熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

深夜、言葉の全く通じない異国で放り出されたらどうするか

2012年08月21日 | 海外生活と旅
   グローバル時代だと言うけれど、兎角、コミュニケーションは難しい。
   私など、米国製MBAだから、英語は、多少人様よりはましだと思うのだが、ドイツ語は、大学の教養で習った第二外国語のドイツ語と、ブラジル在住時に少し習ったポルトガル語くらいで、これが総ての知識だから、グローバルコミュニケ―ション能力など、極めて限られている。
   しかし、これで、私自身は、外国人を相手にして欧米他で仕事をして来たし、1泊以上した外国は、40ヵ国を越しており、チャルーズ王子やダイアナ妃とも話をしたし、結構大変な人物を相手に丁々発止の戦いをして来た。
   やれば、この程度の語学力でも、やれないことはないと思うのだが、しかし、全く、言葉の通じないところに放り出されて、やれと言われれば、全く自信はない。

   これは、もう、20年以上も前の経験だが、ハンガリーのブダペストで、それも、午前一時と言う全くの深夜に、一度昼にしか行ったことのない森の中の住宅の前で放り出されたことがある。
   提携先のハンガリー人エンジニア・プロツナーの家で、しこたま飲んで、タクシーで送り届けられたのだが、どう考えても、自分の記憶していた家と違うような気がした。
   エンジンをふかして去ろうとするタクシーを追っかけて必死の思いで止めたのだが、全くハンガリー語しか分からない運転手にどう話せばよいのか、困ってしまった。

   その前に、事情を説明しないと分からないが、その時は、ベルリンの壁が崩壊した直後のブダペストで、外国人が留まれるまともなホテルは総て外資系であって、外貨を持たないハンガリー人は予約さえ出来なかったので、プロツナーは、東京からの上司夫妻と私のための宿舎として、バカンスに出た友人の住宅を借りてくれていたので、そこに帰ったつもりだったのである。
   昼に案内されて、スーツケースなどを置いただけで、良く見ていないし家そのものも覚えていない。
   まして、当然、夜は送って貰えるものだと思っているし、上司夫妻とも同道なので、その家の住所さえ聞いてもいないし、たとえ聞いていたとしても、人跡まばらで外灯さえない深夜のブダペストの森の中で、訪ねる相手もいないし、当然、留守だから、目的の家に人がいるわけがない。
   それに、運悪く、いい気分になった上司夫妻は、プロツナー宅で泊まることとなり、私一人で、タクシーで送られたのだが、まさか、プロツナーがタクシーの運転手に嘘を言っている筈がないと思ったのだが、草木も眠る丑三つ時に、思い当たりのない家の玄関にキーを差し込んで、ガチャガチャ開けるわけには行かない。

   どのように説明したのか、全く記憶がないのだが、あの手この手を使って、とにかく、もう一度、プロツナーの家に帰ってくれと説得(?)した。どうにか分かったのか引き返してくれたので、既に外灯を消して寝静まっていたプロツナーを叩き起こして、事情を言って、もう一度、正確に、運転手に指示するように頼んだ。
   同じ家に引き返したのかどうか全く記憶はないが、キーを差し入れたらドアーが開いたので、運転手に礼を言って、家の中に入った。

   ところが、不思議なことに、昼に入った時には、点けた筈のない電気が、リビングに点いていて明々としている。
   見るともなく見ると、ソファーの上で、見知らぬ男が寝ている。
   バカンスに出た家族が寝ている筈がないし、万一、寝るのなら寝室で寝ている筈だし、まして、私たち以外の人間を泊めるのなら、事前に言っている筈である。
   明らかに招かれざる客のこの寝ている男を起して、トラブルになっては拙いので、とにかく、一部屋おいた隣の寝室に入って、部屋のカギをかけて寝ることにした。
   ベルリンの壁崩壊直後の混乱状態のブダペストの、それも森の中の深夜の一軒家で、見知らぬ異人と一緒、と言う万事休す状態だが、どう足掻いても、ここで夜をあかす以外に他に選択肢がない。

   図太くも、昼の疲れが出て寝てしまったのであろう。
   朝早く、外から声がするので出てみると、プロツナーと上司が庭から覗き込んでいる。
   心配しての訪問だろうが、プロツナーに、おかしな男が寝ていたぞ、と言うとびっくりしていたが、リビングに行ったら、もう、その男はいなくなっていた。

   いずれにしろ、これがインターナショナル・ビジネスなので、その後は、お互いに何もなかったかのように、それ以上、プロツナーとは何も話さなかったので、真相は藪の中である。
   ブダペストへは何回か来ていて、マネージャーとも馴染みだったので、その日から、米系のトップ・ホテルに移動した。
   ベルリンの壁の崩壊前後のハンガリーは、とにかく、混乱と激動に翻弄されていて、豪華絢爛たる議事堂内でネーメト首相に会ったかと思うと、うらぶれた廃墟のようなビルの片隅の執務室で大臣に会ったこともあり、とにかく、多くの苦難を生きて来た壁の向こうの世界は正に異次元の空間であった。
   しかし、20世紀の前半で成長の止まったような廃墟の様なブダペストではあったが、流石にハプスブルグの二重帝国の首都だけあって、破壊から免れたレストランの優雅さと洗練された美しさは正に特筆もので、時間の経つのが恐ろしいくらいに感動的であったのを覚えている。
   先のトラブルや、このような面白いと言うか、思いがけないような経験を、幾度となく繰り返しながら、少しずつ、ヨーロッパに馴染んで行ったような気がしている。

   たとえ言葉が分かっても、全く異質な文化と文明、そして、全く違った歴史などバックグラウンドを異にした人々といかにコミュニケートして理解し合えるのか、ICT革命で、情報や知識が爆発的に増えれば増えるほど、難しくなる。
   しかし、とにかく、言葉が通じなければ、話にも何も成らないことは事実で、グローバル時代に生きて行くためには、最低限度、それ相応の英語力くらいは、身に着けておかなければならないと言うことであろう。

   もう半世紀も前の話だが、英語が不自由な大阪の大会社の社長が(余談だが、同行者を連れて行く余裕など、当時の貧しい日本にはなかった)、ニューヨークで、オムレツを食べたくて、大阪弁でおむれつと言って注文したが、通じないので、椅子から立ち上がって、両手を横にしてバタバタはためかせて、お尻から卵をポトンと落とす仕草をして説明したと言う話を聞いたことがあるのだが、もう、そんな時代ではないと言うことである。コケコッコーと言ったのかどうかは聞いていないが、アメリカの雄鶏は、cock-a-doodle-dooと鳴くのなどは勿論知らなかったのであろうけれど、所変われば品変ると言う世界、とにかく、異国でまともに生きて行くと言うのも大変なのである。
コメント
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