哲学の科学

science of philosophy

現代を生きる人々(5)

2020-10-17 | yy75現代を生きる人々


自分たちの理想のために、あるいは少なくとも理想と思い込ませられる大義を掲げて国家財政をコントロールし警察や軍事組織を恣意的に動員できるトップエリート層は、現代において、どこにいるのでしょうか?
現代の世界で、理想を掲げて恣意的に社会をリードしていけそうに見えるのは、権威主義的な体制の社会で軍隊と警察を背景に持つ権力構造に乗っている人々です。たとえば汎中華圏の世界的拡大という大きな物語を語る中国共産党の指導者でしょう。
ちなみに日露戦争後の日本の興隆を起源とし、現在、共産中国に引き継がれたアジアの台頭は、欧米の有色人種嫌悪感情を潜在的に刺激し、逆の大きな物語の流れを作り出しているとの見方もできます。
小説グレートギャッツビー(一九二五年 スコット・フィッツジェラルド「グレートギャツビー」)の中には「彼らを監視して物事をコントロールできるかが我々支配人種の課題だ(訳筆者)」という(イェール大学出の富豪の)セリフがあります。

一方、現在の欧米や日本のような民主主義先進国では中国のような権威主義的な構造を構築してパワーを発揮する手法は無理と思われます。 
アマゾンは世界中の小売店や中小店舗を根絶やしにしてしまうかもしれません。しかしアマゾン党というエリート階級が形成されて司法警察や国家権力を握ることはなさそうです。
大資本としての金力と人脈で政治を操縦しマスコミや司法を支配すればよいではないか?しかしそれは民主国家では不可能でしょう。賄賂、政治献金、天下り人脈など各種手法は当然駆使できますが、それら迂遠な間接操縦法では強力な独裁権力は作れません。






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現代を生きる人々(4)

2020-10-10 | yy75現代を生きる人々


平和が続きフクヤマのいう平等願望(isothymia)が強まっている現代は、超人的な支配意欲をもって新しい大きなものに挑戦する勇者は出なくなっているのでしょうか?かつて優越願望(megalothymia)に取りつかれて世界制覇を目指したチンギス・カンやナポレオンのような世界英雄は、今、どこに行ったのでしょうか? 

平和で資本主義大繁栄の現代、貧富の格差の頂点にいるといわれる世界の超大富豪が現代のトップパワーエリートなのか?
世界の資産総計の六割がトップの超富豪二千人に握られているという統計調査があります(資産の把握は実際かなり困難で統計者によって結果は相当異なる)。いずれにせよ、この人たちは現代の最大パワーを持っているのでしょう。それにしては、彼らはなぜ、かつての英雄たちのように次の歴史を作れないのか?
たしかにトップクラスの彼らは、かつてのアルフレッド・ノーベル(一八三三年―一八九六年)のように、慈善事業や社会貢献、国際貢献に自己資産をもって支援しています。また新興ベンチャー企業への投資や買収など新分野開拓を目指して高リスクの投資行動をします。これらの行動は、しばしば、社会に有用な刺激を与えています。
これら超富裕層が国家に協力して先端分野などにリスク受容の投資行動をとるとすれば、超富裕層の多い米国や中国などは世論や議会を超越して将来の国際競争力を増やす先行投資ができることになり、超富裕層が少ない日本などは、この観点では、不利になることになります。
巷で叫ばれるように、財産税や累進課税を強化して富裕層には重税を課し、低所得層に再配分すべきでしょうか?一方には、しかしながら、富裕層からとりあげた税金の配分を議会と官僚に任せるよりは、独創的な理想を持ち誠実で賢明なトップ事業家の意欲に任せて自由に新規分野に資金を投じてもらうほうが国際競争に勝ち抜けるので長期的には国民に有利である、との意見もあります。当然、少数意見ですが。
もし善意あるいは悪意をもって超富裕層が資金力を自在に活用して政治とマスコミをコントロールできるとしても、彼らとて、かつて国民を熱狂させて革命戦争を拡大し、世界史を国民国家の時代に塗り変えたナポレオンのような変革力は発揮できそうにありません。
まさに現代、歴史はすでに終わってしまったのでしょうか? 








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現代を生きる人々(3)

2020-10-03 | yy75現代を生きる人々


さて現代、生活費の獲得は昔ほどむずかしくありません。江戸時代の失業サラリーマン、つまり浪人は、笠張や辻斬りしか世過ぎの道がありませんでした。ちなみに当時でも大阪堺の町人は次々と新規の経済システムを開発して多様な発展を遂げていました。一方、エリート層であった旗本御家人は鎖国による天下泰平が続く中で退嬰的保守的になり頑迷固陋なリスク忌避の勢力集団に縮退していきました。
天下泰平の幕藩システムが崩壊した明治期、大混乱と自由乱雑の時期には士族からも平民からも独創工夫あるいは西洋の模倣による成功者が続出し、新式の生産システムと経済システムが大発展しました。第二次世界大戦敗戦後の日本も大混乱と自由乱雑がその後の経済発展の契機となった、とみることができます。

システムの崩壊がなくなった現代、時間とともにあらゆるシステムは成熟しさらには部分最適状態になってきます。自由度が減り気体は液化し、さらに固体化していきます。つまり安定を指向する最適化だけではランダムな自由を失って動きが鈍すぎるシステムになってきます。
若者の人生における選択の自由が、自由奔放とまではいわなくとも、もっと大きくてよいでしょう。職業の多様な可能性。失敗のリスク。転職、起業、再入学など社会への参加に関して、失敗しても繰り返し挑戦可能、というような社会システムの再構築が課題となってきます。
転職支援センター、企業インキュベーター、ベンチャーキャピトル、リスク投資促進施策など、政府行政による対策も出てきています。 
しかし実際は、個人のレベルでは、年長者はもちろん若年層でも、リスク忌避傾向が近年ますます強まっています。相補的に既存のブランド組織の安定性への信仰は強くなってきています。ここには政策改善や社会システム改良では解決できそうにない深い問題がありそうです。








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現代を生きる人々(2)

2020-09-26 | yy75現代を生きる人々


まず、どうやってパンを手に入れるかですが、ベーシックインカムは実現しないとしても、昔に比べて糊口程度の収入を確保することは楽になりました。一方、有効求人倍率が高止まりしているわりには、なかなか満足できる仕事のポジションが見つかりません。この競争時代、みながよいと思う社会ポジションはいつも飽和状態のようです。
不満な職場でしかたなく働く。身体は飽食しているのに心は荒廃していく。
物質的豊かさがピークに向かう現代、精神的豊かさは、逆に、どこまでも奪い去られていくかのようです。
ここで問題は横並び願望(フクヤマのいうisothymia)ですね。特に日本では強い。同調圧力がかかり競争圧力がかかる。米国英国などに比べれば格差はずっと小さいにもかかわらず、同世代との競争から落ちこぼれる恐怖が強い。終わりのない競争のストレスにさらされ続けて人々はますます不幸になっていく、といわれます。

時代は変わっていくのに前時代のブランド崇拝が、時間遅れで、根強く残っているからでしょうか。
何を求めて苦しんでいるのか?前世代が信じていた古い終身雇用組織や年功序列で取得できる肩書ステータスの社会的価値が現代でも高止まりしています。たしかにこれら価値システムのプラットフォームである伝統的な大会社や公組織に所属することを人生の目的とする人々はいまだに減っていません。そこに所属するだけの経済的メリットは前世紀までは相当高かった事実がありますが、今や急速に下落しています。しかし問題は経済メリットではなさそうです。
ブランド組織への信仰とでもいうべきものでしょう。承認欲求であるとか所属欲求であるとかいわれる自尊心にかかわる(大きなものへの)指向性は宗教の基盤でもあります。組織的宗教が消滅しつつある現代のこの時代に、それ(大きなものへの指向性)が潜在的に大きな社会心理となっていることは皮肉なパラドックスです。特に無宗教といわれる日本社会で伝統的な終身雇用組織への就職希望が現代も増え続けていることは、単に経済問題と割り切るべきではないでしょう。






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現代を生きる人々(1)

2020-09-19 | yy75現代を生きる人々

(75 現代を生きる人々 begin)



75 現代を生きる人々


歴史の上で現代とは何か?一言でいえば、世界中が豊かになった時代でしょう。ソビエト連邦崩壊から三〇年、かつてなく平和で退屈な世界が続いています。
平和が続き、世界戦争はもう来ないようである。かつて先進国といわれた欧米や日本ばかりでなくアジア南米アフリカのいわゆる新興国、開発途上国においても、少数の例外を除いて、世界中すべての国で平均寿命は上極限に向かって延び続け、生活水準と生産性は急成長しています。
この永久平和と永久繁栄の中にあって問題は、退屈と貧富の格差でしょう。

ローマ帝国の繁栄が頂点を極めた頃のようです。この古代帝国の辺境は当時の交通手段で到達できる距離の限界に達して、生産システム(ラティフンディウム)は(奴隷制生産)効率の極限に達していました。経済格差は極端に二極化し、中間層であったローマ市民は没落していきました。
平和が続けば、資本が寡占状態にまで集中蓄積され、科学技術が発達し、生産性が技術の限界にまで上がる。それらが量的に臨界点を超えれば、当然、底辺が上昇すると同時に上方への富の集中は極大に達し、貧富の格差は歴史上最高になります。

生活が安全で便利になり、多くの人がスマホを所有しています。物資は豊かになり、生活の上で不条理な危険に合う確率は極小にまで下がり、そこそこにサバイバルしていくことはそれほどつらくありません。平和が退屈なのは当然ですが、大きな物語が消えてしまっている現代(一九七九年 ジャン・フランソワ・リオタール「ポストモダンの条件 La condition postmoderne: rapport sur le savoir」)の退屈は根が深く脱出がむずかしそうです。
優秀なエリートと諸国民が成功と覇権を求めて戦った歴史時代が終わり、自由と平等が最後に勝ち残って全世界に広がる時代が到来した(一九九二年 フランシス・フクヤマ「歴史の終わり The End of History and the Last Man 」)ように見えます。もしそうであれば、戦いに勝った満足感と戦い続ける必要を失った寂しさが現代人の退屈に表れていることになります。

その現代をどう生きるか?
ローマ皇帝は市民にパンとサーカス(panem et circenses)を与えましたが、帝国の崩壊は止まりませんでした。どうも平和と経済の繁栄だけではダメなようです。
では私たち現代人は、何を求めるべきか?





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