哲学の科学

science of philosophy

勉強が嫌いな人々(10)

2020-02-23 | yy72勉強が嫌いな人々


これはどこかおかしい。そう思っても現代社会の宿命のような勉強至上主義は改めるすべがありません。
無理にでもこれを改めて、勉強が嫌いな人々を救うためには、相当な荒療治が必要です。拙稿本章では、ここで空想の荒療治を考えてみましょう。

まず就職のために学校での勉強が必要というシステムを止めさせる。企業の採用試験が学歴を重視している現状を改めなければなりません。
しかし学歴を見ることで優秀な人材が選別できるという信念が採用側にある限りこれは困難でしょう。学歴以外に、勉強と関係ないもっと優れた選別基準を与えなければ、採用者の行動を変えることはできません。
自社独自の高品質な入社試験、信頼できる社内あるいは社外の人物からの推薦、複数面接、インターン、実務経験重視、人材ハンティングその他、コストのかかる採用選別方式も一部企業では試行されていますが、良い決め手は見つかっていないようです。

それでは、とにかく国が、強制的に法律などで学歴採用を禁止したらどうなのでしょうか?まあ、世論が許さないでしょうね。
それでも、仮に空想で、ですが、採用試験において学歴学校歴を知って選別してはいけない、というルールが強行されたと仮定します。
応募履歴書に学歴を書いてはいけない、面接で学歴を聞き出してはいけない、とする。さらに徹底して、罰則税制を作る。たとえば大卒者に支払う給与と非大卒者に支払うそれとの差額を企業から税として徴収する、としましょう。
空想のそういう世界はどうなるでしょうか?

まず企業は大卒優先の採用をやめるでしょう。大卒と非大卒との収入格差はなくなる。
大学へ行かなくてもよい、となれば、高校へも中学へも行かなくてもよい、となるかもしれない。青春まっさかりの大事な年月を学校で鬱々と過ごす代わりに、好きな仕事をして好きな人たちと交流しながらお金を稼げる、とします。
十代から、働いて得たお金でこつこつと貯金や株投資をしてもよいし、憧れのプロジェクトチームのインターンになるのもよし、趣味や恋愛やレジャーに夢中になってもよいし、世界放浪してもよし、親の家で家業を継いだり、あるいはニートになったり、時々アルバイトやボランティアでもよし、インターネットの動画やオークションや中古品販売で稼いでもよし。もちろん、起業して社長になってもよし。いずれにせよ生活費は楽に稼げるとなれば、親に気兼ねせず自由に生活できます。
世間がそれを当然と認めれば、小学校の先生やテレビ、マスコミが、青少年は大学や高校に行く必要なし、と教えはじめます。そのうち中学も行かなくてもよし、となってくるかもしれません。







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勉強が嫌いな人々(9)

2020-02-15 | yy72勉強が嫌いな人々


学生が減れば教員も減る。数が少なくなる大学教員には高い給料と研究資金を与えて優秀な人材を世界中から募集する。もちろん、ノーベル賞が取れそうな人には奨学金や生活資金を与えて大いに研究してもらう。

これはしかし、いわゆる、昔に戻れという復古主義です。今どきこんな事をいう人は少数です。しかもたいていは成功主義者です。学校に行かなくても社会的経済的に成功できる事例がある、だれにも成功の可能性は開かれている、という主張です。これは、逆にいえば、成功できない人は切り捨てられるのみ、という乱暴な意見に聞こえて多くの人に嫌われるでしょう。

政府も学習課程を改定し、役に立たない勉強を減らす方向に改革も進めています。しかし、週五日制の学校制度はしっかり維持するという前提に立っています。
勉強が嫌いな人はしなくてもよい、学校に行かずに就職すればよし、という方向への(働き方?)改革は、政府も教育界も、だれも取り組もうとしません。まずマスコミがそういう考えは拒否するようです。
勉強が嫌いな者は学校に行かなくてもよし、とはだれもいわない。むしろ、勉強が好きになれ、好きになれるはずだ、若者はぜひ学校に行って勉強せよ、なるべく上の学校に行け、そのためにどんどん学校や大学を増やしていこう、となっています。
実際、学校や大学はますます増え、近い将来、ほとんどの若者は大学生になるしかない、という時代が来るでしょう。二二歳あるいはそれ以上まで勉強は続く。それも毎日の生活で勉強最優先といわれ続ける。いわば勉強至上社会になっていく、といえます。人はだれもが、勉強するために生まれ生きていく。それはユートピアなのか?なにか、疑問ですね。






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勉強が嫌いな人々(8)

2020-02-08 | yy72勉強が嫌いな人々


昔は勉強が好きな人だけが勉強した、ともいわれます。事実としての昔がそれほど牧歌的であったかどうか疑問がありますが、ロマンとしてそう思いたい。
それでは、その(ロマンとしての)原点に戻って、勉強が嫌いな人はしなくてよい、と徹底したらどうなのか?
学校や大学は勉強が好きな人だけが行く。行かない人も人生で不利になることにはならない、という社会が作れないでしょうか?空想の世界ですが、どんな世界になるでしょうか?
そうすると、学校に行かない若者が多くなるでしょう。昔は、中学校くらいから、学校に行かない若者が行く者よりも多い、という状態がふつうでした。たいていの子供は学校に行かずに働きに出ました。あるいは家業や家事を手伝った。ではその昔のように戻して、小学校卒業くらいで皆、それなりに満足できる職業につけるとしたらどうか?少なくとも嫌な勉強はしなくてすみます。

おとなになってから英語や方程式など使ったこともない、そういう勉強は不要、無駄という意見が多いことからして、おおかたの社会人は、生活と仕事の場面で、高等学校以上の知識はほとんど必要としない、と思われているようです。学校の勉強を経験しなくても支障なく生活できる、と思われている、ということかもしれません。図書館で本を読めてインターネットで検索できる人ならば中学校もいらない、という意見もあります。
大学で習う高度な知識を必要とする少数の専門家、科学者、医師、弁護士、エンジニア、教師、官僚などだけが高校や大学に行けばすむ。他にリーダーになる経営者や政治家などは大学程度の一般教養は必要でしょう。

空想の中ですが、もしそうできたとすれば、職業の必要から大学や大学院に行かなければならない人は同世代人口全体の一割くらいでしょう。そうなれば九割の人は勉強から解放されます。
もちろん、勉強が嫌いではない人は強いられなくても大学へ行くでしょう。また人生の途中で大学に入学、復学する人も多くなるかもしれません。それらの人数を加えて同世代の二、三割の人が大学へ行くとしても現在の大学進学率五割よりはかなり減るでしょう。











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勉強が嫌いな人々(7)

2020-02-01 | yy72勉強が嫌いな人々


自分がつらい勉強を強いられるのは嫌だが、他の人は大いに勉強して教養と良識を身につけ、その成果として安全で生産性の高い良い社会を維持して欲しい、それができる人材の品質保証が学歴だろう、とだれもが思っている、ということでしょう。
学歴競争を抑制できない二番目の理由は、学歴の獲得が、若者の将来の幸福に不可欠だ、という思い込みがあるからでしょう。これは後で述べるように、学歴と社会的地位およびそれに伴う収入その他の利得が深く結びついているという社会通念から来ています。そうであれば、受験競争は、個々人の信念からくる競争を外的な圧力で抑制しない自由で健全な社会である証拠といえるでしょう。
その他、これも後で述べますが、学歴が社会階層を表現する属人的なシンボルであるとの思い込みも学歴競争の背景にあるようです。
これらの理由により学歴競争は続く、といわざるを得ません。
まあ、それでも、我慢してつらい勉強を耐えた者たちによって安全で生産性の高い良い社会が維持できるのであるからしかたないではないか、という暗黙の了解が政府にも、教育界にもあるようです。

はたして、我慢してつらい勉強を耐えた者たちが作る社会は、本当に安全で生産性の高い良い社会なのか?まあ、現状の社会がまあまあ満足できる程度に良い社会であると思うならば、今のやり方も大きな間違いはなさそうである、ともいえる。
しかし逆に、これほど多くの若者に青春の全期間、極端な我慢を強いなくてもまあまあ良い社会は維持できるのではないか、という疑問が残ります。この思いが皆さんにある限り、学校改革や入試改革は提案し続けられるでしょう。

これほどつらいといわれる勉強をすべての若者に強いる事自体が間違いではないか?という思いも、実は私たちだれもが持っている。しかし学歴競争がある限りやめられそうにありません。
勉強のつらさはどこまでもついてまわる。実際、登校拒否、中途退学、あるいはそれらがきっかけとなった若年者の鬱屈、敗北感、挫折感が精神を傷つけ、それが自暴自棄、自己放棄の行動につながる、というような事態は増えてきそうです。











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勉強が嫌いな人々(6)

2020-01-25 | yy72勉強が嫌いな人々


もともと身体に合わないから嫌いである勉強が、社会的抑圧と認識されると、ますます逃げたくなります。嫌いな学校に閉じ込められる若者は、実際にそこから退出(登校拒否、中途退学)したり、実質的に退出(サボリ、内職)したりします。退出者が少数である場合には、残りの健全な若者を効率よくまとめるために、落ちこぼれは排除できるシステムが便利です。
落ちこぼれの割合が相当な割合になると、これは困る。学校制度を改革する必要が出てきます。落ちこぼれる若者と、こぼれない者とを分けて取り扱う制度を考えるとか、勉強内容をぐっと易しくする、とかの対策がとられます。

しかし若者を選別したい側、採用企業や人事担当者の側からすると、いずれにしろ、落ちこぼれずにつらい勉強に耐える者だけを見分ければよい。それには正しく学歴を判定すればよい。正規の学校に通って正規の課程で教育された若者を選定すればよい、ということになります。情実や不正や偶然の要素が入らないような正規の卒業証書を得た者を選定する作業になります。
何が正規なのか、ふつうそれは政府が決めます。各国の政府は国際競争を意識しますから先進国の教育は結局似たようになります。他の国も追随する。教育のグローバリゼーションです。
しっかりした国ほど、正規の教育が普及するでしょう。これは良いことですが、それで勉強が嫌いな若者が救われることにはなりません。情実や不正や偶然の要素が排除されるほど、平等さが増すほど、競争は激化します。根本にこの構造がある限り、学校改革の成果は、結局は、勉強のつらさを緩和することはできないでしょう。

勉強のつらさの根本原因が学歴を求める競争にあるならば、競争を抑制すれば、つらさも少なくできるのではないか?たとえば、性別で差別することを禁止するように、学歴、学校歴で差別することを禁止したらどうでしょうか?
ところが実際は、禁止できない。なぜか?まず、禁止する必要がない、という意見が世の中に多くあるからです。若者を勉強に駆り立てるには学歴獲得を目指させる必要がある、学歴獲得が社会への入り口である必要がある、という考えは、実はかなり根強い。









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勉強が嫌いな人々(5)

2020-01-18 | yy72勉強が嫌いな人々


たとえば、クロスワードパズルを勉強しています、と言っても、ふつう勉強とは思ってもらえません。楽しみで楽にしている、と思われるからです。
現代経済学を勉強しています、GDP概念を理解しました。と言えばいかにも勉強家らしい。上司に言われたのでGDPR(欧州一般データ保護規則)への対策を研究しています、とか半値八割二割引(下げ相場の格言)を応用しています、とか言う場合、ふつう、実務ではあるが勉強という範疇にあるか、疑問ですね。

勉強とは、たいていは、顔も知らない大先生が書いた抽象的な文章や数式を苦しみながら理解して、自分で応用できるようになることです。楽にできるようならば、勉強とはいえないでしょう。

社会にとっては、協力する能力が高い人間が役に立ちます。社会を支配しているシステムの維持拡大を求める人々は、そういう人を選んで仲間にしたい。選別のために評価したい。それは長期間、学校に通ってつらい勉強に耐える能力を評価すればできます。
学校に通って勉強に耐える能力を評価する制度が学歴であり採用試験です。それによる選別の結果、若者の社会的価値、つまり収入と待遇の格差ができます。
そうであるから、社会の入り口における競争、つまり学校での勉強における競争が激化する。若者はまず学校の入り口に殺到しなければなりません。それは学校への入学と卒業の人数枠をめぐる争いになります。
受験競争といわれるこの状況においては、勉強は、つらさを耐える実績を得るためにつらさに耐えるという苦行です。これは超長期間続く我慢大会になってきます。








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勉強が嫌いな人々(4)

2020-01-11 | yy72勉強が嫌いな人々


勉強を強いられる青少年のほうは、書物に向かって身体を押さえつけられる抑圧を嫌がるのは当然です。若者は勉強が嫌い。文章が嫌い。特に長い文章が嫌い。
だれかが書いた文章を読み取って理解することは、いくらかの努力を必要とする。理解することは脳神経系への負荷です。身体にとってのコストです。コスト負荷は避けるべきでしょう。動物としては。

社会の要請としての勉強とそれを忌避する若者という図式は、あらゆる文明社会のストレスとなっています。まずエリート層の子弟が勉強を強いられ、続いて庶民層の子弟もまたそれを追うように仕向けられる。
この図式は人類文明の構造をなしているので容易には改善できません。各国で頻繁に試行される教育改革もなかなか成功しません。
学校や大学の構造を改善すれば、若者は救われるのか?勉強がつらい原因は本当に学校の構造にあるのか?学校の内容がどう変わっても依然として、勉強のつらさは変わりないのではないでしょうか?

今は公務員でもノーネクタイですが、筆者が現役の頃は、男の公務員や会社員は全員ネクタイを締めていました。暑苦しい。でもやめない。というか、暑苦しいからこそ、ネクタイをやめない理由があった、と思います。
だれもが勉強は嫌だからこそ勉強をやめてはいけない理由があるのではないか?もしそうであれば学校を改革しても事情は変わらないでしょう。

紙に書かれた文章を認識するという、退屈な、めんどうな作業を続けられる、そのつらさに耐える若者を文明社会は要求しているのではないでしょうか?
そうであれば、勉強という試練は、そもそもつらいからこそ存在していられる。もし仮に、楽で楽しければ世の中に存在しているはずがないようなものなのかもしれません。







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勉強が嫌いな人々(3)

2020-01-04 | yy72勉強が嫌いな人々


正しく育つ、とはどういうことか?
粗暴な行動をしない。静かに人の話を聞いて、上の人の言うことを納得し、尊敬するようになる。文字に書かれた文章を信頼し、その文章を作り出した大人たちの社会を信頼するようになる。その結果、素直に人と協力できるようになる。周りの人の気持ちを理解して期待された行動を取れるようになる。そのように正しい人間になることが重要です。
静かに文字を読むことで、書いた人の心を冷静に読むことができるようになるからです。文章を書いた偉い人たちの心を読むことができる。社会の骨組みを作っている人々が共有している大事な知識、価値観を理解することで、その人達が何を期待しているかを理解し、社会に出て人々と協力できるようになります。そうなることが大事であることを理解し、そうなった先輩たちを尊敬し、そうなった人々で作られている社会を信頼するようになるはずです。
そして互いに安定した人間関係を作り、集団として、組織として、行動ができるようになる。社会のために組織された、家族ではない人たちと、すぐに協力できるようになる。若者たちをそのように育てるために、社会は、勉強を強いる必要がある。権力者たちは昔からそう考えていたし、今もそうです。

若者たちを強いて、テキストに向かわせ、文字や数字を読みこなし文章を読めるようにしつける。そうなれば協力して生産力を保持し、さらに文章とデータを使う社会を作り出していけます。知識と道具を活用する近代的な生産システムを発展させることができ、そうして社会を強く維持する事ができる。
文字を介して社会システムを維持する。それは近代以前から、歴史時代から社会の支配者が持っていた暗黙の知恵です。したがって文明社会は、伝統的に、青少年に勉強を強いる社会となっています。








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勉強が嫌いな人々(2)

2019-12-28 | yy72勉強が嫌いな人々


ようするに長時間にわたって複雑な言語処理を要求されると疲れる。眠くなる。耳で聞く会話やナレーションならばついていけても、文字テキストはだめ。書かれた文章を追うのは楽ではありません。 

それなのに、学校での勉強はなぜテキストを理解させることばかり要求するのでしょうか?国語はもちろん、数学も、英語も、理科も社会も、やたらに教科書を読ませ、文字や文章や数式を読ませます。字の数が多い。ときどきマンガやイラストが挿入されていますが、多くは紙面の白地に黒い線の文字記号、つまり暗い字面で占められています。
数学や理科は文字も多いが、ページ面がもっとわずらわしい。なぜなら、声を出して読めないような数式や図がずらずら並んでいるからです。そのひとつひとつを懸命に理解しないと、次のページに進ませてくれません。
書く人(大先生たち)は熱心に書いているのでしょうが、読ませられる方はうんざりです。一ページを理解するのにかなり時間がかかります。マンガなら一瞬で読み飛ばせるのに。

人はふつう、字を読んで勉強させられるのは嫌い。これは真実でしょう。
ではなぜ、どこの国でも青少年は文字を読んで勉強させられるのでしょうか?
それは社会人として生活できるようにするため、と言われます。書かれた言葉を理解し知識を共有することによって仲間と協力し、生活に必要な財物・サービスを生産し栄養を獲得するため、と言われています。近代以降、どの国でも、書かれた知識と情報の共有によって生産力を保持し社会を維持しています。
それはまさに、そのとおりでしょう。しかし、学校制度を作り出して青少年に文字を読ませ、勉強させるシステムを永続させた過去の支配者たち、国家エリート、そして教育者たちの意図は、それだけではありません。
いやがる若者を強いてつらい勉強をさせる。座らせて静かに文字を読ませる。それが大事。そのことで人間は正しく育つ、と信じていたのでしょう。







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勉強が嫌いな人々(1)

2019-12-20 | yy72勉強が嫌いな人々

(72 勉強が嫌いな人々 begin)





72 勉強が嫌いな人々

だれでも勉強は嫌い。
だいたい正しい。小学校から大学、人によっては大学院、その他資格のための受験。たいていの人は、おとなになるまでに、どこかで大嫌いな勉強をさせられているでしょう。
結局は、学校の卒業証書、運転免許、あるいは医師免許のような社会で役に立つと思われている資格、つまり自分に役に立つ資格を得るために勉強しなければなりません。
勉強のスタイルは、ふつう長時間、机に向かって字を読んだり書いたりする。これがすでに嫌いな人は多い。眠くなってしまいます。
テキストへの理解が深く興味が強い場合、交感神経が興奮し、内容の世界に没頭できますが、テキストの文脈を追えない場合、副交感神経の活動が強くなって眠くなる。頭がぼうっとしてきます。
本を読むことが嫌いな人でもマンガは好き、という場合が多い。直感的に理解しやすいマンガのほうが文章よりも言語処理の負担は少ないということでしょう。しかも感情へよく響いて快感をひき起こす。テレビやビデオならば安易に快感を得られて言語処理の負担は少ない。かわりに画像処理が多くなりますが、こちらはあまり嫌われないようです。
しかしどんなメディアでも、ストーリーや筋道が複雑すぎて理解しがたいと眠くなります。

結局、分かりやすい内容で興味が続く内容を、文字で書かれたテキストが少なくて、動画や実演で提示されれば、勉強もつらくなりません。ただし、長時間はダメです。むずかしすぎもダメ。繰り返しや、やさしすぎも飽きる。
退屈から逃げたいとき、コマーシャルやツィッターのようなごく短くてちょっとした驚きがあるようなもの、ちょっと美人な顔、などつい見てしまう。こういうものが勉強ならば嫌いな人は多くないでしょう。実際は違う。勉強は長くて退屈、長たらしいテキストはおもしろくもない。美しくもない。
勉強で人を長時間、椅子に縛り付けるのはむずかしい。ゲームはそれができますが、勉強はふつうダメです。






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