備わっている。それで人間は互いに相互理解できると思い、結果的に仲良くなれるし、互いに仲良くならなくては生きていけない社会をつくった。そういう人間たちが集まって集団として協力できるようになり、現在あるように上手に生きている。それが、人類という動物が脳の新しい仕組みとして進化させた、心(という錯覚にもとづく理論)の、生物学的な役割だといえる。
この物質世界に、物質ではないものは存在できない。つまり、心は存在しない。人間の脳の奥にあるように思える、私たちにはどうしても分かりきれない気がする神秘的な、心、というものは、存在感だけがあって、実は存在しない錯覚というべきものでしょう。
脳の中心にあって、物事を感じ、脳の中から指令を出して身体を動かしている心、という考えは、だれもが常識と思い込んでいるものですが、それは人間だれもが共有している錯覚だというしかない。人体という物質は、ただの物質であって、ただ物質の法則にしたがって変化していく。それを心という神秘的な存在の働きだと見ることは錯覚です。そういうものが確かにあるかように錯覚する能力が、人類には備わっている。それは進化の結果、獲得したすばらしい能力です。その錯覚を作る能力が、言語を作り出し、社会を成り立たせ、人類の大繁栄を実現した。だから今生きている私たちは、はっきりとお互いの心を感じることができる。
心はなぜあるのか、これがその答えです。
人の心というものは、その人を観察する観察者の脳の中に発生する錯覚を組み合わせて作られた、人間が社会を形成するための便利な道具です。そしてそれは、私たち人類がこの世を生き抜いていくために、もっとも大事な道具なのです。
(8 心はなぜあるのか end)