一九六九年七月二〇日、地球人は月に着陸しました。筆者は、宇宙服を着たニール・アームストロングとバズ・オルドリンがカンガルーのように月面で跳ねている現場中継動画をリアルタイムで見ました。科学技術庁宇宙開発推進本部のテレビでした。その後、一九七二年一二月のアポロ一七号を最後に人類は、地球以外の天体を訪れていません。
当時、米国は冷戦を戦い抜くために科学力の優位を見せつける必要があったため、NASAには膨大な開発予算が認められていました。今日世界のどの国もその規模の宇宙予算を支出していません。地球近傍の軌道を離れて月や火星に宇宙飛行士を派遣する計画は、近い将来には予算化されることはないでしょう。
行き先が太陽系外はもちろん、太陽系内であろうとも、地球に似た地球的天体から宇宙へ飛び出すことはたいへんなエネルギーを必要とします。
地球的天体は重力が大きいので、宇宙へ飛び出すための速度エネルギーを作り出す巨大な装置が必要です。実際、現代の技術ではロケットを使うしかありません。ロケット以外の技術概念は提案されていますが、たとえば電磁カタパルト、軌道エレベーターなど、いずれもロケットよりさらに格段に巨大な装置になり実現可能性はありそうにありません。
ロケットを使う場合も、宇宙飛行士の身体に比べて数万倍の機体とエンジンや燃料を必要とする大規模なシステムとなるのでそれだけコストがかかります。将来の技術発展を見越しても、宇宙システムは飛行機や自動車のように廉価な量産品にはなりにくいでしょう。
地球人類における宇宙開発のこの事実が、UFOがめったに来訪しない理由を示している、といえます。つまり、異星人はなかなか故郷の星から飛び立たない。なぜならば宇宙飛行のリスクとコストは、彼らがする他の社会的経済的活動に比べて格段に大きいため、それを超克するほどの強い動機が見当たらないからです。
個人で賄える程度のリスクとコストであれば、それを試みる冒険家が必ず出てきます。大西洋横断飛行をなしとげたリンドバーグ、エベレストに初登頂したヒラリー。彼らの背景には国家的援助があったとしても、その規模はアポロ計画の百分の一くらいでした。どんなに英雄的な個人であっても、計画段階で国家予算による援助は出ません。
国家予算が投入された現在の国際宇宙ステーションあるいは過去のアポロ計画にしても、数人の人間を地球から数十万キロメートルくらいの高度までしか打ち上げていません。
宇宙のかなたでUFOによる超長距離遠征計画を練っている異星人も、それに必要な巨大なリソース、つまりそのための巨大な物理的装置を作り上げるのに必要な資金調達が足かせになって、地表面から飛び立つことはできないはずです。
宇宙人はいる、といっても科学的には証拠がない。いない、といっても証拠がない。この問題はしたがって、科学の対象ではありません。
にもかかわらず拙稿としては、宇宙人は存在する、としたい。それは、宇宙人が存在しないと困ることがあるからです。
地球人類以外に宇宙人がいないとすると、科学の法則を知っているのは地球上の人類だけということになります。科学は宇宙のどこでもいつでも普遍的に同じ法則が働いているはずであるのに、そのことを知っている存在は太陽系の一惑星である地球という天体に住む動物のたった一種である人類だけというのは、どうもおかしい。
人類という地球の一動物種は宇宙の特異点なのか? 特異点がないはずの宇宙像を獲得したはずの人類が、自分自身特異点になっていてよいのでしょうか?そんな人類が解明した科学やそれが描く宇宙像はいかがなものでしょうか?宇宙全体にとって普遍的な法則と言って大丈夫ですか?
つまり、宇宙人が存在しないとすると科学の普遍性が崩れる。そうなると、その普遍性を担保として科学的相対視点に立脚していることになっている拙稿の立場も怪しくなります。つまり拙稿が困る。宇宙人がいないとすると拙稿のような書き方ができなくて困るから宇宙人は存在する、と拙稿としては言いたい。
たぶん宇宙のどこか、はるかかなたにある地球に似た天体の上で、拙稿と同じようなことを言っている宇宙人がいるに違いありません。それが拙稿本章の結論です。■
(57 宇宙人はいるか end)