日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

ニュースの隙間から

2006-07-27 07:55:42 | 社会問題
子供を橋の欄干から落とした経緯について、ニュースは「…ということが判りました」と、逐一知らせています。熱心に耳にしているわけではないので、というか、アナウンサーの真剣に伝える表情を見たくないので、むしろ遠ざけています。

ここからは、想像の話になるのだけれど、その人を「彼」とします。
「彼」は小さい頃から、学校の勉強にもついていけず、例えば、当用漢字も読み書きできず、数字にも弱かったり、物事を整理して考える生活習慣ができていない場合。
「彼」は約束が守れず、忘れ物が多いでしょう。何を約束しているのかを理解して約束するといより、目の前の人の求めることに応じることが「いいこと」と理解している節があったりもするから。
約束を破ったことを追求されると、「彼」は、多分「ウソ」を言うことで、その場から逃れようとすると思います。叱責が嫌なのは誰でも同じですから。
「ウソ」が度重なり、周囲は「彼」のいうことが信じられなくなり、その結果、必要とされなくなり、疎まれ、悪意で利用しようとする人が彼に近づいてくる。子供の頃からそんな位置付けで育っている人たちがいるのではないでしょうか。
30歳の人たちの中にも、50歳の人たちの中にも。
多くの人たちは、何故あんなことをするのか、何故見え透いた「ウソ」をつくのか、信じられないと、言います。
だけれど、本人にも説明できない、そのときの「彼」にその行動をさせてしまう理由があるのでしょうね。
これも「社会的弱者」のありよう。
だから他人に危害を加えたことを正当化できるものではありません。
社会は、数字に弱い人にも、お金を借りてでも消費が可能なことを呼びかけ、立派な車を持つことをステータスと宣伝しています。
そんな社会にあって、数字に弱い、物事を整理して考える生活習慣のない人たちは、容易に物を揃えることで、みんなと一緒にになれると思うのではないでしょうか。
他に自信がない分、より一層、人と同じ物を揃えなくてはと考える気持ちが強いかもしれません。
繰り返しますが、人を傷つけることは、絶対に正当化できるものではありません。
だけれど、文字で説明してあることが理解できず、金利が高いといっても、それがどこまで高いのか、何と比べて高いのかも理解できずに行動する癖がついている人たちのことを、私たちも報道する側も、ちょっと想像してみてほしいな、そう思ったりします。



コメント (2)
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