時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

あなたは最低賃金額を知っていますか

2006年10月28日 | 労働の新次元

  混迷して結論のでない格差論争の中で、セフティ・ネットの充実がさまざまに議論されている。ぼろぼろになってしまったセフティ・ネットをどう張り替えるのか。その中で、検討が不足していることのひとつは、最低賃金制度の抜本的改革である。

  このブログ記事でも取り上げたことがあるが、日本では制度の形骸化がはなはだしい。1970年代くらいまでは、最低賃金制度は労使の大きな関心事であった。しかし、今では自分の地域の最低賃金額 (ところで、皆さんはご存じですか)を正確に答えられる経営者も少なくなっている。フィールド調査をしてみると、その存在感の無さに愕然とすることもある。

  最低賃金制度に関する国際比較研究の示すことによれば、「妥当な水準に設定されれば、最低賃金は雇用に顕著なマイナスの影響を与えない」。ただし、若年者を例外的として低い賃率設定をすることは、かなりの国で行われている。彼らの熟練度、労働市場での経験などを考慮すると、その方が望ましいかもしれないという考えである。最近、注目を集めているイギリスでの実態について、これまで見聞したことを記してみよう。

イギリスでは存在感大きい
 形骸化が進んだ日本と比較すると、イギリスやアメリカでは最低賃金の存在感はかなりある。昨年、今年の短いイギリス滞在中に行きつけの書店やスーパーマーケットの店員などに聞いてみると、低水準なことに文句を言う人は多かったが、ほとんど皆知っていた。最低賃金の存在感はかなりある。イギリスでは2006年10月1日から時間当たり5.35ポンド(10.08ドル)へ引き上げられた。

  思い起こすと、ブレア労働党首がデビューした1997年頃は颯爽としていた。それまでは筋骨たくましく、いかにも労働者の代表といった感じの党首や議員が多かったからである。若さにあふれた
オックスフォード出の弁護士という経歴は注目を集めた。そして労働党の変容には驚かされた。それにしても、今のブレア首相はかなり疲れた感じである。

  それはともかく、ブレア労働党政権成立前から、政策の中で大きな柱として打ち出されていたのが全国一律最低賃金制度の導入であった。

全国一律最低賃金制度
  そして、1999年の政権成立とともに、全国一律の最低賃金が導入された。その後ほぼ7年が経過したが、最低賃金が原因で仕事の機会が失われたとは考えられない。イギリスの失業率はEUの中では低位である。

  その背景には、最低賃金委員会 Low Pay Commission の見識とその意向を十分斟酌した政府の賢明な選択があった*。経緯をみると、1999年4月の最初の導入時、22歳以上の労働者について最低賃金は時間あたり3.60ポンドというかなり低い水準に設定された。そして8ヶ月後に3.70ポンドへ少し引き上げられた。この水準は全労働者の平均時間給の36%にすぎなかった。さらに、18-21歳までの労働者については、1999年で3ポンド、2000年10月の時点でも3.20ポンドという低い水準であった。   

  当然、最初はかなり少ない数の労働者しかカバーされなかった。委員会は200万人くらいの労働者の賃金を引き上げると考えたようだが、実際には100万人くらいに影響しただけだった。当然、最低賃金が高すぎて、雇用が減少することもなかった。

    しかし、労働党政府はその後はかなり冒険的になった。今回の最低賃率引き上げは、昨年比で労働者平均賃金の4.4%を上回る6%であった。1999年以来7年間に、最低賃金は49%上昇した。他方平均賃金は32%の上昇だった。当然、平均時間給でみて41%に当たる労働者に影響を及ぼしている。

そろそろ転換期か
    この段階までくると、委員会も最低賃金が全国平均賃金を上回る時期は終わったとしている。そして、雇用に影響を与えるほどの水準に近づいた考えているようだ。経営者側団体は今回の引き上げで対応が厳しくなったと不満を表明した。

    OECDの研究は「ほとんどすべての国において、最低賃金は賃金格差の圧縮をもたらした」と見ている。妥当に設定された最低賃金は雇用にマイナスの影響をもたらすことなく社会政策として寄与したと評価している。

    日本の制度が形骸化している理由はいくつかあるが、最大の原因は政労使などの関係者が大局観を失い、制度を複雑化させてしまったことにある。戦後しばらくはともかく、経営者が日本と中国の人件費を比較して立地を選択する時代に、カリフォルニア州に収まってしまう日本を都道府県別に区分して最低賃金率を決める意味はほとんどない。そこに費やされる行政コスト、結果として効果の正確な判定がしがたい、実態と遊離した統計など、マイナス面はきわめて大きい。

  最低賃金の水準、影響率の議論以前に、制度の抜本的改革、簡素化を図り、国民にとって分かりやすい制度とすることが急務である。その点、イギリスの最低賃金制度導入のプロセスは、学ぶべき点が多かった。
  



*イギリスでは1997年7月最低賃金委員会 Low Pay Commissionが設置された。委員会は1998年5月に報告書提出し、1999年4月から時間賃率3.60ポンドを推薦した。そして、18-20歳については、3.20ポンドの初期段階賃率を設定した。新しい使用者の下で新たな仕事に就き、必要な訓練を受けている21歳以上の労働者は、最大限6ヶ月を限り、この初期賃率が適用されることを推薦した。ブレア政権は原則としてすべての勧告を受け入れた。


Reference
”Danger zone." The Economist 7th-13th 2006.

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