熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

今更、読書離れと言われても

2021年06月07日 | 政治・経済・社会
   ニューズウィークの記事を読んでいたら、マーガレット・クリスティン・マーガ(豪カーティン大学上級講師)の次の記事が眼に入った。
   ”男の子は読書が苦手(OECD調査)...でも本好きに変えられる6つの方法”
   Six Things You Can Do to Get Boys Reading
   <OECDの調査では「女の子のほうが読書力も情報要約力も高い」とされるが、親として子供を読書に導く方法はある>と言うことで、
   「本人の興味に合わせて本を選び、親が手本に」にと、6つのアドバイスが紹介されている。

   私が興味を持ったのは、これとは違って、引用記事の、舞田敏彦(教育社会学者)の二つの論考である。日本人の読者離れについては、何度も書いているので、蛇足の上塗りなのだが、もう一度考えてみたいと思う。

   まず、”書店という文化インフラが、この20年余りで半減した”という記事、
   <90年代以降の四半世紀で、街中の書店の店舗数は全国でおおむね半減した。これに伴い国民の読書実施率も下がっている。思いがけない本にも出会える街の書店を、時代遅れの遺物にしてしまって良いのか>
   引用されて居るグラフを見れば、一目瞭然である。
   東京や大阪でも、良く通った立派な書店がどんどん消えていったし、この文化都市鎌倉でも、殆ど限られたところにしか書店がない。
      

   もう一つの記事は、”働き盛りが読書しない日本に、やがて訪れる「思考停止」社会”
   <日本の30代~40代の読書率が、21世紀に入ってからの10年間で大きく下がっている。全国地域別の調査でも読書実施率の低下は顕著で、まるで日本では「知の剥奪」が進んでいるようだ>

   まず、掲載のグラフを引用すると、
   
   

   グラフから分かるように、働き盛りの層で減少幅が大きい。30代後半では55.1%から44.2%と、10ポイント以上も低下している。長時間労働ゆえに、本を読む余裕がなくなっているのだろう。育児と介護が重なる「ダブルケア」の問題も生じている。晩婚化の影響で、この年齢層にも子育てに手がかかる小さい子供がいる家庭が多く、年老いた親の介護との「ダブル」の負担がのしかかっている。まとまった分量(深み)のある本を読まず、スマホのネットニュースで短いタイトル(リード文)だけを見て、自分の考えを決めてしまう。モノを深く考えない国民が増えることは、政治の方向を誤らせることにも繋がるのではないか。
この傾向が次世代にも受け継がれるとしたら、甚だ恐ろしい。無知とは恐ろしいことで、知識を得るための学習は権利であることを子供たちに教え、政府は国民の学習権を保障する条件を整えなければならない。労働時間の短縮は、そのなかでも特に重要な項目の一つだ。
   と述べている。

   さて、何故、読書が良いのか、その効用だが、「致知」の宣伝文句を適当に引用すると、
   見たり聴いたりするものが即座に消え去ってしまう映像や音声に対して、文字の大きく違う部分は、想像力で補われる情報量が多いこと。ここでいう想像力とは、「自分の言葉で考える」ことで、脳の中でこの想像力を司るのは言語野であり、分からない所が多いほど、脳は音韻・単語・文法・読解の4つの領域を総動員して「これはどういう意味だろう」と考え始める。活字を読むことは、単に視覚的に脳にそれを入力するだけでなく、能動的に足りない情報を想像力で補い、曖昧な部分を解決しながら「自分の言葉」に置き換えるプロセスなのである。
   脳を創るためには、「適度に少ない情報の入力」と「豊富な情報の出力」の両方が必要で、脳の働きを軽視した安易な単純化は害になる。
   インターネットで情報を得ることは、単に左脳で知識を知ることに留まるが、本のような紙媒体では、五感に訴えかけて情報を理解するため、脳全体の活性化に繋がり、脳が鍛えられる。

   良く分からないが、真面な本を読む習慣をつけないと、腑抜けの阿呆になるぞ、と言うことであろうか。
   ”働き盛りが読書しない日本に、やがて訪れる「思考停止」社会”と言う舞田敏彦の予言が、見え隠れしていて恐ろしい。

   大宅壮一が、かって、TV時代を揶揄して「 一億総白痴化」と言ったが、
   新聞さえ読まず、テレビさえ観ない、ましてや、教養書や専門書など真面な本などさらさら読むはずがない国民が増えていて、初歩的な知識情報や常識さえ欠如したと思しき国民に、NHKを筆頭にマスコミが喜々として、性懲りもなく無意味なアンケート調査を行って、国民の世論だと嘯いて、政治経済社会の動きを大きくスキューして憚らないこの悲しい現実をどう見るのか。
   竹中平蔵教授が、オリ・パラ開催について聞かれたときに、「世論は信用できない」と言って物議を醸したようだが、信用できないとは思わないが、信用して良いのかどうかは疑問だとは思っている。
   こんなに問題の多い日本で、どんな異常事が起こっても、国民の殆どが温和しくて意思表示さえせずに動かないのは、国民が知や情報へのアクセス欠如で、何にも分かっていないからだということであろうか、
   そう思うと、そら恐ろしくなって来た。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ・ワクチン第二回接種

2021年06月06日 | 
   今日、夕刻、コロナ・ワクチンの第二回接種が終って、ホッとした。
   鎌倉では、80才以上の高齢者の接種としては、一番早い方だが、65才以上の接種も同時に始まっているので、初日よりはかなり混雑はしていたが、上手く順調に進行していて、接種後の異常者がいるようにも思えなかったし、何の問題もなさそうであった。
   横浜をはじめ、混乱を起こしている地区もあるようだが、我々の場合には、非常にスムーズにワクチン接種を受けられたので幸せであった。

   ところが、迂闊にも、第一回目接種の日の夕食で、習慣になっているワインを飲んでしまった。
   注射を打ったときには、激しい運動や酒を控えるべしと言うのは常識になっている筈だが意識にはなかったのである。
   気になって、パソコンを叩いたら、色々な意見が出てきて、イギリスの調査で、酒を飲むとワクチンの効果が減殺されると言う記事に遭遇して、嫌になってすぐ消してしまった。
   飲んだと言っても、制限には気をつけているので、200ccを越えることはないのだが、主治医の先生に聞いたら、「大丈夫ですよ」、
   今日、接種時に、先生に聞いたら、「心配ないです」、
   運を天に任せる以外にない。

   さて、何らかの理由で、予約が出来なかった高齢者に対しては、救済措置として、市役所から接種場所や日時を指定した案内状が送付されているようである。
   パソコンを使えない高齢者や、何時間も根気よく電話をかけるのに堪えられなかったり、頼りになる若い身寄りのない高齢者などが沢山居るはずで、アクセス困難で早いもの勝ちの予約制度で対応するなどは愚の骨頂であり、このように、最初から、指定制の案内状を送って個人の意向を勘案して微調整するなど、混乱を避ける方法はいくらでもあったはずである。

   素人の暴言覚悟で言わせて貰ったら、今回のパンデミック対応で、一番残念であったのは、日本で、ワクチンの開発が出来なかったこと。
   「何故、一番でないといけないのですか、二番ではダメなのですか」、とか言った政治家がいたが、日本人の大半は、日本の科学技術は、世界でもトップ水準だと思っているはずで、政府が、膨大な先行投資をして、医薬品業界を鼓舞すれば、必ず、ワクチンが出来ていたであろうと信じていたと思う。
   トランプは、無茶苦茶だが、ワクチン対応の戦略戦術は正しかった。

   もう一つ、日本で、オリンピック・パラリンピックを開催するのなら、世界に先駆けて真っ先に、国民全員へのワクチン接種を終えて、開催を待つのが当然であるはずだが、新興国や途上国の一部にさえ後れを取って、先進国では、最も遅れた国になっているという、目も当てられないような惨状。
   理由は色々あるであろうが、政治の貧困と言うべきか、箍が外れてしまっている。
   こんなj常識の内閣であるから、ご意見番として良識の砦である筈の尾身会長の警告に対して、
   「尾身会長を黙らせろ」菅首相逆ギレ命令〈冬コロナ危機 医療崩壊は人災だ! 〉文春オンライン
   トランプのファウチ博士追放事件の日本版とも言うべきか、

   余談だが、今日の連敗で、阪神が、あやしくなってきた。
   今シーズンは、快進撃で期待していたのだが、何十年も前の昔の嫌な新聞のタイトルを思い出した 
   ”強そうで頼りにならないのは、日本の円と阪神と朝潮”
   私が阪神ファンなのは、生まれ育ったのが甲子園球場の側で故郷であるからだが、別に、スポーツファンでもないのに、阪神の勝ち負けだけは気になっている。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(23)ロンドンでシェイクスピア戯曲を鑑賞する その1

2021年06月05日 | 欧米クラシック漫歩
   イギリスで5年間生活して、本場のゴルフには一切縁はなかったが、シェイクスピア戯曲の鑑賞には、かなり、熱心に通った。
   この記事は、1990年末の記録を元にしているので、私が、シェイクスピアを聴きに行く(本来は、シェイクスピア劇は聴くと言う)ために、頻繁に、主に、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(Royal Shakespeare Company RSC)に通っていた頃の、全く初期の初歩的な観劇記を、思い出を交えながら書いてみたいと思う。
   このRSCは、シェイクスピアの生誕地であるストラトフォード・アポン・エイボンを拠点とする劇団で、ここに、ロイヤル・シェイクスピア・シアター、スワン・シアター、ジ・アザー・プレイスの3つの劇場を所有しており、主に、シェイクスピア劇を上演している。
   五年間の在英中には随分足を伸ばしたが、この頃、ロンドンのバービカンに常設のシェイクスピア劇場を持っていて、私が、頻繁に訪れたのは、こちらの方である。
   ロンドンには、シェイクスピア劇を上演する劇場が他にあったのであろうが、まだ、グローブ座もなかったし、私が、通ってシェイクスピアを聴いたのは、他には、ロイヤル・ナショナル・シアターの舞台であった。

   シェイクスピア戯曲は、観に行くと言うのではなくて、聴きに行くと言うことだが、イギリス人の友人に言われて、何故だと聞きそびれた。シェイクスピアの名戯曲は、聴いてこそ価値があるのは尤もであろうが、この口絵写真のグローブ座のような陽が照る青天井の舞台で、「ハムレット」の冒頭の漆黒の闇での父王の亡霊の出現のシーンが演じられるのを考えれば、良く分かる。
   グローブ座で、カンカン陽の照りつける日や、雨の降りだした日に、シェイクスピア鑑賞の機会を得た。芝居のストーリーとは全く関係のないシチュエーションで、舞台セットも殆どない吹き晒しの舞台で展開されている芝居を楽しむためには、それ相応の知識と教養で武装して、気を入れて聞き込む必要があるのである。
   当時、劇場以外では、田舎のコ型に建つ旅籠の中庭の開口口に舞台を設えて、中庭とコ型の回廊を客席にして、青天井で、シェイクスピアを演じていたと言うから、今のように、至れり尽くせりのオーディオ・ビジュアル完備の豪華な劇場での公演は、邪道なのであろう。
   日本でも、文楽鑑賞に行くのに、浄瑠璃を聴きに行くと言う表現があるようだが、多少、似ているのかも知れない。

   さて、RSCの公演を鑑賞するためには、年初に、メイリングリストに登録して、送られてきた年間予約の申込書に、適当にスケジュールを決めて記入してチケットを予約する。
   最初に行ったのは、「ヘンリー四世 第一部」で、その年、シェイクスピアでは、「ヘンリー四世 第二部」「ロメオとジュリエット」「ヴェローナの二紳士」、そして、ストラトフォード・アポン・エイボンでの「ウィンザーの陽気な女房たち」だけだったが、他に、ベン・ジョンソンの「アルケミスト」、リチャード・ネルソンの「コロンブス」、ソフォクレスのギリシャ悲劇「オィディプス 三部作」、それに、丁度来訪していた蜷川劇団の「テンペスト」であった。

   このバービカン・センターは、ロンドン交響楽団の本拠地で、毎月、定期コンサートで大ホールには通っていて、隣のRSCの公演は、場外のTVスクリーンで何度も観ており、興味がなかったわけでもなかったのだが、オペラやクラシック音楽鑑賞の方がプライオリティが高くて、シェイクスピアは何となく敬遠していたのである。
   しかし、折角、シェイクスピアの本国イギリスに来ており、シェイクスピアを鑑賞し学ぶ機会を逸しては、千載一遇のチャンスを棒に振って後悔するに違いないと思って、分かっても分からなくても、とにかく、劇場へ行こうと決めた。

   当時は、芸術鑑賞には糸目を付けなかったので、オペラも何でもそうだが、最良の席に限ると思っていたので、前の中央席に決めていた。
   この劇場は、舞台が低く、一番前列の客の目の高さにあり、平土間の傾斜が急なので、何処に居ても舞台を見下ろす位置にあり、その臨場感に圧倒される。劇場が小さい所為もあるが、役者の唾が飛ぶのが分かるくらいに近く、それに、顔の表情は勿論、体の細やかな動きや微妙な仕草など手に取るように迫ってきてビックリした。
   しかし、グランド・オペラの豪華で華麗な舞台を見慣れているので、舞台セットなどセーブされた案外貧弱でシンプルな舞台設定には、何となく違和感を感じた。
   尤も、シェイクスピアの戯曲は、時には、ほんの数シーンで、一挙に、舞台が外国に移ってしまい、時間が飛んでしまったりして、舞台展開が激しいので、当然なのであろう。

   ところで、子供の頃に、イギリスのどこの家庭にも、聖書とシェイクスピアの戯曲本があるのだと聞いていた。それほど、イギリス人の生活の中に、シェイクスピアが息づいていると言うことであった。
   しかし、私が付き合ってきたイギリス人の教養や知的水準はかなり高かったはずだが、これは真実ではなく、イギリス人にとってさえ、シェイクスピアは、難解であって、それ相応の心の準備と勉強を、そして、鑑賞機会を重ねないと、楽しめないと言うことである。
   日本の能・狂言、歌舞伎・文楽などの古典芸能によく似た位置づけであろうか。

   最初の頃は、手元には、英語のシェイクスピア関係本と劇場でのパンフレットくらいしかなかったので、手探りでシェイクスピア劇に挑戦していて、殆ど良く分からなかったが、日本への帰国時に、小田島雄志の翻訳本やシェイクスピア関係の本をせっせと買い込んで帰り、ほぼ、四年間、そして、帰国後も渡英の度毎にグローブ座などに通って、シェイクスピアに接し続けてきた。
   イギリス生活での貴重な財産となっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(22)オペラ座の怪人を観る その2

2021年06月04日 | 欧米クラシック漫歩
   さて、この「オペラ座の怪人」だが、叶わぬ恋をした怪人は、慈しみ育てたオペラ座のプリマドンナ・クリスティーヌの熱い接吻に、初めて人の愛を感じて、運命の悲哀をそのままに静かに舞台から消えてゆく。
   このアンドルー・ロイド・ウェーバー版とは違った別の演出の「オペラ座の怪人」が、ロンドンの他の劇場にかかっているのだが、これは、全く話題にさえなっていない。
   とにかく、このロイド・ウェーバー版は、当初から大変な人気で、前述したようにチケットの取得が困難で、ずっとソールドアウトなのに、朝から劇場の横に列が出来ている。
   1992年当時、一番良い席で25ポンド(6000円ほど)であったから、1年前から売り切れでも仕方がないのかも知れないが、この値段は、ロンドン交響楽団やフィルハーモニアなどロンドンのトップ・オーケストラと同じで、ロイヤルオペラの3分の1で、3時間美しい音楽と華麗な舞台を満喫できるのであるから安いのだが、観客の大半は、観光客だという。

   この舞台には、いくつか叙情的で美しい場面がある。怪人が、クリスティーヌを舟で地下室へ導くシーン(口絵写真)は、丁度、オッヘンバッハのオペラ「ホフマン物語」の”ヴェニスの場”のホフマンの舟歌のセットを思い出させる。霞にかすむ燭台の光が美しい薄明かりの中を怪人の漕ぐ船が進む。いい気持ちになって見ていると、この霞が煙で、舞台正面手前のオーケストラ・ピットの端で、強力に回収すべく吸い込んではいるのだが、それでも、相当部分が指揮者の頭を通り越して客席まで流れ込んできて、これが、また臭気を帯びていて艶消しである。
   これとは違って、満天星の輝くパリの夜、オペラ座の屋上でのクリスティーヌとラウルの愛の二重唱のシーンは、デュエットも舞台セットも美しい。当時のパリは、公害でそんなに美しいはずがなかったと思うが、何となくセットの夜の雰囲気がパリだと思わせるところが不思議で、ロンドの夜景は、やはり、メリーポピンズであろう。

   ところで、このハー・マジェスティーズ・シアターは、ロンドンの劇場の中でも由緒正しい劇場で、元は、ロンドの最初のオペラ・ハウスであったという。(ウィキペディアから写真を借用)
   
   1705年にクィーンズ劇場としてオープンし、ヘンデルのオペラやオラトリオが公演されたが、1789年の火災で倒壊した。1789年に再建されたときには、正式にオペラ・ハウスの名称を得て、今のロイヤル・オペラ・ハウスのように大規模で、平土間の上に五層の客席があって、更に、立ち見の天井桟敷があって、オペラやバレエが演じられていたと言う。現在の建物は、1890年に再建されたもので、昔日の面影はなく、ロンドンのミュージカル劇場としては平均的ではないかと思うのだが、「ウエストサイド・ストーリー」や「屋根裏のヴァイオリン弾き」や「アマデウス」が上演されており、この「オペラ座の怪人」は、1986年9月27日以来上演されている。
   因みに、ニューヨークのブロードウェイで上演され始めたのは、オープニングにセーラ妃が出席したのをBBC TVで観たので、それよりずっと後であった。レックス・ハリソンの「マイフェア・レィディ」やユル・ブリンナーの「王様と私」の舞台をブロードウェイで観たが、ロイド・ウェーバーのミュージカルが脚光を浴び始めてからは、ミュージカルの比重は、一気にロンドンへ移った感じであった。

   先日、WOWOWで、「オペラ座の怪人 25周年記念公演 in ロンドン」が放映されたので、久しぶりに華麗な舞台を観て、感激を新たにした。
   この記念バージョンは、あのBBCプロムスの会場である巨大なロイヤル・アルバート・ホールでの最新のオーディオ・ビジュアルを駆使した最新版の記念公演の映画で、実際に、あの巨大なサーカス劇場のような多目的ホールで観て聴くとどうのような印象になるのか、興味深いところである。
   私など、プロムスなどで、かなり、このホールには通ってはいたが、オーケストラやコンサート形式のオペラであったので、このように、巨大な会場を舞台にして、縦横無尽に、パフォーマンス・アーツの極と粋を表現するとどうなるのか、この映像を見るだけでも、興奮を覚える。

   とにかく、高度なミュージカルは、オペラとは違った素晴らしい芸術鑑賞の醍醐味を味わわせてくれる。この「オペラ座の怪人」は、その最右翼であろうと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミチクサ先生京都帝大訪問

2021年06月03日 | 生活随想・趣味
   伊集院静の日経新聞小説「ミチクサ先生」を、毎朝、楽しみに読んでいるのだが、今日の記事は、創立直後の京都帝国大学の様子と京都観光について書いていて、急に、懐かしくなってきた。
   この口絵写真は、インターネットのどこからか借用した写真で、この正門から時計台を臨んだ写真は嫌と言うほど撮っているのだが、記憶にあるのは、この時計の下に巨大なチェ・ゲバラの似顔絵が貼り付けられていた安保騒動の時の殺伐とした風景である。
   卒業してからもう60年近く、孫を案内して訪れたのが10年近くも前であり、同窓会にもご無沙汰しているので、記憶の遠くに行ってしまっている。

   京都大学は1897年に設置されたと言うから、2022年、創立125周年を迎える。
   当時、漱石は、初代学長の狩野亨吉に英語教師として強く望まれていたようだったが、京都に住んで何年か教鞭を執っていたら、坊ちゃんとは違った郷土色豊かな雅の古都の雰囲気ムンムンの面白い小説が生まれていたのではないかと思うと興味深い。
   狩野亨吉が、「ここが日本の西の文學を培う場所になるのです。」と言ったので、漱石が、「そうなるといいですね」と応えている。

   当時、どうだったのか分からないが、東京帝大の学生さえ程度が低くて嫌になって、漱石が東大を辞めたのだと言うから、京大の草創期も大変であったと思うが、当然、教授陣は殆ど東大出身であったであろうし、京大色が出てくるのは、生え抜きの学者が輩出するずっと後になってからである。

   私のゼミの先生の岸本誠二郎教授は、京大教授として20年間教鞭を執られていたが、東大出身で、毎週東京から通っておられた。
   非常に誠実な素晴らしい先生で、当時、池田内閣の閣僚が、総理をはじめ、大蔵大臣 の水田三喜男、文部大臣の 荒木萬壽夫が、京大卒であったので、千載一遇のチャンスだと陳情説得して、京都大学経済研究所の創設に尽くして、1962年初代所長となり、その後、引退されている。
   理論経済学の大家で、「分配と価格」に関する基本原理を作り上げたと言うことで、2年間、このゼミで、経済成長や景気循論論などを中心に学んだ。
   日本学士院会員の会員でもあって、中には、「多数決の意味さえ分からない」大先生がおられるのですよ、と浮世離れした話も語っておられた。
   大学院留学中に、丁度、ガルブレイスのEconomics and the Public Purposeが出版されたので、先生に送ったら非常に喜ばれ、偉大な学者だと賞賛されていることを知って、独学していたので教えを請うべきであったと気づいたのだが、私自身、帰国後、すぐにサンパウロ赴任となって、程なく亡くなられたので、その期を逸してしまった。

   京大で残念だったのは、文部省の覚えが宜しくなかったのか、高田保馬の偉大な伝統がありながら、学生の定員が、地方の国立大学の経済学部の定員より遙かに少ない200人で、陣容や講座数も貧弱で、その上に、マル経の教授が過半数を占めていて、近経の講座が少なく限られていて、私など、マルクスを毛嫌いしていたので授業の選択の余地が殆どなかったことである。
   当然のこととして、当時は、ケインズ経済学が脚光を浴びていたがその講座もなく、私など、経済成長や景気循環論については、シュンペーターに傾倒してイノベーションに関心を集中していたので、殆ど、独学独習であった。

   尤も、このフラストレーションは、8年後に、留学したフィラデルフィアのビジネス・スクールでの勉強で一気に解決された。と言っても、シュンペーターやガルブレイスの勉強は独学を続けなければならなかったが、アメリカの友人など、何の役にも立たないマルクスを何故勉強するのかと言う訳である。
   しかし、今では、少しはマルクス経済学を学んでおくべきであったと反省している。

   経済学部では、それ程、良い思い出はないが、宮崎市定の中国論、大石義雄の憲法、桑原武雄の美学や芸術論、湯川秀樹の物理学の話、それに、人文科学研究所の猿や異文化など高名な先生の話など、まさに、学際の豊かさで、触発された授業や講話講演など結構多くて、幸せであったと思っている。

   それに、ミチクサ先生は、祇園、知恩院、清水寺、銀閣寺、詩仙堂、真如堂などを巡ったと言うことだが、京都と言うことが幸いして、私は、趣味と実益を兼ねて、回れる限り殆どの京都の古社寺や名所旧跡を歩き続けた。
   奈良は勿論、三重や兵庫、滋賀や大阪、和歌山と言った近隣の古社寺なども同様で、日本文化の粋と奥深さを味わいたくて、歴史散歩、文化芸術漫歩に明け暮れた。
   これが、高じて、幸いにも、アメリカ留学から、ブラジル、オランダ、イギリスと、舞台が世界に広がったので、グローバルバージョンとなった。

   さて、ミチクサ先生は、八坂神社の鳥居を見つけて、「この先に美味いぜんざいを食べさせる店があったんだが・・・」と言って、正岡子規と行って美味い美味いと食べたぜんざいとミカンのことを懐かしんでいる。
   何故だか、私も、法経教室の壁の合格発表の張り紙を見てホッとして、哲学の道から円山公園に出て、このあたりで小さな店に入って、ぜんざいを食べた記憶があるので、無性に懐かしくなった。

   円山公園の奥にある古社寺で、貧しい学生生活ではありながら、良く、コンパを開いて青春を謳歌していた。
   やると言えば、すき焼きかしゃぶしゃぶだったが、当時は肉が安かったのか、普通に、安酒と肉で、それ相応に、満足なコンパを楽しめた。
   寺に入ったときには、ちらほら降っていた雪が、コンパが果てて出てみると、一面に深い雪景色で、雪に足を取られて転げながら八坂神社を抜けて祇園の交差点に出たのも、懐かしい思い出である。

   京都なら、いくらでも、書けるが、これは、私だけの自己満足なので、これで止める。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが庭・・・バラ、アジサイ、ビョウヤナギ、そして、梅酒造り

2021年06月01日 | わが庭の歳時記
   わが庭で、華やかなのはアジサイだけ、
   私には、椿とバラが咲き終われば、花の季節は終った感じになる。

   ばらは、一番花の最後で、イングリッシュ・ローズのレィディ・オブ・シャーロット、それに、プリンセス・オブ・バビロン、
   お礼肥として、バラの株全体に、固形のバラ用の肥料を株元に撒き、液肥を施した。
   当分、水を枯らさずに注意して暑さをしのぎ、夏の終わりに、夏剪定をして、秋の花に期待しようと思っている。
   
   
   

   アジサイが咲いているが、わが庭より、道路沿いの植栽の方が、華やかで見栄えがする。
   明月院や長谷寺のアジサイは見頃で、綺麗であろう。
   コロナのこともあって、観光客が少なくてチャンスだと思うのだが、見に行くのを逡巡している。

   先に咲いたのとは違う種類のビョウヤナギが咲き出した。
   線香花火のような雄蘂が面白い。
   
   
   

   鹿児島紅梅の実が、どんどん落ち始めてきた。
   今年は、今まで考えられなかったほど沢山の実を付けたので、多少落ちたくらいでは、目立たないのだが、小梅だ小梅だと思っていた実が、結構大きいのである。
   昨年、結実した実を、いくらか、梅酒の瓶に加えて、梅酒を作ったのだが、別に、味も変ったようでもなかったので、折角、沢山付けた実を放置するのも忍びないと思って、この鹿児島紅梅の実だけで、梅酒を作ろうと考えた。
   鹿児島紅梅を梅酒にするのなど邪道かも知れないが、果実酒には違いないので、乙な味になるかも知れないと言う期待である。

   私の梅酒造りは、至って簡単。
   梅の実(1.3~5キロ)を木から直接もぎ取って、ヘタを取って良く水洗いをして、水分を拭い取る。
   消毒した4リットル瓶に梅の実を少し敷き詰めて、その上に氷砂糖(1キロ)をパラパラ撒いて梅を覆い、これを何回か繰り返して重ねて、ほぼ、入れ終った段階で、リカー(1.8リットル)を流し込み、最後に残りの梅と氷砂糖を加えて、蓋をきっちりと閉める。下記写真のとおり。
   これを、冷暗所の納戸の奥に入れてそのまま保存して、9月か10月頃に取りだして、梅を抜く。
   琥珀色の綺麗な梅酒が出来上がっている。
   梅は、そのまま、置いて於いても良いのだが、このしわしわになった梅の実の味も一寸したものなのである。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする