熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

イアン・ブレマーの「Top Risks for 2019」

2019年01月10日 | 政治・経済・社会
   ユーラシア・グループが、恒例の年次国際リスクの「Top Risks for 2019」を発表した。
   必ずしも当たるという保証はないが、年頭にあたっての世界情勢の分析予測であるから、非常に示唆に富む。

   簡略のために、朝日の記事を借用すると、次の通り
(1)Bad seeds 悪い種 米欧政治の混迷、同盟関係の弱体化など
(2)US-China 米国と中国 科学、経済、安全保障をめぐる摩擦が激化
(3)Cyber gloves off サイバー攻撃 抑止力が効かない問題も露呈へ
(4)European populism 欧州のポピュリズム 欧州連合の弱体化も
(5)The US at home 米国の内政 トランプ大統領の不正追及で混乱
(6)Innovation winter 技術革新、冬の時代 安保上の懸念などで国際協力が停滞
(7)Coalition of the unwilling 国際協調に背を向ける指導者たち トルコ、ブラジルなど
(8)Mexico メキシコ 左派の新政権の経済政策に懸念
(9)Ukraine ウクライナ ロシアとの外交・軍事的な緊張
(10)Nigeria ナイジェリア 大統領選挙(2月)の結果次第で混乱も

(1)のBad seedsだが、朝日は、「悪い種 米欧政治の混迷、同盟関係の弱体化など」、日経は、「地政学的危険を誘発する(悪い種)」としているが、「大惨事を誘発する地政学的な悪い種」とすべきか、原文の冒頭記述は、次の通り、
   現在、世界中で生起している地政学的な危険が、将来、実を結ぶ、すなわち、何らかの形で、結果として現れるであろう。
   これは、Gゼロ時代では大きなインパクトであって、世界中の政策決定者が、リーダーシップ欠如の世界で起こる日々の危機に対して、説明広報に、ないし、説明広報の誤りに、あまりにも忙殺されているので、彼らは、多岐に亘る将来のリスクの発生を許してしまい、総じて中期的未来において、深刻な結果をきたすであろう。
   現実の一連の地政学的ダイナミックスについて考えれば、米国および先進国経済における政治的組織の強さ、米中・NATO・G20・G7・WTO等の環大陸関係、ロシアとクレムリン、米中、EU情勢、中東の地域的政治力、そして、アジア。
   これらは、どれをとっても悪い方向に進行しており、問題となっている地政学的ダイナミックスの圧倒的大半が、今や、悪い方向へ突き進んでいる。と言うのである。
   ブレマーは、インタビューでも述べていたが、現在、世界中で吹き荒れているこのような危険な国際情勢の火種が、直近、今年には危険はないであろうが、何かの拍子に、将来大きな惨事として爆発する可能性があると警告しているのである。

   悪い種子の例としては、US political institutions トランプ大統領の就任以降、民主主義の危機に直面している米国の政治制度、 Europe 欧州連合(EU)の懐疑的将来、 The system of global alliances 米国を中心とした同盟関係の弱体化、Populism/nationalism 欧米を筆頭に各国に広がるポピュリズム・ナショナリズム を挙げて説いている。
   言わば、トランプ政権の誕生とヨーロッパを筆頭とした世界中で展開されているアンチエスタブリッシュメントとポピュリズムの台頭で、世界の歴史が、大きく急旋回したことによる結果であって、超大国アメリカのトランプ政治が、世界激震の最たる根源であることには、間違いがない。
   ブレマーが唱え続けているGゼロの時代に、世界の秩序維持に背を向けて国際協調を片っ端から叩き潰しているトランプが、さらに、国際平和安全の脅威となり、そして、最早リーダーのいなくなって世界では、一触即発の危機を回避できなくないつつあるという危機意識の表れであろう。
   (5)の、The US at home 米国の内政 を、世界リスクの上位に列強せざるを得ないというのは、人類にとって、大変な悲劇だと思う。

   原文28ページに亙るこの「Top Risks for 2019」は、興味深い写真や図表などもある意欲的なレポートで読みごたえがあるが、今回の世界10大リスクについては、ほぼ、サブタイトルを見れば、ブレマーが、何を、問題にしているかは予測がつくであろう。
   私が興味を持ったのは、(6)Innovation winter 技術革新冬の時代 と言う項目だが、稿を改めて考えてみたいと思う。
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真冬の大船フラワーセンター

2019年01月09日 | 鎌倉・湘南日記
   真冬にフラワーセンターなどに行くのは、余程酔狂だと思うのだが、東京までの時間があったので、立ち寄った。
   色彩の殆どなくなったモノトーンの植物園だったが、一寸驚いたのは、気候の異変か、まだ、少し秋の気配が残っていたことである。
   初秋にこのフラワーセンターに来て、台風による塩害と風害で、バラなど秋の花木が、壊滅状態であったので、その後訪れなかったのだが、今、まだ、 バラが咲いていて、紅葉がきれいに残っているのである。
   尤も、紅葉と言っても限られた木だけなのだが、わが庭の紅葉と同じで、台風の後で芽吹いた葉っぱであろうと思うが、奇麗な形を維持している。
   
   
   

   バラは、咲いていても、やはり、寒さにやられて花弁がちじれて枯れたような状態で可哀そうだが、それでも、中には奇麗な状態に残っている花もある。
   皇室関係の花は、プリンセス・ミチコだけ、蕾を付けて咲いている。
   

   秋咲きが難しいイングリッシュローズのパット・オースティンが咲き乱れているのにおどろいた。
   やはり、うららは、元気できれいな花を咲かせている。
   
   
   

   ブラスバンド、アプリコットキャディなどなど。
   咲きかけた大輪が、霜にやられて、か弱い花弁が蕾に張り付いて、開花できなくなっていて可哀そうである。
   
   
   
   

   椿は咲き始めている。
   スイート・ハートが奇麗に咲いていて、匂うようなピンクが美しい。
   それに、曙、乙女椿、ピンクが目立って美しい。
   
   
   
   

   山茶花系統や侘助系統の花はかなり咲いているが、まだ、本格的な椿には早いようである。
   
   
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国立演芸場・・・小三治の「小言念仏」ほか

2019年01月08日 | 落語・講談等演芸
   新春国立名人会の千穐楽は、次のプログラム。
   私にとっては、初笑いで楽しませてもらった。

獅子 太神楽曲芸協会
落語 古今亭文菊   湯屋番
講談 宝井琴調    徂徠豆腐
落語 柳家小ゑん   ぐつぐつ
奇術 伊藤夢葉
落語 桂文楽  六尺棒
―仲入り―
落語 春風亭一朝   芝居の喧嘩
落語 柳家小さん   親子酒
紙切り 林家正楽
落語 柳家小三治   小言念仏

   女風呂を見たくて湯屋番になった男が番台に上がって醜態を晒すという「湯屋番」から、人間国宝柳家小三治の「小言念仏」まで、流石に名人の高座なので、大笑い。
   講談の「徂徠豆腐」は、本来、赤穂浪士に切腹を進言した荻生徂徠の話で、何故、赤穂浪士に切腹と言う慈悲(?)を与えたか、この話が眼目なのだが、時間の関係で、極貧洗うがごとくで、豆腐をただ食いして飢えをしのいでいた侍に食を恵み続けていた豆腐屋の美談と、出世払いで報いた徂徠の人情噺に終わってしまったのが残念ではあった。
   お目出度い太神楽曲芸協会の獅子舞神楽は、正に縁起物、祝儀を渡して、獅子舞に頭を噛んでもらった人の神妙な顔つきを見て、これが、日本の伝統であり文化なのだと思った。
   正楽の紙切りは、いつも、小三治の前座だが、超絶技巧で、見とれている。

   小三治は、まくらに40分弱、「小言念仏」に20分弱、本格的な落語をじっくりと聴きたかったが、まくらで、小三治の人生観など思いの数々を語っていて、誠実な人間性が見えて興味深かった。
   「小言念仏」は、バリエーションがあるが、陰陽の話から、南無妙法蓮華経は陽で、南無阿弥陀仏は陰であると言うところから語り始めて、今回は、「ドジョウ屋!」の後で終わったが、これで、3回聴いており、何度聴いても面白い。

   冒頭、天皇陛下の話になって、良く知っている昭和天皇から大正天皇、そして、誰か年号を変えたい人がいる、自分の時代に年号を変えたのだと言いたいのだ、と言う。

   興味深かったのは、戦争の話。
   子供の時には、軍国少年であったと、当時覚えた軍歌を歌い始めて、幼い時の叩き込みは、怖い、と言う。
   韓国船からのレーダー問題に触れて、どうでも良いことだがと言いながら、あの盧溝橋事件などもそうだが、つまらないことが引き金となって、引っ込みがつかなくなって、戦争になった。
   戦争中、仙台の郊外の岩沼に疎開していたが、誰もいないような畑に、米軍のB29が飛んできて爆撃して逃げた思い出、そして、漆黒の闇に、仙台を、米軍機が絨毯爆撃した時に、ハラハラ、紅蓮に光りながら落ちてくるのを見て、「きれいだ」と言ったら大人にぶん殴られたと言う。
   何度も、戦争はダメだ、戦争はやってはならない、戦争はよそうよ、と繰り返した。
   戦後、アメリカ万歳と言う空気に妙な気がしたともいう。

   何故、噺家になったのか、親を一番困らせるためになったのだという。学芸大に失敗して予備校に通って居た頃であろうか。
   実家は、半士半農で、母親は非常に気位が高くて、偉くなれと言い続けられていて、偉いとは、陸軍大将や総理大臣であったという。
   良い学校を出て、良い会社に就職して、恵まれた生活を送るというのが親の願いであったのであろうが、噺家になって、一番がっかりさせて、何も考えずに過ごしてきたが、良かった、大正解であったという。

   小三治の命名については、真打になって格が上がったのに、世間とは違って逆に「小」がついたので不満だったが、「大三治(大惨事)」になると言われて諦めたと言って、柳家では、大切にしている名籍で、談志に求められた時に、小さんが、意地の悪いやつにはやらんと言った話があったとこか。
   志ん朝が、早い真打への出世で、父とは違ってハッキリと話せたが、わがままだったと言った話、そして、小さんや談志など、色々な噺家の逸話など語って面白かった。
   落語は、元は、小咄で、笑わせようということではない。
   ウケを狙って面白おかしく話そうとするのはダメで、人の心に残るような、心に響くような人生を語り、人々に成る程と納得してもらい、そこに笑いが生まれる、そんな噺でなければならない。と語っていた。
   
   
   
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なぜ柳家さん喬は柳家喬太郎の師匠なのか?

2019年01月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   落語を聞きに行き初めて、少しずつ落語が分かりかけて、個々の落語家にも興味を持ち始めたのだが、喬太郎の「ハワイの雪」は、幼馴染の老いらくの恋と言うか、ハワイに咲いたしみじみとした人情噺で、新作と言う落語の魅力に魅かれた貴重な経験であった。

   さん喬の高座は、5年前に、国立能楽堂で、「狂言と落語・講談」で、「死神」。
   冒頭から、橋掛かりで演技を始めて、蝋燭を持って橋掛かりに消えると言う、舞台の照明をも小道具に使った面白い落語で、国立演芸場では見られない落語シーンであった。
   2年前に、国立演芸場で、「ちりとてちん」。感激したので、その時のブログをそのまま引用すると、
   中トリの柳家さん喬の「ちりとてちん」は、流石に絶品。
   何度か、他の噺家で聞いているのだが、年季の入った語り口と言い、話術の冴えと言い、ベテランとはこういうものかと思わせる正にそんな噺家。
   最後の「ちりとてちん」を、見栄を張って食す仕草など、実際に、腐った豆腐に唐辛子を混ぜたゲテモノを食べて実験したとしか思えない様な臨場感たっぷりの語り口など秀逸である。

   勉強が、嫌いで、でけへんかったさかいに、しかたのう噺家になったんやと自虐的に語っていた古老とは違って、最近では、東大や京大を出た噺家もいて、相当高度なカレント・トピックスをテーマにした新作落語が観客を誘うという新時代。
   しかし、語り継がれ磨き抜かれて、年輪を経たいぶし銀のように素晴らしい古典落語が、益々人気を増すという時代でもあって、笑いの王国には衰えがない。
   国立演芸場で、正月2日から7日まで9回、「新春国立名人会」が催されていて、東京ベースの著名な噺家が総出演に近い形で登場するので、東京に住んで居れば、毎日でも出かけたいのだが、それもままならず、今回も、小三治がトリの7日だけ行くことにしている。
   さん喬は2日、喬太郎は4日なので、当然、聴けない。

   さん喬は、弟子に、「弟子を育てる能力はゼロだけど、ただ水をやることだけは惜しまないよ」と、吸い上げて吸い上げてくれと言っていたが、喬太郎は、その吸い上げ方が非常にうまくて、どんどん育って行った。その育って行く速度が速くて、自分が牛なら、喬太郎は馬、「こいつは逸材」だと思った。と言う。
   喬太郎の噺を聴いて、あそこは嫌だなあと思う部分もあったが、芽を摘まないために、「あれやめろ、こうしろ」などとは絶対に言わなかった。手枷足枷を弟子にはめたら、絶対に成長しない。小さんもそうしてくれたから、自分もそうしてきた。
   落語の世界では、師匠と弟子はライバルであり、今では、自分より喬太郎の方がウケる率が高い、喬太郎は、自分自身で育ったんだという。

   喬太郎は、臆病だったので、噺家で失敗したら戻ろうと、日大商学部を出て、一時本屋に就職して、その後1年間、アマチュアとしてやれることをやって、さん喬に入門している。
   日大の落研にいた頃、新作落語「純情記横浜篇」を作って賞を取ったのは、三遊亭円丈師を見たからで、円丈師がいなかったら落語家にはならなかったという。
   円丈の新作についての「素人の発想とプロのテクニック」と言う言葉を覚えているともいう。

   今、二つ目の時に思ったように、後世に名前なんか残らなくてもいい、名人にならなくてもいい、他の人にできないことができれば面白いと思っている。と結んでいる。

   この本、さん喬も喬太郎も、本音で落語の世界を語っていて、生身の生きざまが見え隠れして非常に面白い。
   古典芸能、やはり、すごい芸の世界である。
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国立能楽堂・・・能「高砂」・狂言「夷毘沙門」

2019年01月05日 | 能・狂言
   今年最初の国立能楽堂の主催公演は、
   能 高砂 (たかさご)  観世 銕之丞(観世流)
   狂言 夷毘沙門(えびすびしゃもん)  善竹 富太郎(大蔵流)

   新年早々で、玄関には門松、ロビー正面には、立派な鏡飾り。
   奇麗に着飾った和服姿の人々も多くて、華やかな雰囲気であり、お目出度い演目なので、舞台も華やいでいた。
   
   

   銕之丞師の著書「能のちから」に、「高砂」について、書かれた項がある。
   「高砂」は、常緑の老松と、直ぐなる青竹を前に舞う曲で、八段之舞と言う特殊演目では、青竹の垣に相生の松を配した作り物が舞台中央に出され、視覚的には、緑の松と竹のすがすがしさが強調されるという。
   能舞台の背景の松は、神の依りつく依代で、能は、影向の松に降り立った神の前で舞い、神を慰める芸能だが、次第に見せることが主題になって、前にあるはずの松が後ろの鏡に映っているのだという想定になって、背景の板を「鏡板」と呼ぶようになった。
   と言うことは、長寿や御代を祝福する脇能としての「高砂」は、最も能舞台に相応しい能と言うことであろうか。
   

   結婚式や上棟式などのお祝い事で謡われる、「高砂や…」の有名な謡は、この曲の待謡だが、後場で、ワキ/神主友成(福王和幸)たちが、月の出とともに高砂の浦を出航して、住吉へ向かう船出のシーンで謡われる。
   さらりと謡われるだけなので、それほどの感慨を感じられないのが面白い。

   前シテの老翁が、舞台で、熊手で松の葉を掻くのだが、実は「久」と言う字を書く呪詛的なことで、「久」が「祝言」そのものであり、大地を掃くとき動きのバランスもよくて、そう言った型と、精神性とが共存している曲で、25歳まではやるなと言われているという。

   この曲は、前半は、高砂の浦で、松の緑のかわらぬ美しさや和歌の徳を謡い、殆ど動きがないのだが、後半は、住吉の浦に和歌の神である住吉明神が現れて、パワー炸裂のアップテンポの囃子の楽に乗って、春を寿ぎ勇壮かつ颯爽と神舞を舞う。
   住吉明神は歌の神で、言葉ありきで、言葉は魂を持っており、声を発した時にその魂が言葉になり、言葉は歌となって耳に聞こえて具体化され、言葉に魂を入れて芸術が始まってゆく。と銕之丞師は言う。
   伯父の寿夫や父親から、謡の歯切れのよさとかテンポ、調子を張ってとか、言い切りを強くとか、色々注意されたと言うのだが、パワーのある凛として歯切れのよい美しい銕之丞師の謡は格別であり、この「高砂」もそうだったが、いつも、感動して聴いている。

   それに、勇壮な「石橋」もそうだったが、この颯爽たる歯切れのよい流れるようなテンポの「高砂」の舞姿も感動的で、いつも、繊細で優美でありながら、パワーの充満した力強い舞に魅せられている。

   狂言「夷毘沙門」は、奇想天外な婿取ものがたりで非常に面白かった。
   有徳人(善竹十郎)が、ひとり娘の婿が欲しくて、西宮の夷三郎(善竹富太郎)と鞍馬の毘沙門天(善竹大二郎)に祈願に行ったら、両方とも祈れども良い相手が見つからなかったので、美人だと聞いて、自分たち自らが、婿候補としてやって来て、鍔迫り合いを行うという話である。
   善竹父子の共演で、金ぴかに正装した夷と毘沙門の井出たちが、正月公演に相応しいというか、とにかく、狂言も、神を人間世界に引き戻して、同列にハチャメチャを演じる、ギリシャ神話を観ているようで興味深かった。
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ゲーテ著池内紀訳「ファウスト 第一部 」

2019年01月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ヨハン・ヴォルフガング・フォン ゲーテの「ファウスト」、
   池内紀新訳の二巻本、2000年に出版された訳者のサイン本で、20年近く積読であったのだが、倉庫の奥に隠れていたのを引っ張り出して読み始めた。
   今は閉店されている青山ブックセンターのブックカバーに包まれていたので、本は新本そのままの保存条件で、幸いであった。

   全編韻文で書かれて長編の戯曲だが、池内紀は、散文調で訳していて分かり易いのが良い。
  「ファウスト」は二部構成で、第一部は1808年、第二部はゲーテの死の前年1831年に完成されたのだが、私の知っていたグレートヒェンとの恋の物語は、第一部で、第二部については、殆ど知識がなかったので、面白かった。
   ダンテの「神曲」ほど、複雑ではなく、大分時代も下っているので、感覚がモダンで、絵画や音楽などでも多くの作品が残っているので、親しみ易いのである。

   ゲーテは、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家と言った偉大なマルチタレントなのだが、読んだのは、学生時代に、「若きウェルテルの悩み」、それに、旅行記「イタリア紀行」くらいである。
   ゲーテが、ブレンナー峠を越えアルプスの南イタリアに入ると、一気に明るい、君知るや南の国、感激した様子を書いていたのを思い出して、一度、スイスから自家用車で、ブレンナー峠を越えたことがあるのが、国境の交通の集積場のような感じがしただけで、本当は、そこから1時間くらい車で下れば、美しい南アルプスが展望できたのであろうが、その日に、ドイツを突破して、アムステルダムに帰らなければならなかったので、ゲーテの興奮を味わい損ねたことがある。

   ストーリーは、私なりに要約すると、
   ファウストは、あらゆる知識をきわめ尽くしたい偉大な学者であったが、十分な知識欲求を満たしきれずに歎き失望していた。
そこに悪魔メフィストが、黒い犬に変身して書斎に忍び込み、言葉巧みに語りかけ、自分と契約を結べば、この世では伴侶、召使、あるいは奴隷のようにファウストに仕えて、享楽の限りを提供しよう、あの世で会った時には、ファウストに同じように仕えて欲しいと提案する。あの世に全く関心のなかったファウストは即座に承諾し、“時よ、とどまれ、おまえは実に美しい!”("Verweile doch! Du bist so schön.")という言葉を口にしたならば、メフィストに魂を捧げる約束をする。
メフィストは、ファウストを魔女の厨に連れて行き、魔女の作った若返りの薬を飲ませる。若返って旺盛な欲を身に付けたファウストは、様々な享楽に耽るが、恋愛の情熱も強く、魔女の厨で見かけた魔の鏡に、美しくて高貴な理想の女性が映っているのを見て、その面影を追い求め、街路で出会った素朴で敬虔な少女マルガレーテ(通称グレートヒェン)を一目見て恋に落ちる。
メフィストが、グレートヒェンに高価な宝石を贈るなど、ファウストとの仲を取り持って、同じく当初から好意を感じていたグレートヒェンと結び付け、二人は恋に没頭し床を共にする。しかしある夜、この恋物語を聞きつけたグレートヒェンの兄ヴァレンティンが怒って、ファウストとメフィストと決闘し、ヴァレンティンは殺される。
一時の気晴らしに、メフィストはファウスト博士を魑魅魍魎達の饗宴である、ワルプルギスの夜へと連れて行き、ファウストは、この乱痴気騒ぎの中で、首に”赤い筋”をつけたマルガレーテ(グレートヒェン)の幻影を見て彼女に死刑(斬首刑)の危機が迫っていることを悟り、メフィストがそのことを隠していたので激怒する。グレートヒェンは身籠っており、彼の不在で、産まれた赤ん坊を沼に沈めて殺してしまい、婚前交渉と嬰児殺しの罪を問われて牢獄に投じられていた。
ファウストはメフィストと共に獄中のグレートヒェンを助けに駆けつける。狂って朦朧としたグレートヒェンは、なおも信仰心熱く、メフィストの姿を見て逃亡を拒否する、メフィストが「裁きが下りた!」と叫ぶと、このとき天上から「救われた!」と声が響く。ファウストはマルガレーテを牢獄に残し、メフィストに引っ張られて去ってゆく。

   ファウストが、メフィストに魂を捧げると約束した“時よ、とどまれ、おまえは実に美しい!”("Verweile doch! Du bist so schön.")という言葉を発していないので、この時点では、話は完結しておらず、当然、第二部につながるのだが、原ファウストを構想して下書きが残っているのは20歳代で、第一部が完結したのは59歳、第二部完結が82歳の時だと言うから、正に、驚異的である。
   どうしても、グレートヒェンを、ダンテの「神曲」のベアトリーチェと比べてしまうのだが、あのダンテを天国に導いた神聖を帯びた永遠の女性イメージとは違って、グレートヒェンの場合には、もっと身近な生身の乙女と言う感じで、ファウストとの恋の描写も、ある意味では、殆ど現代小説と変わらない感じである。
   尤も、これは第一部の話であって、最後には、ファウストは、死後、メフィストに敗北した筈ながら、グレートヒェンの天上での祈りによって救済されることになるのだが。
   
   「原ファウスト」は、可憐な町娘の恋愛悲劇で、恋をし、身籠って、その子を殺した罪で裁かれる。嬰児殺しは当時好んで取り上げられたテーマで、教会や世俗の道徳がいくら見張っても止められるものではなく、若い男女が愛し合って子供ができるのは必然、モラルと言うか男女関係の価値観が違うだけで、今のドイツでは、当たり前のことで、小説にもならないし、「ファウスト」など生まれなかったはずなのである。

   若返り薬を飲ませた後、鏡に映った美しい乙女像に執着して離れないファウストを見て、メフィストは、「もういい、もういい。いまにホンモノが目の前に現れる。(小声で)あの薬がからだに入ったからには、どんな女も絶世の美女に見えようさ。」と言っており、実際は、メフィストが作り上げた女性像を、ファウストが熱愛したと言うことかも知れないのである。
   かなり、男女関係の描写も大胆で、山本容子の銅版画も面白い。
   

   ワルプルギスの夜のところには、シェイクスピアの「真夏の夜の夢」に登場する懐かしいキャラクターたちが登場して興味深かった。
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穏やかな元日:鹿児島紅梅一輪咲く

2019年01月02日 | 生活随想・趣味
   元旦に、鹿児島紅梅が、一輪だけ花を開いた。
   ほかの梅の木の蕾は、色も変わらず固いままだが、早咲きのこの梅だけは、ほぼ色づき始めているので、開花も早いのであろう。
   桜のように華やかではないが、一足先に春の訪れを告げる華麗な花で、寒さに抗して凛として咲く花姿が好ましい。

   昨日の元旦は、家族ともども菩提寺に初参りして、お雑煮を頂いて帰ってきて、孫たちがいつもの習慣で、どうしても、スシローに行って、大トロを食べたいと言うので、少し早かったが、すいている間と思って出かけて、ゆっくりと過ごした。
   その後、家に帰って、酒肴を交えて、娘婿たちと、カレントトピックスをテーマに座談を楽しんだ。

   元旦なので、かなりの店舗が閉まっていて、家族で夕食と言ってもままならないのだが、家族の苦労も考えて、家でのお雑煮や正月のお節料理を頂くのは、翌日の事始めの二日にすることにしたのである。
   尤も、最近では、手の込んだお節料理に拘らず、例えば、鯛などは、大晦日に、魚屋やスーパーで一番上等な大きな鯛を買ってきて、私が、オーブンで塩焼きにするので、極端に言えば、一番美味しい状態で、頂くことができて、皆楽しんでいる。
   店で、内臓や鱗の処理をしてもらって居るので、私自身が塩をして、レシペ通りに、200度で40分くらい焼けば上等な鯛の塩焼きが出来上がるのである。

   昨夜は、テレビで、恒例のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサート2019年を聴いて、その後、並行録画していたユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」を底本にした「”衝撃の書”が語る人類の未来・徹底解剖!”ホモ・サピエンス全史””ホモ・デウス”」を見た。

   私は、もう何十年も前に、家族とのヨーロッパ旅行の途中、一度だけ、このウィーンで、大晦日と元日を過ごしたことがある。
   娘が幼かったので、私だけだったが、大晦日恒例のウィーン国立歌劇場で「こうもり」を観ることができた。
   観客は、すべてタキシードとイブニングドレスで着飾った人々ばかりで、背広姿は私と隣の出張中のアメリカ人だけ、
   結構、あっちこっちで、ガラ・コンサートなど特別な祝祭公演に出かけていたが、これほど、華やかな公演と劇場の雰囲気を観たことがなかった。
   その後、丁度、深夜12時に、闇夜を衝いて、烈しい爆竹の音が轟いたのを、ワーグナーも泊ったというカイザリン・エリザベート・ホテルのベッドで聞いていた。
   ロンドンに居た時に、ウィーン・フィルのコンサートには、何回か出かけて、結構、ウィーン・フィルのウィンナ・ワルツを聴いてはいるが、残念ながら、この楽友協会のホールは、建物の前までで、入ったことはない。
   しかし、ウィーンやオーストリアへは、何度か行っており、ウィーンからブダペストまで水中翼船でドナウ川を渡ったこともあるので、このニューイヤーコンサートの雰囲気は分かる。

   ハラリの本は、両方とも読んでこのブログでもレビューしているので、私にとっては、素晴らしい復習の時間であった。
   時間差があって、ごく最近の話題まで取り込んでいて、非常に面白かった。

   時間をみて、元日の新聞を読んだ。
   日経と朝日、
   やはり、AIやロボティックスなどデジタル革命によって大きく変わる未来展望が、主たるテーマになっていたのだが、学術書ではないので、取り上げ方が興味本位で、掘り下げ方が散漫であって、ポイントがズレていたりするので、殆ど、役には立たなかった。
   むかし、中村さんはあまり新聞を読みませんねえ、と言われたことがあるのだが、私は新聞は、トピックスを掴む程度で流し読みをしており、今でも、テーマを掘り下げてしっかりした理解をするためには、新聞などではダメで、学術書や専門書主体で、必ず裏をとるべく、まともな本を読まなければならないと思って、それを頑なに守っている。

   今朝、事始めに、ゲーテの「ファウスト」を読み始めた。
   昨年は、ダンテの「神曲」に挑戦したが、今年も、何点か古典に取り組もうと思っている。
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