1991年は、モーツアルト200と言うことで、世界各国でMOZART200の催しや演奏会などが行われて、音楽会はまさにモーツアルト一色であった。
12月5日の命日には、各地で、モーツアルト未完のレクイエムが演奏され、BBC TVでは、この日の深夜にかけてセントポール寺院での演奏会が放映されて、アナウンサーが、丁度このレクイエムの演奏が終った時刻の200年前にモーツアルトが亡くなったと説明していた。
同じくBBCが、この日、オーストリア放送協会の録画で、ウィーンのステファン教会でのモーツアルト追悼のミサとゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニーのレクイエムを放映した。まさに、モーツアルトは、この教会でミサを受けて、共同墓地に埋葬されたのである。
ところで、この教会からウィーン国立歌劇場に向かう大通り、ショッピング街として最も有名な目抜き通りケルントナー通りに、モーツアルトが亡くなったと言われている場所がある。開発物件として市場に出ていて調査に行ったのだが、勿論、元の建物ではなく戦後の新築で、その少し前には、ステッフェル百貨店として賑わっていた場所で、解体前であったので、店が流行っていた頃には客に語りかけていたはずのモーツアルトのコンクリートの彫像が、空しく床の上に転がっていた。モーツアルトが、実際に亡くなったのは、この建物の裏通りに面した部分であったと言う。
ケルントナー通りよりも、この裏通りの方が、何となく古いウィーンを感じさせ、建物の合間から、ステファン教会の屋根や尖塔が見える。この通りはレストランや酒場やナイトクラブなどが並んでいて、ショーウインドウや店の中には、所狭しと有名人の写真がディスプレィされていて、当然、パバロッティやドミンゴ、フレーニなどのスナップも混じっている。ミラノ・スカラ座の裏通りにあった楽器店の慎ましやかで品のあったヴェルディの写真などのディスプレィとのその落差が面白かったが、夜に繁華街として賑わう町並との差であろうか。
このあたりの雰囲気は、何となく、映画の「アマデウス」の舞台を彷彿とさせるのだが、この映画が実際に撮影されたのはこのウィーンではなく、チェコのプラハである。共産主義体制で貧困状態のまま年月を経て、開発から見放されて戦前のまま維持されていたので、廃墟のようにくすんで寂れてはいたものの、随所に中世の都市景観が残っていて、痩せても枯れても、鯛は鯛、二重帝国ハプスブルグ王朝の首都プラハの面影は、そのまま残っていてモーツアルト映画の格好の舞台だったのである。私は、ベルリンの壁が崩壊した直後と、その後、大分経ってから復興なったヴェルディ・イヤーの年と、プラハを2度訪れているが、色々歩いた都市の中で、世界で最も美しい古都だと思っている。
さて、このモーツアルトの住居から少しオペラハウスに向かったところに、ホテル・カイザーリン・エリザベートがあり、ワーグナーが定宿にしたと言う非常にシックなホテルで、1973年に家族と初めて泊まって以来、家族とウィーンに行くときには必ず泊まっていた。しかし、一人で行くときには、当然、夜はオペラなので、国立歌劇場の裏手のホテル ザッハー ウィーンに泊まっていた。
ウィーン楽友協会横のクンストラー・ハウスでMOZART200展が開催されていた。仕事の合間だったので、長居は出来なかったが、大部分はパネルによる展示で、その場所の展示にマッチした音楽がスピーカーで流されていた。もう少し丹念に見て、資料なりパンフレットなり記録となりそうなものを取得しておくべきだったと後悔したが、後の祭りであった。
この年、何度かウィーンに出張してきていたので、夜は、千載一遇のチャンスで、オペラ座に通った。ヴェルディの「ファルスタッフ」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドノフ」、そして、モーツアルトはこれだけだったが「コシ・ファン・トゥッテ」。「ボリス・ゴドノフ」は、、まったく同様の演出の同じ舞台をロイヤル・オペラでも観たのだが、なぜか、ウィーンの方が印象に残っている。タイトルロールを歌ったロバート・ロイドが良かったのか、指揮のクラウディオ・アバードが良かったのか、オーケストラや劇場が素晴らしかったのか。
いずれにしろ、モーツアルト200で、最も華やぐのは、フルサト・ウィーンであろう。
ロンドンでのMOZART200は、次回に回したい。
12月5日の命日には、各地で、モーツアルト未完のレクイエムが演奏され、BBC TVでは、この日の深夜にかけてセントポール寺院での演奏会が放映されて、アナウンサーが、丁度このレクイエムの演奏が終った時刻の200年前にモーツアルトが亡くなったと説明していた。
同じくBBCが、この日、オーストリア放送協会の録画で、ウィーンのステファン教会でのモーツアルト追悼のミサとゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニーのレクイエムを放映した。まさに、モーツアルトは、この教会でミサを受けて、共同墓地に埋葬されたのである。
ところで、この教会からウィーン国立歌劇場に向かう大通り、ショッピング街として最も有名な目抜き通りケルントナー通りに、モーツアルトが亡くなったと言われている場所がある。開発物件として市場に出ていて調査に行ったのだが、勿論、元の建物ではなく戦後の新築で、その少し前には、ステッフェル百貨店として賑わっていた場所で、解体前であったので、店が流行っていた頃には客に語りかけていたはずのモーツアルトのコンクリートの彫像が、空しく床の上に転がっていた。モーツアルトが、実際に亡くなったのは、この建物の裏通りに面した部分であったと言う。
ケルントナー通りよりも、この裏通りの方が、何となく古いウィーンを感じさせ、建物の合間から、ステファン教会の屋根や尖塔が見える。この通りはレストランや酒場やナイトクラブなどが並んでいて、ショーウインドウや店の中には、所狭しと有名人の写真がディスプレィされていて、当然、パバロッティやドミンゴ、フレーニなどのスナップも混じっている。ミラノ・スカラ座の裏通りにあった楽器店の慎ましやかで品のあったヴェルディの写真などのディスプレィとのその落差が面白かったが、夜に繁華街として賑わう町並との差であろうか。
このあたりの雰囲気は、何となく、映画の「アマデウス」の舞台を彷彿とさせるのだが、この映画が実際に撮影されたのはこのウィーンではなく、チェコのプラハである。共産主義体制で貧困状態のまま年月を経て、開発から見放されて戦前のまま維持されていたので、廃墟のようにくすんで寂れてはいたものの、随所に中世の都市景観が残っていて、痩せても枯れても、鯛は鯛、二重帝国ハプスブルグ王朝の首都プラハの面影は、そのまま残っていてモーツアルト映画の格好の舞台だったのである。私は、ベルリンの壁が崩壊した直後と、その後、大分経ってから復興なったヴェルディ・イヤーの年と、プラハを2度訪れているが、色々歩いた都市の中で、世界で最も美しい古都だと思っている。
さて、このモーツアルトの住居から少しオペラハウスに向かったところに、ホテル・カイザーリン・エリザベートがあり、ワーグナーが定宿にしたと言う非常にシックなホテルで、1973年に家族と初めて泊まって以来、家族とウィーンに行くときには必ず泊まっていた。しかし、一人で行くときには、当然、夜はオペラなので、国立歌劇場の裏手のホテル ザッハー ウィーンに泊まっていた。
ウィーン楽友協会横のクンストラー・ハウスでMOZART200展が開催されていた。仕事の合間だったので、長居は出来なかったが、大部分はパネルによる展示で、その場所の展示にマッチした音楽がスピーカーで流されていた。もう少し丹念に見て、資料なりパンフレットなり記録となりそうなものを取得しておくべきだったと後悔したが、後の祭りであった。
この年、何度かウィーンに出張してきていたので、夜は、千載一遇のチャンスで、オペラ座に通った。ヴェルディの「ファルスタッフ」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドノフ」、そして、モーツアルトはこれだけだったが「コシ・ファン・トゥッテ」。「ボリス・ゴドノフ」は、、まったく同様の演出の同じ舞台をロイヤル・オペラでも観たのだが、なぜか、ウィーンの方が印象に残っている。タイトルロールを歌ったロバート・ロイドが良かったのか、指揮のクラウディオ・アバードが良かったのか、オーケストラや劇場が素晴らしかったのか。
いずれにしろ、モーツアルト200で、最も華やぐのは、フルサト・ウィーンであろう。
ロンドンでのMOZART200は、次回に回したい。