熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

斎藤 幸平 (著)ゼロからの『資本論』(2)

2025年02月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   さて、斎藤准教授の人新世の資本論で説く究極の「脱成長コミュニズム」について考えてみたい。
   「脱成長コミュニズム 」 とは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を「コモン」として持続可能に管理する「合理的」な経済システムであり、この共同体は、経済成長をしない循環型の定常型経済である。ここでは、生産手段を自律的・水平的に共同管理する「(市民)営化」経済であり、平等な人間と自然の物質代謝を行うので、経済成長をしない共同体社会の安定性が持続可能な脱成長型経済の「コミュニズム」なのである。

   この「脱成長コミュニズム」の柱となるのは、次の諸点。
   まず、「価値」ではなく「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却すること 。
   次に、労働時間の短縮、必要のないものを作ったり、意味のない仕事をやめる。
   第3に、画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる。
   第4に、生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる。ワーカーズ・コープによる「社会連帯経済」を促進する。
   第5に、使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークを重視する。

   「脱成長コミュニズム」は、資本主義の人工的希少性に対する対抗策で、「コモン」の復権により成長を不要とするが、「反緊縮」の豊潤な経済「ラディカルな潤沢さ」の復活を目指す。
   マルクスは、「自由の国」、すなわち、生存のために絶対的に必要ではなくても人間らしい活動を行うために求められる領域、例えば、芸術、文化、友情や愛情、そしてスポーツなどを拡大することを求めていた。
   無限の経済成長を断念し、万人の持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが、「自由の国」を拡張し、「脱成長コミュニズム」と言う未来を作り出す。と説く。

   具体的な「脱成長コミュニズム」像が示されていないので、私なりの解釈だが、 
   自然や人材を浪費収奪して環境を破壊するなど人類社会を窮地に追い込む利益追求第一の資本主義の成長発展を止めて、経済成長を断念して、
   人間社会の安寧と幸せを増大させてゆくために、成長はしないが、経済の深化、質の向上を目指して、脱成長の「ラディカルで潤沢な」経済を追求すると言う事であろうか。
   GDP増大と言った従来の経済成長は求めないが、循環型の定常型経済であるから、経済の質を向上させて更に価値ある経済を構築すべきであるから、イノベーションは当然必要であり、反緊縮ではなく、新次元の「人新世の発展」が希求される。

   この「脱成長コミュニズム」論については、特に異論はなく出来れば理想的かもしれないが、例えば、「国家規模は勿論地球規模で、生産手段を自律的・水平的に共同管理する「(市民)営化」する」など一つをとっても実現は殆ど不可能であり、現実性に乏しいと思う。
   それに、ここでは、議論は避けるが、従来の資本主義からの脱却、成長志向の経済学の否定など不可能であり、軌道修正によって、経済社会の改革を目指すべきであろう。
   脱経済成長も悪くはないなあと思ったのは、日本の失われた30年。GDPは500兆円台を超えられずに、成長には見放された経済ではあったが、この間、国民生活の質や水準は随分上がった。

   さて、環境破壊対策などに対して、「グリーン・ニューディール」が議論されている。
   再生可能エネルギーや電気自動車など普及させるための大型財政出動や公共投資を行う新たな緑のケインズ主義、「気候ケインズ主義」だが、経済成長と環境負荷の「デカップリング」が難しく、それに、資本主義であるから脱成長にはならない。と准教授は否定する。
   人類の未来について多くの楽観論が出ているが、その多くは、最近では、ICTに依拠した「認知資本主義」に至るまで、科学技術の進歩、イノベーションに期待している。マルサスの亡霊も潰えたし、とにかく、科学技術の発展によって、これまで人類はすべての難局を乗り切って来たという自信と神頼みである。
   さて、永遠に人類社会が続いてゆくのか、それとも、茹でガエル状態で墓穴を掘るのか、
   終末時計、1秒進み 地球滅亡まで「残り89秒」 
   「最も危険な瞬間」が、そこまで近づいてきている。

   いずれにしろ、示唆に富んだ問題意識を喚起させてくれる本である。
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