今月の歌舞伎座は、高麗屋三代による「門出祝寿連獅子」で、4歳の可愛い松本金太郎の襲名初舞台と言うことで、中々の人気で大入り。
とにかく華やかだし、充実した舞台が展開されていて観ていて楽しい。
しかし、私が楽しみにしていたのは、仁左衛門が、一世一代にて相勤め申し候と銘打った「女殺油地獄」の舞台であった。
近松ファンだと言うことよりも、ある意味では、ほかの近松劇に登場するガシンタレで締まらない色にばかり入れ込む優男とは一寸毛色の違った、救いようのない徹底した大坂の悪がきを、仁左衛門が、数少ない上方系の大歌舞伎役者として、どのように描き切るのか、それを観たかったのである。
この作品は、近松門左衛門の最晩年の人形浄瑠璃で、その歌舞伎版だが、これまでの男女の機微を描いた心中ものなどとは違って、殺伐とした悪餓鬼の凄惨な殺人物語であった所為か、上演が途切れてお蔵入りしていたのだが、坪内逍遥などの文学研究で良さが見直されて蘇ったと言う。
大阪の油屋河内屋の息子与兵衛(仁左衛門)が、放蕩三昧の末に借金に追われ、ついに金策に尽きて、隣家の油屋豊島屋の女房お吉(孝太郎)を殺害するまでの経緯を描いたものだが、何くれと面倒を見て心配してくれる年上のお吉や、勘当はすれども、どら息子故に可愛くて、お互いに隠れて、金をお吉に託して届けようとする両親・父徳兵衛(歌六)母おさわ(秀太郎)のしみじみとした情愛が胸を打つ素晴らしい人情劇である。
父徳兵衛は、河内屋の奉公人で、先代の死後、後家のおさわと一緒になり後を継いでいるので、先代の息子だと言う遠慮があり、与兵衛が、次男の上に放蕩の限りを尽くしても何も言えないし、与兵衛も勝手のし放題である。
大坂商人には、家業の安泰継承の為には、女の子だと、奉公人の中から優秀な人物を選び出して婿養子として後を継がせられるので、男より女の子が生まれると喜ぶと言う伝統があった。
必ずしも、上方の大店だけ、どら息子の生まれる確率が高いとも思えないのだが、これも事業継承の知恵で、案外、今問題になっている政治家の世襲制問題の核心を突いているみたいで面白い。
踏んだり蹴ったりの悪行に堪り兼ねた母おわさに勘当されて、家を出て行く与兵衛を戸口までそっと見送りながら、先代の後姿にそっくりなのでほろっとするあたりなどもそうだが、とにかく、気が弱くて実直一途の忠実な継父を、歌六が感動的に演じていて楽しませてくれる。
この歌六は、夜の部で、幸四郎を相手に、「梅雨小袖昔八丈」で、落ちぶれ顔役弥太五郎源七を演じているのだが、どこか陰があり情の深い人物を、情感豊かに悲しく美しく、時には、重厚に、しみじみと演じると秀逸で、それに、張りのある声も魅力の素晴らしい役者である。
秀太郎のおわさも実に上手い。
おそらく、近松も、このような人物を意図して描いたのだと思うのだが、箸にも棒にもかからない息子と実直そのものの元使用人の夫との板ばさみの中で、精一杯生きようとする大坂の商家の内儀を淡々と演じていて心憎いほど感動させる。
夫に内緒で、店の金500を懐に入れてお吉を訪れのだが、夫が先に来て300を渡そうとしたのを見つけて、野良にやるのと同じで、その甘やかしが皆毒飼いと言って嗜めた手前、夫に促され金を渡させずに帰ろうとする。しかし、土間に懐の金を落としてばれてしまい、子ゆえに迷い店の金を盗んだ親の苦衷を切々と語る秀太郎の話術の確かさ。一緒に落としたチマキが悲しい。
徳兵衛の心情吐露から、夫婦の哀切極まりない子への思いをかき口説く愁嘆場が、シェイクスピアには出せない近松門左衛門の真骨頂であろうか。
一部始終を戸口で見ていた与兵衛が、二人の帰ったのを見届けて、金の無心に豊嶋屋へ入るのだが、その前に、仁左衛門は、去り行く両親に向かって頭を下げて手を合わせる。
これまで、文楽で2回、歌舞伎で1回、この女殺油地獄を見ているのだが、悪一徹の与兵衛だとの印象が強かった。
しかし、今回の舞台で、仁左衛門が、ただの救いようのない悪餓鬼ではなく、皆無に近いとは言え人並みに血の通った生身の人間であることを、表情や仕草で、微妙に心憎いほど巧みに演じているのを観て、さすがに名優だと感激してみていた。
特に心に残るのは、最後の見せ場である油まみれの土間での凄惨なお吉殺しの惨殺劇だが、激しいバトルとアクションを、動きをセイブした舞うように流れるように美しく演じていたこと。
お吉の長い帯を実に巧みに小道具として使うなど、一つ一つの動きを噛み締めながら、どう仕様もない心の闇に迷い込んだ男の修羅場を実に巧みに表現していて、薄笑いを浮かべた仁左衛門の鬼気迫る表情など忘れられない。
私の手元の古典文学アルバムの「近松門左衛門」に、昭和55年7月の国立劇場での田之助のお吉との仁左衛門(孝夫)の与兵衛の舞台写真(お吉殺し)が載っているのだが、この頃には、エネルギーの爆発した若くて青二才の等身大の与兵衛を演じていたのであろう。
若さをストレートに出してこそ輝くこの役柄を、あえて還暦を過ぎてからやるのは、芸の精進を積み重ねてきた仁左衛門の集大成であることを示すために「一世一代にて相勤め申し候」と銘打って、近松門左衛門と互角に向き合って自分自身の与兵衛像を叩き付けたのであろう。
何故、最晩年になって、救いようのない大坂男・与兵衛を主人公に、門左衛門がこの人形浄瑠璃を書いたのか、その答えを引っさげての仁左衛門の一世一代の勝負であったような気がしている。
私は、最晩年になって、「ファルスタッフ」を作曲したヴェルディの心境と門左衛門の油地獄を重ね合わせながら、芸術家の奥深さを考えていた。
最後になってしまったが、お吉を演じた孝太郎だが、もう、父親の仁左衛門と互角で、時には、大役者を食ったような素晴らしい演技を見せてくれている。
前に、染五郎の与兵衛を相手にした実に若々しいダイナミックな舞台を見ているのだが、進境著しく、美形ではない分、そこはかとなくにじみ出るような若妻の色気まで醸し出していて、実に上手い。
とにかく華やかだし、充実した舞台が展開されていて観ていて楽しい。
しかし、私が楽しみにしていたのは、仁左衛門が、一世一代にて相勤め申し候と銘打った「女殺油地獄」の舞台であった。
近松ファンだと言うことよりも、ある意味では、ほかの近松劇に登場するガシンタレで締まらない色にばかり入れ込む優男とは一寸毛色の違った、救いようのない徹底した大坂の悪がきを、仁左衛門が、数少ない上方系の大歌舞伎役者として、どのように描き切るのか、それを観たかったのである。
この作品は、近松門左衛門の最晩年の人形浄瑠璃で、その歌舞伎版だが、これまでの男女の機微を描いた心中ものなどとは違って、殺伐とした悪餓鬼の凄惨な殺人物語であった所為か、上演が途切れてお蔵入りしていたのだが、坪内逍遥などの文学研究で良さが見直されて蘇ったと言う。
大阪の油屋河内屋の息子与兵衛(仁左衛門)が、放蕩三昧の末に借金に追われ、ついに金策に尽きて、隣家の油屋豊島屋の女房お吉(孝太郎)を殺害するまでの経緯を描いたものだが、何くれと面倒を見て心配してくれる年上のお吉や、勘当はすれども、どら息子故に可愛くて、お互いに隠れて、金をお吉に託して届けようとする両親・父徳兵衛(歌六)母おさわ(秀太郎)のしみじみとした情愛が胸を打つ素晴らしい人情劇である。
父徳兵衛は、河内屋の奉公人で、先代の死後、後家のおさわと一緒になり後を継いでいるので、先代の息子だと言う遠慮があり、与兵衛が、次男の上に放蕩の限りを尽くしても何も言えないし、与兵衛も勝手のし放題である。
大坂商人には、家業の安泰継承の為には、女の子だと、奉公人の中から優秀な人物を選び出して婿養子として後を継がせられるので、男より女の子が生まれると喜ぶと言う伝統があった。
必ずしも、上方の大店だけ、どら息子の生まれる確率が高いとも思えないのだが、これも事業継承の知恵で、案外、今問題になっている政治家の世襲制問題の核心を突いているみたいで面白い。
踏んだり蹴ったりの悪行に堪り兼ねた母おわさに勘当されて、家を出て行く与兵衛を戸口までそっと見送りながら、先代の後姿にそっくりなのでほろっとするあたりなどもそうだが、とにかく、気が弱くて実直一途の忠実な継父を、歌六が感動的に演じていて楽しませてくれる。
この歌六は、夜の部で、幸四郎を相手に、「梅雨小袖昔八丈」で、落ちぶれ顔役弥太五郎源七を演じているのだが、どこか陰があり情の深い人物を、情感豊かに悲しく美しく、時には、重厚に、しみじみと演じると秀逸で、それに、張りのある声も魅力の素晴らしい役者である。
秀太郎のおわさも実に上手い。
おそらく、近松も、このような人物を意図して描いたのだと思うのだが、箸にも棒にもかからない息子と実直そのものの元使用人の夫との板ばさみの中で、精一杯生きようとする大坂の商家の内儀を淡々と演じていて心憎いほど感動させる。
夫に内緒で、店の金500を懐に入れてお吉を訪れのだが、夫が先に来て300を渡そうとしたのを見つけて、野良にやるのと同じで、その甘やかしが皆毒飼いと言って嗜めた手前、夫に促され金を渡させずに帰ろうとする。しかし、土間に懐の金を落としてばれてしまい、子ゆえに迷い店の金を盗んだ親の苦衷を切々と語る秀太郎の話術の確かさ。一緒に落としたチマキが悲しい。
徳兵衛の心情吐露から、夫婦の哀切極まりない子への思いをかき口説く愁嘆場が、シェイクスピアには出せない近松門左衛門の真骨頂であろうか。
一部始終を戸口で見ていた与兵衛が、二人の帰ったのを見届けて、金の無心に豊嶋屋へ入るのだが、その前に、仁左衛門は、去り行く両親に向かって頭を下げて手を合わせる。
これまで、文楽で2回、歌舞伎で1回、この女殺油地獄を見ているのだが、悪一徹の与兵衛だとの印象が強かった。
しかし、今回の舞台で、仁左衛門が、ただの救いようのない悪餓鬼ではなく、皆無に近いとは言え人並みに血の通った生身の人間であることを、表情や仕草で、微妙に心憎いほど巧みに演じているのを観て、さすがに名優だと感激してみていた。
特に心に残るのは、最後の見せ場である油まみれの土間での凄惨なお吉殺しの惨殺劇だが、激しいバトルとアクションを、動きをセイブした舞うように流れるように美しく演じていたこと。
お吉の長い帯を実に巧みに小道具として使うなど、一つ一つの動きを噛み締めながら、どう仕様もない心の闇に迷い込んだ男の修羅場を実に巧みに表現していて、薄笑いを浮かべた仁左衛門の鬼気迫る表情など忘れられない。
私の手元の古典文学アルバムの「近松門左衛門」に、昭和55年7月の国立劇場での田之助のお吉との仁左衛門(孝夫)の与兵衛の舞台写真(お吉殺し)が載っているのだが、この頃には、エネルギーの爆発した若くて青二才の等身大の与兵衛を演じていたのであろう。
若さをストレートに出してこそ輝くこの役柄を、あえて還暦を過ぎてからやるのは、芸の精進を積み重ねてきた仁左衛門の集大成であることを示すために「一世一代にて相勤め申し候」と銘打って、近松門左衛門と互角に向き合って自分自身の与兵衛像を叩き付けたのであろう。
何故、最晩年になって、救いようのない大坂男・与兵衛を主人公に、門左衛門がこの人形浄瑠璃を書いたのか、その答えを引っさげての仁左衛門の一世一代の勝負であったような気がしている。
私は、最晩年になって、「ファルスタッフ」を作曲したヴェルディの心境と門左衛門の油地獄を重ね合わせながら、芸術家の奥深さを考えていた。
最後になってしまったが、お吉を演じた孝太郎だが、もう、父親の仁左衛門と互角で、時には、大役者を食ったような素晴らしい演技を見せてくれている。
前に、染五郎の与兵衛を相手にした実に若々しいダイナミックな舞台を見ているのだが、進境著しく、美形ではない分、そこはかとなくにじみ出るような若妻の色気まで醸し出していて、実に上手い。