実はこの感想、もともとは原作の「青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない + 青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない 感想」として『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』の感想のエントリーをアップした直後に書き始めていたのだけど、途中まで書いてそのまま放ったらしになっていたもの。劇場版のあとに加筆して上げようと思っていたら、それも忘れていたw
ホント、アホだなぁ。
ぼちぼち劇場版のブルーレイも出る頃なので、補足して蔵出ししておきます。
*
テレビ版の青ブタの最終回があまりにも、淡々と投げっぱなしで終わってしまったので、そのまま続きとなる原作に手を出した。
で、読み始めたらいやはやもう最後まで行くしかないって感じでイッキ読み!
最新版の『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』については、すでに感想をアップ済み。
で、劇場版の『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』自体は、原作の
『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』と『青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない』の2冊に基づいたもの。
といっても、この2冊、基本的にはそれまで出ていた5冊分の原作の内容を踏まえた上での構成になっている。だから、いってみれば、青ブタ前半の集大成、という感じの物語。
もってはっきりいえば、この2冊のために、それまでの5冊が書かれていた、といってもよいもの。
内容は、いわずもがなの牧之原翔子編。
控えめにいっても、これ、ここまでの物語全部の総決算!となる話。
実際、この2冊で、原作は、第1部完!ということだった。
なにがいいたいかというと、この牧之原翔子編を、とにかく加速したまま、終わらせるために、それまでの物語の全部があったということ。
つまり、翔子編までの、桜島麻衣、古賀朋絵、双葉理央、豊原のどか、梓川かえで、の5つの物語が、全部、翔子編のための前座だった、ということ。
いやー、これはもうびっくりだよ。
なぜなら咲太は、これまでにこの5人の思春期症候群につきあってきたからこそ、たった1回の「やり直し」のチャンスを「間違わず」に、文字通り「奇跡的」にクリアすることができた。
加えて、今までの5つの物語があったからこそ、それぞれの少女たちが、それぞれ相応しい協力の仕方を、咲太に差し出すことができた。
裏返すと、5つの物語の蓄積があったからこそ、牧之原翔子編は、2冊めの「ハツコイ少女~」だけでキレイに完結することができた。
実のところ、さすがにそれは「ご都合主義的すぎるだろ!」ってところが満載なのだけれど、ただ、そのどれもが、これまでの5つの物語の展開から読者が予測できる範囲のものなので、あー、やっぱり!って感じで、テンポよく進んでしまうんだよね。
もっとも、最後の最後のところは、さすがにそこまでやるか?、ってくらい、都合が良すぎていて、多分、評価が分かれるところなのだろうけど。。。
正直、盛りすぎ、な印象もしたけれど、まー、これもありかなー、って感じ。
あとは、この牧之原翔子編で、このシリーズのタイトルが常に「~の夢を見ない」となっていることの理由も(それとなく)明かされていて、それがうまいなぁ、と思ってしまった。
・・・って、何言ってるかよくわかんないよね? (笑
で、じゃあ、本当にネタバレしてしまうと、
牧之原翔子という、咲太の危機をかつて救った高校生の少女と、咲太が麻衣とともに出会った中学生の少女は、実は同一人物。
ただし、高校生の翔子は、実は未来からやってきた「未来の翔子」。
では、なぜそんなことが起こるかというと、それは「双葉理央」編のドッペルゲンガー事件の応用みたいなもので、あれは「量子力学」的分裂だったわけだけど、これにさらに「相対性理論」的な味付けがなされて、時間差のある分裂体が生じてしまっているということ。
まぁ、このあたりの「説明」は適当に聞き流してねw
実は、この牧之原翔子編に対して、期待ハズレ!という感想もいくつか見かけたのだけど、多分、その理由の一つは、「思春期症候群」という量子力学的「トンデモ」理論が、SF設定的にあまりにもガバガバに見えるところにあるように思えるから。
なので、ここ、あまりマジで突っ込んじゃんだめだよ!とは思う。
でも、個人的にはうまいな、と思ったのは、とりあえず、物語世界内の「事実」としては、トンデモ量子力学的な理解でなんとかなってきた、という話があって、そのさらに積み上げのところで、今回の解決をしているから。
うーん、しかし、ちゃんと書こうと思うと、結構ややこしいな。
やっぱり、この物語。
牧之原翔子編まで読むと、この「ハツコイ少女」までの物語とは、とどのつまり、すべて牧之原翔子の思春期症候群の中、いわば彼女夢の中で起きているということなんだよね
夢という名の一種のシミュレーションなわけで。
ただ、この屁理屈自体は、一応、古賀朋絵編ですでに一度説明されていた。
裏返すと、朋絵同様、翔子も世界改変をできる能力をもっていた、
・・・というか、この劇場版までの世界そのものが、事実上、小学生時代の翔子が抱いた未来=夢の世界であったことになる。
ざっくりいえば、牧之原翔子は、涼宮ハルヒと同じ、世界構築力をもっていたことにある。
で、心臓移植を必要とする難病の翔子が助かる世界をなんとか引き寄せる話が、劇場版の骨子となる。
そして、原作既読者、あるいは、劇場版視聴者にはすでにわかっているように、最後に、世界は書き換えられて、翔子は、咲太でも麻衣でもないドナーから心臓を譲り受け、本来の年齢のまま、中学生として咲太と麻衣に、再び出会うことになる。
当然、世界は書き換えられたわけだから、咲太が中学時代に高校生の翔子さんに出会うこともなく、したがって、翔子さんが咲太の「ハツコイ少女」になることもないまま、この世界の翔子ちゃん、というか咲太的には「牧之原さん」と出会うことになる。
でも、この物語が、つくづく甘々だなぁ(←褒めてますw)と思うのは、その再会、というか、邂逅の瞬間、翔子も咲太も互いに、別世界=夢の世界の出来事を全部、記憶として思い出してしまうところ。
ここはね、原作を呼んだときに、一番、おお!、やっぱりそう来たか!とは思ったところ。
もちろん、世界が書き換えられてしまった以上、翔子と咲太はすれ違ったままになると思ってしまうし、実際、とても悲しいことだけど、その終わりもありだろうな、と思っていたところで、でも、二人は出会い、そして出会った瞬間、それまで忘れていた記憶を取り戻してしまう。。。
いや、これ、完全にもう、運命の赤い糸でつながった二人じゃんw
『君の名は。』の瀧くんと三葉じゃんw
いや瀧くんと三葉は、世界改変後も出会いでは、出会ったところでそれまでの物語の記憶は取り戻していないから(少なくとも劇終幕では)、翔子と咲太の場合は、それよりもよっぽど甘々の結末w
むしろ、世界がどう変わろうとも結局は出会える二人として、実は翔子こそが、咲太の運命の人ではないか、と思ってしまうほど。
そして、だからこそ、この翔子編のあとの物語については、『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』の感想で書いたように、むしろ、この翔子と咲太の「運命力」に対して、嫉妬し、抵抗し、世界のさらなる上書き、つまりは、自分の描く「夢=未来」で世界を再構成しようとしているのが、他でもない桜島麻衣!、と思ったわけで。
なので、よくこの牧之原翔子編の2冊、ないしは、劇場版の『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』について『涼宮ハルヒの消失』に近い、という感想を見かけることがあるけど、それは多分、違っている。
なぜなら、『消失』における長門のように、世界を自分の都合の良いように書き換えようと無意識の間に試みてしまっているのは、翔子ではなく、麻衣のはずだから。
つまり、青ブタシリーズにおいて、世界構築という点で、ハルヒのポジションをとるのは翔子であり、ハルヒ=翔子の構築した世界=夢を侵食しようとしているのは、長門の位置を占める麻衣だと思うから。
まぁ、今ある物語世界に干渉し、自分の都合の良いように侵食しようとしている点では、『ランドセルガール』の方でも書いたように、むしろ、劇場版のまどマギにおける「ほむら」の立場に近い。
劇場版まどマギでは、まどかに対するほむらの愛が重すぎて、結果として、まどかが守った世界をほむらが侵食していた。
だから、むしろ、劇場版の翔子編の話は、ハルヒの世界改変のほうに近い。
咲太は、一度麻衣を失った世界を経験した上で、咲太も麻衣も死なない、それゆえ少なくとも彼ら二人は翔子を見捨てる選択肢を取り、ある意味で、善意の第三者、ないしは運命の善いいたずらに賭けて、世界を書き換えようとしたわけで。
その点で、咲太は、自分本位でろくでなしの、文字通りの「ブタ野郎」なんだけど。
でも、自分本位の選択が結果として、翔子を襲ったデッドロックからも抜け出せる景気になったというのが話のミソ。それも大甘のミソw
ただ、こういうふうに解釈してくると、ちょっと面白いな、と思うのは、これは量子力学による並行宇宙論で説明がつくのかどうかはまったくわからないけれど、少なくとも青ブタの物語世界では、世界とはすべて夢=シミュレーションであって、ある特定の世界で得た経験や体験をすべて記憶し保存している、一段メタな世界=宇宙があって、物語の登場人物は、みな、その記憶のリソースにアクセスして、それぞれの個々の世界で「生きる」ことを演じているように見えること。
で、こうした世界を超えたメタ世界における「設定アーカイブ」に属するキャラクターがその都度、特定の世界の記憶をリロードされるという点では、構造的には、『東京レイヴンズ』の16巻で明らかにされた(←詳細はこの感想を参照)泰山府君祭の先にある人格記憶のアーカイブへのアクセスに近い。あるいは、量子力学的説明ということであれば、『ゼーガペイン』の設定にも近い気がする。
なんかよくわからないけれど、そうした時間を超越した「設定アーカイブ」の存在が想定される世界観って、いつの間にか、デフォルトになっているかな?
ちょっとそんなことも、この青ブタシリーズを読んでいると思ってしまう。
てか、そのような世界観が読者の間でも共有されていると確信できないと、こんな話、つくれないよね。
ともあれ、青ブタは、牧之原翔子編たる劇場版を経た後に続く作中世界の物語展開についてもそのような形になっているようで、『ランドセルガール』ではそれが徐々に頭をもたげてきたように思う。
どこまで、この「世界を書き換える」話を続けるのかはわからないけれど、願わくば、ハルヒのように作者が物語世界を畳むのを放棄するような、情けない事態にならないように。
で、牧之原翔子編の劇場版に戻れば、とにかく咲太を支える他の登場人物たちの動きも、ミニマルなものに留まるものの極めて効果的な動きを見せてくれていて、ホント、隙がないと思った。
どうやら、『ランドセルガール』の続きは、来年2020年の2月には出るみたいだから、そこでこれまで書いてきた仮説がどこまで通用するのかについても、楽しみにしたい。
もちろん、物語の向かう先についても、
でも個人的には、やっぱり翔子ちゃんが本編に再登場してほしいし、もっといえば、翔子さんが、何らかの形で絡んできてほしいと思うのだけど。
でも、キャラクターに関するあらゆる可能性についてすでに書かれたアーカイブがメタ宇宙としてあるのなら、それも可能のように思うのだよね。
ぜひとも、青ブタには、ハルヒを越えてもらいたい。
とにかく『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』、素晴らしかった!
ホント、アホだなぁ。
ぼちぼち劇場版のブルーレイも出る頃なので、補足して蔵出ししておきます。
*
テレビ版の青ブタの最終回があまりにも、淡々と投げっぱなしで終わってしまったので、そのまま続きとなる原作に手を出した。
で、読み始めたらいやはやもう最後まで行くしかないって感じでイッキ読み!
最新版の『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』については、すでに感想をアップ済み。
で、劇場版の『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』自体は、原作の
『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』と『青春ブタ野郎はハツコイ少女の夢を見ない』の2冊に基づいたもの。
といっても、この2冊、基本的にはそれまで出ていた5冊分の原作の内容を踏まえた上での構成になっている。だから、いってみれば、青ブタ前半の集大成、という感じの物語。
もってはっきりいえば、この2冊のために、それまでの5冊が書かれていた、といってもよいもの。
内容は、いわずもがなの牧之原翔子編。
控えめにいっても、これ、ここまでの物語全部の総決算!となる話。
実際、この2冊で、原作は、第1部完!ということだった。
なにがいいたいかというと、この牧之原翔子編を、とにかく加速したまま、終わらせるために、それまでの物語の全部があったということ。
つまり、翔子編までの、桜島麻衣、古賀朋絵、双葉理央、豊原のどか、梓川かえで、の5つの物語が、全部、翔子編のための前座だった、ということ。
いやー、これはもうびっくりだよ。
なぜなら咲太は、これまでにこの5人の思春期症候群につきあってきたからこそ、たった1回の「やり直し」のチャンスを「間違わず」に、文字通り「奇跡的」にクリアすることができた。
加えて、今までの5つの物語があったからこそ、それぞれの少女たちが、それぞれ相応しい協力の仕方を、咲太に差し出すことができた。
裏返すと、5つの物語の蓄積があったからこそ、牧之原翔子編は、2冊めの「ハツコイ少女~」だけでキレイに完結することができた。
実のところ、さすがにそれは「ご都合主義的すぎるだろ!」ってところが満載なのだけれど、ただ、そのどれもが、これまでの5つの物語の展開から読者が予測できる範囲のものなので、あー、やっぱり!って感じで、テンポよく進んでしまうんだよね。
もっとも、最後の最後のところは、さすがにそこまでやるか?、ってくらい、都合が良すぎていて、多分、評価が分かれるところなのだろうけど。。。
正直、盛りすぎ、な印象もしたけれど、まー、これもありかなー、って感じ。
あとは、この牧之原翔子編で、このシリーズのタイトルが常に「~の夢を見ない」となっていることの理由も(それとなく)明かされていて、それがうまいなぁ、と思ってしまった。
・・・って、何言ってるかよくわかんないよね? (笑
で、じゃあ、本当にネタバレしてしまうと、
牧之原翔子という、咲太の危機をかつて救った高校生の少女と、咲太が麻衣とともに出会った中学生の少女は、実は同一人物。
ただし、高校生の翔子は、実は未来からやってきた「未来の翔子」。
では、なぜそんなことが起こるかというと、それは「双葉理央」編のドッペルゲンガー事件の応用みたいなもので、あれは「量子力学」的分裂だったわけだけど、これにさらに「相対性理論」的な味付けがなされて、時間差のある分裂体が生じてしまっているということ。
まぁ、このあたりの「説明」は適当に聞き流してねw
実は、この牧之原翔子編に対して、期待ハズレ!という感想もいくつか見かけたのだけど、多分、その理由の一つは、「思春期症候群」という量子力学的「トンデモ」理論が、SF設定的にあまりにもガバガバに見えるところにあるように思えるから。
なので、ここ、あまりマジで突っ込んじゃんだめだよ!とは思う。
でも、個人的にはうまいな、と思ったのは、とりあえず、物語世界内の「事実」としては、トンデモ量子力学的な理解でなんとかなってきた、という話があって、そのさらに積み上げのところで、今回の解決をしているから。
うーん、しかし、ちゃんと書こうと思うと、結構ややこしいな。
やっぱり、この物語。
牧之原翔子編まで読むと、この「ハツコイ少女」までの物語とは、とどのつまり、すべて牧之原翔子の思春期症候群の中、いわば彼女夢の中で起きているということなんだよね
夢という名の一種のシミュレーションなわけで。
ただ、この屁理屈自体は、一応、古賀朋絵編ですでに一度説明されていた。
裏返すと、朋絵同様、翔子も世界改変をできる能力をもっていた、
・・・というか、この劇場版までの世界そのものが、事実上、小学生時代の翔子が抱いた未来=夢の世界であったことになる。
ざっくりいえば、牧之原翔子は、涼宮ハルヒと同じ、世界構築力をもっていたことにある。
で、心臓移植を必要とする難病の翔子が助かる世界をなんとか引き寄せる話が、劇場版の骨子となる。
そして、原作既読者、あるいは、劇場版視聴者にはすでにわかっているように、最後に、世界は書き換えられて、翔子は、咲太でも麻衣でもないドナーから心臓を譲り受け、本来の年齢のまま、中学生として咲太と麻衣に、再び出会うことになる。
当然、世界は書き換えられたわけだから、咲太が中学時代に高校生の翔子さんに出会うこともなく、したがって、翔子さんが咲太の「ハツコイ少女」になることもないまま、この世界の翔子ちゃん、というか咲太的には「牧之原さん」と出会うことになる。
でも、この物語が、つくづく甘々だなぁ(←褒めてますw)と思うのは、その再会、というか、邂逅の瞬間、翔子も咲太も互いに、別世界=夢の世界の出来事を全部、記憶として思い出してしまうところ。
ここはね、原作を呼んだときに、一番、おお!、やっぱりそう来たか!とは思ったところ。
もちろん、世界が書き換えられてしまった以上、翔子と咲太はすれ違ったままになると思ってしまうし、実際、とても悲しいことだけど、その終わりもありだろうな、と思っていたところで、でも、二人は出会い、そして出会った瞬間、それまで忘れていた記憶を取り戻してしまう。。。
いや、これ、完全にもう、運命の赤い糸でつながった二人じゃんw
『君の名は。』の瀧くんと三葉じゃんw
いや瀧くんと三葉は、世界改変後も出会いでは、出会ったところでそれまでの物語の記憶は取り戻していないから(少なくとも劇終幕では)、翔子と咲太の場合は、それよりもよっぽど甘々の結末w
むしろ、世界がどう変わろうとも結局は出会える二人として、実は翔子こそが、咲太の運命の人ではないか、と思ってしまうほど。
そして、だからこそ、この翔子編のあとの物語については、『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』の感想で書いたように、むしろ、この翔子と咲太の「運命力」に対して、嫉妬し、抵抗し、世界のさらなる上書き、つまりは、自分の描く「夢=未来」で世界を再構成しようとしているのが、他でもない桜島麻衣!、と思ったわけで。
なので、よくこの牧之原翔子編の2冊、ないしは、劇場版の『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』について『涼宮ハルヒの消失』に近い、という感想を見かけることがあるけど、それは多分、違っている。
なぜなら、『消失』における長門のように、世界を自分の都合の良いように書き換えようと無意識の間に試みてしまっているのは、翔子ではなく、麻衣のはずだから。
つまり、青ブタシリーズにおいて、世界構築という点で、ハルヒのポジションをとるのは翔子であり、ハルヒ=翔子の構築した世界=夢を侵食しようとしているのは、長門の位置を占める麻衣だと思うから。
まぁ、今ある物語世界に干渉し、自分の都合の良いように侵食しようとしている点では、『ランドセルガール』の方でも書いたように、むしろ、劇場版のまどマギにおける「ほむら」の立場に近い。
劇場版まどマギでは、まどかに対するほむらの愛が重すぎて、結果として、まどかが守った世界をほむらが侵食していた。
だから、むしろ、劇場版の翔子編の話は、ハルヒの世界改変のほうに近い。
咲太は、一度麻衣を失った世界を経験した上で、咲太も麻衣も死なない、それゆえ少なくとも彼ら二人は翔子を見捨てる選択肢を取り、ある意味で、善意の第三者、ないしは運命の善いいたずらに賭けて、世界を書き換えようとしたわけで。
その点で、咲太は、自分本位でろくでなしの、文字通りの「ブタ野郎」なんだけど。
でも、自分本位の選択が結果として、翔子を襲ったデッドロックからも抜け出せる景気になったというのが話のミソ。それも大甘のミソw
ただ、こういうふうに解釈してくると、ちょっと面白いな、と思うのは、これは量子力学による並行宇宙論で説明がつくのかどうかはまったくわからないけれど、少なくとも青ブタの物語世界では、世界とはすべて夢=シミュレーションであって、ある特定の世界で得た経験や体験をすべて記憶し保存している、一段メタな世界=宇宙があって、物語の登場人物は、みな、その記憶のリソースにアクセスして、それぞれの個々の世界で「生きる」ことを演じているように見えること。
で、こうした世界を超えたメタ世界における「設定アーカイブ」に属するキャラクターがその都度、特定の世界の記憶をリロードされるという点では、構造的には、『東京レイヴンズ』の16巻で明らかにされた(←詳細はこの感想を参照)泰山府君祭の先にある人格記憶のアーカイブへのアクセスに近い。あるいは、量子力学的説明ということであれば、『ゼーガペイン』の設定にも近い気がする。
なんかよくわからないけれど、そうした時間を超越した「設定アーカイブ」の存在が想定される世界観って、いつの間にか、デフォルトになっているかな?
ちょっとそんなことも、この青ブタシリーズを読んでいると思ってしまう。
てか、そのような世界観が読者の間でも共有されていると確信できないと、こんな話、つくれないよね。
ともあれ、青ブタは、牧之原翔子編たる劇場版を経た後に続く作中世界の物語展開についてもそのような形になっているようで、『ランドセルガール』ではそれが徐々に頭をもたげてきたように思う。
どこまで、この「世界を書き換える」話を続けるのかはわからないけれど、願わくば、ハルヒのように作者が物語世界を畳むのを放棄するような、情けない事態にならないように。
で、牧之原翔子編の劇場版に戻れば、とにかく咲太を支える他の登場人物たちの動きも、ミニマルなものに留まるものの極めて効果的な動きを見せてくれていて、ホント、隙がないと思った。
どうやら、『ランドセルガール』の続きは、来年2020年の2月には出るみたいだから、そこでこれまで書いてきた仮説がどこまで通用するのかについても、楽しみにしたい。
もちろん、物語の向かう先についても、
でも個人的には、やっぱり翔子ちゃんが本編に再登場してほしいし、もっといえば、翔子さんが、何らかの形で絡んできてほしいと思うのだけど。
でも、キャラクターに関するあらゆる可能性についてすでに書かれたアーカイブがメタ宇宙としてあるのなら、それも可能のように思うのだよね。
ぜひとも、青ブタには、ハルヒを越えてもらいたい。
とにかく『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』、素晴らしかった!