哲学の科学

science of philosophy

身体の存在論(3)

2024-02-24 | yy94身体の存在論

明治の文人は心身の実体を存在論的に洞察しています。明治二九年、第五高等学校教授夏目金之助、のちの漱石、三〇歳の文章。
三陸のつなみ濃尾の地震之を称して天災といふ、天災とは人意のいかんともすべからざるもの、人間の行為は良心の制裁を受け、意思の主宰に従ふ、一挙一動皆責任あり、固り洪水飢饉と日を同じうして論ずべきにあらねど、良心は不断の主権者にあらず、四肢必ずしも吾意思の欲する所に従はず、一朝の変俄然として己霊の光輝を失して、奈落に陥落し、闇中に跳躍する事なきにあらず、このときにあたつて、わが身心には秩序なく、系統なく、思慮なく、分別なく、只一気の盲動するに任ずるのみ、若しつなみ地震を以て人意にあらずとせば、此盲動的動作亦必ず人意にあらじ、人を殺すものは死すとは天下の定法なり、されども自ら死を決して人を殺すものはすくなし、呼息せまり白刃閃く此刹那、既に身あるを知らず、いづくんぞ敵あるを知らんや、電光影裡に春風をきるものは、人意かはた天意か(一八九六年 夏目漱石「人生」)
ちなみに、句点なし読点のみの文。明治の文章家が苦心して試行錯誤したおかげで今日の日本語がある、と分かります。

さて昭和日本の最盛期、森進一が「襟裳の春は何もない春です」と歌う「襟裳岬」(一九七四年 岡本おさみ作詞 吉田拓郎作曲)。西行が愛でる日本の春を逆説として、当時の人々の心底を語る春の歌になっています。
襟裳岬の平凡な農村風景。背後に迫る虚無。それを見渡している作詞者の身体がはっきりと見えます。

現代日本人は目の前の風景に自分の身体が置かれていることを痛いほど知っています。 

テレビや動画に映る人の姿が、現代人にとっては、人間の典型でしょう。そのテレビセレブ、タレント、キャスターたちはモニター上の自分の身体に関心を集中して生きている。そのことを視聴者はよく知っています。

コロナはとっくに終わっているのにマスクは多い。マスク依存症と揶揄されます。イスラムの女性はなぜ顔を隠すのか?身体を見せることの安心と見せないことの安心。身体の内と外。無意識に自分の身体の存在感を意識している姿勢が見えます。











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