戦争は人殺しである。殺すか殺されるかの極限の場が、戦場ともいえる。敵国に同情するなどと言うヒューマニズムは自らの死、すなわち敗北を意味する。
こうした場で、「必要最小限」の攻撃を行うなどと言う、机上論を持ち込むことは、敗北を意味することになる。敵国は、必要最小限を上回れば勝利することになる。こちらは、必要最小限のレベルを上げなければ、任務が達成できない。同じ事情は敵国にも生じる。
結局は際限ない拡大へと戦火は広がることになる。これは、人類の歴史が何度も経験してきたことである。だから戦争なのである。人殺しをより多く実行した方が勝利する。
安倍政権は、戦場ではなく穏当な公海での実例などを挙げて、集団的自衛権の説明するが、それはまやかしである。戦場の実態から説明することができないから、母子を登場させたり拉致のような稀な場合で説明を試みる。
その仮定ですら、同盟国は常に正義の側にあって、敵国は成敗しなければならない、悪でなければならない。ブッシュのように、悪と呼ばずにテロと吐き捨てることも行う。ビン・ラディンが殺害されてアメリカはテロの脅威がなくなったと正当性を主張して見せたが、現実はその逆である。テロは減らない。むしろ増えることになる。
テロは武力では解決できない。新たなテロを産むだけである。ロシアや中国のように、国内の民族問題をテロと呼び、問題を封じ込めることまでやってしまう。他国はテロという説明で、反論できないでいる。
海外で戦闘を行うことは断じてないと、安倍首相は説明したが、根拠はなにもない。一旦開かれた戦場、戦闘行為は自らの力では収拾がつくことがなくなる。
戦争による死亡は不条理である。殺す方も不条理である。より多く殺す方が勝利する、非人道性が求められるのが戦争であり紛争である。それでも、軍事力で世界平和が訪れると妄想し続けることを諌めるのが、日本国憲法なのである。
集団的自衛権の行使は、そのこと自体が平和憲法を踏みにじるものである。