
銀座4丁目の和光ホールで、10日まで「坂東玉三郎×篠山紀信写真展」が開かれている。
連休とあって大変な人出で、素晴らしい玉三郎の華麗な主に歌舞伎の写真が展示されていて、その艶やかさに息を呑む。
篠山が玉三郎を撮りつづけて37年とかで、その集大成とも言うべき玉三郎が演じた104演目を網羅した800ページを超える写真集「五代目坂東玉三郎」が発表されて、その原画とも言うべき写真の展示会なのである。
正面には、大きな「廓文章」の夕霧の綺麗な玉三郎の写真が出迎えてくれる。
私自身、玉三郎の舞台は相当数観ているので、随分懐かしい写真もあるのだが、細部にわたって克明に描写されている写真を見ると、その華麗さと色彩豊かな衣装の数々に驚嘆せざるを得ない。
日本の歌舞伎の頂点とも言うべきある時代の女形の舞台姿を、玉三郎と言う不世出の役者の姿を通してそのまま歴史の中に凍結して化石化してしまった、そんな貴重な記録写真でもあり歴史的な資料としての価値は計り知れない。
動きのある写真は、ただ一枚、鷺娘を写したノイズのある写真だけだが、私が、玉三郎を感激して観た最初の舞台姿が、METのセンティニアル・ガラの「鷺娘」であるから、イメージが膨らんでジッと観ていた。
その後、同じ「鷺娘」の舞台を、ロンドンでジャパン・フェスティバルの時に観て、本当にその素晴らしさに感激一入であった。
もう一つ、気に入ったのは、下を向いて玉三郎が微笑んでいる唯一の写真、「籠釣瓶花街酔醒」の八つ橋であった。
私が、今回の篠山紀信氏の写真展を観て感じた正直な印象は、生き生きした玉三郎の姿ではなく、無機物のようにフリーズされてしまった全く同じ表情の玉三郎の歌舞伎の舞台衣装の写真と言う感じがしたと言うことである。
私の見方が悪いのだとは思うが、そして、一挙にこれだけ大作を見せられた所為もあると思うが、美しくて素晴らしいのだけれども、直立不動で無表情に近い多くの写真は、立派な博多人形の写真を見ているのと同じ感興で、何となく玉三郎が遠くに行ってしまったような感じがしてしまった。
私自身には、あくまで玉三郎は、歌舞伎の人であり、恋をしたり泣いたり笑ったり怒ったりする姿を見続けているので、その印象が強烈である。素晴らしい演技と声音を通した生身の玉三郎しか知らない、それが玉三郎だと思っているから、そのための違和感かも知れないとも思っている。
連休とあって大変な人出で、素晴らしい玉三郎の華麗な主に歌舞伎の写真が展示されていて、その艶やかさに息を呑む。
篠山が玉三郎を撮りつづけて37年とかで、その集大成とも言うべき玉三郎が演じた104演目を網羅した800ページを超える写真集「五代目坂東玉三郎」が発表されて、その原画とも言うべき写真の展示会なのである。
正面には、大きな「廓文章」の夕霧の綺麗な玉三郎の写真が出迎えてくれる。
私自身、玉三郎の舞台は相当数観ているので、随分懐かしい写真もあるのだが、細部にわたって克明に描写されている写真を見ると、その華麗さと色彩豊かな衣装の数々に驚嘆せざるを得ない。
日本の歌舞伎の頂点とも言うべきある時代の女形の舞台姿を、玉三郎と言う不世出の役者の姿を通してそのまま歴史の中に凍結して化石化してしまった、そんな貴重な記録写真でもあり歴史的な資料としての価値は計り知れない。
動きのある写真は、ただ一枚、鷺娘を写したノイズのある写真だけだが、私が、玉三郎を感激して観た最初の舞台姿が、METのセンティニアル・ガラの「鷺娘」であるから、イメージが膨らんでジッと観ていた。
その後、同じ「鷺娘」の舞台を、ロンドンでジャパン・フェスティバルの時に観て、本当にその素晴らしさに感激一入であった。
もう一つ、気に入ったのは、下を向いて玉三郎が微笑んでいる唯一の写真、「籠釣瓶花街酔醒」の八つ橋であった。
私が、今回の篠山紀信氏の写真展を観て感じた正直な印象は、生き生きした玉三郎の姿ではなく、無機物のようにフリーズされてしまった全く同じ表情の玉三郎の歌舞伎の舞台衣装の写真と言う感じがしたと言うことである。
私の見方が悪いのだとは思うが、そして、一挙にこれだけ大作を見せられた所為もあると思うが、美しくて素晴らしいのだけれども、直立不動で無表情に近い多くの写真は、立派な博多人形の写真を見ているのと同じ感興で、何となく玉三郎が遠くに行ってしまったような感じがしてしまった。
私自身には、あくまで玉三郎は、歌舞伎の人であり、恋をしたり泣いたり笑ったり怒ったりする姿を見続けているので、その印象が強烈である。素晴らしい演技と声音を通した生身の玉三郎しか知らない、それが玉三郎だと思っているから、そのための違和感かも知れないとも思っている。