哲学の科学

science of philosophy

苦痛はなぜあるのか(2)

2007-09-29 | x1苦痛はなぜあるのか

 生老病死、つまり生まれてから死ぬまで人生は全部,苦痛だ、ともいえる。苦痛は嫌なものだ、と現代人は思っている。しかし、人間が苦痛を感じるのは、それが生存生殖に役立つからです。痛みは情報であり、それ以前に身体を強制的に動かしてくれる。

痛い棘から反射的に手を引っ込めることで、損傷を防げる。この反射は棘の視覚パターンと組になって脳の辺縁系に記憶され、棘を見ると自動的に手を引っ込めるという条件反射を学習できる。さらに、手を傷めた痛みの記憶はその前後の出来事とつながったエピソードとして大脳に記憶され、「棘のある木は嫌な木」という教訓が身につく。全部、生存生殖に役立つ仕組みです。逆に言えば、私たちの先祖の生存に役立ったから痛みを感じる神経系が私たちの身体に備わっているのです。

 「孤独に生きることは苦しい。死ぬのは恐ろしい」というような哲学的(文学的?)な痛み、というか悩み、苦しみ、というものも、一人一人の人間が、そのように悩み、苦しむことが人類の存続に役立つから、その感情を作り出す機能が人類の脳に備わった、といえる。自分の孤独、自分の死、というイメージが脳の感情回路に深くつながっているから、そういう感覚が生じる。さびしくなって異性と仲良くしたり、死にたくないので生き永らえる努力をしたりして、種族繁殖の成功率が上がる仕組みです。

 そうは言っても、本人にとっては、苦痛は嫌なものです。

苦痛が嫌な理由の一つは、それを他人と共有できないから、ということがあります。人に分かってもらえないから、余計苦しいのです。

昔の生活では、仲間と一緒にいっせいにバラをつかんでしまって、「イッターイ」と全員で叫び声をあげる、という場面がしばしばあった。現代人の生活では、だれもが同じ棘に刺されて痛くなる状況などは例外です。現代生活で数少ない例を探せば、たとえば、学校でする予防注射。集団で受ける注射が痛い、という場合の感覚は、仲間と一緒に見ている客観的物質世界の「注射」という実体に対応する。この場合、痛覚が視覚と通じる。自分が見えるものは他人も見えます。痛みが見える場合は、自分が痛いものは他人も痛い。

こういう場合はよいのですが、頭痛、腰痛など現代人が特に悩んでいる苦痛は、他人と共有できないものが多いようです。それで、現代、ますます苦痛は嫌われるようになってきているのでしょう。

筆者の場合の腰痛など、本人はすごく痛いのに、見た目では分らない。仮病のようにも見える。腰に手を当てて、「イタタタ」と顔をしかめるけれども、うそかもしれない。素直な人は「痛そう!」と同情する。それでも、他人の痛みは分からないということは、だれもよく知っている。まず自分の痛みの経験を思い出して類推するしかない、と思っています。その類推が、本人の痛みにかなり近いものなのか、ぜんぜん見当違いなのか、だれがどういう痛みを感じているのか、あるいは、どういう痛みを類推しているのか、実は、だれもさっぱり分らない、というのが実情なのではないでしょうか?

ちなみに、筆者は若い頃から腰痛もちで、数年ごとに数日間連続する激痛を繰り返し経験してきました。あそこまで痛いと錯乱寸前になって呻いているしかないわけですが、そのときでも、痛いところは自分の腰だ、ということだけは、ますますはっきり分かっています。神経がそういうふうに脳に信号を送ってくる。結局、脳の中にある物質世界のモデルの、さらにその中にある自分の腰のモデルに、間違いなくきちんと、その痛みの信号を貼り付けている。人間の脳はよくできているものだ、と鎮痛剤が効いている激痛の合間に感心したりする。

自分の身体の痛みに関しては、こういうふうに、身体から神経を伝わってくる痛みの信号を脳内にある自分の身体のモデルに貼り付けることで、痛さも痛い場所もよく分かるのですが、他人の痛みは、神経がつながっていないので痛みの信号が伝わってくるはずがありません。

結局、目や耳で感じ取るしかない。

つまり、その人の顔のしかめ方を見たり、呻き声を聞いたりすることで、他人の痛みをある程度(感受性の高い人はかなりの程度)、感じられるような気がしたり、想像したりはできるものの、自分が痛むときのように身体の芯にまで響く、という感じ方は、ふつう、できません。(双子の兄弟などは、それを感じる、という話がありますが)

理論的に言えば、他人の痛みというものは、存在するのかどうか、感覚ではその存在感がはっきりとは感じられない、ということになる。ただ、その人の身体の作りは自分と同じはずだから、自分と同じように痛みを感じているはずだ、という理論的類推がなりたつだけです。その類推から、「痛そうだな」というイメージが出てくる。しかし身体のつくりが違う場合は類推もできません。男は女の子宮の痛みは分らない、などとなってしまうわけです。

 視覚と触覚だけを基礎にして組み上げられた客観的物質世界には、苦痛は存在しません。科学の世界は視覚と触覚だけを基礎に組み上げられた物質世界をさらに理論化したものですから、当然、痛覚の表現はできない。医学は、もちろん、こういう科学的な物質世界を土台にして組み上げられている。したがって科学を深く理解している優秀な医師ほど、実は患者の苦痛を理解できない、という皮肉な現実になっています。

 私は苦痛をはっきりと感じるのに、その苦痛を他人に見せることができない。それを自分の目で見ることもできない。つまりこの物質世界には私の苦痛は存在しない、といえる。私が感じる苦痛はこの物質世界の中にある私の身体に投射されて、そこが痛む、と感じる。けれども、それを他人に感じさせることができないということは、この客観的物質世界には私の痛みは存在しない、それは私だけが脳内で感じる錯覚だ、ということになります。

別の言い方をすれば、この物質世界は私の苦痛を表現できないということは、この物質世界は私より小さい、ともいえるわけです。私の感じる苦痛、感情、心、欲望というものを含むことができないこの物質世界は、私にとってのすべてではない、ということでしょう。

しかしながら、それは、この物質世界の他に別の世界があるということにはなりません。視覚と聴覚と触覚によって、他人と共有できるものが物質世界の全体です。物質の他にも存在するものがある、などと言い出すと、存在という言葉が限りなく混乱していく。それでは間違った哲学に行ってしまいます。哲学者も科学者もよく間違える分かれ道です。

ここで、すこし慎重に考えてみましょう。まず、私の目の前に見えるこのありふれた物たち、この机とか、パソコンとか、私の手、これらが(あたりまえですが)はっきりと見えることをどう考えるか(こういうことをいう哲学を現象学という。最近の論議はたとえば二〇〇七年 ピーター・カルーサーズ、ベネディクト・ヴェイエ『現象学的概念戦略』)。

だれの目にも見えるこれらは物質ですね。さて、ここで問題は、物質以外のものごとも私たち人間は感じる。たとえば、痛みとか、かゆみとか、感情とか、物質でないものを、人間はふつう、むしろ強く感じるわけです。こういうような、ふつうに感じるものごと全体の中にふつうの物質も含まれている、といえる。つまりこの私の肉体を含んだだれの目にも見える物質世界全体、は私が感じるものの一部分でしかない、ということになる。

私たちは、明らかに人の苦痛を感じ、感情を感じ、人の心や欲望などを感じます。もちろん、自分の苦痛や感情もはっきりと感じる。しかしそれらは、この客観的な物質世界の中にあるわけではない。たしかに、この世に存在する物質としての人間の肉体は、明らかに苦痛や感情を表わしているかのように、表情を歪めたり呻いたりする。その姿や声は目に見え耳に聞こえるから、現実の物質現象です。他人も自分も、視覚や聴覚を通じて、それを観察することができる。けれども、その目に見える人体の内部の、目に見えない内面にあるとされる苦痛そのものや感情そのものを他人は見ることができない。私は他人の苦痛そのものを直接感じることができない。逆に、私が他人に乗り移ったとすると、私を外側からながめる私は、私の内面の苦痛を客観的な物質現象として見て取ることはできない。つまり、他人の苦痛と自分自身の苦痛、その両方とも、明らかに私が感じるにもかかわらず、この物質世界の中に存在しているとはいえない。それらは、感じられるだけで存在しないものですから(拙稿の見解では)錯覚です。

この物質世界は、それを他人も感じるだろうと私が感じられるものだけからできている。私と他人が共有できるものだけから、できているわけです。ということは、つまり、この物質世界は私が感じるものの全部ではなくて、一部分だけからできている、ということになる。この物質世界には存在しない多くのものをも私は感じることができる。それが事実です。

存在するとか、存在しないとかについての話を、これより先に進めるには、さらに慎重に考える必要がありそうですので、後で、改めて詳しく論じることにします(存在するものとしないものとの関係については第13章で考察予定)。

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苦痛はなぜあるのか(1)

2007-09-22 | x1苦痛はなぜあるのか

11  苦痛はなぜあるのか?

 他人の痛みが分かるようになれ、と学校の先生は教えます。つまり、ふつう他人の痛みは分からない。なぜ分からないのか?

 人間は、つねると痛みが分かるとき、つねったところを自分の身体だと思う。痛みが分からない身体を他人だと思っている。だから他人の痛みが分からないのはあたりまえ、ともいえます。

 そうは言っても、実際、自分の身体を確かめるために、いちいち他人の身体をつねって「あ、これは私じゃなかった。ごめん」などと言って確かめるやりかたをしていると、みんなに殴られてしまうでしょうね。そんなことをしなくても、この世界のどの部分をつねると痛いか、つまりどれが自分の身体を構成する物質なのか、、ヨチヨチ歩きする赤ちゃんでも知っている。

 赤ちゃんは、つねったときの痛みというよりも、それ以前に、皮膚の触感と筋肉、関節の緊張感覚など体性感覚を感じて、それを目で見える自分の身体の各部に投射することを学習する。それで脳内に自分の身体の模型を作っている。そうして、痛みをその脳内の身体模型に投射して、痛い場所を感じられるようになります。

 ところで、痛みは物質現象でしょうか? 痛いとき身体がどういう変化を起こしているか、その科学は最近かなり分かってきました。痛みの信号の伝達経路、苦痛に対応する神経伝達物質、その受容体、神経細胞膜の構造変化などが解明されてきています(二〇〇五年 ユンハイ・キウ他『ヒト非ミエリンCファイバー上昇信号の脳内処理』など)。そのおかげで麻薬より良く効く鎮痛剤も開発されてきました。さらに近い将来、苦痛や快楽に対応する脳内の信号伝達もまた、DNA,RNA、たんぱく質の分子レベルから進化を遡ることで解明できるでしょう。

 両生類や爬虫類の脳は、生まれつきの反射を繰り返すだけで、学習も記憶も、それほどしません。鳥類や哺乳類になると、運動と感覚の記憶について苦痛や快楽などでマークをつけて行動を記憶し、学習するようになる。苦痛や快楽の感覚は、哺乳類において特に発達した感情機構が発生する恐怖感、幸福感などと連結して、行動の学習に役立ったから、進化したのでしょう。

また苦痛は、人間の場合、自分の肉体の存在感とも深い関係がある。苦痛を感じるたびに、生々しい血の流れる自分の肉体、というイメージが脳の中に再構成されるわけです。それを発展させて、世界の中での自分の行動を記憶し計画する脳の機構を作るためにも、苦痛は役に立っています。

近い将来、痛みや快楽に対応する脳内の物質現象は、科学として、すっかり解明されるでしょう。

 しかし痛いときは痛い。嫌なものです。自分の体内で起きる一種の物質現象が、苦しかったり嫌だったりする感覚に対応している。他人が同じ状態のとき、いくら詳しく観察しても、どれほど痛いのかは、よく分からない。想像や類推はできますが、直接、感じることはできない。それなのに、自分のときは嫌になるほど感じる。つくづく、人間が分かることは自分の肉体の感覚だけだ、と思い知ることができます。

 筆者は、たまたま歯が痛いときに、分析哲学者が「苦痛は脳内状態か?」について論じている論文(一九八八年 ヒラリー・パトナム 『表現と現実』)を読んでいたのですが、英文をずっと読んでいくほど歯痛はひどくなっていくばかりで、とうとう歯医者に行きました。その論文では、「脳のことなど何も知らないときでも歯は痛いから、苦痛は脳内状態とは一致しない」などと書いてありました(こういう議論を心理ー物理同一性問題などという)。そこは「なるほど、そうですね」と納得しましたが、痛みは和らぎませんでした。

筆者が赤ちゃんのころ、痛いときは「ウエーン」と泣いていたはずですが覚えていません。そのころは言葉も知らなかったけれども痛いときは泣くべきだ、ということは(覚えていないけれど)知っていたでしょう。痛みは言葉以前の感覚のようです。それでも赤ちゃんのころでも、「ウエーン」と泣いて周りの人の共感を誘っていたわけですから、言語の代わりのものとして使用していた、といえる。言語活動の下敷きになっている集団行動としての神経回路を、実用的に使っていたわけです。隣の赤ちゃんが泣くのを聞くと、もっと声を張り上げて泣いたりするわけですから、赤ちゃんたちも、ちゃんと集団生活をしている、と言えますね。こういう観察から考えると(拙稿の見解では)人間が言うところの苦痛は、他の言葉のもとになる神経活動と同じように、群集団共鳴運動として脳内で発生し、それから言語に表わされるようになった現象だと思えます。

 私たち人間は、五感や痛覚など、自分の肉体を通じた感覚しか感じることはできない。逆に言えば、感覚を伝えてくる肉体のことだけを自分だと思っている。そしてそれらの感覚を総合して、自分以外の物の存在も感じている。他人の存在も感じ取る。さらに理論や想像を使って物質世界の仕組みを感じ取る。最後に、その理論で分かる物質世界の一部分として、改めて自分の肉体の存在感を感じるのです。

 人間の場合、自分の身体の外の物質世界を感じ取るときに、痛覚や味覚はほとんど使われていない。主に視覚と触覚、それに加えて聴覚で、空間と時間とその中にある物質の状態、つまり世界全体を感じる。嗅覚はあまり使いません。特に痛覚は、ふつう、対応する空間や物質を表わさないで、身体の内部の感覚としてだけ感じる。

 「手を刺すからこの棘が痛い」と言うか、それとも「この棘に刺されて私の手が痛い」と言うか? 前者の言い方のように、痛みが棘の属性と感じるならば、それは他人と共有できる。「この棘はほんとに痛いよね」という話で、痛みの話が通じる。昔の人は、こういう話し方が多かったようです。現代人は、後の言い方が多くなっている。「この棘に刺されて私の手が痛い」と言ってしまえば、もう他人と関係ない話になってしまう。

 たとえば、集団で予防注射を受けます。皆が注射をされた後で、「あの注射、ほんと痛いね」といえば、「そうだね」ということで、話が通じる。この場合は、痛みはその注射の属性になって、物質世界の中に存在できることになるわけです。

ひとりだけ、だれも経験したことがないような特殊な注射を受けた場合などは、そうはいきません。しかもお医者さんが「この注射は全然痛くないものだよ」などと言っている場合、困ったことになる。注射を受けた腕の部分が確かにひどく痛い場合、その痛みは絶対に存在している、と叫びたくなる。それでもそのことをお医者さんは信じてくれないし、ましてそのほかの他人には通じませんから、自分の痛みが本当に存在しているのかどうか、自分でもちょっと自信がなくなったりするのです。そのとき、脳活動部位測定装置で測れば、自分の脳の断面図として痛みの感覚受容神経が興奮している画像を観察できる。こういう測定の経験を多くの人がしていれば、「ああ、こういう画像が出る時は、本当に痛いんだよね」と皆に言ってもらえます。そうなると、この痛みは物質世界の中に存在しているような感じが強くなってくる。

それでも、痛みというものは、目の前のこのパソコンのようにはっきり目で見えて触れるものに比べると、物質現象としての存在感は弱い。どうも、かなりの曖昧さが残ってしまうのです。

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欲望はなぜあるのか(3)

2007-09-15 | x0欲望はなぜあるのか

実用的ということと、基本原理が説明できるということとは、違う。だれもが日常的に使っている世の中の実用的な知識というものは、適当によく当る推測を作れればよいのであって、なにも基本原理が説明できる必要はない。たとえば、潮の満ち引きの時間と量の関係は、ニュートン力学以前の時代から正確に予測できていて、河川管理や港湾作業などに使われていました。ニュートン力学が見事にその基本原理(月の引力の影響)を説明した後でも、予測精度はすこしも上がらなかった(二〇〇〇年 ロバート・クミンズ{どう働くか?}対{法則は何か?}』)。私たち生活人が知りたいのは、実用的な精度の良い予測方法であって、基本原理の説明ではない。そのため、実用的な程度に予測精度がよい理論モデルを手に入れると、それが錯覚にもとづく間違ったものであっても、私たちはもうそれで、基本原理が分かっているような気になってしまうのです。

物事の動きや変化に関するこういう錯覚は、人間の生存に有利です。運動変化する物体の内部に力や欲望や意思がある、という理論モデルを作ってそれを使うと、世の中の物質や動物や他人の行動を、だいたいはうまく予測できます。それらの大雑把な法則を学習すれば、実用的な立ち居振る舞い、人付き合い、処世術、政治、経済から、民間療法、実用工学、実用物理学や実用心理学、実用社会学、など生活に必要なすべてがつくれる。自分の周りの人間がこれからどう動いていくか、の予測モデルが作れるわけです。

「人間というものは、何かこうなったらいいな、という欲望ないし意図を持って、それを目的として実現する行動を計画して実行するシステムなのだ」という人間の理論モデルが作れる。他人を眺めて「あいつは何が欲しいのだろうか? 金か、名誉か?」と憶測する。それで、彼がこれからどう出てくるかを予測できる。それで、たいていは成功する。実生活では、それでよいのです。

ここで、大事なことは、力や欲望や意思、という他人の行動の内部要因を感知する錯覚は、言葉で言い表される以前に、私たちは直感で感じる、ということです。私たちはいつも、言葉を使って、力や欲望や意思、について語り合いますが、言葉は直感にもとづいて使われている。そこで直感を無視して、言葉だけにとらわれて哲学を進めると混乱が起きる。力や欲望や意思、というものは言葉以前の直感に根付いている錯覚だということを、忘れてはいけません。

このことは、言語以前の幼児の行動実験でも明らかにされています。たとえば、生後五ヶ月の幼児は、繰り返し何度も、おもちゃのクマさんを選んで掴み取る人の手をみると、その次にも、その手は、おもちゃのトラックなどではなくクマさんを掴み取ると期待していることが観察される(二〇〇七年 スペアペン、スペルク『どの人形でも?十二ヵ月児の目標物理解)。

他人の行動に対してこういう見方をしているうちに、人間は自分のことも同じような理論モデルで見るようになった。つまり、他人に乗り移った気持ちで、他人の視線で自分の身体を外から眺めると、自分が他の人間を見る場合と同じように見えるはずだ、と思う。実際、鏡で見る自分の身体は、他人が見る場合と同じだと感じます。自分の行動に関しても、私たちは、こう見ている。「自分というものは、何かこうなったらいいな、という目的を持って、それを実現する行動を計画して実行するシステムなのだ」と、自分を決め付ける。

「自分というものは、お金持ちになりたい、という欲望を持っているはずだ」とか、「自分というものは、お金より、出世して人に尊敬されたい、と思っているのだ」とか「心豊かに平凡な人生を送りたい、と思っているのだ」とか決め付けて、自分というモデルを作っていくわけです。

この自分モデルを使うと、計画行動、つまり、目的を思い描いてその実現のための行動を計画する、という行為ができるようになる。これは人間の特徴です。サルなどは、他人から見た自分、というモデルがうまく作れないので、しっかりした計画行動も人生設計(猿生設計?)もできません。

私たち人間の場合、自分の運動の結果予想を脳内でシミュレーションすることで運動の計画が可能になる。過去の経験の記憶を参照して、類推し、想像し、いろいろな行動のシミュレーションを行って、行動の結果を想像する。他人の目に見える客観的な自分の行動の結果を予想できる。私たちは、いつも、想定の運動を実行した場合の自分の身体の状態変化から社会的立場の変化まで、さまざまな観点から結果を予想しています。

その場合の自分の感情の変化も想像する。その行動をしたくなる衝動はどれほど強いだろうか? 幸福感があるだろうか? 敗北感に傷ついているだろうか? その衝動の予測、幸福感、勝利感、不幸感、敗北感などの想像を比較して、種々のシミュレーションを評価する。なりたい自分、というシミュレーションが選ばれる。それが自分の「欲望」であり、自分の「目的」になるわけです。

それからその目的を達成できそうな行動を実行する。目的を追求する計画行動です。自分の欲望、期待、目的、という錯覚を作り出して、それを達成するために行動する自分、というシミュレーションを脳の報酬回路に結び付けて自分を駆り立てるための報酬の構造を設定する。そこからさきは、脳内に設定された報酬構造にしたがって、ドーパミンアドレナリンなど神経伝達物質が分泌され、反射が起こり、学習されたシミュレーションに沿って連鎖的自動的に運動が進んでいく。

動物は、脳の中で自動的に運動形成をして、それを筋肉で実行する。それだけです。しかし人間の場合は、自分の脳内の仮想運動を感じて、それを自分の衝動と感じ、それがある目的から計画された自分の行動計画であることを思い出して、それを自分の意図と感じます。また、形成された仮想運動に沿った筋肉の運動が起こることを感じて、私たちは、自分という人間がそう動きたかったのだ、それが自分を動かす衝動だ、と思う。そして、自分はそう動こうと思ってそう動いた、という記憶を作って保存する。この仕組みを使って、私たち人間は自分が計画行動をした、つまり欲望を満たすために目的を定めて行動の意思を持ったから身体が動いた、と思い込んでいるわけです。

計画行動をする人は、いかにも理知的に見えて印象が強い。特に成功した場合、鮮やかな印象を残す。自分が成功した場合、特にそうです。それで、他人の場合も自分の場合も、そういう理詰めの行動が目立ち、印象深く記憶する。すると私たちはこればかりをしているように思える。しかし実際、計画行動は人間のいろいろな活動の中のほんの一部です。

行動を計画する場合、人間は、脳内で予測シミュレーションを運転してそれを評価して目的を作る場合が多い。しかしいったん目的を立ててしまうと、そのさきははっきりした仮想運動が作られずに、目の前の出来事に影響されながら過去の学習などで習熟した習慣的な行動が実行されて事態が進んでいくことがふつうです。

たとえば、計画行動をしている途中で、目の前の出来事に影響されてすこしずつ気が変わっていく。カレーライスを食べにレストランに入っても、メニューを見てスペシャルチキンライスにしてしまう。そのうえ、店員に「大盛りにしますか?」と聞かれると、どうしても大盛りを食べたくなってしまう。店に入る前に、本当に、大盛りスペシャルチキンライスを食べたいという欲望があったのか? とてもあやしい。それなのに、人間は、自分は大盛りスペシャルチキンライスを食べたいという欲望をはっきり持って、レストランに行ってそれを食べたのだ、と記憶するのですね。現代哲学でも、このような言語化により欲望、信念が形成される、という理論があります(一九八七年  ダニエル・デネット『ブレーンストーム』)。

さて、拙稿の見解では、欲望、意思、あるいは意図など、常識では人間の行動の源泉とされているものは、実際にはこの世界には存在しない。そういうものが、動物や人間の脳の中にある、と思い込むのは錯覚です。動物は、感覚刺激が変化することに対応して反射的に運動する。人間は、それに加えて、脳内の記憶からシミュレーションを映し出して仮想運動を形成し、それに対応して反射的に運動する。

人がある行動をするのは、そうしようと思うからだ、つまり意思があるからだ、と私たちは常識で考えますが、(拙稿の見解では)これは間違った理論です。

このことは、よく考えてみれば、簡単に分かります。たとえば、次のように話をつめていくと、変なことになってしまうのですね。

まず、手を挙げてみてください。では、質問します。

「なぜ、手を上げたのですか?」

「手を上げたのは、手を上げようと思ったからです」

「なぜ、手を上げようと思ったのですか?」

「手を上げようと思ったのは、手を上げようと思おうと思ったからです」

「なぜ、手を上げようと思おうと思ったのですか?」

「手を上げようと思おうと思ったのは、手を上げようと思おうと思おうと思ったからです」

・・・・

と無限の問答(一九四九年 ギルバート・ライル『心の概念』)が続いてしまうわけですね。

 夜、部屋に帰ってきて、スィッチを押すと明かりがつく。この場合、スイッチを押したのは明かりをつけたいからです。明かりをつけるという意図があった、といえます。では、スイッチが壊れていて明かりがつかなかったら? この場合も明かりをつけるという意図はあったのか? ふつう、あった、と思えますね。

 では、実はスイッチが壊れているのを知っていて、それを知らんぷりして明かりをつけるふりをするためにスイッチを押したのだったら? この場合、明かりをつける意図はなかった、といえますね。

 私はその壊れたスイッチを押しながら客人を部屋に案内します。明かりがつかないうちにその部屋に入った客人は、そこにあった見えないガラスケースを蹴飛ばしてしまい、ケースから放り出されたコブラに咬まれて死んでしまいました。私は殺人の意図を持っていたといえるのでしょうか?スイッチが壊れていることを知っていたか知らなかったか、知っていて忘れてしまったか、忘れたふりをしたのか。だれの目にも見えない心の中の、信念の違いによって、殺人の意図が存在したかどうかが決まる、ということになる。

 まあ、スイッチを押すという単純な運動もそれに関する意図とか欲望とか信念とかは、他人の目に見えず、なんとも分かりにくいものです。それでも、意図という概念で殺人罪になったりならなかったりするわけです。スイッチを押すという運動が、世界をどう変化させるかの脳内シミュレーションの予想が違うと、意図や欲望はそれに応じて違ってくるはずだ、という理論を、人間は持っているからです。社会生活では、それが大問題となるのですね。

しかし、(拙稿の見解のように)私たちの身体の奥から湧き起こる欲望、意思、あるいは意図などというふしぎな何かが身体の運動を起こすわけではない、と考えれば問題はなくなる。そういうものは錯覚ということになるわけです。なぜそういう錯覚が存在するのか? 人間が、他人と自分の行動を上手に予測し、互いに言葉で説明しあって共感し協力し、また長く記憶して経験として役立てるために便利だったから、人間行動を記述するためのそういう錯覚が作られ、「欲望」、「意思」、という言葉で名づけられた。そして皆で、自分たち人間には欲望がある、意思がある、と言い合うことで、それらがあることになったのです。

欲望はなぜあるのか? 言い換えれば、欲望という理論を、なぜ私たち人間が持っているのか? (拙稿の見解によれば)これがその答えです。

人間も他の動物と同じように、目や耳や嗅覚で感じる感覚刺激に応じて、反射的に身体が動く。人間の場合、直接の感覚刺激に対しても反射的に運動が起こるが、同時に(たぶん別系統の脳神経系の働きで)記憶からの連想によって作られるシミュレーションに対して反射的に運動が起こる、という特徴がある。つまり、(拙稿の見解では)人間は、目の前の光景ばかりでなく頭の中で想像した世界の構造、知識、記憶、予測などが与える現実感と存在感に反応して身体が動く。そして、こちらの運動を自分の意思でした計画行動として記憶しています。

たとえば、ビルのエントランスロビーに飲食店の案内パネルが並んでいます。ラーメンがいいかな、カレーかな? 自分がラーメンを食べている場面とカレーを食べている場面とを無意識のうちに想像して比較します。これは、過去の経験から造られた記憶と知識から作られるシミュレーションです。それらを思い出しながら、考える。どちらか、さっと決まるときもあれば、うーん、どっちが食べたいか自分でも分らない、というときもある。脳でシミュレーションが回転している。ラーメンを食べている場面のシミュレーションでは、その経験が感情とともに感じ取れます。カレーの場面に比べて、ラーメンのほうが実現して欲しいという感じがする。それでラーメン屋さんのほうへ歩いていくわけです。さらに、自分ばかりでなく人間はだれも、こういう経験をしているだろうな、と想像できる。それでこういう場合、「ラーメンを食べたいという欲望がある」という言い方をすることにしたのです。

結局、人間のランチも、動物が目の前の食べ物に食いつくこととあまり変わらない。アリがミミズに食いつくとか、アリ地獄がアリに食いつくとか。私たちは素朴に、昆虫などの脳のどこかに欲望という神秘的なものがあって、それに駆動されて運動神経が動くのだろう、と思っています。しかし昆虫の神経系は、コンピュータでシミュレーションできるような機械的なアルゴリズムで動いていることが分かっています。食べ物の刺激に対応して機械的に反応して、食いつき運動が起こるのです。

人間の場合、脳内で回転するシミュレーションが作る仮想の(ラーメン屋での)食事風景の連想に対応して、昆虫の採餌運動と同じ反射神経による(仮想運動の)食いつきが起こるのです。たぶん、人間のこの神経系は、もともとは、誰かがおいしそうにラーメンを食べているところを見て脳の中でその運動をまねる、という神経機構から進化したのでしょう。ラーメン屋の案内板を見ることで、シミュレーションの仮想運動が起こる。その仮想運動からの連想に導かれて、私たちはラーメン屋に向かうのです。クモが蚊を網で捉えて食べるのとあまり変わらない。見事な仕組みで餌を採りますが、単純な反射が、進化の結果、複雑な連鎖として組み合わされて洗練された動きをつくりだしているのです。それを見て、人間は本能だとか欲望だとか見なして理解しようとする。

そういう理解は実用的です。人類の生活に役立つものの見方です。人間は欲望から意図をつくって、それで行動する。そういう見方は実用的で記憶しやすい。この見方に慣れ親しんでくると、自分の内部にその欲望が実在する、と感じるようになる。それが、私たちの感じる自分の欲望です。それは錯覚ですが、しかし、その錯覚は便利で使いやすい。言葉を使って、それについて人と話せる。欲望という言葉、「私はそれをしたい」という言葉、などを使えば、だれと話をしてもそれでうまく通じる。独り言を言って自分で自分の行動を理解し、目的を思い出し脇道にそれないで、最初の目標にたどり着くことができる。それで、私たちはこういう見方をしっかりと身につけ、それをうまく表現する言語体系を持っているのです。一般的にいえば、言葉は仮想運動を形成する連鎖の過程として生成される、といえる。この点に関して、概念は行為に直結している、という考えが、現代哲学では提唱されています(二〇〇四年 アンディ・クラーク 『概念を働かせる』既出)。

私たち人間が、欲望あるいは意思、と言っているものは何なのか、その実体を示唆するよい実験例があります。

「目の前に置かれた二個のリンゴの一つを選んでください」と言われたあなたは、一個を手に取る。「なぜ、それを選んだのですか?」、「こっちのほうが、色がきれいだから」とあなたは答えます。実は、右手に近いほうを選んだだけだ、ということは実験を繰り返すことで分かっているのです(この実験例は一九九六年 ピーター・カルーサーズ心の理論の理論(シミュレーションと自己知識)既出』)。それなのに、あなたは尤もらしい理由を言って、本当に自分がそう思っている、と思っている。錯覚によって自分が自分にだまされている。けれども、いったん、言葉でそれを自分の欲望だと言ってしまうと、もう、ぜひそうしたくなる。それが、あなたの欲望、意思というものなのです 。

【より鮮明な実験例が、分離脳患者の認知実験で挙げられています。左右の大脳の連絡が切断された患者の左視野(右脳だけにつながる)に「歩け」と書いたカードを見せると、彼は歩いて部屋から出ましたが、そのとき「なぜ、歩き出したのですか?」と聞いたところ、「ああ、コーラを飲みたくなったから取りに出るところですよ」と答えた(一九九五年 マイケル・ガッザニガ『意識と左右脳』)。言語を発生する左の大脳は、身体運動の結果だけを見て他人の行動の要因を推測する場合と同じ方法で自分の行動の要因を推測した。この実験で重要な点は、この患者がまったく支障なく、また支障の自覚なく、社交や仕事などふつうの生活をしていることです。つまり、左右分断のない正常な脳を持つ私たちも同じように、こういうような自己の行動の結果だけから推測する自己の欲望の、解釈による自覚、という仕方を使って毎日を生きている、ということを、この実験は示唆しているわけです】

結局、動物の行動も人間の行動も、進化の結果できあがった神経回路ネットワークの複雑な物質的過程によって現れる現象です。将来いずれの時代にか、科学によってその全貌は詳細に、物質現象として解明されるでしょう。それはまだまだ先です。私たちは、DNAもたんぱく質も知らずに「カエルの子はカエルだよな。あっはっは」と言っていた江戸時代の人々と同じように、「人間は欲望で行動するのだよ。あははは」と、おおらかに言い合っているだけなのです。

  (10 欲望はなぜあるのか end)

11 苦痛はなぜあるのか?

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欲望はなぜあるのか(2)

2007-09-08 | x0欲望はなぜあるのか

こうして、「欲望」を持ち、それを満たすために目的を作り、目的を実現するために行動する人間、という人間行動の理論モデルができる。この理論モデルは分かりやすくて便利ですが、はたして科学として正しいのでしょうか。確かに、人間はみんな、他人や自分の行動をこういうふうに理解していますが、それは行動が終わってからそう記憶しただけではないでしょうか? 本当にリアルタイムに、脳はこういう動きをしているのか? 

人間以外に、目的を持って、それを実現するために運動を実行するような動物がいるか? 仮に、そんなふうに動く仕組みの動物がいたとして、その仕組みは生存に有利に働いてその動物の繁栄に役立つのでしょうか? 首を傾げたくなってしまいます。

そもそも動物の行動というものは、目的を目指して、その実現手段を計画して実行するものなのでしょうか? 環境の変化に対応して自然に身体が動いて運動してしまう結果が、目的を持った行動のように見えるだけなのではないか?

動物の運動は物質の法則だけにしたがって自然に自動的に起こる、と考えるほうが合理的でしょう。血糖値、ホルモンなど身体内部からの信号と感覚神経を伝わってくる外部の信号、気温、フェロモン、脳の中を循環している信号などが組み合わさって運動神経系の反射が起こり、自然に運動は実行される、という捉え方のほうが科学として正しい。

私たち人間も、もともとのところでは、動物と違わない。物質の法則にしたがって神経が信号を形成し、筋肉が収縮して運動しているだけでしょう。

人間の言葉では、「A君はレストランに行く」という形のセンテンスで、人の行動を言い表す。自分の行動を言い表すときにも、「私はレストランに行く」と言う。「A君」が「私」に置き換わっただけで(動詞が人称変化する言語もあるが)構造は同じ形式です。人間の言葉は基本的に、「XがYをする」という形です。Xは主語といわれますが、要するに「行為をするもの」です。Y(Yをする)は動詞といわれ行為することです。どこの国の言葉でも,動詞があって、それが言語表現の中心になっています。自然言語がこういう構造をしているということは、人間の脳が世界をこういうふうに捉えるようにできている、ということでしょう。

私たちが言葉を話す場合、まず話題になるものXに注目して、Xは「何かをする」と考え、「XはYをする」という形で言う。つまり、主語になるようなものXは、「Yをしたくて、Yをする」とみなすのです。XはYをしたいという欲望あるいは意思を持ってYをする。人間は世界の中にあるすべてのものたち、認識対象、をこう捉えているわけです。

人間やそれ以外のもろもろのものが欲望や意思によって行動する、という考え方は、(拙稿の見解では)こういう自然言語の形に引っ張られて作られています。そもそも、行動とか、行為とかいう語は、ある主体があって、それが欲望や意思をもって身体を動かす、という図式を前提にして使われる言葉です。それが学問として、哲学で理論化され、「行為」と「行為者」などと呼ばれ、法律、文学、心理学にも使われ、ふつうの人々の常識になっている。人間が仲間の人間の行動を解釈するときに使うと便利な重要な錯覚のひとつです。

でも、こういうものの見方は、物質の法則からは導けません。物質は物質の法則だけで動いている。「Xという物質はYをしたくてYをする」と言う記述は、科学をいくら研究しても導けない。それなのに、私たち人間は、「XはYをする」という記述しかできない言語を使って毎日、暮らしているのです。厳密な記述を求める物理学などでは、しかたないので、自然言語の使用はやめ、数学的に定義された特殊な言葉使いと方程式と数値を使って、物質世界を記述しています。

欲望、目的、自由意思、計画、などによって人間の行動が決められているという理論モデルは、私たち人間がそう思い込んでいるだけでしょう。動物にも人間にも欲望というものは存在しない、というほうが簡単ではないでしょうか。

私たちは、身体の自動的な仕組みにしたがっていつのまにか身体が動くことに気づいたとき、自分の内部の衝動が身体を動かしたと感じる。その衝動がどこから来たか、本人には分かりません。なぜか身体が動いていく。ふつう、それがあたりまえです。それがなぜか、と考えるときだけ、それを衝動と感じる。それがどこから来るか考えるとき、それを自分の内部に隠されている欲望が出てきた、と感じるのです。

  

ある少女が柿の木に登って柿をもぎ取って食べているとします。(拙稿の見解によれば)彼女は赤い柿を見ているうちに、過去に習熟した運動を思い出して身体がそれを繰り返したわけです。空腹なとき赤い柿を見たらもぎ取って食べる、という一連の運動が、繰り返すべきものとしてその少女の脳に登録されていたからです。

 しかし、ふつう人間が人間の行動を見るときは、こういう言い方にはなりません。「彼女は何かを食べたい、という欲望を感じて、それを満たすために柿を食べることを思いつき、その目的を満たすために木に登ることを計画して、その目的のために手足を動かして、木登りを実行した」となります。人間の脳は、こういう考え方のほうが理解しやすいし、記憶しやすいのです。これは、運動する人間を見て「欲望→計画→行動」というモデルが脳に呼び出されるからです。

 リンゴが枝から離れるのを見て、ニュートンが「あ、このリンゴはこれから下に向かって加速していくだろうな」と感じたのと同じです。リンゴは低いほうへ行きたいという欲望を持ったから地面に向かった。人間の脳はそう感じるようにできています。しかしこれは一種の錯覚です。ふつう、人間はこれが錯覚だとは気づきません。リンゴが枝から離れれば、下に向かって加速しながら移動するのは、あたりまえですから、なんとも思いませんね。ニュートンだけが「あれ、まてよ。リンゴは何かの作用を受けて加速しているとは考えられないか?」と思ったのでしょう。

人間の脳は、物体の運動を感知すると、その運動を引き起こす力を直感的に感じ取るようにできている。脳には(たぶん大脳皮質の運動野あたりに)その働きをする神経回路があって、運動の視覚情報から自動的にその原因になる力を推算しています。リンゴが地面に向かって動き始める。それは何かがリンゴに力を加えるからに違いない、と直感で感じる。古典力学の『』概念はそこから出てきたのでしょう。頭の固い科学者は、力はニュートンの運動方程式で定義される物理量だと思っていますが、ニュートン自身が感じた感覚は違います。人間が「私は思いっきり力を出したので、とても疲れた」というときの力の意味にとても近い。ニュートン力学がなかった時代のニュートンは、物体を動かす原因となっているはずの何か、たとえば人間に働く意思とか欲望にあたるもの、それを、『力』と呼んだのです。今でも力学を知らないふつうの人ほど、ニュートンが感じた『力』に近い力の概念を持っている。

それは、物体を動かす原因になる何か、というものです。物体は、何もされないときは、静止している。物体が動き出したときは、何かが物体に働き始めたのです。その何かが、力、です。

人間の脳は生まれつき、このような力を直感で感じ取る機能を備えている。物体の運動する様子を見ているだけで、自動的に、脳のどこかの神経回路がその物体に働く力のイメージを検知して、その存在感を感じる。物が運動を始めるとき、その原因になる現象が近くで起こっている、と感じる。目に見えなくても、その原因はある、存在する。それが力とか、欲望とか、意思です。コンピュータにやらせれば、位置の三次元ベクトルの時間変化を二階微分して、質量と力の大きさと方向を三次元ベクトルとして正確に算出できる。しかし人間の直感による推算のほうが速かったりします。

人間は、物が動くイメージを脳に浮かべると、それに対応して瞬時に筋肉が必要な速度で収縮を開始する。これを自分では衝動と感じる。考えたとおり動くのではなくて、動くことが考えることになっている。その仕組みで人間は瞬時に行動できる。力学法則を習っていない子供のほうが、運動方程式を使って計算するサッカー用ロボットよりも、サッカーが上手なのです。

物が動くイメージが現れれば、すぐに脳の運動形成回路は必要な筋肉収縮の信号を作り出す。直接筋肉にまで送り出されないでまだ脳の中に留まっている運動信号列を(拙稿の用語法では)仮想運動といいます。仮想運動は、もう一度シミュレーションで世界の反応を確認した後、筋肉に指令として送られる。これら一連の神経活動を思い出した人間は「自分が力を出した」と思うわけです。

そして人間は、「心が動いて欲望や意思や意図を作り出し、それが筋肉を動かして力を出し、人体の運動が起こる」という人体のモデルを考え出した。このモデルを認めて、会話を進めていくことで、人間は、自分たち自身の身体と精神の活動や社会活動を言葉で語り合うことができるようになった。こうして、人間は、欲望→意思→意図→運動神経信号→筋肉収縮→人体運動、というものからなる人間行動の理論モデルを作ったのです。

背景に対して動いているものの位置の変化を速度、と感じ取る機能が人間の脳にはあります。向うの山裾を列車が走っていくのを見ると、人間はその速度を直感で感じる。コンピュータのように位置情報を時間微分して速度を算出しているのではない。人間の脳は、(オービスやスピードガンなど)ドップラー速度計のように速度そのものを感知する。橋の上から下の川の流れだけを見ていると、自分が流れとは逆の方向へ飛んでいるように感じる。速度を直接感じる脳の機構が働いているのです。海の波を見ていると、波が沖から走ってくるように感じる。脳が物質の運動を自動的に感知してそれに注目し、運動形成回路を同期させるのです。これで動いている物体に乗り移ったような気持ちになれる。それが速度を感じる脳の機構です。

波を構成している海水は、実は沖から岸へ移動しているわけではない。一箇所で上下運動をしているだけです。それでも人間には、波が岸へ向かって走るように見える。錯覚です。しかし、人間は、波が岸に向かって進む力を感じる。

石ころなど無生物が動く場合は、何かに押されるか引かれるかです。何かに接触している場合は、それに押されているらしいと分かる。地面に向かって加速しているときは、単に落ちている、あるいは、地球の重力に引かれている、と感じます。

私たちが、無生物ではなくて動物や人間が動く場面を見たとすると、それらが何かに押されたり引かれたりして動いている、とは感じずに、自発的に運動している、と感じる。人間の脳は、無生物に働く力を感じるのと同じように直感で、動物の内部に発生する力のような動きの原因、を感じます。自分の身体が動くときは、筋肉が緊張する内部感覚を感じる。運動を開始する動物や他人を見ると、運動の共鳴が起こって自分の筋肉が緊張するかのような運動感覚が感じられる。その運動の原因になっている、動物や人間の内部に起こっているらしい何かを感じて、人間はそれを欲望とか意思とか意図とか言うようになったのでしょう。

近代哲学の開祖といわれる哲学者は、さすがにこのことを見抜いていて、原因とか力とか意思とかいわれるものは、それがあると思われている物体や人物に備わっているのではなく観察者の中にある、と言いました(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論』既出)。その後、ニュートン力学や近代心理学などが広まったためと思われますが、近代から現代の哲学まで、この方向の考え方は忘れられたかのようにあまり発展しませんでした(現代哲学で取り上げている例としては、たとえば一九八七年 ダニエル・デネット意図的観点』)。

動物や人間の内部にあるように感じられる力や欲望や意思といわれるものは、視覚など感覚器官に入る信号から直接感知できるのではなく、感覚信号に励起されるいろいろな神経信号が脳の中を駆け巡って作られる合成された運動イメージに自分の身体の運動衝動が共鳴することで起こる複合的な知覚です。直接目に見えるものではないのに、目で見えるがごとき強い存在感を持つ。こういうものは、一種の錯覚というべきでしょう。

こういう力、あるいはああいう欲望が起こると、その物体ないし動物、はこういう運動を起こす。Aが起こるといつもBが起こる。物事がそう見える場合、AがBを起こす、と思いたくなります。Aを原因といいBを結果という。人間は、こういうふうに世界の法則を学習していきます。もっとも,昔の哲学者はこの素朴論法の危険を見抜いていて、西洋古典哲学でも、「ポストホック、エルゴ、プロプテルホック(それの後だからそれに因る、というラテン語)」という後付論法の誤謬が教えられていました。

カエルが鳴くと雨になる。カエルが鳴いた後で雨が降る。だからカエルの鳴き声に促されて空は、雨を降らしたい、という欲望を持つのだ。こう理解すると、これは覚えやすい。実際はカエルが雨を降らしているのではない、ということを現代人は知っている。実際の物理現象はもっとずっと複雑ですが、こういう法則にして学習しておけば、実用上便利です。A→B。これはこの世界のいろいろ重要な現象を実用的な法則として記憶しておくために便利な論法です。人類が生き抜いてきた世界ではだいたいそうだったから、この後付論法が、人類の脳の機能として発達した。これは、そういう実用的な脳の錯覚機構です。

この世界は物質の法則(自然法則)で動いている。物質の法則は、まず、物理学の研究対象です。物質現象の単位となる一つ一つの現象は、ニュートン力学量子力学相対性原理など、比較的に簡単な方程式で表現できます。しかし、私たちが日常的に感知する物質は、生物、鉱物、気象などの巨視的な現象です。これらは無数の微視的な粒子の相互作用によってできている現象ばかりですから、個々の粒子間の作用を逐一、詳細に記述していくと、あっという間に、数億、数兆の変数を持った連立方程式になる。とても「Aが起こるとBが起こる」というような単純な法則の羅列では表現できない。超巨大なスーパーコンピュータでも、一分後の変化を予測する計算に何時間もかかってしまう。しかし、人間が,身の回りの現象を効率よく記憶しそれを想起して、これからの変化をすばやく予測するには、正確でなくても良いから現実的に感じることができる錯覚の法則があれば良いのです。

「頬に傷跡がある男は強暴だ」とか「傘を持って歩いている人が多いときは、もうすぐ雨が降る」というように世界の法則を覚えておけば、うまくいく。どれも確定的な法則ではなくて、確率的な法則です。まあ、よく当たる、という程度の法則です。実人生では、「だいたいはそうなるだろう」と、錯覚でもよいから、いつも感知できるような覚えやすい単純な法則として捉えることが実用的です。実際、子供は五歳くらいから、「こういう場合、こうなる」といういわゆる因果法則(実用理論)の形で知識をためていくようになる。発達心理学の研究でこの過程を記録していったところ、条件付確率の法則(ベイズネットワーク)の通りに学習していくことが分かりました(二〇〇四年 アリソン・ゴプニック、ローラ・シュルツ『幼児期における理論形成のメカニズム』)。つまり、人間の脳には、経験から法則を推定する最適推算機構が、生まれつきインストールされているらしい。人間の脳は、実用に最適な設計に進化しているわけです。

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欲望はなぜあるのか(1)

2007-09-01 | x0欲望はなぜあるのか

10  欲望はなぜあるのか?

さて、すこし話題を変えて、そもそも私たち人間を動かしているといわれる、いわゆる欲望というものについて、考えてみます。

目の前の人が欲望を持っているかどうか、どんな欲望を持っているか、見て分かるでしょうか? 場合によっては、身体運動や表情を見れば、かなり分かりやすいかもしれません。場合によっては、まったく分からないでしょう。

目つきですぐ分かる。あるいは、顔色を見てもまったく分らない。ふつう、そんなものです。

私たち人間の行動を決定していると思われている欲望といわれるものは、ふつう観察しにくいものです。他人の欲望は目に見えない。カメラにも映らない。数値で表せない。デジタル測定装置もない。直接、五感の感覚器で感じられるものではない。動作や顔の表情や、目つきや言動から、推測するしかありません。

でも、そういう推測によって感知できるといわれる(他人の)欲望というものの存在は、もしかしたら観察する側の錯覚ではないでしょうか。欲望というものは、それがあるかないか、観察してはっきり分かるものなのでしょうか? もし分からないとしたら、そういうものは存在するといえますか。もしかしたら、それは存在しない錯覚なのではないでしょうか?

もし仮に、それがこの物質世界に存在しないものなのだ、としたら、なぜ私たち人間は、欲望というものが存在すると思い込んでいるのでしょうか?

他人の動きを見るとき、その人が何かの目的を目指して動いているように思える場合が、たしかにある。

たとえば、誰かがガツガツと食べ物を食べているとき、その人は食欲が強いと思える。食欲を満たすと言う目的を持って、食べるという運動をしているように思うわけです。しかし、この見方は正しいのでしょうか? 

食欲、あるいは食べようとする欲望、などという概念を使わなくても、食べる、という運動の仕組みは説明できる。地球は自転する欲望を持っているから自転する、などと言う必要はない。人間がレストランで料理を食べる場合も、タコが海の底で餌を食べる場合も運動の仕組みは似たようなものです。延髄が血糖値の低下を検知した場合、目の前の良い匂いをする物質を口に入れて咀嚼する運動形成回路が連鎖的に運動信号を送出する。この仕組みを工学的に神経系のロボットシミュレータとして設計することも可能です。

こういう自動運動が展開することを、ロボット工学の技術用語として「食欲を感じた」ということにすれば、「このロボットは食欲を感じたから食べた」という言い方になるわけです。

私たち人間が、冷静に、タコや昆虫など動物の採餌行動を観察するときは、それをこういう機械的な現象と思って観察することができます。昆虫は細胞でできた機械のように動く。ロボットやコンピュータとあまり違わない。コンピュータが欲望を持って行動していますか? コンピュータはプログラムどおりにデータを計算したいという欲望をもって計算しているのだと言うと、どうもおかしな感じがしますね。それなら、地球は自転したいという欲望を持って自転しているのだし、エアコンは室温を一定に保ちたいという欲望をもってヒートポンプのモータをオンオフしているわけです。

私たち人間とエアコンとは、そんなに違わないのではないか?

いっそ、物質の世界には欲望などない、というほうが分かりやすい。

一方、子供のようにナイーブな人は、タコも昆虫も人と同じように欲望や感情を持って動いている、という見方をする。「タコが怒っている!」、 「虫がかわいそう!」とか言う。そういう見方で、世界を見ています。

タコの神経系を知っている科学者は、その動きを精巧な機械仕掛けとみる。しかし、その観察対象がタコではなくて人間の場合、冷静な科学者が研究として観察する場合でも、なかなか、その行動を機械的なものだとみなすのは難しいものです。

人がおいしそうに料理を食べるのを見ると、その人は食欲を持っている、と思うのがふつうですね。 

では、他人を観察する場合でなく、自分の行動の場合、人間はどう思うのでしょうか?

なぜ、自分には欲望がある、と思うのでしょうか?

 お腹が減った、と空腹を感じて、レストランに行く。この場合、食欲が先にあるように思えます。食欲を感じてからレストランに行こうと考える。しかし本当にそうでしょうか? 

食べるという運動をつくる運動形成神経回路と無関係に、食欲、という感覚を発生する神経回路が脳の中にあるのでしょうか? むしろ、食べるという運動を形成する要素的な運動プログラムが活動しはじめた場合に、それを事後的に、食欲、として記憶するような脳の仕組みがあるだけなのではないでしょうか。

「お腹減った」と思うとき、その前に食べる運動が仮想運動として頭の中で動いているから、そう思うのではないですか?

 本人としては「私は食欲を感じたから、レストランに行ってカレーライスを食べるという行動を計画し実行した」と思っているでしょう。しかし実際は、血糖値の低下などが自動的に食べるという無意識の運動プログラムを潜在的に(仮想的に)引き起こしていて、それ(仮想運動)の運動神経信号が、レストランに行ってカレーライスを食べる、という習熟した行動を思い出させ、その行動を実行させた、というほうが正しいでしょう。レストランに行ってカレーライスを食べることを思い浮かべると、身体が動き出してレストランに行く準備を始めてしまうのです。口の中に唾液も出てくるでしょう。もうカレーのことばかりを考えてしまいます。家を出ると、足がレストランに向いてしまう。その結果、レストランに入ってカレーを注文してしまうのです。友達とレストランに行くときは「私は食欲を感じている」とか「私はカレーライスが食べたい」などと言いながら、行くわけです。ところが、一人だけでカレー専門店に行くときなど、「私は食欲を感じている」とか「私はカレーライスが食べたい」などと思わないうちに、実際カレーを食べている、という場合のほうが多いでしょう?

 つまり、欲望という言葉とか、「私は・・・したい」などという言葉は、人に自分の行動を説明したり、自分が記憶したり記録したり、日記を書いたりするためには便利ですが、人間行動の根源などではない。むしろ、自分の行動を説明せず、日記にも書かない動物たち、タコや魚、あるいはトカゲなどと共通の機械的な反射運動の連鎖が、人間の行動の原型を作っている。

動物は、何かしたいという欲望に目覚めた結果、それをするのではない。動物は、ロボットと同じように欲望などというものは持っていない。欲望のような何かを持っていなくても、匂いやフェロモンや、体内のホルモンの濃度などの物質的な働きで神経回路が駆動されて自動的に連鎖運動が実行されてしまう。

ライオンは「あのシマウマを殺して食料にしたい」と思って追いかけるわけではありません。逃げるシマウマが見えたとたんに反射的に身体が躍動してそれを追って走っている。シマウマのほうも「生き延びたい」と思って逃げているのではない。ライオンが近づいてくるのが見えると、反射的に全力疾走するような神経系になっているだけです。私たち人間も根本のところは同じです。そうでなくては、数十万年もの間、上手に生き残ることはできません。

ただ、人間は、ある感覚を受けると、自分の身体が動いていって、ある運動をしてしまうことを感じて「自分はその感覚を感じて、そうしたいという衝動を感じた」と思い込み、その感覚と運動の衝動を組にして記憶する仕組みを持っている。

蚊に刺された皮膚が痒いのを感じて,「ああ、痒い」と思い、かきむしりながら「かきむしりたい衝動を感じた」というふうに記憶するわけです。犬も蚊に刺されたところをかきますが、かきたいという自分の衝動とか欲望がある、とは思わないでしょう。犬は「痒い」とか「かきたい」という言葉を思い浮かべることもなく、ただ、単に、痒いところをかくだけです。人間も脳の奥のところでは、それと同じ神経活動をしているはずです。ただ、脳の別のところでは、それと同時に、「ああ、痒い」と思い、「かきむしりたい衝動を感じた」という記憶を作って保存する仕組みを持っています。

食欲の場合は、視床‐辺縁系神経機構が、消化管などの生成ホルモンの増加や、血糖値の低下などを感知して自律神経を活性化させ、それによって胃液と唾液が分泌されて腸がグーと鳴る。その感覚はカレーライスの味を思い出させる。その連想はカレーライスを食べるいつものレストランに入ることを思い出させる。そうすると、さらに唾液が出てきて、カレーを口にかき込みたくなります。その仮想運動が足をレストランに向けるわけです。そういう衝動を感じながら人間はレストランに向かう。カレーが匂っているような錯覚を感じる。

こうして人間は、カレーを食べにレストランに向かっている自分の衝動を感じる。自分はカレーを目的として今歩いているのだ、と思っています。それでレストラン街の案内板を見たりして、カレーを供する店に行きつく。一方、ライオンはシマウマの群れがいそうな草原に向かうとき、シマウマが自分の歩行運動の目的だとは感じていないでしょう。なんとなく、気持ちが向かう方向に歩いているだけです。シマウマの糞の匂いなどに、心が躍ってくるでしょう。それで運良くシマウマの群を目撃すると、忍び足に切り替えるわけです。それを、はっきりした目的意識を持ってしているかどうか、自分の行動をしっかり記憶として保存しているかどうか、そこが、人間と他の動物が違うところです。

まあ、人間も、くしゃみをしてから、ああ寒い、暖まりたい、といつのまにか身体が動いていくことを、衝動と感じるわけです。いつのまにか身体を縮め震える運動をしてしまってから、自分でその身体の震える運動を感じて、「ああ寒い、暖まりたい」と人間は思ったりする。それから、事後的に「あの時、私は寒さを感じて、くしゃみをしたくなり、震えたくなり、暖まりたいという欲望を持った」という記憶を作るわけです。

欲望を軸にして人間の行動を記述していく、という小説に使われるような記述方法は、もともとは他人の行動を予想するために発達した脳の機能でしょう。「欲望」というものを持ってそれを実現していく、という人間の理論モデルは分かりやすい。「Aが起こるとBが起こる」という形で、人間は経験を学習し、記憶していく。このモデルを使って他人の行動を記憶して、その後の行動を予想すると役に立つ。「あの人はこうしたいと欲望してこうしたのだ。だから今度は、こうしたいと欲望してこうするはずだ」という形で他人の行動を記憶し、予想する。これを自分自身の行動の理解にも応用すると、自分の「欲望」という概念ができあがるわけです。

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