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日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

韓国の先生

2005-04-15 19:55:33 | 私の雑感あれこれ
また娘からの電話の話です。
「久しぶりにソ・ヨンと長く話した」と。
ソ・ヨンは交換留学生として娘の通っていた大学に1年間来ていたときの友人。
大学卒業後は釜山で小学校の先生をしている。
韓国では親から教師への贈答が絶えなくて困っているとのこと。
「そこで、ソ・ヨンは頂きものをクラスの全員に配ったんだって。そうしたら、それからは来なくなったって」
親はげんきんなものです。
ソ・ヨンは24歳。

そういえば随分前、夫が国家公務員だった時、贈答品を受け取るわけにはいかないと宅急便で返送しようとしたら、割れ物は扱えないと断られ(中味は洋酒らしかった。当時は中味がこぼれたら他の品物に迷惑がかかると駄目だった)、とことこ乳母車を押しながら戻ったことがありました。
ビニールやら厚紙やらで包装し直したものの、再度とことこ乳飲み子と荷物を乳母車に乗せてお店に。
ゆすると中で揺れる感触だけはどうにもならず「缶詰です!」といってお願いしました。
その時私達夫婦27歳だったかな。

ソ・ヨンを我が家に夕食に招待した時、和室をみて
「あ、これって切れているんだね。写真でみたことあったけど、つながっていると思っていた」と畳の切れ目を指でなぞっていたソ・ヨン。
浴衣を着て喜んでくれたソ・ヨン。
きっと魅力的な先生やっているだろうな。



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新聞記事のコピー

2005-04-15 12:37:38 | 母のことなど
母から久しぶりの手紙。新聞記事のコピー在中。
地方紙の戦後60年の特集として母の戦中の苦労の体験が記事として写真入で載っている。
「読んだよ」と電話したら、またまた夫が出征したあとの1歳児と姑の3人の生活費を稼ぐための話を語りだした。
リヤカーに牛乳を積んで毎日10時間も配達したときの喉が渇いて仕方なかった話。見る見るうちに痩せたこと。次には初めての砂利運びの土方仕事しかなかったこと。背中の荷が重くて気を失うほどだったと。
私は娘だから、これまでに幾度も聞いている。
電話の母は言った「語ることは出来るけど、よう書けない。こうして新聞に語ったことを出してもらって、こういうこと(戦争のもたらした苦労を伝えること)もあろうかと、今まで生かせてもらえたのかもしれない」と。
母88歳。
新聞では母の語った内容の記事は他の60代70代の人たちよりも少し多かった。
「もっと、いっぱいしゃべったのでしょう」というと、「新聞社の人は10時から11時半まで居られた」と。
取材する記者達にとっての戦争は、親世代ではなく祖父母世代の遠い話に聞こえただろう。
お腹を満たすことがとても困難な時代、姑と幼児と自分のの食い扶持を工面するために堪えた7年か8年。
「(弁当のご飯分を助けてやろうと)空の弁当箱を持っておいで」といわれ、土方の飯場でご飯を詰めてもらったこともきっと語ったことだろう。
記者の人が上手く纏めてくれたとはいっていたけど、母には新聞から溢れた話がいっぱいある。
シベリヤ抑留を経て父が帰り、24年に私が生まれる。
私は「兄とは九つ違い」という言い方をずっとしてきた。
その9年間の月日は88歳になった母にとって忘れることの出来ない日々なのだろう。
「こうして新聞に出してもらって、こういうこと(戦争のもたらした苦労を伝えること)もあろうかと、今まで生かせてもらえたのかもしれない」
母の手紙に
「この世は自分を探しに来たところ。この世は自分を見に来たところ」との言葉も添えてあった。
母は88年生きて、命を与えられたことを自覚し、その命をどう生かしてきたか、としっかりと振り返っている。

なんと、いまどきの中年は(私のこと)、甘い甘い!
私の世代では介護の話題になることも多いけど「年寄りはねー」という話が出る。
そして私は、いくつになっても「自分の立ち居地」を自覚している母を思う。
そして離れて暮らしているから「元気でいてほしい」と願っている。





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