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付き合いの存在論(6)

2022-03-19 | yy82付き合いの存在論



現代人はますます恋愛が分からなくなっています。物理的に存在するセックスのほうがまだ分かりやすい。分かりやすいほうのそっちを(ヘドニズムとして)人生の目的にしたい、と思う人が多くなっている。セックスフレンドはいるが恋人はいない、となってきます。
ちなみに秘密のセックスフレンドがいても付き合っていることにはならないでしょう。人に見えないところでいくら一緒にいても社会とかみ合わないからです。社会とかみ合わなければ人生ともかみ合わない(一九七九年 中上健次「赫髪」)。ほかの誰にも知られずに二人だけでいくら熱心にセックスをしてもそれだけでは「僕たちは付き合っています」とはいえません。
付き合っている、という関係になりたければ社会へ公然と出ていくしかありません。秘密のセックスフレンドとして隠れるのではなく二人のペアとして公然と社会へ出ていかなければなりません。それは隠れなければならない裸の行為であることとは矛盾であり、それを社会は受け入れません(二〇〇八年 平野啓一郎「顔のない裸体たち」)。
公然と付き合っている同性愛カップルは陰でデートする異性愛カップルより強靭だったりします。女嫌いを公言する男子高校生が女子とキスをしているところを男嫌いの同性愛女子カップルに目撃されてかえって見せつけてみますが、おおらかに疑似家族を演じる女子カップルの仲は全然崩れません(二〇二〇年 松浦理映子「最愛の子ども」)。
付き合いは公共の場でしなければ付き合いにはなりません。人に見られているところで手をつなぐことが大事。本命の場合は友人や家族に知られて付き合うのが原則です。当然、家の話が出てくる。そうなると結婚がちらついてきて話は面倒になります。













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