意図を持つ主体が目的を追求して行動することで世界の物事が推移するという世界観は目的論と呼ばれ、アリストテレスから近代哲学に至る西欧哲学の系譜のひとつになっています(BC三三〇年頃 アリストテレス『形而上学』既出、一七八一年 イマニュエル・カント『純粋理性批判 』既出)。このような哲学、あるいは認知システムは、私たちが人間や動物の動き(あるいは心理現象や社会現象)を見る場合しばしばこういう見方をしているというところから来ている、といえます。
これに対して因果論と呼ばれる、物事はすべて原因から結果が引き起こされることが連鎖して推移していくのみであってどこにも目的を追求する主体などはない、という考え方も、古くから東洋にも西洋にもあります。西洋哲学ではこちらもアリストテレスから始まって近代哲学(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム『人性論』既出)において発展し、現代科学の根底(一八六四年 ジェームス・クラーク・マックスウェル「電磁場の動的理論」既出)を支える思想になっています(自然主義という、哲学の科学: 世界の構造と起源(18) - 哲学はなぜ間違うのか?) 。
人間は意志を持って自由に自分の身体を動かしている、という自由意思による人間観は生まれつき私たちの感覚に埋め込まれているようです。またこのような感覚が万物を対象に拡張された目的論的世界観は、霊長類共通の認知機構を基礎とする人類の生得的機構であるとみることができます(一九五七年 エリザベス・アンスコム『意図』既出、一九八七年 ダニエル・デネット『意図的観点』既出)。拙稿の見解では、この認知機構が言語の基礎になっている(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」 )。また同時にこの機構が、次に述べるように、私という存在の基盤にもなっていると思われます。
目的論・意図的行動により世界を描写する理論(反自然主義という)を採用するならば(実際私たちは日常この理論を使って会話していますが)、私の身体が動いているのは当然それをだれかが意図を持って動かしているはずだ、ということになります(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか? 」)。そのだれかは私と呼ばれるものだ、と私たちは思います。
実際、私たちの言語の構造がそうなっているからです。言語を使うことで私というものの存在が現れてくる。言語を使う瞬間、私という存在を認めざるをえない。そうして「私が存在する」という言葉を使うことによって、自然に、私が存在すると感じられることになります(拙稿12章「私はなぜあるのか?」 )。
そうなってくると、今度は、私が存在するからには、私というものは目的を持っているはずだ、私の存在の目的は何か、人生の目的は何か、というような哲学的疑問が生まれてくるわけです。
ところが一方、因果論(あるいは場の理論 )による世界の描写(自然主義)を採用するならば、人間の身体といえども因果関係にしたがう物質現象によって自然に動いているわけだから、自分の思考を含めて身体の状態の現状は、そうなる直前の身体の状態とそれに影響を与える周辺環境の状態とを原因として物質の法則によって決まる結果が現れることで実現している、ということになります。
空気の分子の現在位置と運動量から次の瞬間の風速方向と風量が決定する。そうして風は、だれの意志にもかかわらずに、吹く。
そうだとすれば、この身体も風が吹くのと同じように、自然現象として動いていることになるから、意志を使ってそれを操縦している私という主体が存在すると言わなければならない理由はありません。(拙稿24章「世界の構造と起源(19)」 )
因果論によるこのような考え方は当然、大昔からあって、人が物質や道具を操る場合にはもっぱら使われてきました。現代においてこれが洗練された先端に現代科学があります。人間の身体に関しても人がそれを物質としてみなす場合〈医学など〉や道具として使用する場合〈スポーツなど〉は、この考え方が使われます。