最後のソクラテスのエロース論だが、
原書では、マンティネイア(Mantineia)のディオティマという女性に聴いた話ということで、ソクラテスとディオティマの問答を再現した形で展開されているようだが、この本では、「饗宴」に入り込んだ筆者が彼女から秘儀を聴く。
難しいのだが、とりあえず、納富先生の説明を要約すると、次のとおり、
エロースは、美しくも善くもなく、また醜くも悪くもない、死すべき者と不死なる者の間にいるもので、神ではなく神霊(ダイモーン)である。エロースは人間と神々の間に介在し、通訳・伝達・結合を担う数多くのダイモーンの一つである。
エロースは、父ポロスと母ペニヤの間に生まれ、アプロディテのお供となった。
エロースは、母から貧しさと欠乏を受け継ぎ、柔和で美しいという状態からほど遠く、硬直して乾いた裸足の放浪者である。父譲りの才能を発揮し、また美しい者・善い者を追い求める策士であり、勇敢で大胆で向こう見ずのところがあり、手強い狩人であり、常に策をめぐらし、知見の追求に熱心であり、生涯を通じて愛知者であるフィロソフォスであり、同時に比類なき魔術師・薬剤師・ソフィストである。
エロースは死なき者でも滅ぶべき者でもなく、花咲き・生き・死にを繰り返す。しかし取得したものは絶えず溢れ出て消え失せるので、困窮することもなければ富裕になることもなく、智慧と無知の中間にい続ける。
人間は、美しきもの善きものを愛し永久に所有することを愛求し、そうしたエロースを熱心に追求し、熾烈な努力を示す者が進む道・採る行動は、肉体でも魂でも、調和した美しいものの中に、子供を産むことである。
人間は肉体にも魂にも胚種を持っていて、一定の年頃になると生産することを欲求し、美しい者に対して強烈な昂奮を感じて求める。
そうした出産の営みは、死すべきもの滅ぶべきものにとっては、滅びざるもの、永遠なるもの、不滅なるものとなるのであるから、愛の目的は不死である。エロースが、善きものが常に自分自身のものになることを求めている以上、善きものと共に不死を欲するのは必然である。
死すべき本性は、永遠に存在し不死であることを、できる限り求めることであり、しかし、それは、生むという方法によってのみ可能で、古いものに代わって新しい別なものをつねに残していく新陳代謝であるからである。
人間は、魂においても身ごもっており何かを生み出そうとする。芸術という生産は、已むに已まれぬ要求によって生み続けている。
肉体の交わりが生み落とす子供にもまして、魂が生み出したものが重要である。徳ある生き方を送る人、芸術や学術を創造する人、法律を制定して国家の礎を築く人等々、彼らが生み出した子供たちは、人々に不滅の記憶を残し、永久の名声と幸福をを齎すと感じており、自分が生きた証であり、魂の生産である。
さて、美の追求において、最初は美しい肉体を愛するが、
その次には、魂における美こそ尊いものだという、心霊上の美を肉体上の美よりも価値の高いものだと考えるようになる。美しさとは、見た目の綺麗さをはるかに超えて、内面の、あるいは、行動や生き方のすばらしさである筈である。精神的な美であり、その経験によって芸術や文学を生み出し、共に生きていく論理につながる。
次に感知すべきは、知識の美しさである。真理を探究し、学問に従事し研究してゆくと、純粋にそれを知りたいと思って学び、楽しいと感じる瞬間が訪れる。
美しい様々な事柄から美しいもろもろの知識へ進み、美の全体を見渡す一つの知識という場所に立つ。これを観照して、その中で多くの美しく壮大な言語と思想とを、惜しみない知への愛において生み出してゆく。そこで力を得て成長し、まさにこのような美の中に一つの知識を見だすまで進んで行く。
美とは、常に美しくあり、美しくなることも、なくなることもない。まさにそれ自体単一の相として常にある、そういった美であり、これが美のイデアと呼ばれる。この永遠、「常にある」とは、ずっと続くという意味ではなく、時間そのものを超えると言うことである。
美を愛し求めるという道程は、実はこの終極に至るための道程であった。この美そのものを対象とするこの学びへたどり着き、最後に、まさに美であるところのものそれ自体を認識すること、美そのものを観照する時に、人間にとってその生が生きるに値するものとなる。というのである。
このエロースへの道程の極致に近づく時、滅することも増すことも減ることもない真の美そのものを観得し、不死の境涯を体得して、人生に生き甲斐を感じる。と言うことであろうか。
さて、ダイーモンのエロースが、何故、愛の象徴になったのかよく分からないが、
人間は、美しきもの善きものを愛し永久に所有することを愛求して、調和した美しいものの中に、子供を産む。死すものである運命を甘受して、出産によって永遠の生命を維持しようとする。ということは良く分かる。
肉体の愛による出産は、低次元の愛だと言うことであるが、愛し合う二人にとっては、最高の希求である。
私など、高邁なソクラテスのエロース論はともかく、ファウストのように若返って、憧れのマドンナに再会して、このソクラテスのエロースの話を語り合えばどれだけ楽しいか、たわいない戯言を考えている。