哲学の科学

science of philosophy

存在は理論なのか(17)

2011-07-16 | xx5存在は理論なのか

世界がある、という理論を私たちは持っている。私たちはそれがある、と思っている。それが存在の理論です。世界がこうである、という理論を私たちは持っている。それが言語です。あるいは科学理論です。あるいは人生理論です。世界はここにあってこうであるから私たちはこうであり、だから私たちは世界をこうであると思い、だから世界は、私たちが思う通り、こうである、という理論を私たちは持っている。それが私たちの世界である、と私たちは思っていますね。

世界にはいろいろなものが存在している。存在しているいろいろなものが世界を構成している。それらは存在しているから存在しているのだと思える、というよりも存在しているように思えるから存在している。したがってそれぞれの存在は理論である。存在しているものはすべて、それが存在しているという理論を伴って存在している。逆にいえば、それが存在するという理論を伴わないものは存在できない。

たとえばリンゴは、リンゴが存在しているという理論を伴って存在している。私たちのだれもが、リンゴがここにあるときリンゴはここにあると思うから、リンゴはここに存在している。

たとえば電子は、私たちが科学の理論を学べばそれは確かに存在しているように思えるから存在している。電子はパソコンが正しく働くような理論として存在しているから、パソコンが正しく働くために存在している。あるいは、電子は私の身体が生物として正しく働くような理論として 存在しているから、私の身体が正しく働くために存在している。あるいは、電子は現代の科学文明が正しく働くような理論として存在しているから、文明社会が正しく働くために存在している。つまり電子は、それが電子として働くことが、いろいろな場面で、私たち人間にとって必要であるから電子として存在している。電子は、このように私たちに必要な働きをするというそれらの理論を伴うことによって存在している、といえます。

例にあげたリンゴや電子に限らず、すべての物質現象はこのように私たち人間が互いに協力して生きるために使っている理論を伴うことによって存在している。すべての抽象概念もまた同じように私たちが互いに共通の理論として使うことで私たちがうまく社会生活をあるいは精神生活を送れるように存在している、といえます。

それらの物事の存在の理論は私たちの身体に密着し脳神経系に埋め込まれて肉体の一部となっているために、私たちはふつうそれらの理論のその働きに気が付かない。それらの理論が私たちの身体に埋め込まれていることをあまり自覚できない。そのため、ただ単に、物事がここに当然のごとく存在している、としか感じられません。そうして物事はそのままリアルな実在となる。それらの物事は、感覚器官に直接感じられるように思える目の前のこれらの現実の物質、現実の現象、現実の人間社会となっています。

私たちはそれらの物事は単にそこに存在しているから目に映るのだ、と思っています。しかしそれらが存在していると私たちが感じるということはすでに私たちの身体が内部に持つ理論によってそれらを存在させてしまっているからだ、といえます。そしてそれらの物事はそうして私たちの内部の理論によってこのように存在させられてしまったからこのように存在しているのだ、といえます。

それらいろいろな物事はこういう仕組みでどの人間にとっても存在している。それらが存在していることがそうしてだれにも同じように分かるから、私たちはそれの物事に関して共通の認識を持ち、共通の理論を持ち、それらを指す言葉を持ち、それらの物事をめぐって協力することができる。つまりは、そのように現実の物事を客観的に集団的に感じ取ることで私たちは互いに運動を共鳴させ、協力して社会生活を送ることができるように進化した動物である、といえます。

物事が存在するということは(拙稿の見解では)このように一種の理論です。世界が存在するということも、また一種の理論である。拙稿本章ではそういう結論になります。そしてそれらが理論であるからには、そうでないかもしれないという理論もありうる。私たちは、あるときある理論が正しいと感じられるとしても、次の瞬間、別の理論が正しいような気がしてしまう。つまり、(たとえばネッカーキューブのような)ダマシ絵のように、存在は次の瞬間に不存在に変わってしまうような気がする。

ある物事が存在する。だが次の瞬間それは存在しない。この世は存在するが存在しない。論理的には矛盾した言い方です。おとぎ話に出てくる謎の予言のようです。しかし私たちは、世界の存在について、実は身体の深いところで、そう思っているのではないでしょうか?

私たちは、世界がある,ということ自体を神秘的だと感じる(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』)。しかしなぜ、私たちは世界が存在するということを神秘と思うのか?それはそれが理論に過ぎないことを、私たちが実は知っているからでしょう。

(25 存在は理論なのか? end)

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存在は理論なのか(16)

2011-07-09 | xx5存在は理論なのか

この問題に関して、拙稿の見解をまとめると、こうです。

まず私たちの身体が栄養源としてリンゴを必要とするところから話がはじまる。リンゴが存在することが私たちの身体にとって必要だからリンゴは存在する。そのようにして存在するからリンゴは私たちの目に見えるようになる。また手で触れるようになる。そうして存在するリンゴを私たちの目が見たり手が触ったりするということが、私たちには分かる。そのようにリンゴが存在するからその存在するリンゴを私たちの目が見たり手が触ったりする、という理論を私たちは信じている。そういう理論を信じることが必要であるから私たちの身体はそういう理論を信じるように作られている。

そう考えれば、リンゴが存在することを目で見て手で触って私たちが知ることができるのは当然です。リンゴは(拙稿の見解によれば)、はじめから、私たちの身体にとってリンゴとして存在していることが必要であるから、私たちの身体がそれを リンゴとして感知するのである。そのような場合、しかもそのような場合に限り、リンゴはリンゴとして存在する。

逆にいえば、私たちが、それが存在していることを目で見て、あるいは手で触って知ることができないものは、はじめから私たちの身体がそれを必要としていない。目で見ることができるものは、それが見えることが身体にとって必要だから見える。つまり、見えるべきものは見えるし、見えるべきでないものは見えない、というだけのことです。

宇宙のダークマター(暗黒物質)は観測できない。だからダークマターは私たちの身体に必要ない、と言えるような気がしますね。しかし一方、銀河の広がり方を観測するとダークマターが存在しなければ納得できるような物理学理論が成り立たない。こういう場合、どう考えればよいか? 物理学理論は私たち現代人の文明生活に必要である。その理論が成り立たないような現象があっては困る。そういう理由でダークマターは必要である、といえます。私たちの身体にとって、そういう理由で宇宙のダークマターが存在することは必要であります。よって、ダークマターの研究は世界中の職業的物理学者の仕事になっています。つまりその研究資金が政府の負担で、あるいは社会の負担で、支出されているという事実がその必要性を現しているといえます。

昔から宗教で問題になっている神様の存在にしても、同じことが言えます。神が必要な場合には神が存在する。神が存在するという理論を私たちが信じる。それを信じるように私たちの身体は作られている。神の存在を現す宗教の施設が作られる。宗教の活動が営まれる。それに関連した職業を持つ人々が存在する。そうしてその場合、とうぜん、神は見える。つまり私たちの前に現れるでしょう。あるいは目では見えないにしても身体で感じられるはずです。逆に私たちの身体にとって神が必要でない場合には神は存在しない。現れない。つまり目に見えない。身体で感じられない。必要なものは感じられる。感じられるものは存在する。感じられないものは存在しない。

伝統的な宗教のくびきから遠く離れた私たち現代人は、見えない世界が存在しているとかむずかしく考える必要はもうありません。世界がなぜ認識できるのか、という問題はもう問題になっていない。(拙稿の見解によれば)私たちに認識できる物事だけから成り立っているものが世界だからです。存在しているものはすべて私たちが認識できるから存在している。私たちが認識できないものは何も存在することができない。したがって存在しているものが認識できる理由を問題にする必要もありません。またもちろん、認識できないもの、目に見えないものが存在すると心配する必要もありません。存在とは(拙稿の見解によれば) そういうものです。

私たちがそうであると思うからそれはそうであるという場合、もしそう思うことだけがそうである理由であれば、そうであることは理論である。世界が存在すると私たちが思うから、それは存在する。存在するものはすべて、私たちがそれが存在すると思うから存在する。つまり、世界は理論であり、存在は理論である、と(拙稿の見解によれば) なります。

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存在は理論なのか(15)

2011-07-02 | xx5存在は理論なのか

西洋近代哲学の創成期(十七~十八世紀ころ)には、現実にあるこの世界を人間はなぜ目で見て認識できるのだろうか、という問題(近代認識論という)が提起されました。空間や物体はまず触覚で感知され、その後経験によって視覚で認知できるようになる(一七〇九年 ジョージ・バークリー『視覚新論』)とか、 空間や物体は生まれつき人間に備わっている幾何学の理解力にもとづくから視覚で認知できるようになるのだ(一七〇四年 ゴットフリード・ライプニッツ人知新論)とか、諸説が戦わされました。十八世紀啓蒙時代の西洋哲学は、人間の理性の働きを見事に整理しましたが、その前提は世界の実在であり、結論もまた世界の実在となっています(たとえば、 一七八一年 イマニュエル・カント純粋理性批判既出)。

拙稿の見解によれば、これら古典哲学から中世の神学を経て近代哲学に至る華々しかった形而上学的な論争は、残念ながら、恐竜のように滅亡してしまって今日に子孫を残していません。近代哲学が中心的な問題としていた存在論と認識論、観念論と経験論の論争なども、現在では化石のように過去の哲学史として残っているだけといえます。

これらの哲学論争は、はじめから現実世界の存在を大前提にしています。そうすると現実世界を感知する感覚器官のアウトプットは何か、などという問題が派生してくる。視覚とは何か?触覚とは何か?それらと現実世界との関係はどう考えればよいのか?視覚と触覚の統合は可能か不可能か?などの諸問題が出てきています。

近代哲学から現代哲学への過渡期と見ることもできる十九世紀後半の西洋哲学は、勃興する科学の影響を受けて、現象から帰納的に原因を推定し、あるいは感覚情報から世界の実在を推定する理論を作っていきました(たとえば、一八八三年 フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラはかく語りき』既出、一八八六年 フリードリヒ・ニーチェ善悪の彼岸)。これらの理論によれば、世界は現象から理論によって推定され、現象と理論の整合性によって存在を推測される、とされます。現代科学は、本質的にこの時期の哲学を下敷きにしているとされています(一九八三年 カール・ポパー『現実と科学の狙い』既出)。

実際に科学を進めている現場の科学者はずっと素朴で、科学哲学や科学基礎論などに深くかかわる気はなく、単純に現実世界の存在を大前提にして理論を組み立てています。現在最先端の宇宙論や脳科学や認知科学も当然、物質の実在という同じ前提を使っています。

現実世界の存在を大前提にすれば、当然、リンゴがここにあるからリンゴが目で見える、ということになります。リンゴの科学を進める場合、リンゴがここにあるからリンゴが観測できる、というところからまず議論が出発するでしょう。そして網膜に映る映像から脳神経系はどのようにしてリンゴが存在することが分かるのか、という近代認識論から引き継いだ現代認知科学の問題が出てくる。それはそれで科学として重要な課題になっています。

ここに見えるリンゴに反射する光エネルギーがいかにして観察者の脳神経系の連鎖的活性化を引き起こすかという問題は科学であるけれども、ここに見えるリンゴは本当に存在するのか、という問題提起は科学ではありません。哲学の対象でしょう。科学の問題は科学と技術が発展していけば、いつかは答えが見つかる。しかし哲学の問題と思われるものは、たぶん答えがない。

現代科学は現象から帰納的に原因を推定し理論を作っていく。その理論によって逆に現象を予測しそれが当たっていればその理論を科学とする。それだけのルールで着々と進んでいきます。存在の問題などはおいてけぼりにされます。存在は本当に存在しているのか、などとつぶやいている拙稿などあっというまに時代から振り落とされるでしょう。まさに、答えの出ない哲学など無視して科学と経済は進んでいく、という現代のドライな思想風景はここからきているともいえますね。

さて本章のまとめとして、現代人の私たちは、長い歴史を持つ哲学のこういうテーマに関してどう考えればよいのか? というより、拙稿としては本章をどうまとめれば読者に次章を読む気にさせることができるのか?

拙稿本章の議論の流れでは、ここにあるように思える現実世界は本当に存在するのか、という(哲学らしい)問題をいろいろな側面から、またかなり真面目に正面からも取り上げてきました。そしてそうすることで、古来の哲学の諸問題といわれている存在の問題、自我の問題、他者の問題、そしてそれらに付随する生死あるいは人生と世界の存在問題などが解けていく可能性を調べてみました。

この現実世界は本当に存在するのか? 現実の中に私は生きているのか? 私が死んでも現実は変わらずに続いていくのか?

これらの疑問は、つまりは、ここにあるこのリンゴは本当にここにあるのか、という問題です。

拙稿の言葉遣いを使えば、これは次のような問題になります。

このリンゴが存在するということはどういう理論なのか?

そもそもこのリンゴが存在するということは理論なのか?

私たちはなぜこのリンゴが存在するという理論を信じているのか?

このリンゴが存在するという理論はいかにして成り立っているのか?

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存在は理論なのか(14)

2011-06-25 | xx5存在は理論なのか

私たちは、目で見えるこの客観的現実世界が間違いなく存在している、と信じている。そうとしか感じられません。無意識のうちに身体全体でそう感じています。そしてまた、この世界で起こることは言語で正確に語ることができる、と思っています。自分たちの言語で正確に語り合い互いの認識を正確に理解し合える、と思っています。しかも結局は、この客観的現実世界の変化は科学で正確に予測することができる。科学が発達することで、私たちの身体自身を含め、物事がこれからどう変化していくのかを正確に知ることが可能だ、と思っています。

しかしこの世界は一方では、ここで拙稿が述べているように、私たち人間の身体がこう動くからこう存在している、としかいえない現象でもあります。

人間の身体は世界の物事をこう捉えてこう動く(たとえば、そのリンゴはおいしそうだから食べる、とか)。それは、逆に言えば、こう動くためにこう捉えている(たとえば、食べるために、おいしそうなリンゴがあると思う、とか)といえる。

幼児は自分の身体を動かすことで物事を捉えていきます (一九九八年 ウィルコックスベイラジオン幼児期における物体の個別認識・隠蔽実験に関する判断における特徴情報の利用』既出、二〇〇九年 ルネ・ベイラジョン、ディ・ウー、シルヴィア・ユアン、ジエ・リー、ユアン・ルオ『若年幼児の自動駆動物体に関する予期』)。私たちの身体が動きながら、動くことで物事の存在を捉えていくその仕組みは、人類が生活環境の中で仲間と協力して生き抜いていくために必要であったから現在の私たちの身体に備わっている機能でしょう。

そして私たちの身体が捉えることで存在するこの世界は、もともと、人類が生き抜けるように存在しているはずです。なぜならば世界をこう捉えることで生き抜いてきた人類の身体は、そう捉えた世界を利用して生き抜くように進化しているはずだからです。そうであるとすれば、私たちの身体がこう感じ取っているこの現実世界は、こう感じ取られることが私たちの生存のために必要であるからこう感じ取られるように存在している、といえます。

この世界をこのように感じ取るということを私たちが何に利用しているかを考えれば、その必要性は明らかでしょう。私たちはこの世界をこのように感じ取ることで、仲間と協力して行動し、言語を使用し、文化を共有することができます。事実、私たちはこのように家族を作り友達を作り部族を作り国家を作っています。つまり(拙稿の見解では)人類が仲間と協力して生きていくために必要だからこの世界がこのように存在している、といえます。

拙稿の見解による世界の捉え方はこうです。

人間が仲間と協調して身体を動かすためには、互いの身体と互いの身体が接する周りの物事を、互いに共有する運動の環境として認知し、それぞれの運動を協調的にコントロールするシステムを、それぞれの身体の内部に持っていなければならない。

このリンゴをあなたと私が分け合うためには、まず私はあなたがこのリンゴを動かすときの身体の動きを予測しなければならない。私の身体がリンゴに対してこう動き、あなたの身体はリンゴに対してああ動くことが分かる。それで互いに協力してリンゴを分け合うことができる。そういう運動の予測をするシステムを私とあなたの双方がそれぞれの身体の内部に持っている必要があります。

同じ物事が同じ物事として存在することを互いに知っていなければならない。

私が見てリンゴであるものはあなたが見てもリンゴでなければならない。私がそれに触れてそれがリンゴであるかのように私が取り扱えなければならない。同時に、あなたがそれに触れてそれがリンゴであるかのようにあなたが取り扱えなければならない。そうでなければリンゴに関しての協力は成り立たない。逆に言えば、協力が成り立つためには、あなたにとっても私にとっても、リンゴがリンゴとして存在することが必要である。あなたにとっても私にとってもそれがリンゴであることが必要であるから、それはリンゴであるとして存在する。つまり、ここにあるこのリンゴは、これがリンゴとして存在することが人間どうしの協力に必要であるから、リンゴとして存在している。

このリンゴに対して、あなたの身体がどう反応するかと、私の身体がどう反応するかは、深い関連がある。私は、リンゴに対する私の身体の反応とあなたの身体の反応と両方を予測できるシステムを私の内部機構として持たなければならない。あなたもまた、同じことが予測できる内部機構を持たなければならない。そうすれば私とあなたの互いの運動予測を共鳴させることができる。そうすれば運動を共鳴させることができる。その運動共鳴によってこのリンゴは存在する、といえる。この仕組みによって、あなたと私が共有するその運動共鳴が「ここにリンゴがある」という言葉を作り出している。

では抽象的な物事はどうか?それらも、まったく同じように存在しているといえます。

たとえば、私が「縦が13メートルで横が27メートルの長方形があります。その面積を教えてくれますか?」と、あなたに質問したとします。あなたは、「ちょっと待って、この電卓で掛け算するから。あ、出た。351平方メートルね」と答えます。このとき、この「縦が13メートルで横が27メートルの長方形」という抽象的なものは、どのような仕組みで存在しているのでしょうか? 私の頭の中では、それは「『物差しを当てて縦を測ってみると13メートルになっていて横を測ってみると27メートルになっている』と言えばだれもが分かってくれるはずの図形」という概念になっている。あなたの頭の中では、「縦の長さと横の長さを表す数字13と27を電卓にインプットして*ボタンを押せば表示されるその数字が面積になるような図形」と考えられています。

すこし表現方法は違いますが、同じ面積を計算できるので、話は通じるでしょう。表現は違っていても実際上、話が通じて協力できれば、運動共鳴は成り立っている、といえます。この場合、「縦が13メートルで横が27メートルの長方形」という抽象的なものは、あなたと私という二人の人間が共有する運動共鳴として存在しています。

ここで、過去をさかのぼって、存在というこの不思議な現象を人々がどのように考えてきたかを、ごく簡単に整理してみましょう。

人類発生以来、個々の人々は毎日の生活に忙しくて、存在などという抽象的な概念を深く考えている暇などありませんでした。現代人である私たちも、もちろんそうです。それでも、世界がここにこうあるということ、世界がここにこうあることが私たちに分かること、現実に物事がこういうように起こっていくこと、それはなぜか?なぜそうなのか?現実はこうであって、ああでないのはなぜか?そういう疑問が、ときどきは話題になったり、歌や詩になったりします。

職業としてこういう話を語る哲学者や詩人、小説家がいる。また宗教は昔からこの話を聖書、経典に書き込んでいます。この世は神様がこう作ったからこうなっているのだ、と言われれば、そうかなとも思える。世界はこうなっているからこうなっているように見えるのだ、と言われればそうかなと思えます。

目に見えるものは目に見えるように存在している。しかし生老病死など私たちが特に関心があるものがなぜ起こるのか? なぜこうなのか? どのようにして起こるのか、目で見てもよく分からない。科学を進めても分からない。目に見えないものがあるらしい。目に見えないものは目に見えるものより偉大で人生への影響力が強いのかもしれない。とも思えます。

そういうような話は、一般の人が考えてもしかたがない、宗教や哲学の専門家にお任せしておけばよい、ともいえます。しかし、哲学が職業としてなりたち、宗教が社会に認められているという事実は、そのような話が一部の人だけの関心事ではなく、だれにとっても、人生においてある程度重要な問題だと考えられているということでしょう。

古代ギリシアから始まった西洋古典哲学でも、存在論、認識論、形而上学、という学問が体系的に作られてきました( BC三三〇年頃 アリストテレス形而上学』既出)。古典哲学でなされた存在に関する議論は、物事とは何か、物質とは何か、概念とは何か、という素朴な考え方を発展させたものです。その後この存在論は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの神学の基礎となって現代人の世界観の下敷きを作っていると見ることもできます。したがって、これらの古い存在論は、現在私たちが日常的に使っている考え方とあまり違わないように見えます。

近代(十七~十九世紀)から現代(二十~二十一世紀)へと西洋哲学が展開するにしたがって、哲学者たちが唱えるいろいろな概念は、私たちが日常使う言葉から離れていきます。近代以降は、特に世界の存在の意味合いが、古典哲学のいう存在の概念とかなり違ってきています。概していえば、世界はだんだん影が薄くなっている。近代から現代に近づくにつれて、すべての物事の存在感は薄くなってきている、拙稿の言い方を使えば、存在が存在する必要性は薄れてきている、人と人とが物事の存在を共有する必要が少なくなってきている、といえるでしょう。

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存在は理論なのか(13)

2011-06-11 | xx5存在は理論なのか

実際、物事が存在しているという感じは、個々の感覚器官の働きというよりも、その状況で身体全体がどう反応していくかを感じ取ることで、私たちはそれを認知しているようです。その物事に対して私たちの身体がどう反応しているのか、その物事に対して仲間の身体がどう動くか、さらにそれらに対応して私たちの身体がどう共鳴していくかを感じ取れば、その物事がどのように、どの程度はっきりと現実に存在しているかが明らかになります。

私たちの身体はこのような仕掛けによって、現実に存在する物事と非現実的な夢や幻想あるいはバーチャルな作り物との区別を無意識のうちにしっかりと見分けていきます。私たちは、自分たちの身体がそのようにして現実の物事に囲まれて客観的世界の中央に置かれている、と感じることができます。そのような自我と客観的現実世界の存在をだれもが感じていて、その構造はだれが感じ取ろうとも同じものである、と感じられます。そういう前提の上に、人間の文化と言語は作られています拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」

また、逆に文化と言語が確立することで客観的現実世界の存在が確固としたものとなっていきます。この意味で、私たち現代人にとっての現実世界と私たちの文化、言語、文明は互いに支えあって人類共通の世界認識を作っている、といえます。

この現実世界が自分の目で見たままであることを周りの仲間の動きから共感でき、親しい人々も見知らぬ人々も、人間であればだれもが同じことを感じていることを共感でき、さらにそれを言葉で語り合い、仲間とともにそれについて語り合い、共感を深めていく。このような仕掛けによって、私たちは確固とした客観的現実世界の存在を確信できます。その現実世界は人類文明が発達するにしたがって確固とした物質的空間として存在できるようになりました。言語が発達し、哲学が発達し、科学が発達したおかげで、人々は共通の現実世界を感じ取ることができるようになり、そこに見える物事はどういう物事であるのか、はっきりと知り、それを言葉で語ることができるようになりました。

現代では、物事は言葉で語れるばかりではなく、写真映像で記録し、ビデオ動画を撮影し録画録音し、画像をスペクトル分析して物質構造の変化過程を数値データとして微細に記述できるようになりました。

物事の客観的な存在によって映し出されているこの現実世界、という現代人には自明の世界観も(拙稿の見解によれば)、人類文化の進化の過程で作られてきたものでしょう。人類の文化は(拙稿の見解では)、言語や画像やシンボルや共同作業や儀式を使いこなして、現実世界をそのメンバーがそれを同一の存在として認知し共有できるように作り上げる仕掛けです。人類の進化過程は、言語と文化を発展させることで、客観的現実世界をだれが感じても同じように安定的に認知できるような存在として作り上げてきた、といえます。

現代は都市文明が発展し、私たちの日常生活はすみずみまで人工的な物質構造によって支えられていると感じることができます。現代の都市生活に映し出されている客観的な物質構造による現実のこの存在感の強さは、数十万年前から数千年前までほとんど変化のなかった過去の狩猟採集生活から比べれば、格段に堅固なものとなってきています。

現在私たちが感じ取っている現実の存在感は、これ以上堅固になることは想像しがたいという意味で、すでにピークに達しているともいえるでしょう。現代人にとって科学と経済の客観的な存在感は確固たるものとなっていて、過去に支配的であった宗教や哲学、あるいは(科学と経済に無縁な)伝統的精神文化などの存在感は消え去ろうとしているかのように見えます。このことは、伝統的慣習などで表されてきた過去の表現様式を駆逐して、科学と経済によって明晰に表現できるものだけが強烈に存在している世界が現れた、と見ることができます。

人類の認知機構は(拙稿の見解では)、動物共通の前段プロセスと、人類固有の後段プロセスの二段構えで構成されています。はじめは、もちろん、前段だけしかなかった。人類の進化に伴って後段プロセスが現れ大きくなっていきます。それでも都市文明が発展する以前は、たぶん、後段プロセスは前段プロセスの補足的役割だった、と思われます。しかし現代においては、認知機構のその重心が急速に後段に偏ってきているのかもしれません。

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存在は理論なのか(12)

2011-06-05 | xx5存在は理論なのか

このような運動共鳴により仲間の視線が自分の視線と重なり合ってその物事を見ている。その仲間の表情や身体の反応を見れば、仲間が感じている感情がよく分かる。仲間と一緒に自分はその感情にぴったりと共鳴できている、と感じられる。むしろ、自分と仲間の区別はなく、一体化した感情、あるいは空気のようなもの、を感じる。こういう場合に、仲間とともに感じ取っているその物事は確かに、客観的な現実として存在している、と感じられます。そのとき自分がその存在を感じ取っている、あるいは仲間とともに感じ取っている、という意識はあまりなく、ただ単にそこにその物事が客観的に存在している、と感じられます。これが、客観的現実を感じとる人類特有の現実感覚の起源でしょう。

仲間と共有する認知経験が、このように私たちの現実感や物事の存在感の基礎になっていますが、この仕組みは自覚できません。私たちは、単に、物事が客観的にそこに存在している、としか感じません。人類の文化が発展し、文明が発達するほど、現実の客観性は強くなっていきます。高度な文明社会の中で育つ現代人は、仲間の存在とは関係なく、むしろ自分一人で物事を客観的に見て取っていると思い込んでいます。客観的現実というものは当然、そういうものであるはずです。私たちは、客観的現実の中に自分が置かれているから、当然に、自分が周りの現実を感じ取っているのだ、と思い込んでいます。人類の文化も言語も文明も、すべて、人間どうしがこのような現実認識を共有していることを繰り返し互いに確認しあうシステムとしてできあがっているからです。

現代は、これら現実共有システムが高度に発展しているため、私たちの感じる現実の客観性はまったく疑いようがないように感じられます。私たちは、自分の目で見える身の回りの物事が実際に客観的に存在している、と確信していますね。それはまったく当然としか思えません。しかしそれは(拙稿の見解では)文明がもたらした現代人特有の自我意識の産物です。

幼児の動作を観察すると、母親の表情や声色や視線を確認して物事の存在を理解しようとしていることが見てとれます。幼児のこのような動作には、原始人類の認知プロセスの痕跡が残っている、とみることができます。大人でも初めてのことに遭遇した場合、あるいは慣れないことをする場合は、思わず仲間の目を見る。つまり仲間がどう反応するかを見て事態を確認したりしますね。これからしなければならない行動に自信がない人は目が泳ぐ。それは仲間の視線を確認しようとして身体がそう動くからです。

街角で超ミニスカートとか、目を見張るような突飛なコスプレ衣装とかを身にまとった人が歩いているのを目撃する。私たちは思わず、周りの通行人の反応を見まわしてしまいます。会社の会議で注目を集めそうなことを自分が発言しなければならない立場になってしまった場合など、思わず上司の顔を見たりする。自分が感じ取っている状況認識が現実的なものかどうかを確かめるために、私たちは仲間の視線がどこを見ているか知る必要があるのです。自分が感じ取っているからこれが現実だ、というよりも、(通行人、母親、上司、友達など)仲間がそれを現実と感じ取っているに違いないからそれは現実だ、と思う感覚です。

物事が現実に客観的に存在するためには(拙稿の見解では)、私たちが仲間の人間とともにそれを認めることが必要です。仲間は今実際にそばにいてもよいし、今いなくてもよい。一緒に物事の存在を認知するその仲間は人間であればだれでもよいが、そのとき、だれでもが同じようにその存在を認知できるはずでなければなりません。

典型的な例が実験あるいは観察による科学的事実の発見です。発見された小惑星は論文で発表され、世界中の天文学者仲間によって観測され、軌道が再計算されスペクトルが分析されて何度も検証されなければ、はっきりと存在することになりません。

科学は組織的に検証が行われる好例ですが、ふつうの街角に発見される小さな現実であってもその存在は同じように成り立つ必要があります。あそこの交番に美人警官がいる、といううわさは誰もがそれを見たと言い合えば現実の存在になるし、それを主張する人が一人しかいなくて他のだれもが懐疑的な意見を言うようならば、美人警官は実は存在しない、というべきでしょう。一方、だれがその交番をのぞきに行ったとしてもそれらしい警官を見ることができるだろうとだれもが確信する場合、その美人警官は確固として存在することになります。

このような日常的な経験を繰り返している私たちは、物事が現実に客観的に存在しているということは視覚触覚運動感覚など総合的にどういう感覚を受ける場面であるのかを身体感覚として無意識のうちに知っています。

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存在は理論なのか(11)

2011-05-28 | xx5存在は理論なのか

ふつう人間は死んだら消えるものです。それが、人が死ぬということの意味でしょう。しかしその人間がその話の話し手としての私である場合に限っては、死んでも消えることができない。私は消えないという前提でしか、私が死ぬという話を語ることはできない。消えてしまっては「私」という話し手が語るその表現が言語として成り立たないからです。消えられない私が消えることが「私が死ぬ」という表現である。そういう矛盾がある。これは存在の理論が含む矛盾でもあります。

おなじように国家あるいは民族は滅亡すれば消えるものです。こういう場合、その話をしている話し手は滅亡する国家あるいは民族の外側にいてそれを語っている。しかし世界全部が滅亡するという話をする場合、それを語る話し手は世界の中にいる。その話し手は世界が滅亡しても消えることはできない。世界が滅亡するという話をする話し手は世界に含まれている。世界が滅亡するという話が言語として成り立つためには、話し手の身体が生きて動いていなければなりません。つまり世界が滅亡するという話を語っている話し手は世界とともに滅んでいなくなると同時に生きて動いている。

これも存在の理論が含む矛盾ですね。

要するに私たちがある物事の存在について語るときは、私たちの身体がその物事の存在感を感じ取れることを暗黙の前提として語っている。それが、物事が存在する、という言語表現です。現在形であろうと、過去形であろうと、未来形であろうと、現実の物事の存在について語るときは、それが存在する時点でそれが存在することを感じ取っているはずの私たちの身体がそこにあるはずだ、という暗黙の前提がある。

過去のことを語るときは、過去のその時点に話し手の身体があることを暗黙のうちに想定して、その身体の動きがその過去の存在に対応して反応している、という前提のもとに語られる。六千五百万年前のティラノサウルスの生態について語る話し手はその時その場所に自分の身体があって恐竜の咆哮に反応して恐怖で鳥肌が立つ感覚を想像しながら語るでしょう。未来のことを語るときも、同じように、未来のその時点に話し手の身体があってその反応がその未来の存在を表現する、という前提のもとに語られています。

フィクションを語るときも、まったく同じように、話し手の身体は語られる物語のその内容の中にあって生き生きと反応することで、語られるその言語の内容が表現されます。こうして、その言語が表現する存在はそこに存在することになります。

フィクションは、むしろ現実よりも現実感がなければフィクションとしてなりたたない。オズの魔法使いがただの手品師であることが分かったとき、童話の話し手も聞き手も、ほっとしたような、またがっかりしたような反応が自分の身体にひろがることを感じるはずです。魔法使いオズが、私たちの身体の反応のそこに存在する、といえます。

物語の登場人物ばかりでなく、現実の人間も、動植物も、身の回りの物事も、素粒子や原子や太陽や宇宙も、記号や文字や概念や数学や音楽も、(拙稿の見解では)人間が感じ取れるすべての存在は、そのように私たちの身体がそれに反応することで存在する。またそのようにしか存在できません。

物事が現実に存在する、あるいは存在しない、という話をする場合、私たちの身体がその話の中の存在に対して一貫して反応し動き続けるという暗黙の前提がなければなりません。それが人間の言語の前提になっています。つまり(拙稿の見解では)私たちの身体が反応することが想定できないような場面の話をしようとしても、そこで語られる物事の存在は、はっきりとした現実としての意味を持つことができません。

さて話を元に戻して、存在の認知における後段プロセスの検討に入りましょう。

前段プロセスで私たちの身体がある物事の存在感を感じ取ったとしましょう。それを感じ取るということは(拙稿の見解によれば)私たちの身体の状態が変化しているということです。たとえば、リンゴの存在を感じ取って唾液腺が興奮状態になるというような例です。そのような身体の変化が(前段プロセスにおける)リンゴの存在感である、といえます。逆に、このようなプロセスが起こっていなければ、はっきりとリンゴが存在しているとはいえません。つまり存在の認知に関するこのような前段プロセスは、その物事が存在するための必要条件である、といえます。

しかしこの前段プロセスが起こっただけではその存在感には言葉が伴っていません。そこから後段プロセスがはじまって「××が存在する」という言葉が作られる。つまり存在が言語化される。それはどういう仕組みになっているのか?

後段の認知プロセスでは、私たちは仲間の人間と一緒に物事の客観的な存在を共有します。原始人類に言語が発生した過程では、(拙稿の見解では)実際にそばにいる仲間の動作や表情、特に視線の動き、に自分の視線コントロール(体軸の姿勢変更、顔の振り向けと動眼運動の組み合わせ運動)の運動形成を共鳴させて同じ物事を同じように見とっているという(運動共鳴による)身体感覚を感じとることで物事の存在を認知していたと思われます 拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」

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存在は理論なのか(10)

2011-05-21 | xx5存在は理論なのか

ここでちょっとややこしいケースは、私自身が死んでしまう場合ですね

拙稿19章「私はここにいる」)。その時の私の存在はどうなるのか? 死んでしまった私は存在するのか?しないのか?

私が死んでしまうという場合はその事実を感じとる私はもういない。そうするとそのことを感じて私の身体がどう反応するかも分からない。私の身体の状態自体が存在しない。そうであると、(さきの拙稿の見解によれば)私が死んでしまうことの意味が分からなくなります。他人から見て私が死んでしまうということはよく分かる。私の身体が骸骨になってしまうという単純明快なことです。しかし私から見て私が死んでしまうということはどういうことなのか?それはさっぱり分からないはずです。私がもういないという現実に反応する私の身体がもうないからです。

世界がなくなるという言葉も似たようなむずかしさがあります。世界がなくなるとだれかがそのことを感じ取って身体を反応させることができなくなりますね。ですから、私が死ぬという言葉、あるいは世界がなくなるというような言葉は、実は(さきの拙稿の見解によれば)意味不明になる恐れを含んでいます。

私が死んでしまう。あるいは世界がなくなる。こういう言葉は、詩的な比喩としては何らかのイメージを感じることはできますが、それはほかの現実と整合しません。こういう言葉から無理やり直感で意味を感じ取ろうとすると変な幻想が作られてしまいます。かつて哲学が落ち込んでいった危ない落とし穴です。気を付ける必要がありそうです。

このことを少し離れたところから落ち着いて考えると、私や世界がなくなるという言葉ばかりでなく、もともと私が存在する、あるいは世界が存在する、というような言葉がそもそも何を意味しているかにも同じむずかしさが含まれていることが分かります。話し手がいなくなった場合を想定して語る(自己回帰的な)表現になっています。こういうような言葉から無理やり直感的な意味を感じ取ろうとすることはかなり危険だといえるでしょう。こういうような自我の存在にかかわる概念を分析の対象としようとした哲学者あるいは宗教家が混乱に陥った例は歴史上多くあるようです(

一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』既出)。

このような(自己回帰的な)言葉から、無理やり直感で意味を感じ取ろうとすることは危険です。ただし、だから意味がないとか意味不明として切り捨ててしまってよいのかというと、それはそうでもないでしょう。

そもそも物事が存在するとかしないとか言う場合、私たちはその物事から少し離れて、仲間の立ち位置に立って見ている。注目する物事が皆の目の前にあって、皆でそれを見つめている。その物事は、それに近寄って手を伸ばせば皆でいっせいに触れる、と思える。あるいはその物事のほうが動いて私たち皆に接近してくる。私たちの身体に影響を与える。そういう状況にあるとき、私たちは、その物事がそこに存在する、と仲間の皆で感じる。そういう状況で仲間と共有できる感覚として、存在感という感覚が人類に発生してきたと思われます。

物事が存在する、と私たちが思う場合、仲間とともに仲間の視点でそれを認知する、という無意識の前提に立っています。そのような身体の状態が(拙稿の見解によれば)物事の客観的存在感を作り出している。私たちはそのことにあまり気が付かない。ただそこにその物事が客観的にある、と感じます。それが存在するということです。

「××がある」あるいは「××が存在する」という言葉を言う場合、その××は話し手から少し離れたところにあって、話し手は聞き手やその他その××を感じ取っている仲間の人間と一緒に××を感じ取りながらその言葉を言う。これが存在という言葉の使われ方の始まりでしょう。言語というものは(拙稿の見解によれば)そもそも仲間との集団的な運動共鳴によって作られています

拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」。実際には仲間がいなくても、そういう無意識の想定のもとに、私たちの言語というものは使われています。

「××が存在する」という言葉を使う場合でちょっとむずかしい例は、××が「私」である場合です。この場合も、「私」は話し手から少し離れたところにあって話し手と聞き手とその他の人間に見られているものである、という暗黙の前提のもとでその語は使われる。そういうものとして「私」は語られる。逆に、「私」が言葉で語られる場合そう語られるしかない。そういう前提のもとにこの「私は存在する(sum)」というセンテンスは語られる。

この言葉の中で語られている私は生きていても死んでいても、どちらにしても、話し手と聞き手には客観的なものとして見えていなければならない。言葉で語ることができる私は、そういうものでしかない。口に出す言葉でなく頭の中で思う言葉であっても、それが言葉である限り、言葉で語られる「私」は、他の人間と同じようにそういう離れたところにある客観的な存在になっています。

「××が存在する」という場合、その××が「世界」である場合、「世界」は話し手から少し離れたところにあって話し手と聞き手とその他の人間に見られている。そういう想定のもとに「世界は存在する」という言葉は語られる。世界が滅亡してしまうとしても、その滅亡した後の世界は話し手から離れたところに見えていなければならない。話し手と聞き手とその他の人間に見えていなければならない。そういう前提のもとにこの言葉はあります。言葉で語られる限り、滅亡する世界もふつうの物体と同じようにいつもそこに見えていなければならない。言語で語る限りこのような限界の中でしか物事の存在は表現できません。

そういう言語の限界から結論すれば、私は死んで消えることはできないし、世界も滅亡して消えていくことはできない。話し手と聞き手が共有する空間の中に見え続けていなければならない。そうであるので、その共有空間では私は死んでも消えていかないし、世界は滅亡しても消えてなくなることはない。つまり私は死んでも死なないし、世界は滅亡しても滅亡しない。直感と矛盾するパラドックスです。しかし、私たちの言語というものはそういうパラドックスを含んで成り立っています。

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存在は理論なのか(9)

2011-05-15 | xx5存在は理論なのか

さてそもそも、ある時点に存在した物事はなぜ別の時点には存在しなくなるのでしょうか? この世界にある物事は(拙稿の見解によれば)それが私たちの生活のために必要である場合に、それを利用しやすいように私たちの身体を変化させることで、それが存在するようになる。拙稿のこの見解を採用すれば、物事に対する私たちの身体の反応を見ればどのような物事がどう存在しているのかが分かるはずです。

同じ物事でも、私たちはある場合はそれをこう利用するけれども、また別の場合は違うふうに利用する、ということがあります。そういう物事は、その時その時に必要な別々の物事として、それは存在することになります。

新聞紙などは、防寒用下着の代わりになる。爪を切って捨てるときに使う。折りたたんで入れ物にもなるようです。兜も折れる。また当然ですが新聞を読む場合に使えます。それぞれの場合、そういうものとして存在しています。

またたとえば、子供向けの本などによく載っているダマシ絵を見てみましょう。左右対称の壺の絵があります。ルビンの壺というダマシ絵です。よく見ると左右から向き合った二人の左右対称な横顔になっています。壺とみると人の横顔は見えなくなる。横顔とみると壺は見えなくなります。

壺が存在すると横顔は存在しない。横顔が存在すると壺は存在しない。壺と横顔が同時に存在することはありません。同じ絵なのに存在する物事は違う。壺が必要なときは壺が存在する。横顔が必要なときは横顔が存在する、といえます。つまり、私たちの身体がそのときどちらに反応するか?それでどちらが存在するかが決まる。どちらに身体が反応するか?それは、そのときの私たちの身体が求めている物事がどちらかで決まります。壺を求めていれば壺になる。横顔を求めていれば横顔になる。

似たような効果を持つダマシ絵には「アヒルかウサギか?」というものもあります。同じ絵がアヒルに見えたり、ウサギに見えたりする。アヒルのくちばしに見えたところがウサギの耳に見えたりする。この現象を、拙稿の見解で理解すれば、身体がアヒルを求めていればアヒルが現れる、身体がウサギを求めていればウサギが現れる、ということです。そういうものが現実である。私たちは本当にこの絵を見ているのか?私たちが見ているのはアヒルであるかウサギであるかであって、この絵ではないだろう(一九五三年 ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン哲学探究』既出)ということになる。私たちの身体はそういうふうに現実を感じるようにできている。そういうものが現実である、ということができます。物事が存在するということは、そういうことである、ということができます。

ダマシ絵はそれくらいにして、実物で見てみましょう。

目の前にリンゴがある場合と、そのリンゴがリンゴでなくなった場合とでは、私の身体の反応が違います。私たちの身体の内部状態が違う。少なくとも脳神経系の状態は違う。おそらく自律神経系や心臓血管系や分泌腺や筋肉の緊張度合も微妙に違うでしょう。たとえばリンゴがある場合は唾液腺が興奮していたりします。

無機的なものではなく、有機的なもの、生きているもの、特に身体があり顔がある動物や人間の存在は、より強く私たちの身体を変化させます。だれか人が私たちのそばにいる場合、私たちの身体は誰も人がいない時とは明らかに違う反応をしています。

よく知っている人の存在の影響はさらに強い。自律神経系などは、嫌いな人が近寄ってくれば緊張するし、親しい人と一緒にいるときは緊張がほぐれます。テレビを見ていても嫌いなアナウンサーやタレントがしゃべっているときはリラックスできない。好きな俳優の顔が出ると気分がよくなります。人のことを想像するだけでも違う。人が生きている場合と死んでしまった場合とではその人を思う時の私たちの身体の状態が違います。その物事が存在するということは、そういう私たちの身体の状態のことである、と(拙稿の見解によれば)言えます。

たしかに目に入ってくる光が網膜に映す映像を感じて、私たちの身体がそういう変化を起こすのですが、私たちとしては、身体が変化した結果を感じることで自分が映像を見ていることを知る。(拙稿の見解によれば)映像が先ではなくて身体の変化が先です。身体が変化することでその物事の存在が分かる。そしてその存在を見ている自分に気が付く。それと同時に自分の目がその映像を見ているという自覚が湧き上がってきます。

物事が存在しているか存在していないか。それは私たちの身体がその物事が存在しているとして反応するか、それとも、存在していないとして反応するか、によって決まる、と(拙稿の見解によれば)いえます。

目の前にその物事が見える場合ばかりでなく、それを想像する場合も同じことです。想像する物事が存在するかしないかは、それを想像するときに私たちの身体がどう反応するかで決まる。お化けの話を聞いて、身体が硬くなって膝ががくがくして舌が乾いてきて逃げ出したくなったら、そのお化けは、身体をそういうふうに変化させるものとして、存在しているのです。

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存在は理論なのか(8)

2011-05-07 | xx5存在は理論なのか

さてここで後段プロセスの話を始める前にしっかり確認しておかなければいけないことは、前段プロセスでの言葉にならない無意識の認知があってはじめて、後段プロセスの言葉が浮かんでくることです。

この

言葉にならない無意識の前段プロセスを進める脳神経系のメカニズムは、現代の脳神経科学ではまだ解明されていません。現代の脳機能画像化技術だけでこれを解明することはむずかしそうです。このメカニズムの解明は、神経細胞単位の微小かつシステム的な観察技術の開発がなされるであろう次世代の脳神経科学における最大の課題のひとつとなるでしょう。いずれにせよ、現在の科学知識で私たちが分かることは、人間の脳神経系の状態が認知プロセスの始まる前と前段が完了した時点と後段が完了した時点と三つの時点でそれぞれ別の状態になっているということです。そして後段プロセスは前段プロセスが完了した後でないとはじまらない、ということです。

たとえば、リンゴがそこに見えるとしても、前段プロセスで身体がその存在感を認知しなければリンゴは存在できません。前段プロセスでリンゴの存在感が成り立たない例をあげてみましょう。

まず私がこのリンゴを見ないうちに、だれかが来てリンゴを粉砕してしまうことを考えてみましょう。その人はリンゴをミキサーに放り込んでこなごなに粉砕してしまいました。そのジュースに庭から拾ってきた泥をまぜてよくかきまぜています。さらに、台所から粉せっけんを持ってきてまぜています。さらに冷蔵庫から卵を出して割って殻ごとぐちゃぐちゃにかきまぜています。さらに押入れから古いパソコンを持ちだしてきて金槌で粉々に粉砕して破片を先の混合物にまぜあわせて練り合わせています。ついでに細かくちぎった紙くずとセメントも少しまぜてしまいました。もう何が入っているか分からないぐちゃぐちゃの混合物ができました。さあ、これは何でしょう? 

まさにゴミですね。生ゴミかな?いやプラスチックも入っている。金属も入っている。分別しないゴミですから、清掃局に叱られてしまいます。

さて、私はこの混合物の作り方を見ていなかった。私は目の前にある不規則な形をしたぐちゃぐちゃのかたまりを見ています。たしかにリンゴが粉砕されてこの混合物の中身に含まれています。しかし私にとって、ここにリンゴは存在していない。なぜならば、リンゴの匂いはほとんどしないし、おいしそうなリンゴの片鱗もないし、食べられるものはまったくないし、目で見ても何があるのかさっぱり見分けがつかない。

つまりここにある何かは、ゴミですね。

ふつうゴミは一目見てそれがゴミだと分かる。ゴミ置き場にそれらしく置いてあるからです。そして見るからに役に立ちそうにない。

役に立たないものはゴミである。ゴミというのは、それが存在することを人間が必要としないもののことである。そうであるから、ふつうゴミは存在していないことが多い。自分の受け持ち空間を清潔に維持しなければならない場合だけ、そこにゴミは存在している。きたないのがいやなところにだけゴミは存在している。ゴミが存在していると私が思わないとそこがどの程度清潔でないのか分らなくなってしまって困るから、そういう場面でゴミは存在している。

今私にはゴミは見えるけれどもリンゴは見えない。リンゴは粉砕され、ほかの物質と混じって分からなくなった。こうしてリンゴはなくなった。リンゴがリンゴでなくなりました。存在しなくなりました。

私が死んでしまうと私はいなくなる。私の身体が骸骨になってしまう。その骸骨もいずれ塵になってしまう。私の身体であった物質は塵や灰になってしまう。私は私ではなくなる。私がいなくなってしまう。私は存在しなくなる。災害で町は破壊されてなくなってしまった。町だった場所が一面瓦礫の山に覆われてしまった。町が町でなくなってしまった。町は存在しなくなった。数十億年後には太陽は燃え尽きて膨張し地球も巻き込まれる。地球は地球でなくなる。地上の世界は消えてしまう。

こうして、物事は存在しなくなる。物事が存在しなくなる場合はいつもこうです。逆に言えば、存在しなくなるということはこのようなことを言っている。

破壊されると存在しなくなる。死ぬと存在しなくなる。破壊、死、なくなること。たとえば死ぬことを亡くなる、という。このように言葉を言い換えることができる、といえます。

そうであるとすれば、世界がなくなるということは、世界が破壊されること、世界が世界でなくなること、と言い換えることができるはずです。実際、直感でこの感じは分かりますね。

リンゴが破壊されても植物細胞は残る。細胞が破壊されてもDNA分子は残る。分子が破壊されても原子は残る。原子が破壊されても素粒子は残る。素粒子が消滅してもエネルギーは保存される。しかしリンゴはもうない、というべきでしょう( 二〇〇五年 クロフォード・エルダー本当の自然とよくある物体たち』既出)。

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