生老病死、つまり生まれてから死ぬまで人生は全部,苦痛だ、ともいえる。苦痛は嫌なものだ、と現代人は思っている。しかし、人間が苦痛を感じるのは、それが生存生殖に役立つからです。痛みは情報であり、それ以前に身体を強制的に動かしてくれる。
痛い棘から反射的に手を引っ込めることで、損傷を防げる。この反射は棘の視覚パターンと組になって脳の辺縁系に記憶され、棘を見ると自動的に手を引っ込めるという条件反射を学習できる。さらに、手を傷めた痛みの記憶はその前後の出来事とつながったエピソードとして大脳に記憶され、「棘のある木は嫌な木」という教訓が身につく。全部、生存生殖に役立つ仕組みです。逆に言えば、私たちの先祖の生存に役立ったから痛みを感じる神経系が私たちの身体に備わっているのです。
「孤独に生きることは苦しい。死ぬのは恐ろしい」というような哲学的(文学的?)な痛み、というか悩み、苦しみ、というものも、一人一人の人間が、そのように悩み、苦しむことが人類の存続に役立つから、その感情を作り出す機能が人類の脳に備わった、といえる。自分の孤独、自分の死、というイメージが脳の感情回路に深くつながっているから、そういう感覚が生じる。さびしくなって異性と仲良くしたり、死にたくないので生き永らえる努力をしたりして、種族繁殖の成功率が上がる仕組みです。
そうは言っても、本人にとっては、苦痛は嫌なものです。
苦痛が嫌な理由の一つは、それを他人と共有できないから、ということがあります。人に分かってもらえないから、余計苦しいのです。
昔の生活では、仲間と一緒にいっせいにバラをつかんでしまって、「イッターイ」と全員で叫び声をあげる、という場面がしばしばあった。現代人の生活では、だれもが同じ棘に刺されて痛くなる状況などは例外です。現代生活で数少ない例を探せば、たとえば、学校でする予防注射。集団で受ける注射が痛い、という場合の感覚は、仲間と一緒に見ている客観的物質世界の「注射」という実体に対応する。この場合、痛覚が視覚と通じる。自分が見えるものは他人も見えます。痛みが見える場合は、自分が痛いものは他人も痛い。
こういう場合はよいのですが、頭痛、腰痛など現代人が特に悩んでいる苦痛は、他人と共有できないものが多いようです。それで、現代、ますます苦痛は嫌われるようになってきているのでしょう。
筆者の場合の腰痛など、本人はすごく痛いのに、見た目では分らない。仮病のようにも見える。腰に手を当てて、「イタタタ」と顔をしかめるけれども、うそかもしれない。素直な人は「痛そう!」と同情する。それでも、他人の痛みは分からないということは、だれもよく知っている。まず自分の痛みの経験を思い出して類推するしかない、と思っています。その類推が、本人の痛みにかなり近いものなのか、ぜんぜん見当違いなのか、だれがどういう痛みを感じているのか、あるいは、どういう痛みを類推しているのか、実は、だれもさっぱり分らない、というのが実情なのではないでしょうか?
ちなみに、筆者は若い頃から腰痛もちで、数年ごとに数日間連続する激痛を繰り返し経験してきました。あそこまで痛いと錯乱寸前になって呻いているしかないわけですが、そのときでも、痛いところは自分の腰だ、ということだけは、ますますはっきり分かっています。神経がそういうふうに脳に信号を送ってくる。結局、脳の中にある物質世界のモデルの、さらにその中にある自分の腰のモデルに、間違いなくきちんと、その痛みの信号を貼り付けている。人間の脳はよくできているものだ、と鎮痛剤が効いている激痛の合間に感心したりする。
自分の身体の痛みに関しては、こういうふうに、身体から神経を伝わってくる痛みの信号を脳内にある自分の身体のモデルに貼り付けることで、痛さも痛い場所もよく分かるのですが、他人の痛みは、神経がつながっていないので痛みの信号が伝わってくるはずがありません。
結局、目や耳で感じ取るしかない。
つまり、その人の顔のしかめ方を見たり、呻き声を聞いたりすることで、他人の痛みをある程度(感受性の高い人はかなりの程度)、感じられるような気がしたり、想像したりはできるものの、自分が痛むときのように身体の芯にまで響く、という感じ方は、ふつう、できません。(双子の兄弟などは、それを感じる、という話がありますが)
理論的に言えば、他人の痛みというものは、存在するのかどうか、感覚ではその存在感がはっきりとは感じられない、ということになる。ただ、その人の身体の作りは自分と同じはずだから、自分と同じように痛みを感じているはずだ、という理論的類推がなりたつだけです。その類推から、「痛そうだな」というイメージが出てくる。しかし身体のつくりが違う場合は類推もできません。男は女の子宮の痛みは分らない、などとなってしまうわけです。
視覚と触覚だけを基礎にして組み上げられた客観的物質世界には、苦痛は存在しません。科学の世界は視覚と触覚だけを基礎に組み上げられた物質世界をさらに理論化したものですから、当然、痛覚の表現はできない。医学は、もちろん、こういう科学的な物質世界を土台にして組み上げられている。したがって科学を深く理解している優秀な医師ほど、実は患者の苦痛を理解できない、という皮肉な現実になっています。
私は苦痛をはっきりと感じるのに、その苦痛を他人に見せることができない。それを自分の目で見ることもできない。つまりこの物質世界には私の苦痛は存在しない、といえる。私が感じる苦痛はこの物質世界の中にある私の身体に投射されて、そこが痛む、と感じる。けれども、それを他人に感じさせることができないということは、この客観的物質世界には私の痛みは存在しない、それは私だけが脳内で感じる錯覚だ、ということになります。
別の言い方をすれば、この物質世界は私の苦痛を表現できないということは、この物質世界は私より小さい、ともいえるわけです。私の感じる苦痛、感情、心、欲望というものを含むことができないこの物質世界は、私にとってのすべてではない、ということでしょう。
しかしながら、それは、この物質世界の他に別の世界があるということにはなりません。視覚と聴覚と触覚によって、他人と共有できるものが物質世界の全体です。物質の他にも存在するものがある、などと言い出すと、存在という言葉が限りなく混乱していく。それでは間違った哲学に行ってしまいます。哲学者も科学者もよく間違える分かれ道です。
ここで、すこし慎重に考えてみましょう。まず、私の目の前に見えるこのありふれた物たち、この机とか、パソコンとか、私の手、これらが(あたりまえですが)はっきりと見えることをどう考えるか(こういうことをいう哲学を現象学という。最近の論議はたとえば二〇〇七年 ピーター・カルーサーズ、ベネディクト・ヴェイエ『現象学的概念戦略』)。
だれの目にも見えるこれらは物質ですね。さて、ここで問題は、物質以外のものごとも私たち人間は感じる。たとえば、痛みとか、かゆみとか、感情とか、物質でないものを、人間はふつう、むしろ強く感じるわけです。こういうような、ふつうに感じるものごと全体の中にふつうの物質も含まれている、といえる。つまりこの私の肉体を含んだだれの目にも見える物質世界全体、は私が感じるものの一部分でしかない、ということになる。
私たちは、明らかに人の苦痛を感じ、感情を感じ、人の心や欲望などを感じます。もちろん、自分の苦痛や感情もはっきりと感じる。しかしそれらは、この客観的な物質世界の中にあるわけではない。たしかに、この世に存在する物質としての人間の肉体は、明らかに苦痛や感情を表わしているかのように、表情を歪めたり呻いたりする。その姿や声は目に見え耳に聞こえるから、現実の物質現象です。他人も自分も、視覚や聴覚を通じて、それを観察することができる。けれども、その目に見える人体の内部の、目に見えない内面にあるとされる苦痛そのものや感情そのものを他人は見ることができない。私は他人の苦痛そのものを直接感じることができない。逆に、私が他人に乗り移ったとすると、私を外側からながめる私は、私の内面の苦痛を客観的な物質現象として見て取ることはできない。つまり、他人の苦痛と自分自身の苦痛、その両方とも、明らかに私が感じるにもかかわらず、この物質世界の中に存在しているとはいえない。それらは、感じられるだけで存在しないものですから(拙稿の見解では)錯覚です。
この物質世界は、それを他人も感じるだろうと私が感じられるものだけからできている。私と他人が共有できるものだけから、できているわけです。ということは、つまり、この物質世界は私が感じるものの全部ではなくて、一部分だけからできている、ということになる。この物質世界には存在しない多くのものをも私は感じることができる。それが事実です。
存在するとか、存在しないとかについての話を、これより先に進めるには、さらに慎重に考える必要がありそうですので、後で、改めて詳しく論じることにします(存在するものとしないものとの関係については第13章で考察予定)。