哲学の科学

science of philosophy

世界の構造と起源(7)

2010-11-27 | xx4世界の構造と起源

小天体Aの話にもどれば、この物体の存在は現代の科学によって理論的に推定される、と言えます。木星の衛星エウロパが一六一〇年にガリレオ・ガリレイによって発見されたころは、木星の衛星としてエウロパの千分の一ほどの大きさしかないユーポリーのような小天体があるのかないのか、考える根拠もなかったはずです。十九世紀になって、ジェームス・マックスウェルが重力場の高次効果を理論化したことでユーポリのような小天体が存在する可能性が確かなものになりました。二十世紀の後半に、宇宙探査機が小天体に近づいて近接撮影できるようになって、直径一キロメートル以下の小天体の存在が確認されるようになったことから、現代では科学者は自信を持って「小天体Aのようなものはほぼ百パーセント確実に存在するだろう」と言えるようになりました。しかしまあ、宇宙探査や天文学に興味がないふつうの人には、どうでもよい話です。

未知の小天体Aの存在は、惑星科学の理論によって支えられている。逆に、小天体Aが発見されれば、その事実は現代の惑星科学の理論の正しさを支えることになります。しかし、だれもそれを試みないという理由で小天体Aが発見されていないとしても、小天体Aの存在を予測する現代惑星科学の理論が否定されるわけではありません。その場合でも科学としては、小天体Aの存在を高い確率で確信する、という立場をとり続けるでしょう。

こういう話に、実は科学の正体が現れています。科学は客観的世界の存在を確信する。しかしその、「存在を確信する」という言葉の意味は、だれもが納得できる理論にしたがって実験し観測すれば、理論どおりの結果が得られるはずだ、という信念です。それ以上でもそれ以下でもない。

大昔から、だれもが納得できる理論にしたがって、私たち人間は協力し、道具を作り、道具を操作して、じょうずに生活してきました。たとえば、ヤカンに水を入れてガスコンロに乗せて火をつければお湯が沸く、という理論を信じている私たちは、その理論に従ってお湯を沸かしている。

そのようなだれもが納得できる理論のうち、特にすぐれているものが科学です。その科学理論を使って推測すると、木星の周りを回っている未知の小天体Aの存在は疑うことができない。小天体Aは存在しないと言い張ると、現代科学があやしいと言っていることになってしまう。それでは困ります。私たちが毎日信頼している道具も制度もあやしいことになってしまいます。

自動車がまっすぐ進む仕組みもあやしい、コンビニで買う弁当もあやしい、となると、私たちはどう生活すればよいのか? そういうことから私たち現代人が困らないためには、科学は信頼できなければならないし、したがって小天体Aは存在しなければならない。

木星の周りを漂う未知の小天体Aは、それがないと私たちが困るからそれは存在している。つまりようするに、この世に存在するものはすべて(拙稿の見解では)、それが存在していないと私たちが困るから存在しているといえます(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。

遠い宇宙の話はこれくらいにして、もう少し、身近な「未知の存在物問題」をとりあげましょう。ブロンド美人の目はなぜ青いか? いや、青い目の遺伝子は存在するか?

青い目をしたお人形はアメリカ生まれのセルロイド(一九二一年 野口雨情『童謡「青い目の人形」』)という古い童謡があります。実際、北ヨーロッパ出身の人々の多くは目が青い。アメリカでも北欧からの移民の子孫が多い中西部では、目が青い人が多い。筆者が若いころ、アメリカの田舎をドライブしていて村のレストランに入ると、客もウエイトレスも全員、完ぺきに目が青い人ばかりで、その青い目でじろっと見られている感じがして居心地がよくなかった記憶があります。そのアメリカ人も青い目の人の割合は近年、急速に減っているそうです。青い目の人は子供をあまり産まないのか、あるいは青い目の人が青い目でない人と結婚するからなのか、移民してくる人々の中で青い目の人の割合が減っているのか、その理由はどれでしょうか?

目の色が遺伝することは昔から知られていました。青い目は劣性遺伝するようです。一九世紀に発見されたメンデルの法則によれば、両親がともに劣性遺伝子によって現われる特徴を持つ場合、子供にはおなじ劣性遺伝の特徴がかならず現れる。つまり、青い目の男は、青い目の妻が青い目ではない子を産んだ場合、それは自分の子ではない、と思ってよい。青い目の男は、自分の子を確実に産ませたいならば、青い目の妻をめとるべきである。ということになります。

そうであるならば、青い目の男は青い目の女をパートナーとして好む傾向があるのではないか?こういう仮説を検証しようとした実験があります(二〇〇六年 ブルノ・レング、ロンニ・マシセン、ヤンア・ヨンセン『なぜ青い目の男は同じ目の色の女を好むのか?』)。

青い目は、虹彩にあるメラニン色素の粒が小さくて少ないため、波長の短い光を散乱して青く見える。空が青いのと同じ理由です。つまり、虹彩にメラニン色素を作る酵素たんぱく質の生成が阻害されると、目が青くなる。メラニンが作られる過程のどこかで障害が起これば、メラニンは作られない。その障害はいくつもありますが、そのうちで次のような機構が研究されています。

生物細胞内でメラニンは(アミノ酸)チロシンを重合させることで形成されますが、このチロシンの移動を調節している酵素たんぱく質(Pたんぱく質)はOCA2と名付けられた遺伝子の暗号コード(核塩基配列)にしたがって合成されています。ところが、このOCA2遺伝子の暗号をDNA核塩基配列から読み取り始めるスイッチ機構に働く別の遺伝子があります。こちらの遺伝子はHERC2と名付けられています。青い目の人はこの遺伝子ERC2の暗号を構成するDNAの核塩基配列の一つが他の目の色の人に比べて入れ替わっているためにメラニンをあまり作らない、という研究報告があります(二〇〇八年 ハンス・アイベルク、イェスパー・トレルセン、メッテ・ニールセン、アネメッテ・ミケルセン、ヨナス・メンゲルフロム、クラウス・キェル、ラルス・ハンセン『人間の青眼色はOCA2表現を抑制するHERC2遺伝子座の調整因子の完全随伴創始者変異に起因するものかもしれない』)。母方からと父方からと、ともにメラニンを作らない遺伝子を受け継ぐと、メラニンは作れません。つまりこの遺伝子は青い目という形質に関して劣性遺伝子です。

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世界の構造と起源(6)

2010-11-20 | xx4世界の構造と起源

こう書くと、読者の皆さんには反発もあるでしょう。どうしても違和感がある、と言いたい方もあろうと思います。世界は人間よりも先にあるとしか思えない、という意見があるでしょう。

ニワトリが先か、たまごが先か。それは古来チキン―エッグ問題と呼ばれる形而上学です。

たとえば科学が発見する自然現象は、人間が共有するために存在しているのか? 木星の衛星エウロパには地球外生命の発見が期待されているが、その自然現象は人類が共有して人類が繁栄するために存在するのか? 衛星エウロパは一六一〇年にガリレオ・ガリレイによって発見された。

ちなみにヨーロッパ人は木星をジュピターと呼ぶ。ギリシア・ローマ神話では、天の神ジュピターがエウロパ(英語ではヨーロッパ)という美人を強姦拉致して上陸した土地をヨーロッパと呼ぶ、となっている。人間くさい神話にかけて天体を命名しているので覚えやすくてよいが、自然現象そのものとは関係ないでしょう。天体エウロパがこの世に存在しているからといって、地球人類の生存繁殖に関係があるのか?

アメリカのNASAやヨーロッパのESA(ヨーロッパ宇宙機構)が生命の起源を探究するためにエウロパに探査機を打ち上げる計画を進めている。(二〇〇九年時点では)予算は否決されたりしていますが、いずれプロジェクトが実行されるとなれば、多くの人が深く関与することになります。そうなれば、多くの人の人生にとってエウロパの存在は重要なものとなるでしょう。しかしプロジェクト予算もついていない現在、この天体の存在は、人間にとって、どういう意味があるのか?

エウロパは木星の衛星の中でも最も有名なもので、直径も約三千キロメートルある。地球の月くらいの大きさです。筆者が中学生のころは木星の衛星は十二個ある、と習ったものです。ところがその後、宇宙探査機が次々と小さな天体を発見していき、さらに二十一世紀に入って地上からの天体観測の精度も上がってきているので、いまや木星の衛星は数十個も発見されています。たとえば二〇〇一年には、ユーポリーと名付けられた衛星が発見されましたが、これは直径が二キロメートルで大きめの岩塊のような天体です。ちなみにギリシア神話では、ユーポリーという女神はジュピターの娘のひとりです。

こういう物体が存在していることを人間が知ったのは二〇〇一年、つまり二十一世紀に入ってからのことです。二十世紀には天体ユーポリーは存在していたのか? この天体は、周回軌道面が木星の赤道面から離れていることなどから、過去に小天体どうしが木星の重力圏内で衝突したときの破片であろうと推定されています。小天体同士の衝突は確率的にはめったに起こりませんので、この天体は数千年前から、ほぼ確実に存在していたと推測されます。

直径二キロメートルもある物体が、真空の宇宙でびゅんびゅん飛んでいるのですから、そばで見ればたいへんな存在感がありますね。しかし、地球くらい遠くから見れば木星のあたりの小天体など、小さくて存在感はない。

そもそも天体とは、宇宙を漂っていたガスや塵がくっつきあって大きくなったものです。木星くらい遠くにあっても直径が二キロメートルくらいの大きさならば、最先端の観測技術を使う天文学者には発見してもらえる。しかし、直径が一センチメートルだったらどうだ? そういう大きさの天体は木星の周りに数百万個はあるでしょう。まあ、将来、超高性能の観測装置を使って数千万個の極小天体が検出できたとしても生命が乗っているとかの特別な特徴がないかぎり、科学者は一個一個を観察はしないでしょうね。さらに小さい物体はさらにたくさんある。

つまりそれらの小さな物は、人間に観察されることは決してない。永久にだれにも知られない。そういう物体は、この世にたくさんある。たくさんあるというよりも、宇宙にある物体はほとんど永久にだれにも知られない。そういうものたちは存在していると言えるのか?存在しているとしても何のために存在しているのか? という素朴な疑問を持ってしまいそうです。

永久にだれにもその存在を知られることがないものが、実は存在しているのだ、といっても、それはどういう意味があるのか? 疑問ですね。この疑問を「未知の存在物問題」ということにしましょう。これはチキン―エッグ問題の変形といってもよいので、これもりっぱな形而上学です。

さて、「未知の存在物問題」をどう考えたらよいか? 話を具体的に進めるために、対象を具体的なイメージにしましょう。木星の周りをまわっている直径一センチメートルの小さな岩石か氷の塊があるとしましょう。これを小天体Aと呼ぶことにする。小天体Aは、小さすぎるし、ありふれた小天体なので、だれも観測しようとしない。永久に人間に知られずに、木星を周回する軌道上をただよい続ける。こういう物体が存在することは否定できない。むしろ、こういうものはあるに決まっています。

理論的には存在が確実であるが、実際に、これがそれだと目に見える形で指摘されてはいないもの。そういうものは世の中にたくさんある。むしろ、私たちがあると思っているものたちのほとんどはそういうものでしょう。つまり私たちは、この現実世界はこうなっているという理論を持っていて、その理論に頼ってそういう世界が実際に存在していると思い込んでいる。私たちがあるものを存在すると思っているときは(拙稿の見解では)私たちが使っている理論によってそれが存在すると思い込んでいることだ、といえるでしょう。

(拙稿では理論という語を 少し広い意味に使っています。科学理論のように学問的に作られたものばかりではなく、子供ころから周りの人々の影響で私たちが身に付けた知識や信念を理論といいます)

私たちは木星の周りに漂う直径一センチメートルの小天体Aのようなものが存在するだろうと、理論的に思っているが、実際に小天体Aを原因とする光や電波の変化などを観察していない限り、具体的にその存在を感知することはできない。こういう場合、小天体Aは実際は存在しない、と断言してよいのだろうか?

いや、そういう断言はおかしいでしょう。木星に(数多くの)探査機を飛ばして大型の精密なカメラで(何十年もの)長時間にわたって周辺空間を撮影すれば、かなり高い確率で、小天体Aは発見できるはずだと推測できる。たいへんなお金がかかるし、たぶん何の役にも立たないから、だれもしないだけでしょう。

こういう議論は、論理学で「無知による論議(古典哲学でargumentum ad ignorantiamと名付けられて論理学、法学などでよく知られている論理誤謬)」と呼ぶ。「未知の存在物問題」には、こういう話がよくからんでくる。話を単純化したいという人は、あるのかないのかはっきりしてくれというでしょう。一方、正確な話が好きな人は、存在するとしたら存在の可能性はどのくらいかという話にもっていこうとする。そうなると、チキン―エッグ問題でも、ニワトリが先である確率は70%であり、たまごが先である確率は30%でしょう、とかいうことになる。

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世界の構造と起源(5)

2010-11-13 | xx4世界の構造と起源

渋谷のハチ公は、人間の仲間どうしの間で、正確には現代の日本人どうしの間でだけ、存在する。私が人間であっても、相手が犬のハチであればもうハチ公は存在しません。私たちがいる世界にはなぜ渋谷のハチ公があるのか? それは、私たちが人間どうしであり、私たちの身体が渋谷のハチ公があるかのように動くからである、といえる。

私たちが、ハチ公の所へ行こうと思えば、身体がそう動いてそこへ行くことができる。電車に乗って渋谷に行けば簡単です。お金がかかるけれども(都内くらいならば)タクシーで行ってもよい。疲れるけれど(都内くらいならば)自転車で行くこともできる。実際には行かないとしても、ある程度の時間や労力やお金を使えば、そこに行ってハチ公をこの目で見られることは確実です。私と私の会話相手がそう思っているとき、二人の間でハチ公は存在する。ハチ公が存在する世界で、私たちの会話は進んでいく。

私たちがいる現実世界は、渋谷駅前というところにハチ公というものがあって、そのハチ公の前で私たちが待ち合わせができるような世界である。なぜそういう世界であるのか? それは私たちがハチ公の前で、よく待ち合わせをするからです。私たちの身体が、そういうことをするように動くからである、といえる。つまり、この世界は、世界がこういう世界であるかのように私たちの身体が動くような世界として作られている、といえます。

もし私たちの身体がそう動くことによって現実世界がそうなっているのだとすれば、私たち人間の身体がだれもが同じように動くようにできているという理由で、この世界は、だれにとっても同じようなものとなる。そういう場合、私たちは、世界がはっきりとここにある、と思うことができる。そう思うことで、だれとでも話が通じ合うことになります。そのようにだれとでもいつでも通じ合えることで、私たちは、世界が現実にこのように存在している、と確信することができます。

さらに互いが感じる世界の物事についてたくさんの言葉を使って語り合うことで、世界の物事をすべて言葉の形で表現し、記憶し、共有し、データとして管理することができるように感じることができます。そうなると私たちにとって、現実世界の存在はゆるぎないものとなっていきます。

逆に言えば、だれとも通じ合えるような物事だけがこの世界を構成している。そうでない物事は、この現実世界のものではない。この世界のものでないものたちは、たとえば、私たちの内面で感じられるけれども人に伝えることができないひそかな、あるいは微妙な思いや感情や感覚などでしょう。

現実世界の構造は(拙稿の見解では)、私たち人間の集団としての身体の動きに従って作られていく。私たちが互いに運動を共鳴しあうことで、世界が立ち現われてくる。世界の起源は、互いに同じような動き方をする人間の身体が集団として共鳴して運動するところにある、といえます。人間の脳神経系の機構は(拙稿の見解では)、仲間の人体の動きを目で見ると、あるいはそれが出す音を耳で聞くと、同じような運動をする神経回路が自動的に働いて同じような運動計画を形成するようにできている。これを拙稿の用語では、運動共鳴といいます。

運動共鳴によって、仲間の身体が周りのものごとにどう働きかけているかを、自分自身の神経回路の働きとして感じることができる。仲間としての集団的な運動を私たちは無意識のうちに予測している。それによって、私たちは共通の世界を感じとっている。さらにそれによって、私たちは、共通の客観的世界が存在する、と思っています(拙稿4章世界という錯覚を共有する動物」拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。逆に言えば、直接的にもあるいは間接的にも目でも見えなくて耳でも聞けないようなものごとが個人の内部にあったとしても、それは運動共鳴の仕組みを使って人間仲間の間で共有できないので、客観的世界の存在としては認められません。

そうして私たちが感じとるこの客観的世界は、物質としての人間の身体を含んでいます。人間の身体の構造から科学にもとづいて理論的に推論すれば(拙稿が述べるように)、その身体がこのような世界の存在を感じとることが結論できます。そして実際に、私たちはこのような身体を持っていて、その身体でこのように世界を感じとっているのだから、この(私たちが客観的な存在だと思っている)世界は、私たちが人間集団としてこのように感じとっているから存在しているのだ、といえるわけです。

私たちの身体がこのような人間の身体ではなくてチンパンジーの身体のようであったならば、こうはいかないでしょう。チンパンジーの身体は、言語のようなものを習得できない事実から推測すれば、おそらく私たちのように精緻な運動共鳴の機構を持たないと思われます。

もしそうであれば、運動共鳴を利用して世界を共有することができないため、私たちが感じるような客観的な現実世界を感じとれない。したがって、チンパンジーは世界観も物語も理論も作り出せず、まして宗教や科学を作り出すことはとても無理です。そうなると、チンパンジーにとって客観的現実というものは存在しない。それゆえに(拙稿の見解では)自我も作れないので、当然チンパンジーは、世界の中の自分という人類が持つような存在の謎(拙稿23章「人類最大の謎」)に関する悩みも持たないでしょう。

私たち人間は(拙稿の見解では)互いの運動共鳴によって、物事の認知を共有している。目に見える世界にあるものは、私たちのだれにとっても同じように感じられる。そうすることで、そのものはそこにある。そうしてそれが存在していると、私たちのだれもが感じとれる物事を、私たちは現実といっている。

仲間どうし互いにそれぞれが感じとっている現実を確かめ合うことで、私たちは世界の構造を知る。世界は、私たちが共同で行動できるように作られている。私たちが語り合って知識を交換できるように作られている。それは、私たちが互いに心を通わせられるように作られている。そういう世界だけを私たちは知ることができる。私たちの言語は、そういう世界をうまく語ることができるが、結局はそういう世界しか語ることができない。私たちの科学はそういう世界を表すことができるが、そういう世界しか表すことはできない。

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世界の構造と起源(4)

2010-11-06 | xx4世界の構造と起源

科学が使う時間は、秒、分、時間、日、年、ときちんと数値で表すことができます。その単位は現代科学では、セシウム原子の発振周波数で定義されている。二十世紀前半までは、科学が使う時間の単位は正午から次の正午までの平均時間(平均太陽日)でした。古代の人々が使っていた日時計が科学的時間の起源でしょう。

幼稚園では、一日は二十四時間です、と教えてくれる。時計の短針が二回転すると次の日の今と同じ時間になって、何事も繰り返すのです、と教えてくれる。実際、幼稚園児は、二十四時間で生活が繰り返すので、これは体感でよく分かります。お昼の十二時になるとお昼ご飯を食べられる。正午は太陽の上下角が一番高い。十二時に太陽がある方向が南だ、ということも学習する。

そもそも昔の人々は、どこの国でも、南に対して現在の太陽がなす角を時間としていたわけです。時計はなぜ時計まわりなのか? 時計を地面に置いてみれば太陽の動きを追って針が回っていることが分かりますね。現代人はあまりこういう知識は使わないから、知らないか、習っても忘れている人が多い。

太陽の方向がだんだん回っていって、夜になり朝になってまた南に戻ってくるまでを一日として、一日を二十四に割って一時間とする。ということを小学校で習う。しかし昨日の一日と今日の一日が、なぜ同じ長さなのかを教えてくれる先生はあまりいないでしょう。理科の先生なら、地球自転の慣性の法則という言葉を使って教えてくれますが、子供がちゃんと理解することはむずかしい。

多くの生物は、生存繁殖を調整するための体内時計を持っている。節足動物や脊椎動物など左右対称の体型を持つ動物は、体内時計を形成する遺伝子を持っています。哺乳類の脳では視床下部にある視交叉上核に形成される神経細胞が二十四時間周期で活性状態を繰り返す体内時計となっています。この神経細胞から出る周期信号によって動物は二四時間周期で睡眠と覚醒を繰り返す。正確には、人体の体内時計の周期は平均24時間11分なので、夜昼の明るさの変化がないと身体が感じる時間はだんだん遅れていきます。

私たち人間は、時計を見なくても、直感で時間経過を感知できますが、これは視床下部(の視交叉上核)の体内時計に加えて、空腹感覚つまりいわゆる腹時計、あるいは心拍数、呼吸数、疲労度、数を数える時間間隔、歌を歌う時間間隔、貧乏ゆすりの時間間隔、あるいは外界の変化たとえば空の変化をみる、など、いろいろな感覚を総合的に利用しているようです。また現代人はいつも時計を見ているし、携帯電話、テレビ、チャイム、プログラム、時間割、時刻表通りの電車など、時間を感知できる人工的情報にさらされています。私たちにとって、時間はいつでも一定の速度で流れ続けているものとして疑いもなく客観的に存在する、といえるでしょう。

人間にとって、時間は、過去、現在、未来としてあり、未来は現在になり、次に過去となっていくと思われます。では現在とは何か? 今が現在と思った瞬間にそれは過去となる。人間は現在というものを感知できるのか? 現在と言うのは過去の一種ではないか? それは見せかけの現在という過去なのではないか? という理論も現代哲学にはあります(二〇〇九年 ホリー・アンダーソン、リック・グラッシュ『二〇〇九年 ホリー・アンダーソン、リック・グラッシュ『時間意識の変遷、ジェームズとフッサールの歴史的先駆者たち』)。

いずれにしろ、子供にとって時間は、よく知っている物事の変化と対応して認知されます。中学校に行くと、太陽が真南に来る時間の間隔が二十四時間であって、それは地球の自転周期と少し違うということを習います。星座が夜空を東から西へ回転する速度を測ると23時間56分で一回転するので、これが地球の自転周期です。地球は太陽の周りを一年で公転するから、一年で自転一回分だけみかけの自転が遅くなる。一日にするとそれは4分です。地球の自転周期23時間56分にその4分を足すと、見かけの自転になるから太陽が南中する間隔は二十四時間になるわけです。皆さん、こういう理論を中学校で習ったはずですが、ふつうの大人はほとんど忘れています。

私たちの毎日では、体感で感じとる時間感覚を時計に合わせ込んで、人と待ち合わせたりしているだけですんでしまいます。時間とは何か、などと哲学的に考え込むことはまずない。科学で使う時間も一秒とか一年とかの話ならば、日常の感覚とうまくつながっているので、違和感はありません。一億分の一秒とか、百三十七億年とかいう時間については、直感ではついていけないので、ふつうの人は考える必要もありません。つまり、科学の理論は、そのごく一部分が私たちの生活感覚と直接重なっているが、たいていは間接的な関係でしかない。逆に私たちの生活感覚にとっては、科学以外の人間関係などの物事がずっと重要な位置を占めていますね。

さて、このような科学が扱う時間と空間、あるいは宇宙や極微な物質構造の存在感をいつも強く意識する人々は、科学者など特殊な専門家しかいないのではないでしょうか? そういう人々は宇宙や極微な物質構造とまったく同じ法則で作られているものとして自分の身体があることを体感する。そういう場合に、ではこういうこと全体を感じている私とは何なのか、という存在の謎(拙稿23章「人類最大の謎」)が湧き起こってくる。

いずれにしろ、こういう謎を感じるということは、その科学者にとって宇宙や極微な物質構造が目で見える目の前の現実のように感じ取れるからです。それは現実であるから、だれもが直感で感じられるはずの物事です。実際には、科学者でないふつうの人には、そういう科学的直感はさっぱり分からない。ごく少数の科学者しかその存在感を感じられない宇宙や極微な物質構造は、本当に存在するといえるのか? この辺にこだわってしまうと、確からしさを一番大事にする科学としては、深い落し穴に陥ってしまいます(拙稿14章「それでも科学は存在するのか?)。

私たちがいる世界はなぜこういう世界であるのか? それは(拙稿の見解では)、私たちの身体が、この世界がこういう世界であるかのように動くからである、といえる。

なぜこの宇宙があるのか? なぜ宇宙の中には地球があるのか? そこにはなぜ、ここにあるような物事があるのか? 

たとえば渋谷には、なぜハチ公があるのか? それは(拙稿の見解では)、私たちが渋谷で待ち合わせられるように、渋谷にハチ公はある。もし渋谷にハチ公がないとすれば、私たちは、渋谷に用があるときにハチ公の前で待ち合わせることができなくなってしまう。また仮に渋谷にハチ公があるとしても、もし渋谷に行くときにハチ公の前で待ち合わせるということがまったくできないのだとしたら、渋谷のハチ公というものはだれにも知られないだろう、と思われます。もしそういうことであるとすれば、筆者が、「渋谷にはハチ公がある」と言っても話がまったく通じないことになる。そういう場合、渋谷にハチ公が存在する、とは言えないのではないでしょうか?

私が、「渋谷にはハチ公があることを知っているよね。今晩、そこで八時に待ち合わせよう」と言ったとします。聞き手が、ハチ公を知っていれば、大丈夫でしょう。知らなくてもだれかに聞いたり、インターネットで調べたりして、ハチ公というのは、よく使われる待ち合わせの場所のことであって、そこに行くにはどうすればよいかを理解してくれれば、話は通じます。

そうでない場合、私と会話している相手との間の世界では、渋谷のハチ公は。はっきりと存在するものとはいえないでしょう。「ハチコウ」は、ただ、音声の羅列というだけになる。私が、飼い犬のハチに、「渋谷にはハチ公があることを知っているよね。今晩、そこで八時に待ち合わせよう」と言ったとします。これは全然意味をなさないことが明らかです。

私がガールフレンドのナナに、「渋谷にはハチ公があることを知っているよね。今晩、そこで八時に待ち合わせよう」と言ったとします。これは完全に意味をなす。同じことを言っているのに、相手が犬の場合は、意味がない。相手が人間なら完全に意味がある。

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