菅義偉は自分が音頭執ったGo-Toにしがみつきっぱなしで、やっと中止しなければならに状況に渋々折れた。新型コロナの蔓延は、人的な交流が主因である事はこの半年の対策と発生を見ればわかるというものである。人が多いというよりも、グローバル化が主因である。クローバル化とは平準化であり、それを地球規模で人類はまい進してきたことへの警鐘である。、
新型コロナの蔓延は、人的物質的交流に経済という名を付けた、錦の御旗を掲げている限り克服などできるものではない。経済効率は大量の方が有利に決まっている。そうして都会は巨大化し、田舎は過疎化して来た。
そうした中でやっと今年のオリンピック一年延期を決めた。コロナ対策もこのおかげでほぼ一月遅れる結果になった。どのみち嘘ばかりで招致した東京オリンピック・パラリンピックである。4000億円で開催するなどと言いながら数兆円になうし、全ての会場を30㌔以内でやるコンパクトオリンピックだというのはもともと無理だった。
エコと言いながら作った会場は、インドネシアの山林を皆伐して輸入した木材で建てたものである。現地からの再三の中止要請は、業者が介在する中無理な話で熱帯雨林ははげ山になっている。放射性廃棄物の処理などほとんど何もできていない。
そもそも、東西冷戦のあおりを食って、1989年のロサンゼルスオリンピック以来、オリンピックはスポンサーを募り放映権や各所ロゴマークなどはじめとするありとあらゆるものを売りまくった。選手は(私は何時のころからか使われる”アスリート”という言葉が嫌いで選手という言葉を使う)企業名をいくつも張り付けた衣装や器具を披瀝しながら競技する。クーベルタンが見たら腰を抜かすに違いない。
オリンピック開催を主張する人たちは、懸命練習を重ね成績を上げ出場権を得た選手の苦労話を前面に出し、中止すると可哀想だとのお涙話を喚起する。選手たちは可哀想だとは思うが、所詮枝葉の事でしかない。
大局的に見て東京オリンピック・パラリンピックは中止するべきである。世論調査もほぼ7割が開催をあきらめている。やるなら選手だけでやればよい。あらゆるスポンサーの支援を断って開催するのが、競技会の本来の趣旨であろう。それができないのは、利権まみれになって協議会の本質を放棄してきたからである。
東京オリンピックは中止すべきである。